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2011年5月1日 - 2011年5月7日

2011年5月 7日 (土)

ケネス・ルオフ『紀元二千六百年──消費と観光のナショナリズム』

ケネス・ルオフ(木村剛久訳)『紀元二千六百年──消費と観光のナショナリズム』(朝日選書、2010年)

 「ファシズム」という用語は単に曖昧というばかりでなく、ある種の禍々しさをイメージとして喚起させ、その含意によって感情的な罵倒語として使われることがある。本書ではドイツやイタリアとの共通性に着目するため敢えてこの「ファシズム」概念が分析用語として用いられているが、そうしたレッテル貼り的なものとは区別して読む必要がある。 「ファシズム」とは単に反動なのではない。むしろモダンな現象である。すなわち、大衆消費社会が成立し、人々は消費という一見個人的な行動を通して国民的一体感への自発的な参与をしていく、そうした逆説的なメカニズムの分析が本書の基本的な視座をなしている。

 ヒトラーやムッソリーニに相当するようなカリスマ的なアジテーターは日本にはいなかった。その代わり、万世一系の天皇というフィクショナルな国史がカリスマの代役を果たしていたと指摘される。神話的観念は、その内容だけを見ると時代錯誤にも見えるが、これがシンボルとなって儀礼に向けて全国民を動員していく技術装置(鉄道、放送など)は近代そのものであった。皇紀二千六百年(昭和十五年、西暦一九四〇年)は日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争直前という暗い軍国主義の時代だったと一般に考えられている。ところが、消費活動を見るとむしろ活発で、決して暗くはなかった。百貨店は皇紀二千六百年を祝した催事によって消費者の購買意欲をかき立て、国家の史蹟めぐりや植民地への旅行は余暇であると同時に国家への帰属意識を再確認する機能を果たした。従って、当時の日本の政治体制は、上から国民を押さえつけていたのではなく、むしろ広範な国民の自発的参加によって成り立っていたと捉える視点を示すのが本書の趣旨となる。

 戦争を画期としてその前後を断絶と捉えるのではなく、経済力や人々のメンタリティーの近代性という点ではむしろ大正・昭和初期と戦後とには戦争をはさんで連続性があるという捉え方は私自身としても実感しているところなので、見取り図としておおむね肯定できると思う。どうでもいい蛇足だが、歓喜力行団などを取り上げてナチス時代ドイツ市民生活の消費社会的明るさを指摘している本をむかし読んだ覚えがあるのだが、何だったか忘れてしまった。

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2011年5月 5日 (木)

黄煌雄《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》

黄煌雄《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》(台北:時報出版、2006年)

・タイトルは、賀川豊彦が台湾について原住民の神話を引きながら書いた文章に由来するという。すなわち、日本という支配者=政治勢力と、台湾在住漢民族という被支配者=社会勢力と二つの太陽が台湾には輝いている、しかし二つの太陽が並び立つことはできず、いずれかが射落とされなければならない、という趣旨で、後者の太陽を本書のテーマである非武装抗日運動になぞらえている。
・ウィルソンが唱えた民族自決、日本の大正デモクラシーにおける民本主義、中国革命の進展、朝鮮半島における三・一運動など世界的潮流から刺激を受けながら、東京の留学生の運動として1919年から萌芽が現われた台湾近代非武装抗日運動、本書はその展開過程を台湾議会設置請願運動が始まった1921年から台湾民衆党が解散、蒋渭水が死んだ1931年までの十年間を軸として描く。おおむね時系列にそってトピックは並べられ、リーダブルな構成。著者の《蒋渭水傳:臺灣的孫中山》(台北:時報出版、2006年→こちらで取り上げた)の姉妹編という位置付けなので、彼の活動の同時代的背景を整理するという趣旨にもなっている。
・対象とする十年間は大まかに二分され、前半の1921~26年までは文化協会の活動がメイン。台湾総督に強大な権限を与えている六三法撤廃を求めるのか、それとも自治を要求するのかという論点→後者については、六三法が台湾総督に委任立法権を与えているのは台湾の特殊事情という理由付けがある→この特殊性というポイントを逆手にとって自治を要求しようというロジック。いずれにせよ、運動内部に考え方の相違はあっても台湾議会設置という目標は共通なのだから一致団結。また、文化協会は講演会を積極的に開催して、台湾の一般民衆への啓蒙活動に力を入れた。
・後半の1927~31年は運動の分裂。啓蒙活動の努力、さらには社会経済的情勢の変化もあって、大衆運動の気運が盛り上がり始めた→従来のような名望家・知識分子主導の運動でいいのか?という疑問。また、農民争議の二林事件で労農党の麻生久、布施辰治、古屋貞雄が弁護のために来台→社会主義的傾向が強まったが、当時、日本では普通選挙が施行されて無産運動も政党化され始めていたが、その左右対立の図式まで持ち込まれた(なお、楊逵の小説「郵便配達夫」に言及、台湾農民組合を主人公の楊君、新聞屋の悪辣な手口について注意を喚起してくれる田中・伊藤を労農党になぞらえている)→階級闘争路線を主張する勢力が文化協会を乗っ取り、反発した人々が離脱したり除名されたりという形で分裂が繰り返される。蒋渭水たち文化協会草創期のメンバーは新たに台湾民衆党を結成したが、彼の主張する「要以農工民衆為全民解放運動的主力軍」といった方針への反発もあり、さらに地方自治連盟が分裂。また新文協も除名を繰り返した末、台湾共産党に乗っ取られたところを弾圧され、壊滅。他方で、台湾史上はじめて組織だった政治運動が展開されたことの意義は大きい。
・なお、以上の時期の運動に関して日本語文献としては若林正丈『台湾抗日運動史研究』(増補版、研文出版、2001年)がある。

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2011年5月 4日 (水)

国分拓『ヤノマミ』

国分拓『ヤノマミ』(日本放送出版協会、2010年)

 ブラジル、アマゾンの奥地に広がる未踏のジャングルで暮らす先住民、ヤノマミ。欧米人によって「発見」される以前からの伝統的生活風習を保持しているのはほとんど彼らだけとなっているらしい。意思疎通可能なレベルでポルトガル語を話せる人は限られており、中には「文明」を知らず隔絶された集団もまだ存在しているともいう。本書は、ヤノマミの一集落ワトリキで断続的に計150日間住み込みで観察したNHKのドキュメンタリー番組がもとになっている。

 カメラがこうやって入っているのだから拒まれたわけではないだろうが、かと言って歓迎されているわけでもない。原始的生活=パラダイスみたいな夢想を抱いている人もいまどきいないだろうが、紀行番組でよく見かけるようなプリミティブな人々の親切な笑顔なんてものはない。時には関係が険悪化して数キロメートル離れた保健所に退避、冷却期間を待つこともしばしば繰り返される。生活のロジックが異なるのだから、不測の事態に備えなければならない。

 死と性にまつわる観察が目立つ。人間生活の根源に関わるところだ。性生活はむしろ旺盛に営まれているのに、どれだけ子供を生んでいるかというと、年子は見当たらないという。産まれたばかりの子供は精霊であり、育てる余裕のない場合、ただちに天へと返される。産んだばかりの母親自身が自ら子供の首を絞めて。その瞬間を目の当たりにした著者たちは衝撃を受けつつも、目を背けまいときばる。周囲に集ったヤノマミの人々の屈託のない表情との対照が印象的だ。彼らが悲しみなど人間的感情を持ってないわけではない、ただ彼らなりに感情を処理するロジックがあり、それが我々と同じとは限らない。使い古された文化人類学的相対主義と言われてしまうかもしれないが、当たり前のこととばかりに浮かぶ屈託のない表情と死や暴力が紙一重で共存している。他方で、人間が生きて死ぬあり様がむき出しになっている彼らの生活態度を、素直には受け止められずに改めて驚いている我々がここにいる、そのことへの二重の驚き。世界があらゆるレベルで「文明」化=均質化されつつある現代、こうした驚きに直面できるだけの文化人類学的素材はもはや乏しくなりつつあるのだろうか。

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【映画】「戦火のナージャ」

「戦火のナージャ」

 スターリンから呼び出されて出頭したKGBのドミートリ・アーセンティエフ大佐、自ら逮捕して銃殺刑に処されたはずのコトフ大佐が実はまだ生きていると聞かされ、彼の行方を捜すよう命じられた。かつてコトフの美しい妻をめぐって嫉妬の火花を散らしたドミートリは、スターリンによる大粛清を名分として陥れた彼の娘ナージャを自ら育てていた。時あたかもドイツ軍が侵攻中であり、従軍看護婦となったナージャは戦争の凄惨な有様を目の当たりにしてショックを受けている。激しい戦火の中、交錯する三人の運命。

 ミハルコフ監督の評判が高い「太陽に灼かれて」の続編ということらしいが、私はまだ前作を観ていない。今作は三人の人間ドラマというよりも、むしろ背景をなす独ソ戦を描き出すことに重きが置かれた戦争映画となっている。実際、ミハルコフ監督はスピルバーグ監督「プライベート・ライアン」を観たときにこの映画のアイデアが浮かんだと語っている。しかし、どうなんだろう、「プライベート・ライアン」の場合、ノルマンディー上陸作戦の進行を延々とリアルに描き続けることによって、善悪是非とは違う位相から戦争の問題を観客へと投げ出していくという方法をとった(もちろん、リアルに描く=中立性を装いながらも、その背景に西側的歴史観を暗黙のうちに刷り込ませて観客に押し付ける、という逆説的な考え方も可能だが)。「戦火のナージャ」の場合、観客に向けて解釈を意図して誘導するようなつまらない小芝居的エピソードが鼻について、戦場をリアルに描いたという印象は感じられない。映画としてはいまいちだった。

【データ】
監督・脚本・主演・製作:ニキータ・ミハルコフ
2010年/ロシア/150分
(2011年4月29日、新宿・武蔵野館にて)

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2011年5月 2日 (月)

黄煌雄《蒋渭水傳:臺灣的孫中山》

黄煌雄《蒋渭水傳:臺灣的孫中山》(台北:時報出版、2006年)

 蒋渭水について日本での知名度は低いと思うが、台湾現代史では欠かすことの出来ないキーパーソンの一人である。もともと医者だったが、日本による植民地支配体制下、台湾人の権利向上と自治を求めて非暴力的・合法的な抗日民族運動を指導、孫文の三民主義を信奉していたことから本書のサブタイトルにあるように「台湾の孫中山」と呼ぶ人もいる。1976年に初版の出た本書が蒋渭水の伝記として最初のものだという。三民主義の信奉者だったのだから国民党政権の後押しでもっと研究の厚みがあってもよさそうなものだが、抑圧的な政治体制を批判する彼の主張はどうやら戦後国民党政権のやましさに引っかかっていたらしく、しばらくタブーとなっていて、本格的な見直しが始まったのは戒厳令解除後のことだという。

 蒋渭水は1891年、宜蘭の生まれ。父親の方針で幼い頃から漢文教育を受け、文化的アイデンティティとしての漢民族意識を濃厚に身にまといながら育った。こうした教育環境のため公学校に入ったのは16歳のときと遅かったが、2年後には総督府医学校に入学する。在学中に中国で辛亥革命がおこり、政治社会問題に積極的な関心を寄せ、例えば同級生の杜聡明たちと一緒に袁世凱暗殺計画を立てたこともあったらしい。卒業後はしばらく宜蘭医院内科に勤務した後、1916年に台北で大安医院を開業(大稲埕太平町3丁目28番地、現在の大同区延平北路二段、義美本店あたり)。また酒場の春風得意楼も併設して経営し、これは政治関係の集会場の役割を果たした。

 1921年春から台湾議会設置請願運動が始まると趣意書を見て蒋渭水も同意し、同年10月17日に旗揚げされた台湾文化協会に参加、第3次(1923年)と第5次(1924年)には自らも委員として東京へ赴いた。文化協会の機関誌『台湾民報』に論説を発表、創刊第1号には「臨床講義」と題して台湾総督府を風刺。1923年におこった治警事件で仲間と共に起訴されて入獄(獄中では読書にいそしむ。様々な書籍の中には明治維新関連の本もあり、治警事件を安政の大獄になぞらえていたりするのも面白い。幸徳秋水『基督抹殺論』も読んだようだ)、これはかえって台湾民族運動の気運を高めることになった。このときには「入獄日記」「獄中随筆」を発表。世界の平和のためには東洋の平和、アジア民族連盟が必要であり、そのためには中華民族にして日本国民である台湾人は日華親善の役割を果たすべきところからひいては世界平和のカギとなる、こうした目標に向けて台湾人の「智識的営養不良症をなおす」すなわち啓蒙が必要という趣旨のことも書いている。一般の人々の啓蒙という目的から、『台湾民報』のほか、講習会を開いたり、文化書局という書店を開いたりした(1926年、中国名著として孫文、梁啓超、胡適、梁漱冥、章太炎など、それから日本語で社会科学書)。

 1925年、サトウキビ栽培農家が要求をはねつけた会社側と対立・衝突、警察が介入して多数の逮捕者を出す事件がおきた(二林事件)。このとき弁護のため布施辰治のほか労農党幹部だった麻生久も来台、講演活動なども行ったが、日本における無産運動の左右対立図式も台湾に持ち込まれた。こうした雰囲気の中、1927年に台中公会堂で開かれた臨時総会で階級闘争路線を主張する左派の突き上げから文化協会は分裂(左派が乗っ取った新文協が矢内原忠雄講演会を妨害したこともあったらしい)。蒋渭水もまた新文協から批判されたが、彼自身としては農工階級に依拠しつつも、三民主義を基礎として民族運動・全民運動を進めるべきだという考え方をとる。こうした考えから新たな政治組織の結成に動き出したが、1927年2月に自治主義を主張する台湾自治会は総督府から禁止され、さらに台湾同盟会も禁止、5月に台政革新会、台湾民党を旗揚げして政治的・経済的・社会的解放を主張したが、やはり民族主義団体とみなされて禁止された。用意した綱領から文言を削りに削った挙句、「1.確立民本政治 2.建設合理的経済組織 3.改除不合理的社会制度」→これなら宜しいと総督府は了解、ようやく1927年7月10日に台湾民衆党が成立した。ただし民族主義者の蒋渭水が主導権を握るとまずいから彼の参加は認めない、と総督府は条件を出してきたが、この留保条件は結党大会で否決、蒋渭水は委員に選ばれた。基本的な考え方としては、台湾の政治的・経済的・社会的自治を要求、その前提として台湾社会への啓蒙活動も意図、具体的には男女平等、教育の普及、科学知識普及による迷信悪習の撲滅、阿片禁止など。

 しかしながら、1931年2月18日に台湾民衆党も結社禁止となった。蒋渭水は病気に倒れ、同年8月5日に台北医院で大勢の親族知己が集まる中で息を引き取った。枕元には杜聡明、蔡培火などもいた。死因は傷寒病(腸チフス)で、法定伝染病であったため火葬にされた。このときばかりは台湾民族運動を糾弾してきた総督府の御用新聞も蒋渭水の熱血ぶりを賞賛する弔辞を載せたという。8月23日には台湾史上初めての大衆葬が行なわれて大勢の支持者が集まり、大稲埕には警官隊も出動して大騒ぎとなった。なお、彼が迷信打破のため合理的な葬儀を遺言していたことなどは、胎中千鶴『葬儀の植民地社会史─―帝国日本と台湾の〈近代〉』(風響社、2008年)に出ていた覚えがある。

 蒋渭水は中国革命の進展と日本における大正デモクラシーの動向に注意しつつ、さらに社会主義勢力が広がり始めると階級闘争路線をとる文化協会内左派の分派活動に直面、そうした勢力もできるだけ取り込めるように全民運動の必要を主張、その理論的支柱は孫文の三民主義に求められた。こうした背景を踏まえつつ彼の思想活動の特徴としては、第一に漢民族アイデンティティの強さが挙げられ、自ら経営していた文化書局には孫文をはじめとした中国の思想家の著作を積極的に置いていた。他方で労農問題など社会科学に関する日本語文献も多数置き、自ら体験している台湾社会の具体的状況を踏まえながら両方のジャンルを総合的に摂取、そこから台湾における政治社会運動の方向性を打ち出そうとしていた。「以農工為中心的民族運動」→全民運動と階級闘争の同時進行として民族運動を展開する。また、「防止小児病老衰病、把持理想、凝視現実的原則」という考え方からバランスをとるべきことを強調していた。性格的には物事を徹底的にやらなければならない熱血漢であったこと、台湾民衆党の結成後は党の規律への絶対的忠誠を求めていたことなども指摘されている。

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