« 2011年4月10日 - 2011年4月16日 | トップページ | 2011年4月24日 - 2011年4月30日 »

2011年4月17日 - 2011年4月23日

2011年4月23日 (土)

家永真幸『パンダ外交』

家永真幸『パンダ外交』(メディアファクトリー新書、2011年)

 もともとパンダには無関心だった中国社会。ところが、いつしかパンダは中国のシンボルとして内外共に認知されている。その背景には中国外交のしたたかな外交戦略があったというのが本書の趣旨だ。

 日中戦争で苦境にあった中華民国政府は欧米社会からの支持を取り付けるため外交宣伝工作を活発に展開していたが、その際に政治資源として活用された一つがパンダの可愛らしさ。初のパンダ外交は1941年。誠実で温和な性質というイメージ付与によって平和の象徴に仕立て上げ、また稀少な動物愛護というメッセージは「文明国として欧米諸国と同じ価値観を共有している」とアピールすることができた。

 冷戦期にもパンダは微妙な国際関係に翻弄されるが、パンダに絡めて紹介される横道的なエピソードも目を引く。例えば、アニメ映画「白蛇伝」のこと。また、雑誌『anan』(1970年創刊)のタイトルは先に中国からモスクワに贈られていたパンダのアンアンに由来するそうで、これはパンダ=可愛いという感覚を先取りしたものだと指摘、1972年のパンダ初来日の地ならし的な意味合いを持ったのだという。

 清朝末期、まだパンダに関心を寄せるほど余裕のなかった時代、パンダに関心を寄せ始めたのは欧米の研究者であったが、見方を変えれば中国自身の博物学的知識は欧米人に先取りされていたとも言えるわけで、やがてナショナリズム的なプライドに関わる問題と認識されるようになる。近年になっても、ワシントン条約など動物愛護の気運が高まる中、無条件に国外移送ができなくなったのを逆手に利用して「台湾は同じ中国国内である」→台湾に贈呈→「一つの中国」をアピールする機会に利用しようと試みたこともあった。いずれにせよ、「国家」としての範疇と地位の確立が近代中国外交の目的であり、可愛いパンダを見たいという世界の人々の気持ちを正確に把握したからこそ、その時時の外交当局者は政治的リソースとしてうまく使いこなしてきた。他方で、パンダを受け取る側も言質を取られまいと曖昧な表現で受け流していく。そうした外交上の機微が、パンダという一見政治とは関係なさそうな着眼点を通して浮かび上がってくるところがとても面白い。

 なお、初めてパンダを射殺したローズヴェルト兄弟(父親は元大統領セオドア)、次男の名前はカーミット。見覚えがあると思ったら、後にCIA諜報員としてイランのモサデク政権転覆クーデターで暗躍したカーミット・ローズヴェルトの同名の父親だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

食糧危機問題について何冊か読みながらメモ

食糧危機問題について何冊か読みながらメモ。近年の食糧価格高騰というトレンドについて周期的・短期的なものと捉えるのか、それとも大きなパラダイムシフトと考えるのか、あるいは市場構造の問題と捉えるのか、供給の限界として考えるのかによって今後の見通しや対応策も大きく変わってくる。ただし、どちらの立場に立つにせよ、日本の食料自給率の上昇には限界があるので、食糧安全保障という観点から、海外に長期的・安定的な食糧供給元を確保する必要があるという認識ではおおむね一致している様子。

柴田明夫『食糧争奪──日本の食が世界から取り残される日』(日本経済新聞出版社、2007年)、『飢餓国家ニッポン──食料自給率40%で生き残れるのか』(角川SSC新書、2008年)
・食糧争奪が見込まれる背景:世界的な人口増加。途上国の経済発展→食生活の変化、食の高級化。異常気象、凶作、不作、水不足。こうした背景から食糧供給の限界→食糧は石油などと同様の枯渇性資源としての性格を帯びるようになった。
・バイオ燃料(トウモロコシを原料にバイオエタノール)も食糧争奪の要因。
・政治的な思惑から輸入促進、輸出抑制などのコントロール→武器としての食糧。
・食糧価格における投機マネー→食糧争奪の趨勢を見越して表われた動きなのだから、マネーゲームとして批判するよりも、アラームと捉えるべき。
・食肉消費量の増大。食肉にはさらに数倍の穀物が必要→穀物需要の飛躍的増大。西洋型(肉食の比重大きい)か、東洋型(魚介類の比重大きい)か。レスター・ブラウン「誰が中国を養うのか」。
・工業化・都市化→水資源不足、地下水位低下、水質汚濁、都市型洪水、ヒートアイランド。
・水・土地→農業と工業とで奪い合い。
・作付面積、単位面積当たり収量を図る→理屈では良いプランであっても、現実には様々な摩擦が引き起こされる可能性。
・日本農政における減反政策の矛盾。
・現在の食糧価格変動は周期的なものではなく、パラダイムシフトと捉えるべき。
・トレンドの先を見据えて食糧安全保障の観点から大幅な政策転換が必要。減反政策(縮小再生産)ではなく、拡大再生産へ。食料自給率を上げる(ただし、大幅には無理→心理的な意味も込めて51%を目指そう)。輸入元の多角化による安定的・長期的確保。
・世界の貧困層を考慮に入れて対策→成長と環境、成長と貧困を、トレードオフではなく同時並行で追求。
・現在のコモディティー価格上昇は企業による多少の合理化努力ではカバーできない→原料価格上昇を前提に商品の値上げも容認すべき。
・「くっつく農業」と「離れる農業」(交通の発達→物理的距離、加工食品→付加価値面での格差、貯蔵機能→生産から消費までの時間がのびた)。
・アジア諸国との連携→農業開発、環境保全、効率的な食料流通。

他に、浜田和幸『食糧争奪戦争』(学研新書、2009年)、茅野信行『食糧格差社会──始まった「争奪戦」と爆食する世界』(ビジネス社、2009年)も通読。

ジャン=イヴ・カルファンタン(林昌宏訳)『世界食糧ショック──黒いシナリオと緑のシナリオ』(NTT出版、2009年)は食糧危機を放置した場合の黒いシナリオと、国際社会が協同で対応した緑のシナリオと、二つのシミュレーションを示す。最貧国支援、環境への配慮、遺伝子組み換え食品の活用、食糧自給にこだわるのではなく自由貿易の推進などを主張する。

鈴木宣弘・木下順子『食料を読む』(日経文庫、2010年)は食料価格高騰の問題を市場構造の問題として捉え、悲観的な食糧危機の見通しには批判的なスタンス。需要供給の価格メカニズムで価格動向を考える視点がないと批判。バイオ燃料原料については、農産物の過剰在庫処理という目的から始まったものと指摘。欧米諸国の自給率・輸出力の高さは競争力以上に手厚い戦略的支援があると指摘。

川島博之監修/日本貿易会「日本の食料戦略と商社」特別研究会『日本の食料戦略と商社』(東洋経済新報社、2009年)は、食糧価格高騰の市場構造的背景を解説した上で、食糧供給において商社各社が果たしている役割をアピール。執筆者は各社の担当者。

NHK食料危機取材班『ランドラッシュ──激化する世界農地争奪戦』(新潮社、2010年)は以前を以前にこちらで取り上げた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月21日 (木)

ジークムント・フロイト『モーセと一神教』

ジークムント・フロイト(渡辺哲夫訳)『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫、2003年)

・出エジプト記などのエピソードではユダヤ人の子供だったモーセがファラオの皇女に拾われて云々とややこしい話になっているが、素直に考えればモーセはユダヤ人ではなくエジプト人だった、彼はイクナートンの一神教観念を持ち込んでユダヤ人を自らの民族として選び取った、つまりユダヤ人はモーセの手によって選民となった、しかしユダヤ人は彼の厳しさに耐えかねてモーセを殺した=「父殺し」になぞらえるという趣旨。忘れ去りたい出来事だったからこそ神話的脚色。この忘却された悔恨がユダヤ人の精神的基盤の中で反復強迫。
・原始状態を想定→理想像でありながらも恐れ憎むアンビバレントな対象としての父を息子たちが打ち殺した→兄弟同士で闘争状態に陥る危険性→和解、社会契約(このあたりのロジックはホッブズ的)→欲動の断念→道徳の芽生え→内面化された超自我が自我にプレッシャーをかけるという精神分析的なモデルにつながる。一神教観念は、単にモーセ殺害の悔恨だけでなく、こうした原始以来の記憶の反復として表れてきた。
・偶像崇拝の否定→感覚的知覚への蔑視→欲動の断念につながる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月18日 (月)

マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

マックス・ヴェーバー(富永祐治・立野保雄訳、折原浩補訳)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(岩波文庫、1998年)

・とりあえず以下のポイントを抑えておけばいいか。この世の諸々の事象をすべて説明しつくすことはもちろんできない。研究者自身の問題関心に従って対象を選ぶ、この対象選択の時点で一定の価値観的バイアスがかかっているわけだが、第一にそうした選択のあり方自体に彼の生きている中の時代的要請があること、言いかえると時代が変われば関心対象の選択も変化し得る。第二に、自らのバイアスを通して対象へとコミットしていることについて常に自覚しながら議論を進めていくこと→価値自由。同様に、この世の諸々をすべて確実に描きつくすことはできないのだから、事象それぞれの関連している有様を明らかにするために一定の見取り図を提示→因果連関を論理整合的に説明するためのフィクショナルな手段的描画として理念型→これはあくまでも複雑に絡まり合った生々しい事象を整理して観察するために引いた補助線なのであって、理念型と具体的実態とを混同しないように注意、むしろこの偏差から対象とする具体的実態を把握することもできる。また、因果連関の把握と「普遍的」な法則とを混同しないようにも注意すること(マルクス主義は、法則導出→プロクルステスのベッドのように現実を法則へと押し込めようとして失敗したと批判)。

・「われわれが追求するのは、歴史的な、ということはつまり、その特性において意義のある、現象の認識にほかならない。そのさい決定的なのは、かぎりなく豊かな現象のかぎりある部分だけに意義がある、という前提に立って初めて、個性的な現象の認識という思想が、およそ論理的に意味をもつということである。…なんらかの出来事を規定している原因の数と種類は、じっさいつねに無限にあり、そのうちの一部分を、それだけが考慮に値するとして選び出すための標識〔メルクマール〕は、事物そのものに内在しているわけではない。…こうした混沌に秩序をもたらすのは、いかなるばあいにももっぱら、個性的実在の一部分のみが、われわれが当の実在に接近するさいの文化価値理念に関係しているがゆえに、われわれの関心を引き、われわれにたいして意義をもつ、という事情である。それゆえ、つねに無限に多様な個別現象の特定の側面、すなわち、われわれが一般的な文化意義を認める側面のみが、知るに値し、それのみが因果的説明の対象となるのである。…ある現象の個性が問題とされるばあい、因果問題とは、法則を探究することではなく、具体的な因果連関を求めることである。当の現象を、いかなる定式に、その一範例として下属させるか、という問題ではなく、当の現象が、結果として、いかなる個性的布置連関に帰属されるべきか、という問題である。つまり、それは、帰属の問題である。ある「文化現象」──われわれの学科の方法論においてすでにときとして用いられ、いまや論理学において正確に定式化され、普通に使われるようになっている術後を適用すれば「歴史的個体」──の因果的説明が問題となるばあいにはいつでも、因果の法則にかんする知識は、研究の目的ではなく、たんに手段にすぎない。そうした法則にかんする知識は、ある現象の、個性において意義のある構成部分を、具体的原因に因果的に帰属するさい、そうした因果帰属を可能にし、容易にしてくれる。そうした効用があるばあい、またそのばあいにかぎって、法則にかんする知識は、個性的な連関の認識にとって価値がある。そして、当の法則が「一般的」すなわち抽象的になればなるほど、そうした法則にかんする知識は、個性的現象の因果帰属への欲求にとって、また、同時に、文化事象の意義の理解にとって、それだけ効用が少なくなるのである。」(86~89ページ)

・「…実在がなんらかの意味で最終的に編入され、総括されるような、ひとつの完結した概念体系を構築して、その上で、そこから実在をふたたび演繹できるようにする、というのが、いかに遠い将来のことであれ、文化科学の目標である、とする考えがあって、これが、われわれの専門学科に属する歴史家をさえ、いまだにときとして捕らえているのであるが、そうした思想には、まったく意味がないということ、これである。計りがたい生起の流れは、永遠に、かぎりなく転変を遂げていく。人間を動かす文化問題は、つねに新たに、異なった色彩を帯びて構成される。したがって、個性的なものの、つねに変わりなく無限な流れのなかから、われわれにとって意味と意義とを獲得するもの、すなわち「歴史的個体」となるもの、の範囲は、永遠に流動的である。歴史的個体が考察され、科学的に把握されるさいの思想連関が、変化するのである。したがって、人類が、つねに変わることなく汲み尽くしえない生活について、精神生活のシナ人流の化石化により、新しい問題を提起することを止めないかぎりは、文化科学の出発点は、はてしない未来にまで転変を遂げていくのである。諸文化科学についてひとつの体系を構想することは、それが、取り扱うべき問題と領域とを、確定的な、客観的に打倒する一体系に固定化する、という意味のものにすぎないとしても、それ自体、無意味な企てであろう。そうしたことを企てても、そこからはつねに、互いに異質で、ひとつの体系には統合されようもない、数多の特殊な諸観点が、つぎつぎに取り出されてくるだけであろう。」(100~101ページ)

・「…理念型は、ひとつの思想像であって、この思想像は、そのまま歴史的実在であるのでもなければ、まして「本来の」実在であるわけでもなく、いわんや実在が類例として編入されるべき、ひとつの図式として役立つものでもない。理念型はむしろ、純然たる理想上の極限概念であることに意義のあるものであり、われわれは、この極限概念を規準として、実在を測定し、比較し、よってもって、実在の経験的内容のうち、特定の意義ある構成部分を、明瞭に浮き彫りにするのである。」(119ページ)

・「…自然主義的な先入観にもとづく理論と歴史との混同ほど、危険なものはない。この混同が、上記の理論的概念構成のなかに、歴史的実在の「本来の」内容や「本質」を固定したと信ずるとか、あるいは、歴史を無理やり押し込めるプロクルーステースの寝床に、そうした概念構成を利用するとか、あるいはまた、当の「理念」を実体化して、現象の洪水の背後にある「本来の」実在、ないしは歴史において実現される実在的「諸力」と考えるとか、いかなる形態をとって現れるにせよ、それが危険な混同であることに変わりはない。」(122ページ)

・「歴史的概念の「本来の」「真の」意味を確定しようとする試みは、つねに繰り返されているが、けっして完結しない。その結果、歴史研究において不断に使用されている総合が、たんに相対的に規定された概念にとどまるか、あるいは、概念内容の一義性をぜひとも手に入れようとすれば、当の概念は抽象的な理念型となり、したがってひとつの理論的、それゆえ「一面的」観点であることが明白となってくる。実在は、この観点のもとに光を当てられ、この観点に関係づけられるが、当の観点はしかし、実在が余すところなく組み入れられるような図式には、もとより適していない。というのも、われわれがそのときどきに意義をもつ実在の構成部分を把握するために欠くことのできない思想体系は、いずれも、実在の無限の豊かさを汲み尽くすことはできないからである。これらの思想体系はいずれも、そのときどきのわれわれの知識の状態と、そのときどきにわれわれが使用できる概念形象とにもとづいて、そのときどきにわれわれの関心の範囲内に引き入れられる事実の混沌のなかに、秩序をもたらそうとする試み以外のなにものでもない。過去の人々が、直接に与えられた実在を、思考によって加工し、ということはしかし、じつは思考によって変形し、また、かれらの認識の状態と、かれらの関心の向かう方向とに応じた概念のなかに組み入れることによって発展させてきた思想装置は、われわれが新たな認識によって実在から獲得することができ、また、獲得しようとするところのものと、つねに抗争する。この闘争のなかで、文化科学的研究の進歩が達成されていくのである。その結果は、われわれが実在を把握しようとする概念の、たえざる変形の過程である。それゆえ、社会生活にかんする科学の歴史は、概念構成によって事実を思想的に秩序づけようとする試みと、──そのようにして獲得された思想像の、科学的地平の拡大ならびに推移による解体をへて──そのようにして変更された基礎の上に立つ、新たな概念構成という、この両者のたえざる交替をともなう変遷である。…むしろ、上記の命題によっていわんとすることは、人間の文化を取り扱う科学においては、概念の構成が、問題の設定に依存し、この問題設定が、文化そのものの内容とともに変遷を遂げるというこの事情にほかならない。文化科学においては、概念と、概念によって把握されるものとの関係からして、こうした〔概念〕総合のいかなるものも、暫定性をともなわざるをえない。」(145~147ページ)

・「あらゆる経験的知識の客観的妥当性は、与えられた実在が、ある特定の意味で主観的な、ということはつまり、われわれの認識の前提をなし、経験的知識のみがわれわれに与えることのできる真理の価値〔への信仰〕と結びついた諸範疇〔カテゴリー〕に準拠して、秩序づけられるということ、また、もっぱらこのことのみを、基礎としている。…科学のみが寄与できる事柄とは、経験的実在〔そのもの〕でもなければ、経験的実在の模写でもなく、ただ経験的実在を思考により妥当な仕方で秩序づける、概念と判断である。」(157~158ページ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月17日 (日)

【映画】「名前のない少年、脚のない少女」

「名前のない少年、脚のない少女」

 舞台はブラジル、ドイツ系住民が集まって農園を経営している田園地帯の中の小さな町。祭りが近く華やいだ気分も見られる中、少年の表情はどこか鬱屈したように暗い。彼は毎日インターネット上に自作の詩を投稿している。そして、いつも見ているサイトにあるのは、ある少女がアップしていた写真や動画。彼女は自殺したのだが、ネット上ではあたかもまだ生きているかのようだ。ある日、少年は、彼女と一緒に飛び降り自殺を図ったものの自分一人だけ生き残った男が町に戻ってきているのに出会った。一緒に車に乗り、自殺現場となった鉄橋を通りかかる。少年はこの橋を渡って向こうの世界へ行けるのか──。

 ネット上の動画で、ボブ・ディランのコンサートへ行こうよ、と誘われたことが、少年が町を出たいと考え始める直接のきっかけになる。ボブ・ディランの曲が一つのモチーフになっているのだが、私は世代的に知らないので、この映画の中でどんな位置付けになるのはよく分からない。

 ネット上で今も生き続けているかのような美少女のどこかはかなく寂しげな表情は、永遠にたどり着くことのない少年の憧れか。生還した男には、こちらの現世で生き続けなければならないもう一つの自分自身の姿を見出しているのだろうか。ねっとりと包み込むような霧の中に立ち上る町の光景や少女の映った映像、これらの白みがかった淡い色彩が幻想的に美しい。対して、自殺現場となった鉄橋がかかる峡谷に降り注ぐ穏やかな陽光も、その明るさゆえにいっそう際立った印象を残す。緑の麦穂が青々と広がる中のあぜ道、ヘッドホンを耳にした少年がただ一人歩いているシーンを見て、ふと、これは何かで見たような既視感にとらわれた。岩井俊二監督「リリィ・シュシュのすべて」だ。

 この映画はストーリーとして明瞭な筋立てが見えてくるわけではないし、ましてや先入観としてのブラジルらしさを思い起こさせる要素は何もない。むしろ、少年の心象風景をリリカルな映像詩として映し出したという感じだ。思春期特有の出口が見えない息苦しさ。それは国籍には関係なく、観る人それぞれが自らの思いをこの詩的な映像に投影しながら何かをかみしめていく、そんなタイプの映画だろう。

【データ】
監督・脚本:エズミール・フィーリョ
脚本・出演:イズマエル・カネッペレ
ブラジル・フランス/101分/2009年
(2011年4月16日、渋谷、シアター・イメージフォーラムにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

適当に読んだウェーバー関連書

 羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪──『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ書房、2002年)。ウェーバーの代表的な論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が議論を進めるにあたって依拠していたはずのルター聖書やフランクリン自伝を精査してみると、ウェーバーは自分の議論に合うように恣意的な改竄をしていることが分かった、という趣旨。彼はなぜこんなことをしてまで自分の議論を押し通そうとしたのか?という問題意識から書かれたのが、同『マックス・ヴェーバーの哀しみ──一生を母親に貪り喰われた男』(PHP新書、2007年)。ウェーバーの家族関係に踏み込み、パーソナリティー的な背景から彼の理論展開との関係について推測を進めていく。こちらでは彼は本当は学問が好きじゃなかったんだ、とまで言い切る。あとがきを見ると、ウェーバー研究で有名な折原浩と激しいバトルを展開している様子。資料操作上の間違いは確かだとして、それでウェーバーの議論を全否定してしまうのは飛躍のようにも思うのだが…。私は専門じゃないからどう判断したらいいのか分からないけど、前著を見ると、文献考証の厳密さの割には感情的にクセの強い文体とのアンバランスが不思議な印象を受けた。

 ウェーバーのパーソナリティー上の背景から彼の理論構造を解釈しようとした伝記としてはアーサー・ミッツマン(安藤英治訳)『鉄の檻──マックス・ウェーバー 一つの人間劇』(創文社、1975年)もある。原著刊行は1971年、この頃のアメリカでは例えばエリクソンの『青年ルター』『ガンディーの真理』のように歴史上の人物を精神分析的視点から捉える伝記が流行っていたから、そうした流れの著作と言えるだろうか。

 牧野雅彦『新書で名著をモノにする 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』』(光文社新書、2011年)は、ウェーバーのこの有名な論文を初学者向けに解説する入門書。マルクス、ゾンバルト、ニーチェ、シュミットなどの議論と比較しながらウェーバーがこの論文を通して意図した問題意識を浮き彫りにしていく構成で、単に入門書というのではなく、比較思想史的な関心から読んでも面白いと思う。上掲羽入書の批判にも註で触れられている。同『マックス・ウェーバー入門』(平凡社新書、2006年)は同時代における議論と比較しながらウェーバーの位置付けを考える。彼はドイツ歴史主義的思考を共有しており、個別具体的な因果連関で歴史を把握→一回限りの個性的条件が重なって近代ヨーロッパが成立したと把握、言い換えると条件が違えば別の可能性もあった偶然的結果と捉えられるという指摘に関心を持った。

 高城和義『パーソンズとウェーバー』(岩波書店、2003年)はタルコット・パーソンズの議論におけるウェーバー理解を時系列的に整理している。
・英米型=実証主義的思想潮流と独型=理想主義的思想潮流との統合として主意主義的行為理論を構築しようと試みた(パーソンズは自らの試みの先駆者はマルクスと考えた。しかし、英米的功利主義による欲求充足に個人行為者の動機を求める考え方にマルクスは挑戦しなかった→この点ではデュルケム、ウェーバーの方が勝っていたと結論)。行為の「動機」理解、宗教的理念と結び付けて「価値態度」を織り込みながら理論構築をしていた点をウェーバーから学ぶ。「普遍化概念としての理念型」を機能主義的に純化、システム論により体系化。
・一方、合理化の諸過程が進展→人間がシステムに従属していくというウェーバーの「鉄の檻」のペシミズムにはパーソンズは違和感を持つ。「理念型」は方法的フィクションだが、ウェーバーの議論ではこの中に歴史具体的な意味を入れ込んで実体化しかねない危険、複雑な現実社会の事象に適用すると硬直的に一面化した見方になりかねない可能性。
・近代社会の不安定性→ウェーバーの概念を用いてファシズム分析。合理的・合法的支配としての市民社会が確立されたとしても、伝統社会に逆戻りする危険→カリスマ的パターンとしてのファシスト独裁の登場。
・「現世内的禁欲主義」→伝統社会を突破し合理化過程を徹底的に進めるテコとなるというウェーバーの議論をパーソンズは「突破の社会学」と理解して評価。
・パーソンズの価値絶対主義批判→合理的選択理論、コスト‐ベネフィット分析、市場万能論への批判。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年4月10日 - 2011年4月16日 | トップページ | 2011年4月24日 - 2011年4月30日 »