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2011年5月8日 - 2011年5月14日

2011年5月10日 (火)

曾士榮『「本島人」から「本省人」へ:台湾民族意識の起源と展開』

Shih-jung Tzeng, From Honto Jin to Bensheng Ren: The Origin and Development of Taiwanese National Consciousness, University Press of America, 2009

・日本による植民地統治、戦争、日本の敗戦に伴う中国国民党の台湾接収といった時代的転変に伴い、アイデンティティーの大きな揺らぎを経験してきた近代台湾。本書は、陳旺成(Chen Wangcheng、1888~1979)と呉新榮(Wu Xinrong、1907~1967)という二人の知識人がつけていた日記を史料として用い、時勢の変転に応じて彼らがどのようなコメントを記していたのか、あるいは読書傾向からどのような思想的態度が読み取れるのかを検討、そこから日本、中国、台湾という三つの位相が絡まりあった民族意識の多面的な変遷過程を時系列に沿って分析する。分析視角としては、主にベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」で示された議論枠組が応用され、ナショナル・アイデンティティーは状況的連関の中で構築されたものと捉える立場に立っている。

・陳旺成は教師生活から出発、しかし日本人同僚との不和、その背景として植民地という差別構造の中での「本島人」と「内地人」との対立→両者の相互反応的プロセスの中から「本島人」=台湾人意識が自覚される。台中で林献堂たちの知識人サークルに加わり知的刺激を受けたほか、台湾文化協会の活動を通して台湾全島レベルでの社会的ネットワーク。蒋渭水を支持→台湾民衆党創立者の一人となる。前近代的な漢民族意識よりも、自由・平等・政治的自治などの近代的価値に基づいた権利観念による民族意識を抱く。
・呉新榮は東京留学中に留学生の民族団体に所属、リベラリズムや社会主義などの政治思潮の影響を受けた。

・二人とも左翼シンパ的な民族意識から反植民地運動に参画し、台湾総督府から疑われる立場にいた。他方で、台湾人/日本国民というダブル・アイデンティティー→先行研究では皇民化運動による文化・宗教政策による影響が重視されていたが、対して本書では戦争の展開に伴う政治動向によるインパクトの方が大きかったと指摘される。つまり、戦前は植民地支配の差別構造への不満や漢民族意識に基づく日本への反発があったが、戦争が勃発すると欧米という共通の敵を想定、運命共同体的な意識(日本が敗れたら台湾もアメリカにやられる)、緒戦の勢いを見て日本は勝つと思った→ダブル・アイデンティティー。政治傾向としては日本国民だが、文化傾向としては台湾人意識を保持。
・日本の中国侵略に対しては同じ漢民族意識から大陸の同胞への同情があった。ところが、日本の占領地域拡大(→台湾人の活動領域も飛躍的に拡大)、雑誌・映画などのメディアを通して当局寄りの言説に触れて中国認識も変化→台湾人は中華民族の一員というよりも、東アジア人(「大日本帝国」「大東亜共栄圏」)の一員という意識へと変化。例えば、呉新榮は日本国民アイデンティティーが強まる一方で、漢民族意識は後退、同時に台湾土着の文化を調べなおすなど台湾人アイデンティティーへと変化。

・日本の敗戦、中国国民党の台湾接収という局面に入って、二人とも中華民国への帰属を歓迎した。ところが、その中国人アイデンティティーには三民主義学習などによって想像された祖国意識による過剰な思い入れがあったため、国民党政権の実際の施策を目の当たりにして幻滅。
・大陸出身者やまだ引き揚げ前の日本人と比べて自分たち台湾人の待遇が低い→中国人・日本人と区別するため「本省人」という表現が用いられた(初出は1945年11月初旬、この時点では原住民を含まず)→国民党政権による新たな差別構造に対して台湾ネイティヴの地位を守るためのイデオロギー的手段として「本省人」アイデンティティー。
・日本統治期に経験した近代性が「本省人」アイデンティティーの一部となり、日本との対比によって大陸出身者による失政や腐敗を批判する論拠となった。これに伴い、同胞としての中国人意識は急速に薄れていく。他方で、「外省人」(この表現は1945年12月の時点で初出)には抗日意識が強いため、こうした台湾ネイティヴの批判に対しては中華民族意識が足りないと猛反発→抗日ナショナリズムが「外省人」アイデンティティーの一部となる。近代性に基づく「本省人」アイデンティティーと中国ナショナリズムに基づく「外省人」アイデンティティー、すなわち日本経験が対照的な形で表われた二つのアイデンティティーがぶつかり合う構図となった。こうした亀裂は二・二八事件で爆発、白色テロなどでさらに深まっていく。

・その後、陳旺成は無党派の立場から役職などにも就いたが、国民党への入党を勧誘されても固辞→台湾人意識の暗黙の表われ。
・冷戦構造が固まる中で海峡を挟んだ対立も膠着状態→呉新栄は台湾の孤立と考えたが、同時にほぼ台湾サイズの政治的枠組が成立、さらには事実上の独立政体として捉えることもできるわけで、これもまた呉の「本省人」意識を形成。

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2011年5月 8日 (日)

根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』

根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年)

 本書のタイトルとなっている「抵抗と協力のはざま」とはすなわち、ナショナリストとしての立場を維持しながらも宗主国イギリスもしくは占領者日本と協力、一定の信頼をかち取り、この関係をテコとした政治的バーゲニングによってビルマ独立という最終的目標を目指した行動様式を指している。それはイギリス、日本の圧倒的な政治・軍事力を前にしてやむを得ない戦術であったが、一方で他のナショナリストから「裏切り者」呼ばわりされかねないリスクも同時にはらんでいた。本書は、そうした危ない橋をしたたかな計算をめぐらしながら渡ったビルマ人政治・行政エリートたちの動向をたどることで、一面的なナショナル・ヒストリーの枠組みでは見落とされがちなエアポケットを注意深く拾い上げつつ近代ビルマ史を描きなおしている。

 具体的に取り上げられるのは、イギリス領ビルマで初代首相となったが下野、反英闘争から日本軍に協力、日本軍政下で首相となって大東亜会議にも出席したバモウ。タキン党ナショナリストとして出発、日本軍の南機関で軍事教練を受けてバモウ政権に参加したが後にパサパラを率いて抗日蜂起、独立ビルマのリーダーとなる目前で暗殺された国民的英雄アウンサン。イギリス領ビルマで首相在任中、外遊途中のハワイで日本軍の真珠湾攻撃を目撃、日本へ接近したため逮捕され、戦後ビルマに帰国したもののアウンサン暗殺の黒幕として処刑されたウー・ソオ。タキン党ナショナリズムの流れにあるコミュニストは反日(反ファシズム)の立場を貫いたが、革命家としてはイギリス帝国主義と組むなど本来はあり得ないのに「苦渋の親英」を選択、またナショナリズムと共産主義革命とのどちらを優先させるかという問題にも呻吟した。イギリス植民地統治下のビルマ人高等文官たちは必ずしも親英ではなく、戦時下のバモウ政権に多数の参加者がいたことからは彼らにもビルマ・ナショナリストとしての考え方が浸透していたことがうかがわれる。

 「抵抗と協力のはざま」という捉え方は、他の地域で例えば「漢奸」「親日派」として指弾された人々を改めて洗いなおす際にも一つの参照枠組になると思われるし、それは「抵抗」言説を基軸としたナショナル・ヒストリーの脱構築によって歴史の理解に幅を広げることにもつながるだろう。ビルマの場合、イギリスからの独立のため対日協力もやむを得なかったという了解が国民的に広く共有されているため「親日派」批判はおこりにくいという事情があるらしい。他方で、アウンサンを英雄とするナショナル・ヒストリーの枠組みでは(ただし、民主化運動でアウンサン・スーチーの存在感が大きくなってからは抑え気味らしい)、暗殺者ウー・ソオのナショナリストとしての側面は完全に無視されており、そうしたあたりにも光を当てて理解の幅を広げようという視点も本書には含まれている。また、ビルマ国軍中心の独立闘争史観において日本軍の南機関の存在が特筆され、それが日本人側の「親日的なビルマ」という歴史認識と共振していた点も指摘される。

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山室信一『複合戦争と総力戦の断層──日本にとっての第一次世界大戦』

山室信一『複合戦争と総力戦の断層──日本にとっての第一次世界大戦』(人文書院、2011年)

・日本は第一次世界大戦に参戦はしたものの、ヨーロッパのような全面戦争に巻き込まれたわけではないのでその影響は限定的なもの、むしろ戦争特需など余得にあずかった傍観者的なものと思われやすい。対して本書は、当時の日本が直面していた国際問題の諸連関が第一次世界大戦という局面で絡まりあっていた点を再考する必要を提起する。具体的には対独戦争、シベリア戦争(シベリア出兵)という二つの戦火を交えた戦争、対イギリス、対アメリカ、対中国という三つの外交戦、合わせて五つの戦いから成る複合戦争として日本にとっての第一次世界大戦の意義を捉える見取り図を提示、その背景には日本の中国権益という問題が伏在していたことに注意を促す。
・イギリスは、日本が中国権益を単独行動で取ってしまうことを懸念、他方で日本がドイツ側につくのを警戒→参戦要請が揺れ動く。日本の青島攻略に際してイギリス軍は日本の単独行動牽制のため天津駐屯軍を参加させる一方、日本軍はイギリスとの共同出兵を国際的にアピール。
・加藤高明外相は元老への外交文書閲覧を廃止して牽制、外交一元化への試み。他方で彼がイギリスから学び取った外交手法は「旧外交」そのもので時代遅れ、しかし彼が主導した参戦外交の背景には外務省や陸海軍の中堅層から厚い支持があった。
・対華二十一か条要求→日露戦争、第一次世界大戦における日独戦争という二つの戦後処理問題と同時に、英米との外交戦の側面。中国の主権侵害にもなりかねない項目5号は日本の譲歩を演出するブラフとして付け加えられたが、計算が狂って国際的に問題化、乱暴な日本、蹂躙される中国、善意の仲介者としてのアメリカというイメージの広がり。また、日中外交が政府間の外交戦というよりも、国民的対立が表面化する時代への転換点ともなった。
・シベリア出兵は単なる革命干渉戦争ではない→「シベリア戦争」として把握。(ロシア革命→ロシアの対独単独講和を受けて)対独戦争の継続、中国・アメリカとの外交戦の延長、資源獲得の局面、民族自決主義で盛り上がった朝鮮独立運動抑圧など様々な要因が絡まりあっている。

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