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2011年5月15日 - 2011年5月21日

2011年5月19日 (木)

G・J・アイケンベリー他『アメリカ外交の危機:21世紀のウィルソン主義』

G. John Ikenberry, Thomas J. Knock, Anne-Marie Slaughter, Tony Smith, The Crisis of American Foreign Policy: Wilsonianism in the Twenty-first Century, Princeton University Press, 2009

・第一次世界大戦においてウィルソンが掲げた外交指針については、アイケンベリーの序論での要約によると、①平和な秩序は民主主義国家の共同体によって確立される、②自由貿易の擁護、③国際法や国際的協力機構の設立によって平和や自由貿易を促進する、④community of power→集団的安全保障のシステム、⑤こうした理想は達成できるはずという進歩の観念、⑥アメリカが先導的な役割を果す。
・ウィルソン主義は一般的にはリベラルな国際主義と考えられている。しかし、第2章のトニー・スミスは、イラク戦争をもたらしたネオコンのブッシュ・ドクトリンはアメリカ主導による世界民主化構想を持っていた点でウィルソン主義に起源が求められるのではないか?と問題提起、これに対して他の論者が反駁するという構成。
・ウィルソン主義の後継者たるリベラル派は国際社会の政治的多元性を前提とした上でやむを得ない選択として人道的介入を求める。他方で、軍事介入という政治的選択をとると、民主化という「普遍的正義」の名の下で超大国アメリカ自身の国益に基づいた国際秩序再編をねらうネオコンと表面的には重なってしまう。動機はそれぞれ異なっているのだが(本書のリベラル派もウィルソンをネオコンなんかと一緒にしないでくれ!と怒っている)、いったん軍事介入という具体的局面に入ってしまうと両方の思惑が交錯し始め、このグレーゾーンを理論としてすっきり説明できなくなってしまう難しさがどうにもならないなあ、という印象は残る。このアポリアはいつまでたっても終わらないだろうな。

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2011年5月18日 (水)

ジェミル・アイドゥン『アジアにおける反西洋主義の政治学:汎イスラーム主義および汎アジア主義思想における世界秩序観』

Cemil Aydin, The Politics of Anti-Westernism in Asia: Visions of World Order in Pan-Islamic and Pan-Asian Thought, Columbia University Press, 2007

・19世紀後半から20世紀前半まで、主にオスマン帝国期トルコの汎イスラーム主義と明治以降の日本における汎アジア主義とに焦点を合わせ、比較思想史と国際関係論の枠組みの中で「反西洋主義」思想の動態的過程を考察するのが本書の趣旨である。「東洋」対「西洋」という対立図式が現代史の中でどのような相互作用を示したのか、こうした問題を大きく捉える上で叩き台となる見取り図が提示されている。

・最初の世代の改革派知識人たち(日本の福澤諭吉、トルコのNamık Kemalなど)は、西洋化を自分たちの文化的アイデンティティーと矛盾するとは考えず、西洋文明の啓蒙的・普遍的価値観を受容→文明国の仲間入りをすることで西洋と対等な関係になれると楽観的な見通しを持っていた。
・しかし、西洋中心の帝国主義的秩序の現実→「文明化の使命」を称する一方で、彼ら自身の主張している「文明」の基準に反している矛盾、キリスト教や白人の優越性という疑似科学的根拠への疑問→対抗的なビジョンとして汎イスラーム主義や汎アジア主義。
・他方で、近代への企てを「西洋」そのものから分けて捉える発想。西洋と東洋との対等な関係を主張する際に、その基礎として民族自決、文化的多様性、人種の平等といった西洋のリベラルな思想的系譜に由来する普遍的価値観が反西洋主義を根拠付けていた点も指摘される。
・1880年代までほとんどのオスマン期知識人は自分たちをヨーロッパに近いと考え、日本と同じ「東洋」に属するとは考えていなかった。ところが、「西洋」に圧倒されている「東洋」という自覚から、1890年代以降、日本と同じ「東洋」という言及が見られる。
・日本の「東洋」観でも範囲は中華圏に限定され、オスマン帝国やイスラーム圏は本来含まれていなかった(例えば、エルトゥールル号事件関連の報道でもアジア・アイデンティティー共有の態度を示すような記事は見られず)→20世紀への変わり目から日露戦争のあたり以降、この範囲はインド以西にも広がる。日本とイスラーム圏との直接の交渉は限定されていた一方で、むしろヨーロッパでの言論を通して間接的に相互認識を深めた可能性。
・日露戦争→従来、西洋中心の帝国主義的秩序を「文明化」と称して正当化していた西洋の優越性/東洋の後進性という言説枠組が日本の勝利によって崩れた。日本は西洋文明にキャッチアップした上で軍事力によって列強に仲間入り→社会進化論的認識が広がる。また、西洋に対抗するという目的によって汎イスラーム主義や汎アジア主義の言説が国際政治的な現実の中に組み込まれ始める。
・第一次世界大戦→オスマン帝国は汎イスラーム主義的プロパガンダを動員し、ムスリム世界における民族自決の観念を一般化させることに成功→英仏もアラブの独立を約束して対抗→こうした対抗言説の相互反応を通して、「西洋」中心の帝国主義的秩序の正統性を崩し、アジア諸国の民族自決を容認せざるを得ない気運が生み出された→この点で汎イスラーム主義はウィルソンの民族自決主義や社会主義の国際主義と同様の役割を果した。
・オスマン帝国期知識人たちは戦争には敗れてもウィルソン主義を歓迎。領土は縮小されてもトルコという国民国家として西洋諸国と対等の関係になれると期待→汎イスラーム主義を放棄。ムスタファ・ケマルもギリシア軍侵入という事態に直面して汎イスラーム主義を動員したが、ギリシア軍撃退、ローザンヌ条約で一定の地位が認められた(ウィルソン主義を掲げつつも、理想ではなく武力で勝ち取った民族自決)→1924年3月、カリフ制廃止、汎イスラーム主義の放棄。
・日本の汎アジア主義の矛盾。日清・日露戦争を通して領有した台湾・朝鮮半島等→「文明と進歩」という大義名分の下で植民地支配を正当化→その後の帝国主義的拡大においては汎アジア主義(公的に改訂されたものであって、以前の汎アジア主義とは異なる)を正当化に利用。中国侵略という現実は正当化できない矛盾→対米開戦は「西洋と東洋の対立」という言説によってこの矛盾を覆い隠せるようになった(とりわけ進歩的知識人からアジア主義に向かった人々は安心)。他方で、汎アジア主義に基づくプロパガンダ→アメリカ側も日本との対抗、さらには戦後において中国・インドなどとの協力を取り付ける必要から、アジア諸国の脱植民地化に留意しなければならなくなった。

・以下は、本書の議論を踏まえた現代の問題に対する示唆。汎イスラーム主義にせよ、汎アジア主義にせよ、西洋中心の帝国主義的秩序に対抗するための戦略として主張された言説であった→これを文明論的に同質性を持った枠組みとして固定化して捉えてしまうと「文明の衝突」論のように異質性だけを強調する議論へ導かれてしまう危険。
・タゴール、ハリル・ハリド、サイード・ハリム・パシャ、孫文、岡倉天心などの西洋文明に対する批判は、戦間期になると西洋の知識人にも大きな影響を与えていた→部分的ではあっても生じ始めていた西洋側の動揺や変化をその後のアジア主義者は無視、過去の議論を選択的に取り上げながら西洋批判のロジックに固執(本書では大川周明を例示)→仲間内以外の世界に向けてアピールする力を失った。批判する相手との対話の可能性がなくなると、自分たちを正当化するためだけの非建設的な言説に終わってしまう問題(※本書で言及はないが、例えばジンバブウェのムガベが繰り返す、何でもかんでも欧米のせいだから自分の行為は正当化される、という主張はまさしくこのタイプだろう)。

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2011年5月17日 (火)

川本三郎『マイ・バック・ページ──ある60年代の物語』

川本三郎『マイ・バック・ページ──ある60年代の物語』(河出文庫、1993年)

 近々公開予定の映画「マイ・バック・ページ」の原作。私は川本三郎のファンで、当然この本のことも知ってはいた。しかし、1960年代という時代に私はあまり興味がないので読んでおらず、この機会に手に取ってみた。

 1960年代、川本青年は朝日新聞社に入社、出版局に配属され、新米雑誌記者として動き回り始めたばかり。学生運動が昂揚していた世相。私的回想を通して当時のカウンター・カルチャー的雰囲気の一端を垣間見ていく。出会った人々の様々な表情をつづった前半の方が私は好きだが、重点は後半に置かれている。

 取材中に出会った過激派のK。情熱的な理想家というよりも何かコンプレックスから目立とうとしているタイプで胡散臭さを感じつつも、彼の言葉のいくつかに川本青年は反応して感情移入していく。そのKが革命と称して自衛官を殺害、川本青年も事件に巻き込まれてしまった。一市民の義務として警察に通報すべきなのか。情報源秘匿というジャーナリズム倫理を守るべきなのか。正直なところ、Kの行為には正義や潔癖さとは違った何かイヤなものを感じている。他方で、警察へ出頭せよという会社側の圧力への反発もあり、意固地になってしまう。「どうせ心中するなら、Kよりも山本義隆や秋田明大の方が良かったなあ」という自嘲的なつぶやき、だがこれは地位や名声でKを差別することでもあり、そうした自身の俗物根性的なものも正直に告白している。結局、証拠隠滅の罪状で執行猶予付きの有罪となり、会社は懲戒免職となった。

 青春の蹉跌、その苦さを噛み締めるノスタルジー。私自身としては当時の学生運動への共感はほとんどない。だが、川本さんの筆致は、単に感傷に浸るのではなく、自身が抱えた古傷を、おそらく居た堪れない当惑に動揺しながらだとは思うが、率直に見つめなおそうとしている。私語りだが当時の自身から適度に距離を取ろうとしている。この微妙な間合いによって、川本青年の“青くささ”と時代的雰囲気との関わりを一連なりのものとして感情的な襞を浮かび上がらせてくる。肯定/否定という硬いロジックの罠に陥らず、時代の感情的側面を描き出そうとしている意味で文学的な回想だ。こういう川本さんの文章はやはり好きだな。

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2011年5月16日 (月)

【映画】「そして、一粒のひかり」

「そして、一粒のひかり」

 コロンビアのある田舎町、工場で花の枝きり作業に従事する17歳の少女マリア。妊娠して仕事中に具合が悪くなったが、工場主任の容赦ない態度に反発して辞めてしまった。恋人は頼りにならず、家族からは収入源を絶たれたことを一方的になじられるばかり。嫌気がさして町を出ようとするが、そんな彼女の前に降ってわいたようなもうけ話。麻薬を胃の中に隠してニューヨークへ持ち運べば五千ドルもらえるという。どうにもならない立場に追い詰められていた彼女は不安を押し殺すように麻薬の運び屋となって飛行機に乗った。そして目の当たりにした苛酷な現実──。

 生活苦から麻薬密売という非合法活動に踏み込まざるを得なくなってしまった社会背景を、一人の少女の視点を通して浮かび上がらせている。実際の麻薬の運び屋への取材なども踏まえ、設定はリアルに描かれているらしい。

 身の危険を感じて麻薬の売人のアジトから逃げ出し、あてどもなくさまようニューヨークの街並み。不安に苛まされる彼女の視線を通すとそれは灰色にくすんだ殺風景なものとして映り、その中でも目に入るごく当たり前の日常生活を送る人々の姿は、余計に自分の不安と孤独感とをいっそう強めてしまう。このときの憂いを帯びた表情は、コロンビアの故郷で広々とした青空を見上げたときとは明らかなコントラストをなしている。

 どうしてこんな羽目になってしまったのか。当然ながら後悔の気持ちで押し流されそうなはずだが、それでもしっかり前を見据えようとする彼女の眼差しは、不安に揺れながらも、むしろその動揺に抗おうとする気持ちが見えるからこそ凛々しい。道は前にしかないのだから。彼女がアメリカに踏みとどまろうとするのは、アメリカで子供を産めばその子には自動的に市民権が付与されるのを見越してだろう。とりあえずは麻薬の運び屋から足を洗うことができた。しかし、国へ戻らないという決断、そこに希望を見出すしかないのだとしたら、この現実はあまりに哀しい。

【データ】
原題:Maria Full of Grace
監督:ジョシュア・マーストン
2004年/アメリカ・コロンビア/103分

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【映画】「4月の涙」

「4月の涙」

 1918年、フィンランド。ロシア革命に際して帝政ロシアから独立を宣言したものの、革命の進展に伴って翻弄される形でフィンランド国内でも赤軍と白衛軍とが血みどろの内戦を繰り広げている。

 赤軍女性部隊が白衛軍に追い詰められ、残虐に殺されるシーンから始まる。ただ一人生き残ったリーダー格のミーナ。居合わせた白衛軍の青年士官アーロは「こんな殺害は非合法だ、彼女たちには捕虜として正当な裁判を受けさせなければならない」と主張、かねがね尊敬していた人文主義的な作家で判事のエーミルがいる裁判所へと彼女を連行する。途中、乗っていた船が難破して無人島に漂着、このときアーロの心中にミーナへの愛情が芽生える。ようやくたどり着いた裁判所で出迎えてくれたエーミルは、正義の名の下、赤軍捕虜へ死刑判決を量産する殺人鬼になっていた。ホモセクシュアルのエーミルは実直で凛々しいアーロに好意を寄せ、ミーナとの関係を詮索する。内戦という異常事態の中、欲望と血とがまとわりついた奇妙な三角関係。

 見るべきポイントの一つ目は、プライド、愛情、欲望などが混ざり合って矛盾しつつも、やみがたい衝動として三人それぞれを衝き動かしている姿。とりわけエーミルのデモーニッシュな凄みが目を引いた。二つ目は、この映画の背景をなすフィンランド内戦という歴史的事情。この内戦で身近な者同士が殺しあった古傷はフィンランド社会の大きなタブーとしてしばらく尾を引き、そこに敢えて目を向けようというのもこの映画が企画された動機になっているという。

【データ】
監督:アク・ロウヒミエス
2009年/フィンランド・ドイツ・ギリシア/113分
(2011年5月14日、シネマート新宿にて)

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2011年5月15日 (日)

李筱峰《林茂生・陳炘和他們的時代》

李筱峰《林茂生・陳炘和他們的時代》玉山社、1996年

・日本植民地支配下台湾において知識エリートとして重きをなしていた林茂生と陳炘。台湾民族運動では穏健派に属していた二人だが、皇民化運動に巻き込まれて否応なく皇民奉公会(大政翼賛会の台湾版)の役職に就かされ、日本の敗戦によって祖国復帰を喜んだのも束の間、今度は大陸出身者による差別待遇、失政や腐敗を目の当たりにして幻滅、1947年の二・二八事件で二人とも命を奪われてしまった。戦前・戦中・戦後にわたって彼らが歩んだ軌跡をたどることで、二人の生涯に縮図として込められた台湾近代史の悲劇的な矛盾を見つめなおす。

・林茂生は1887年、台南の生まれ。父の林燕臣は儒者だったがキリスト教に改宗、その関係で林茂生は長老教会学校で学ぶ。成績優秀だったため(台北の杜聡明と並び称される)日本へ留学、同志社中学、第三高等学校を経て東京帝国大学に入学、文学部で東洋哲学(とりわけ陽明学に関心)を学び、1916年に卒業、台湾人として初の文学士。この頃、東京の台湾人留学生の民族団体に所属。台湾に戻って長老教会学校、台南師範学校、台南高等商業学校で教鞭をとる(高等官待遇)。また、林献堂たちの台湾文化協会にも講師として参加、文協が左右分裂した頃、台湾総督府の公費でコロンビア大学へ留学。ジョン・デューイに師事して台湾人初のPh.D.をとる。博士論文は、日本の植民地教育政策によって台湾人生徒の自主性涵養が阻害されていることを批判する内容。

・陳炘は1893年、台中の生まれ。公学校、国語学校を経て日本へ留学、慶應義塾大学理財科を卒業。林茂生と同様、台湾人留学生の民族団体に所属。さらにアメリカへ留学してコロンビア大学のビジネススクールを修了。台湾へ戻ると、林献堂の肝煎りで大東信託株式会社を興して経営にあたる。初の台湾土着資本による金融機関だが、民族運動の経済的自衛行動という意味合いもあった。ただし、戦争中に台湾信託株式会社へと合併される。

・1941年成立の皇民奉公会で役職に就いた彼らを「漢奸」「親日派」として糾弾して果たして済むのだろうか?という疑問を提起、「絶対的抗日史観」「大漢族主義」を単純に適用するだけでは見落とされてしまう彼らの板ばさみになった苦衷を汲み取って理解しようとするのが本書の趣旨となっている。そもそも植民地支配下でも彼らの言動から漢民族意識をうかがうことはできる。他方で、台湾民族運動は左右に分裂してラディカルな左派はすでにつぶされてしまい、台湾総督府は彼らのような穏健派を懐柔・取り込みの対象としており、かつ時局が厳しくなるにつれて彼らには逃れる術は事実上なくなっていた。陳炘が日本人右翼の宮原武熊と結成した「東亜共栄協会」も非難の原因となったが、実際には同床異夢の組織で、台湾人の立場を守ろうという意図があった。
・つまり、植民地統治下、日本という支配者の圧倒的な力を前にしながらも台湾人の地位向上のために現実的な妥協を図らざるを得なかった点では、例えば根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年→こちらで取り上げた)で示されている「抵抗と協力のはざま」という行動様式と同様の意図を見いだすことができるだろう。本心を隠さざるを得ない不自然なパーソナリティー(「不能講老實話」的「非自然之人」)を強いられた彼らは、日本の敗戦によってようやく自分たちの民族意識=漢民族意識をおおっぴらに主張できるようになった。そうした喜びから三民主義を学習、中華民国への復帰を祝したのも束の間、新たに大陸からやって来た支配者の実際の振る舞いは自分たちの考えた理想の「祖国」との間に大きなギャップがあることに気づき、失政や政治腐敗、何よりも台湾人への差別待遇について意見を提起し始める。しかし、新来の支配者は言論の自由を許さない。彼らは再び「不能講老實話」の態度を強いられた末に1947年の二・二八事件で林茂生は連行されて行方不明となり、陳炘は処刑されてしまった。

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