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2011年5月22日 - 2011年5月28日

2011年5月25日 (水)

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』『動的平衡』

 流行りものはほとぼりがさめた頃に読むという微妙にへそ曲がりなところがあるので、福岡伸一の評判はもちろん知っていたものの、今さらながら『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)、『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書、2009年)、『動的平衡』(木楽舎、2009年)と立て続けに読んだ。確かに面白かった。科学啓蒙エッセイとして秀逸だと思う。研究者の世界の徒弟制度など、ある種薄暗いドロドロした部分も絡めて描き出しているところも興味深い。

 生物と無生物のあいだとは要するにウィルスを指し、無機的で硬質なものであってもDNAによる自己複製能力を持っている点で「生命」の定義には合致するとされているらしい(議論はあるそうだが)。しかし、ウィルスには「生命の律動」が感じられない。この「生命の律動」という言葉が喚起するイメージを、科学的な解像度を損なわない形で描写していけるか。そうした試みとして「生命」のあり方を探究していくところに福岡さんのエッセイの方向性がある。

 例えば、次の一文がある。「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる」(『生物と無生物のあいだ』163ページ)。「流れ」と「淀み」という表現が良い感じ。絶え間ない流れでありつつも、そこに一つの秩序が成り立っている。その秩序が維持されるためには、自己複製という手順をたどりながら常に壊され続けなければならないという逆説がある。そこから「生命とは動的平衡にある流れである」という定義が導き出されてくる。

 どうでもいいが、『動的平衡』を読んでいたら、カニバリズム忌避についてこんなことが書いてあった。要するに、病原体を選択的に受け取る機能を持つレセプターは種によって異なる。従って、他の種の肉を食べたからといって必ずしもその肉の持っている病原体に感染するわけではないが、同じ種同士だと肉の中にある病原体をすべて受け容れてしまうことになる、という生物学的根拠も考えられるという。

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2011年5月24日 (火)

岩井克人・佐藤孝弘『IFRSに異議あり─国際会計基準の品質を問う』

岩井克人・佐藤孝弘『IFRSに異議あり─国際会計基準の品質を問う』(日本経済新聞出版社・日経プレミアシリーズ、2011年)

・日本でもIFRS(国際財務報告基準)の強制適用をするかどうか、2012年を目途に判断するといわれる中、「世界的潮流だから」という曖昧な理由で思考停止するのではなく、そもそもIFRSに内在する理論的欠陥が一般に認識されているのか?と問題提起。一律に強制適用するのではなく、各社それぞれの経営判断による選択適用として複数の会計基準を並立させ、基準間競争を促す方が望ましいという立場をとる。IFRSを導入すると会計観が根本的に変化するわけだが、その前後、二つの会計観の説明が本書の中心となる。
・従来、日本で採用されてきた収益費用アプローチは、当期純利益によって一年間の企業業績を把握、過去の業績に基づく客観的数値を示す。
・対して、IFRSが依拠する資産負債アプローチは、期首・期末における資産の増減によって把握された数値を利益とみなす(包括利益)→事業活動(本業)以外の金融活動等による資産の増減もこの「利益」の中に含まれて、事業活動の相違が区別されない。さらに、資産は「公正価値」、つまりその資産が将来生み出すキャッシュフローに基づいて算定される(割引現在価値)。ところで、「公正価値」の測定には市場価格が参照されるが、バブルのようにファンダメンタル価値から乖離する可能性が常にあるわけで、市場価格=客観的とは必ずしも言えない。また、現在価値の算定にあたっては経営者自身が適切と考える割引率を採用→主観的な判断がまじる。従って、実際に行われた取引に基づいて観察可能で検証可能な客観的事実を報告するのが会計であるとするならば、資産負債アプローチは客観性の点で欠陥をはらんでいると指摘される。
・「公正価値」がはらむ矛盾の最たる例として、「自己創設のれん」をオンバランス化する問題。
・IFRSに適合的な業種とそうでない業種とがある。有形固定資産の場合、仮想的市場モデルによって算定する必要→予測・見積り部分の割合が大きくなる。むしろ、金融資産の割合が多い業種(例えば、ヘッジファンド)にとって資産負債アプローチは親和的となる。これは金融業の割合が多いイギリスに有利で、イギリスがIFRSを推進していることと無関係ではない。会計基準にも政治的思惑が働いていることに留意すべき。
・IFRSは今後どうなるのか? 現場の実務的ニーズに合わせて例外規定が増やされていくと、会計基準としての一貫性がなくなる。逆にIFRSの思想を徹底化させると、実現不可能な全面的公正価値化に進んでしまう。

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2011年5月23日 (月)

エリック・エンノ・タム『雲駆け抜ける馬:スパイ、シルクロード、現代中国の台頭にまつわる物語』

Eric Enno Tamm, The Horse that Leaps through Clouds: A Tale of Espionage, the Silk Road and the Rise of Modern China, Counterpoint, 2011

 フィンランド独立の英雄として有名なマンネルへイム(Carl Gustav Emil Mannerheim、1867~1951年)。スウェーデン系貴族で男爵の称号を持つ家柄に生まれたが、当時フィンランドを支配していた帝政ロシアの軍人となり、彼のスマートな物腰は軍隊ばかりでなく社交界でも注目を浴びた。第一次世界大戦およびロシア革命でフィンランドは独立を宣言、続いて起こった内戦では白衛軍司令官として赤軍を押さえ込んで国情を安定させる。しばらく一線を退いていたが、1939年、第二次世界大戦の勃発と共にソ連軍が侵攻してきた際には再びフィンランド国軍最高司令官としてこれを撃退。1944年から46年にかけては大統領を務め、ソ連との困難な講和を成し遂げて中立路線への道筋を開いた。

 ところで、マンネルへイムは帝政ロシア軍将校だった頃、1906~08年にかけて中央アジア探検を行なっており、そのときの日誌も刊行されている。本書は、同じルートを著者自身が実際に踏破、日誌を折々参照しながら道中の体験を100年前のマンネルへイムに重ね合わせながら書き進められたルポルタージュである。著者はエストニア系カナダ人で、マンネルへイムを尊敬していた父から彼の話を聞きながら育ったらしい。エストニアとフィンランドは言語的に非常に近い関係にあるため、同様にソ連軍の侵略を受けた際、マンネルへイムの徹底抗戦への呼びかけはエストニア人の士気も鼓舞したのだという。現代史に関心のある人なら、圧倒的な戦略差を跳ね返して奇跡的にソ連軍を撃退したいわゆるマンネルへイム線で彼の名前を知っていることだろう。中央アジア探検というのは意外なテーマかもしれないが、彼は同じ探検家としてスヴェン・ヘディンと親交があり、そのヘディンが彼への友情からヒトラーに対してフィンランド支援を促したという事情もあるので、間接的には現代史にも関わってくるとも言える。ただし、マンネルへイム自身はヒトラーやナチスに対してあまり良い感情は持っていなかったらしい。

 マンネルへイムは1906年にサンクト・ペテルブルクを出発、モスクワを経てヴォルガ河を下ってカスピ海へ出る。アゼルバイジャンのバクーから現在のトルクメニスタンに渡り、さらにウスベキスタン、カザフスタン、クルグズスタンを通過、天山山脈を越えて新疆ウイグル自治区に入り、カシュガル、ホータン、グルジャ、ウルムチ、トルファンを回る。敦煌から河西回廊に沿って黄河流域に出て、西安、太原、五台山、フフホトを経由、1908年に北京に到着。

 なお、マンネルヘイムは新疆を通過する際、中国人の役人から馬達漢という漢字名を与えられた。馬はイニシャルの音訳、「達漢」は漢土つまり中国領へやって来たという意味。ところが、マンネルヘイム自身は「馬が雲を駆け抜ける」と意訳して日誌に書き記しており、これが本書のタイトルの由来である。西トルキスタンから中国領東トルキスタンへと入る際に越えた天山山脈の雲間まで聳え立つ険峻なイメージを重ね合わせたのだろうか。

 彼が探検旅行に出発したのはまさに帝国主義がクライマックスに達していた時代、英露間のいわゆるグレートゲームがそろそろ大詰めにさしかかり(彼が旅行途上にあった1907年には英露協商が結ばれる)、前年には日露戦争に敗れたため、中国情勢もにらみながらロシア国境地帯の最新状況を把握する必要に迫られていた。そのため、彼はロシア軍人という身分を隠し、フィンランド人の学術探検という偽装の下で出発、途中、イギリスへの対抗上ロシアと同盟関係にあったフランスとの連携によりポール・ペリオの探検隊に加わることになった。ただし、ペリオとの折り合いは悪く、「中国政府とトラブルになったらお前の身分は正直に言うからな」と念押しされていたらしい。ちょうどオーレル・スタインと発掘競争をしていた時期でもある。ウルムチでは義和団事件の責任を問われて配流されていたDuke Lan(載瀾?)と会い、ショーヴィニストという先入観とは異なって穏やかな彼の応対に驚いたり、五台山では前代ダライ・ラマと会い、チベット人が漢人によって圧迫されている窮状を訴え、ロシアが支援してくれないならイギリスに頼ると言うのを聞いたりもしている。

 同じルートをたどる現代の著者にとっても、行く先々で政治的にナーバスな問題と出くわす点では変わらない。バクーではアルメニア人とアゼルバイジャン人との民族紛争を目の当たりにして、クルバン・サイード『アリとニノ』(以前にこちらで取り上げた)を薦められて読む。トルクメニスタンではニヤゾフが死ぬ直前の統治体制を実感。とりわけ問題となるのが中国の少数民族問題である。著者は出発前に中国大使館でヴィザを申請したところ拒否されていた。海外亡命中のチベット人、ウイグル人(核実験による放射能被害を調査して亡命せざるを得なくなったアニワル・トフティEnver Tohtiさんの名前も挙がっていた→以前にこちらで触れたことがある)、法輪功、民主化運動家などにインタビューしたことがあり、その中に中国政府の内通者がいたらしい。しかし、エストニアがソ連から独立した際に一族の国籍も回復されていたとのことで、カナダ国籍ではなくエストニア国籍で申請したところ許可されたという。

 ウルムチで開催されていたマンネルへイムの新疆入り100周年の学術シンポジウムに出席。主催者は中国の国境問題研究センター(the Borderland Research Centre)前所長のMa Dazheng、「テロへの戦争」という名目でウイグル人弾圧を正当化する議論を展開していた人物らしい。話をメモしていたところ、覗き込んできた中国側出席者から「東トルキスタンではなく新疆と書くように」と注意を受けるシーンがあった。甘粛省内のチベット自治区にあるLabrangでは、自分の故郷を見たいと言って密かに亡命先のインドから戻ってきている青年僧に出会う。漢民族への同化によってモンゴル語話者が減少していることを嘆く人と、いや現在の中国政府の言語政策はよくやっているという人、二つのタイプのモンゴル人学者に出会っているのも興味深い(モンゴル人学者でフィンランド留学経験者が複数出てくるのは、ウラル・アルタイ語族研究のためか。現在ではこの括りは外されているようだが)。言語的・文化的アイデンティティーを喪失しつつある少数民族によって自文化の再構築は切迫した問題だが、例えば裕固族(Yugur)にとってマンネルへイムの日誌は貴重な史料になるそうだ。

 ウイグル人からすると、ロシアという抑圧的な隣の大国から独立を勝ち取ったフィンランドは見習う対象になるのだろうと指摘されている。ただし、マンネルヘイムが帯びた性格の二重性は微妙な問題もはらんでいる。フィンランド人にとって彼は独立の英雄であったが、中央アジア探検の時点で彼は帝政ロシアのスパイであった。フィンランドの研究者から彼の探検の民族学的・地理学的側面は注目されるにしても、軍事的・地政学的な重要性は比較的軽視されていると指摘される。そこにはやはり自分たちの英雄がロシア帝国主義の手先になって働いていたことを認めたくないという動機が働いているのだろう。他方で、中国側研究者はマンネルヘイムの活動を中国分断・侵略の計画(少数民族への「扇動」も含めて)があった証拠だと捉え、この議論はさらに現代において少数民族の「独立」運動を祖国防衛の観点から抑圧すべきという論拠へとつなげられてしまう。立場や思惑の相違によって議論の力点の置き方も全く異なってしまうのは本当に難しいところだ。接点をつなぎ合わせるには、やはり様々な議論を可能にすべく、著者が期待するように民主化の方向を模索するしかないのだろう。

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【映画】「星を追う子ども」

「星を追う子ども」

 郷愁をさそう山間の村、緑が瑞々しい森の中を高台へと駆け上がっていく少女アスナの姿。青白く光る石を使った鉱石ラジオをセッティング、広々とした青空の下、はるかに耳を澄ます彼女の表情は晴れやかでありながら、一抹の孤独感もにじみ出ている。ある日、アスナが正体不明の獣に襲われたところ、シュンという少年が助けてくれた。しかし、姿を消した彼の死体が見つかったと聞いて悲しむアスナだが、シュンと瓜二つの少年に出くわす。そこに戦闘態勢の男たちが現われ、わけも分からず一緒に岩穴へと逃げ込んだ。行き先は地下に広がる伝説の国、アガルタ──。

 新海誠のアニメーション作品は、奥行きの広がりを感じさせる画面構成の中での映像の叙情的な美しさがいつも気になっていて、ついつい観に行ってしまう。ただし、あくまでも彼の作る映像が好きなのであって、ストーリーそのものにはそれほど感心していない。例えば、前作「秒速5センチメートル」のノベライズやコミックを一応手に取ってはみたが、話が甘すぎて甘すぎて、とてもじゃないが食えたもんじゃない。

 …とは言うものの、今回はストーリー的にもよく頑張っているなと思った。要するに、古事記に出てくるイザナギが亡きイザナミに会いに黄泉の国へ行く話を換骨奪胎して無国籍的ファンタジーに仕立て上げたといった趣きだ。しかし(と再び逆説だが)、よく出来ている、とは思いつつも、何か見たことのある雰囲気だなあ、というモヤモヤ感も同時に沸き起こってきた。これはキャラ的にも設定的にも宮崎アニメの路線だな。ナウシカ、ラピュタ、とりわけ映画化はされていないが『シュナの旅』を思い浮かべた。まあ、だからこそストーリーの部分は安心しながら新海さんの映像をじっくり堪能できたわけではあるのだが。

【データ】
原作・脚本・監督:新海誠
2011年/116分
(2011年5月21日、新宿バルト9にて)

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2011年5月22日 (日)

【映画】「北京の自転車」

「北京の自転車」

 地方から出てきて北京の運送会社に勤め始めた青年。無口で愚直な彼は慣れない都会に戸惑いながらもとにかくひたむきに汗を流して働きづめの毎日だ。一定額を稼ぎ出せば会社から貸与されている最新型マウンテンバイクを買い取ることができ、独立だって夢ではない。だが、目標まであと一歩というところでその自転車を盗まれてしまった。ショックで仕事をミスしてしまい、解雇の憂き目に会う。意地になって探し出した自転車は不良高校生が乗っていた。中古で買ったんだと主張する彼だが、その彼も家庭や友人関係で事情を抱えていた。

 愚直でひたむきに頑張る人間であっても、その不器用さと社会的立場の弱さゆえに報われないという人生の不条理を描き出した映画である。自転車を奪われそうになって嗚咽をもらす青年、そんな彼を見て自転車なんてまた買えばいいじゃないか、と軽く言い放つ「持てる者」とのギャップ。単に自転車が奪われるというだけでなく、そこに込められている生きていく希望やプライドまでも奪い取られてしまうことを意味するところまで理解されない非対称性。まさに現代の『駱駝祥子』というべきストーリーだ。自転車を盗まれた青年と、中古自転車のつもりで買った高校生、二人がいがみ合うことになるが、肝心の盗んで売りさばいた者の姿が全く見えないあたり、暗示的なものを感じさせる。近代的な高層ビルと高校生の暮らす胡同との落差には北京の急速な変貌が映し出される。明示はされていないが、セリフの端々から察するに農民工の劣悪な労働待遇という社会背景も描きこまれているのだろう。どうでもいいが、あの美少女は周迅か。

【データ】
原題:十七歳的単車
監督・脚本:王小帥
2000年/中国・台湾/113分
(DVDにて)

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【映画】「告白」

「告白」

 幼い娘を何者かによって殺された中学校の女教師が、受け持っていたクラスの中にいる犯人に心理的なプレッシャーを与えて復讐するという話。コラージュ的な映像を次々と繰り出してくる構成はシュールなサイコ・サスペンスという感じ。学級崩壊や空回りする熱血教師といった陳腐になりかねない素材も、むしろその陳腐さゆえにこのシュールさを引き立てる道具立てとしてぴったり。本屋大賞を受賞した湊かなえの原作を読んでも私はこれといった印象はなかったのだが、中島哲也監督の料理の仕方がやはりうまい。

【データ】
監督・脚本:中島哲也
出演:松たか子、木村佳乃、岡田将生、他
2010年/106分
(DVDにて)

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