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2011年1月2日 - 2011年1月8日

2011年1月 8日 (土)

台北旅行メモ3

◆1月3日(月)
【烏来へ】
・烏来へ行くつもりだが、朝から雨。肌寒い。台北車站の南側、青島西路に烏来行きのバス停があることは前日に確認してあったので、雨の中で待つ。台湾のバス停の時刻表は、よほど本数が少ない場合には個別の時間が記されているが、普通は「何時~何時まで、何分間隔で運行」という書き方である。
・9時ちょっと前に来たバスに乗る。すいており、観光客は他にいない。MRT新店線が地下を走っている上の大通りを進み、新店駅を過ぎたあたりから山の中へと入っていく。目的地に近づくにつれて原住民をデフォルメした彫像が目に入る。烏来はもともとタイヤル族の集落で、タイヤルの言葉で「温泉」という意味らしい。もともとこの地の人々に温泉につかるという習慣はなかったが、日本統治期に日本人がやって来て温泉地として開発されたという。
・1時間20分ほどで終着点に到着。雨だし、月曜日なので、観光客は少ない。商店街を抜け、大きく切れ込んだ川の上にかかった橋を渡り、対岸に行く。川岸に湯気がたって人々が湯治しているのが遠くに見える。対岸では川沿いにトロッコが運行されているので乗車。5分ほど乗って、烏来瀑布の見える地点まで行く。
・烏来瀑布前に土産物店があり、その前で「烏来原住民歌舞団の公演が10時30分から始まるのでどうぞ」とちらしをもらったので入ってみる。二階にのぼるとちょっとした舞台がしつらえてあり、私のあとから日本人の団体観光客も入ってきた。時間になると暗くなり、場末の安っぽいキャバレーのような照明がチカチカ。音楽とともにタイヤルの民族衣装を身に着けた若い男性2人、女性6人ほどの踊り手が入場してきた。この瞬間、私が想定していたのとは明らかに雰囲気が違うので困惑…。最後には観客を舞台に引っ張って一緒に簡単な踊りをして(私は断った)、踊る姿を写真に撮って帰り際にお金をとっていた。
・11時20分頃に終わったので外に出る。もう少し上に上っていくと、観光案内所があった。このあたりは桜が名物とのことで、4月が見頃なのかもしれない。近くにロープウェイがあったので乗ってみた。対岸の山上にある雲仙楽園につながっているのだが、雨の中散策に行く気力はない。なぜか小さな遊園地もあった。
・ロープウェイ脇の展望台に一人たたずみ、烏来の峡谷をじっと見下ろしながらもの思いにふける。温泉街の土産物屋に遊園地を目の当たりにした後では、かつて精悍な原住民が漢族系移民や日本軍とこの辺りで格闘したという歴史的イメージがどうにもわいてこない。雨降りにつれて雲があたりに立ち込め、はるか見やっていた視界を遮り始めた。先ほど見た歌舞団の踊りを思い返す。現代的にアレンジしたと言えないこともないが、文字通り温泉街のホテルや飲み屋の出し物という感じ。一生懸命踊ってくれているからそれなりに様にはなっているし、中には目鼻立ちのかわいい娘もいたので目はひかれるのだが、困惑感がどうしても拭えない。ここ烏来には温泉地として日本人観光客が頻繁に訪れる。従ってそうした観光客の趣向に合わせてこのような出し物になったのだろう。お金を落としてもらうため迎合せねばならず、これは見方を変えれば一種の経済的コロニアリズムとも言えるだろうか。民族学的関心よりも、むしろ社会学的関心の対象になる。話の脈絡としては適切ではないかもしれないが、踊りを見ながら何となく黄春明『さよなら・再見』を思い浮かべてしまった。そのようなことをつらつら考えているうちに、霧は晴れてきた。ロープウェイ発車の合図にベルが鳴ったので慌てて乗り込み、ふもとへ戻る。
・雨が降っていなければもう少しあたりを散策してもいいのだが、再びトロッコに乗ってバス停近くの商店街まで戻る。もうお昼どきなので、食事することにした。竹筒飯と筍のスープ、それから空心菜の炒め物もすすめられたので合わせて3点を注文。

【台北市内散策】
・バスに乗り、今度は新店で下車。MRTに乗り、公館で下車。台湾大学があるこの近辺には書店も多い。南天書局と台湾e店が今日は営業しているかどうかを確認、いま本を買い込むと散歩がきついので後ほど改めて戻ってくることにして、台湾大学脇の新生南路を北上。しばらく行くと、台北清真寺。イスラム圏と外交関係を結ぶようになってから1960年に建てられたらしい。ちょっと中に入りづらい雰囲気だったので、写真だけ撮ってさらに北へ進む。近くには天主教の大聖堂もあった。
・この辺りで北西方向に進路を切り替え、永康街に入る。台湾大学からこの永康街にかけてはかつて日本人が住む区域だったらしい。古い日本式家屋を今でもところどころ見かけるが、戦後は主に外省人が住んでいた。歩きながら日本式家屋ハンティングに勤しむ。すでに半世紀以上経過しているわけだから相当がたがきている。屋根がつぶれかけ、家屋全体をさらに鉄骨のアーケードで覆っているのもみかけた。永康街を歩いているとところどころ櫛の歯が欠けたように空地を見かけるが、おそらく古い日本式家屋を崩した跡であろう。

【中正紀念堂】
・信義路に出たので左折、中正紀念堂へ向かう。永康街から歩いて8分ほどだ。中正紀念堂には裏口から入り、まず1階の展示室へ。蒋介石についての通常展示のほか、第7回漢字文化節に合わせて「台湾百年詩社」という特別展示もしていた。台北の瀛社、台中の櫟社、台南の南社などに所属した詩人たちの書を展示。有名どころでは林献堂とか林熊徴とか。中には「昭和」の年号が記された時代の書もあった。
・中正紀念堂のご本尊をおがみに行ったところ、ちょうど儀仗兵の交代式だった。そうか、馬九英政権になって儀仗兵が復活したんだな。三人の衛兵が歩調をぴったり合わせ、ペースはゆったりながらも動作のきびきびとしたグースステップをふむ。小銃をクルクル回すパフォーマンスも息が合っている。好き嫌いは別として、国家予算をかけてパフォーマンス・アートを洗練させていると言えるか。よくできていても拍手しちゃいけないのが普通の芸人と違うところだ。
・2年前にここへ来たときはちょうど選挙戦の真っ最中、陳水扁が汚職疑惑で低下した支持率を挽回しようと悪あがきして正名運動を展開していたときだ。中正紀念堂は台湾民主紀念館と名称が変更され、通りに面した大門の扁額は自由広場と書き換えられた。堂内では恐怖政治に対する民主化運動の成果を示すパネル展示を並べ、蒋介石の銅像の周りにはポップ・アート調の凧が舞っていた。結局、国民党が政権に復帰し、自由広場の扁額は残ったものの、中正紀念堂は元に戻され、儀仗兵も復活した。台湾における族群政治の焦点となった場所の一つである。

・中正紀念堂車站からMRTに乗って公館に戻り、南天書局と台湾e店のそれぞれで棚をくまなく眺めながら本を買い込んだ。両手がふさがってしまったのでタクシーに乗って宿舎に戻り、荷物を置いてから再び外出。
・すでに19時過ぎ。歩いて林東芳牛肉麺を食べに行く。きれいとは言い難い店のたたずまいは、日本でも下町のうまいラーメン屋といった雰囲気だ。有名店の割りに商店の並びにまぎれているが、行列があったのでここかと見当がついた。牛肉麺大椀160元を注文。今日みたいに肌寒い日には本当においしい。酒を飲んだ帰りにラーメンを1杯という感じだ。横で牛肉麺をすすっていた柄の悪いにいちゃんは最初にスープを飲み干して、スープだけお代わりしていた。なお、牛肉麺は大陸から来た外省人が工夫したメニューで、眷村文化に分類されるらしい。
・微風広場の紀伊國屋書店(ここは他にも東急ハンズ、無印良品など日本系店舗が集まっている)、太平洋SOGOのジュンク堂書店を見て回ってから、誠品書店敦南本店へ行く。
・宿舎へ戻る途中、コンビニに寄ったところ、飲冰室茶集なる紙パックのお茶を見かけ、梁啓超先生に敬意を表して買って飲んでみた。ミルク・砂糖入りの緑茶だったのだが、まずくはないにせよ、日本人の味覚にはちょっと合わないな。

◆1月4日(火)
・早朝から24時間営業の誠品書店敦南本店へ行って棚を眺める。それからMRTに乗って台北車站で下車、10時ちょうどのタイミングで台北當代藝術館にたどり着いた。
・台北當代藝術館は日本統治期の小学校、戦後は台北市庁舎になっていたレトロなレンガ建築の中で現代アートを展示している。「媒體大哼(mediaholic)-倪再沁特展」という特別展示をやっていたので見る。倪再沁という人は台湾の前衛芸術で有名なのだろう。4匹の猪が重なった「~怪談」シリーズの絵や彫刻、アンディ・ウォーホルや村上隆を意識したような絵とか変な作品がある一方で、正統的な水墨画による風景画もあった。パフォーマンス・アートもやっているようで、芸術館の前には2012年総統選挙立候補という設定による選挙カーが置いてあった。館内のビデオでは、迷彩服の人々を引き連れて町を練り歩くハプニング形式のパフォーマンス・アートの記録も放映されていた。
・宿舎に戻って12時頃にチェックアウト。早めに桃園国際空港へ行く。カウンターへ行ったら、ちょうど北京行きの飛行機に搭乗予定の中国人団体観光客の中に紛れてしまい、何箱ものお土産を抱えた彼らが正規の順番なんてお構いなしに力押しでガンガン割り込んでくるのに圧倒されて呆然としている中、やっとカウンター職員の人に気付いてもらってチェックインできた。職員の人もパニクった様子で息を切らせていた。
・16:50桃園国際空港発のチャイナエアラインCI106便で成田国際空港には20:30頃着。スムーズに帰れた。

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台北旅行メモ2

◆1月2日(日)
【深坑へ】
・小雨が降ってもおかしくない感じの曇り。MRT木柵線に乗って木柵車站まで行き、ここでバスに乗りかえて深坑で下車。
・深坑老街は台北からの日帰り観光で賑わう街と聞いていたが、まだ午前9時前なので歩いている観光客はあまり見かけない。台湾で地元民も集まる観光地というのはどこも買い食いメインの街並みだ。お店はちょうど準備を始めているところでそれなりに活気はある。老街はところどころ工事中で、おそらく観光用に改めて街並みを整備しようということなのだろう。商店街の中で櫛の歯が欠けたように取り壊された箇所を覗きこむと、いわゆる騎楼の建築は隣家と密着した建て方なので、ひさしの跡が隣家の壁にしっかり残っている。路上観察学の分類で言うと「原爆型」というやつだ。台湾ではこのタイプをよく見かける。深坑老街は小ぶりな街並みで、片道15分もあれば反対側まで行き着いてしまう。ゆっくり観て回ってもそれほど時間はかからない。
・朝食を摂ってからまだ時間が経ってないので腹はへっていないのだが、深坑は豆腐料理で有名と聞いているので、何か口に入れないといけないような気分になった。お店の軒先にある大鍋で豆腐料理がグツグツ煮込まれているのを見かけ、注文した。中に入って座って待っていると、麻辣豆腐鍋を小型のコンロに載せて持ってきてくれた。日本の木綿豆腐よりも身がぎっしりつまった感じの豆腐をハフハフとほおばる。寒天のようなものも入っている。色合いはレバーのようにも見えるが舌触りはゼリーみたいだ。おそらく鴨血とはこれのことか。以前に何かの本で血を固めてゼリー状にしたものだと知ったときにはあまり食べる気はしていなかったが、口に入れてみると意外にクセはない。メニューを見ていたら客家料理の項目もあった。この辺りは客家の集落なのだろうか。

【平渓へ】
・次の目的地の平渓まで行くつもりでバス停に戻った。時刻表には木柵発10:45となっており、ここまで15分くらいかかったと思うので、11:00を目途に待つ。バスは結構混んでいた。蛇行する坂道をブンブンとばしていくので、吊り革につかまりながらも体が大きく揺れる。途中、菁桐を通りかかり、観光客が何人か下車。ローカル鉄道・平渓線の終着駅で、以前に下車してこのあたりを歩いたことはあった。この人気のない大通りはどこまで行くのだろうと思った記憶があるが、今回はその木柵・深坑方面からバスで来たわけだ。なお、霍建起監督「台北に降る雪」(台北飄雪)という映画を観たことがあるが、その舞台がこの菁桐を中心とした平渓線沿線だった。平渓線沿線のレトロな街並みにはなかなか風情があり、映画の舞台としてよく使われる。例えば、鄭芬芬監督「午後三時の初恋」(沈睡的青春)は沿線の十份を舞台にしていたが、他の映画でも平渓線沿線だと明示されてはいなくとも風景として使われているのをよく見かける。
・平渓で下車。バスの通る道路から川を隔てた反対側に平渓老街がある。歩いていきぶつかった十字路に観光案内板があり、日拠時期防空洞というのが目に入ったので行ってみた。平渓線の線路下をくぐって坂道をのぼり、十分ほど歩いたろうか、お寺の前を通り過ぎたところ、土が露わになった傾斜面に穴が五つ穿たれていた。そばの案内表示に日拠時期防空洞とある。緊急避難用に穴を掘っただけという感じで、コンクリなどで固められているわけではなく、防空壕だと言われなければ見過ごしてしまう。このあたりには炭坑が密集していたらしいから、それが米軍の爆撃目標になったのだろうか。台湾各地を歩いていると、戦争末期に作られた防空壕は意外とよく見かける。とりわけ駅や役所など公共施設や日本人住宅地跡で見かけ、そういうのはおそらく日本人用だったのだろう、コンクリでしっかり固められたものだったが、この平渓で見かけたような素朴な洞穴状のものはなかなか気付かない。
・平渓線は川の流れる谷間を走る路線で、川岸にへばりつくように街並みが点々としている。お寺の前がちょっとした展望台になっていて平渓の街並みを上から見下ろせる。駅にはちょうど列車が到着したところで、カメラを抱えた鉄道ファンが群がっている。発車する列車を線路間際から撮影しようとする人もいるため、車掌さんが注意の呼子をピーピー鳴らしているのがここまで聞こえてきた。台湾では鉄道ファンに限らず、デジカメではなく本格的な一眼レフカメラを持参している人をよく見かける。カメラ熱は日本以上らしく、街中でも例えばニコンの広告ポスターをよく見かけた。

【基隆へ】
・列車が私の目の前を通過するのを見届けてから、老街へ向けて坂道を降りた。先ほどの十字路まで戻ると、列車から降りた観光客が三々五々歩いているのと行き会う。駅に行き、基隆まで切符を買う。菁桐から戻ってきた先ほどの列車に乗る。ガイドさんに連れられた日本人観光客グループも一緒に乗り込んできて、彼らは十份で降りていった。車窓の風景を眺めるが、外は寒々とした曇天。瑞芳で幹線列車に乗り換え、さらに八堵で基隆行きに乗り換える。それぞれで30分ほど待たなければならず、接続は悪い。基隆到着は13時過ぎ。
・基隆は以前、暗くなってから夜市を歩いたことはあるが、日中は初めてかもしれない。駅前の海関大楼は日本統治期から使われ続けている建物。あたりを歩きながら港へ向かうと、太鼓をドンドコ叩きながら何やらセレモニーをやっている。グリーンピースの船がちょうど接岸するところで、その歓迎式典のようである。
・中正公園へ行った。入口から急な石段をのぼる。のぼった先にある忠烈祠はかつて日本統治期の基隆神社だったところであり、この石段もいかにも神社らしい。台湾各地の忠烈祠はたいていかつての日本の神社をつぶして建てられている。さらにのぼっていくと公園になっており、基隆港が見下ろせる。人はほとんどいない。駅に戻った。平渓線沿線歩きに意外と時間がかからなかったので、その分、基隆歩きをすればよかったかもしれないが、下調べをしてきていないので今回は切り上げた。

【国立歴史博物館】
・台北まで戻り、MRTに乗って中正紀念堂駅で下車、歩いて10分弱で国立歴史博物館に到着。我ながら意外だがここに来るのは初めてだ。
・特別展示は「盛世皇朝祕寶-法門寺地宮與大唐文物特展」。陝西省・西安近くの法門寺で1987年に地下宮殿が発見され、そこからの出土品を中心に唐代の文物を展示。仏舎利容器や唐三彩など。大秦景教流行碑の拓本もあった。仏教文化・西域文化の影響なども見られる。こういうのも私は好き。北京の収蔵庫で唐三彩が改めて見出されたとき、これをどのように名づけようかと議論され、多彩釉→「多」を象徴する数字として「三」という数字が使われたという説明は初めて知った。唐三彩は主に明器(お墓の副葬品)として製造された。文化的には胡風、貴族・官僚階層の厚葬といった特徴があるわけだが、安史の乱以降、商人階層が勃興して厚葬の風習がすたれ、従って副葬品が作られなくなったため唐三彩は衰微したとされる。
・二階では「館蔵華夏文物」の常設展示。土器・石器・青銅器から明清期の青磁までモノという観点から中国史をコンパクトに解説した展示としてよくまとまっている。ここはすいているから穴場かもしれない。窓際の展望席からは庭園がよく見えて気持ちが良い。確かここは、日本統治期の植物園だったところではなかったか。
・三階では中国近現代水墨画名家の特集展示。清朝・民国期以来、中国画らしさを追求してきた画家たちとして齊白石(1864-1957)、黃賓虹(1864-1955)、溥心畬(1887-1963、清朝皇族)、張大千(1899-1983)など、西欧や日本に留学して技法の革新を図った徐悲鴻(1895-1953)、黃君璧(1898-1991)、林風眠(1900-1991)、傅抱石(1904-65、日本へ留学)など、これらを受け継ぐ形で様々に展開していった李可染(1907-1989)、林玉山(1907-2004)、劉延濤(1908-2001)、傅狷夫(1910-2007)、江兆申(1925-1996)、吳冠中(1919-2010)などの作品が展示されていた。
・徐悲鴻の名前は中国美術史でよく見かける。林玉山は日本統治期から画家として活躍していた人で、作風の一つとして膠彩画が紹介されていたが、これはすなわち日本画のことだ。「黄牛」(1941年)、「蒼松白鹿」(1940年)があった。私は日本統治期の台湾人の伝記的事実関係にジャンルを問わず関心があり、彼の口述をまとめた本をミュージアム・ショップで見かけたので購入した。林風眠という人はフランスに留学してフォービズム・キュビズムの影響を受けた上で水墨画を描いていた人で、筆致が独特で興味を持ち、彼に関する本も購入した。水墨画的に繊細な線でさらっと描かれた細面の裸婦像は何となく小島功のエッチな仙人ものにも似ている。それから、侯孝賢などの映画撮影で有名なカメラマン李屏賓の写真集《光影詩人 李屏賓》(田園城市出版、2009年)を書店で見かけて購入したのだが、彼は水墨画が好きで、とくに李可染が好きだという趣旨の発言があった。
・国立歴史博物館の閉館時間は18:00で、ミュージアム・ショップで何冊か本を買い込んでから外に出る。すでに暗い。いったん宿舎に戻って荷物を置いてから、再び外出。
・MRTに乗って剣潭で下車。士林夜市へ。すでに混雑は始まっており、まだ19:00頃だから時間が経つに連れてもっと込み合うことになるだろう。まだ歩いたことのなかった通りもぶらつく。ここの夜市が門前市として始まったという慈諴宮にも入ってみた。行列のできていた夜店で小吃をいくつか買い食いして、夕飯がわりとする。葱油餅は文字通り葱油で揚げたパンみたいなもの、シンプルで食べやすい。揚げたての胡椒餅はおいしいのだが、噛むたびにたっぷりの肉汁がはねて、手がべとべと、服も汚れ、唇が少し火傷気味になってしまった。ドーム式の美食市場もざっと見て回ってから剣潭車站まで戻り、MRTを乗り継いで市政府站で下車、今晩も誠品書店信義旗艦店へ行ってぶらぶらと棚を見て回る。

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台北旅行メモ1

◆1月1日(土)
・9:40成田国際空港発のチャイナエアラインCI107便で、桃園国際空港には現地時間12:30頃到着。ほとんど空に近いスーツケースは機内に持ち込んだので荷物待ちはなく、入国審査も混雑しておらず、スムーズに行動できた。台北車站行きバスもすぐ来たので、MRT忠孝敦化車站近くの宿泊先には14:30頃にチェックイン。台北は小雨が降りそうな曇りで肌寒い。人々はみんなオーバーやコートを着込んで重武装している。
・台北車站でMRTに乗りかえる際、窓口で悠遊卡を購入。MRTと台北市内発着のバスに使えるカードで、小銭を気にせず乗り降りできるから便利だ。購入金額は500元で、うち100元はデポジット。自動券売機横の加値機でチャージできる。
・荷物を置いて、順益台湾原住民博物館へ行くことにする。ホテル前にいたタクシーの運転手さんに行先を告げたところ、ブツブツ言いながら考え込んでしまった。要するに、どのルートを使っても渋滞するぞ、ということらしい。それでMRTを使うことにした。
・MRT士林車站で下車、タクシーを拾って順益台湾原住民博物館まで15分ほど。観光バスが頻繁に発着して観光客がウヨウヨしている故宮博物院の前を通り過ぎてすぐのところ。
・順益台湾原住民博物館は順益関係企業という私企業が1994年に設立した博物館らしい。地下も含めて4フロア、民族学的資料を通して台湾における原住民について理解を深める趣旨の展示で構成されている。地下1階では原住民の神話を題材としたアニメーションも上映されており、日本語字幕付きの回もある。故宮博物院とは違ってこちらには参観者がほとんどおらずガラガラ、非常に快適だ。地上1階玄関ホール脇の売店で原住民に関する本を何冊か購入した。
・道路を挟んで向かい側には原住民をモチーフとした彫像なども並ぶ公園が広がっており、そこを少しぶらついてから、故宮博物院前でバスに乗ってMRT士林車站へ。MRT淡水線、板南線と乗り継いで忠孝敦化車站で下車。宿舎へ戻る前に、鼎泰豊に行って早めの夕飯。すでに混雑し始めていた。
・先ほど購入した本をいったん宿舎に置いてから再び外出。MRTに乗り、龍山寺に行って初詣。再びMRTに乗り、市政府車站で下車、誠品書店信義旗艦店へ。前回来たときにはMRTの駅から直結する地下道が工事中だったが、ショッピングモールが完成してにぎわっていた。誠品書店で夜の時間をしばらくつぶし、色々買い込んでから宿舎へ戻った。
・MRT駅の地下街などを歩いていると、「挪威的森林」(ノルウェイの森)や「借物少女艾莉媞」(借り暮らしのアリエッティ)などのポスターを見かけるが、映画関連はやはりよく売れるのだろうか、書店のベストセラー棚でも外国文学では村上春樹《挪威的森林》がトップ、二番目に湊佳苗(かなえ)《告白》。村上春樹特集が組まれて台湾の作家が村上作品について論じた本も2点ほど新刊棚に積まれていたし、宮崎駿特集もあった。日本の現代小説の翻訳も相変わらず目立つ。たいていは日本語版と装幀が違うのだが、森見登美彦《春宵苦少、少女前進啊》(夜は短し、歩けよ乙女)は中村祐介のイラストをしっかり使っていた。やはりイメージがぴったりだからだろう。『もしドラ』はありそうで意外とない。翻訳権が高いのだろうか。湯浅誠『反貧困』の中文訳も新刊棚に積まれていた。美術書コーナーでは安藤忠雄のほか、『美術手帖 村上隆特集』の中文訳が目立った。日文書コーナーに行くと、坂本龍馬+福山雅治特集の棚があった。そういえば、誠品書店で簡体字コーナーを見かけないが、なくなってしまったのか?
・中華民国在台湾は慶祝建国百周年ということで、テレビをつけるとそういう趣旨の番組が目立った。一方、孫文の孫娘(孫科の娘)孫穗芬女史が来台中に交通事故に遭って入院したことが元旦早々のトップニュースだった。息子さんが見舞いへの感謝を英語でコメントしていたが、中国語しゃべれないのか?

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田中伸尚『大逆事件──死と生の群像』

田中伸尚『大逆事件──死と生の群像』(岩波書店、2010年)

 血気盛んな青年・宮下太吉が信州の山奥で試爆させた一発の爆弾をきっかけに、彼の関係から芋づる式に逮捕された1910年の大逆事件。翌年1月には判決が下され、死刑の確定した12人はただちに処刑された。言葉は悪いが所詮児戯に類した“革命ごっこ”に過ぎず、幸徳秋水や森近運平たちは同調などしていなかった。それでも、無政府主義思想の広がりに神経をとがらせていた司法当局はこの出来事を口実に明治天皇暗殺の共同謀議として事件をフレームアップした。

 無政府主義の思想としての質についてはとりあえず私は問わない。ロジックの組み立てそのものは稚拙ではあっても、それはたいした問題ではなく、むしろ彼らをこうした思想へと駆り立てた情熱は奈辺にあったのか、それだけ何とかしなくてはならないという社会的矛盾を彼らは肌身に感じていたことが重要だからだ。

 本書は事件そのものの解明よりも、事件に関係した場所を訪ね歩いて関係者から話を聞き、残された人々の置かれていた境遇を丁寧に掘り起こしていく記録であるところに特色がある。残された人々が事件後もずっと癒されることなく抱えざるを得なかった様々な思いを描き出し、再審請求・名誉回復に向けて努力する人々の姿からは大逆事件は戦後になっても決して過去の事件とはなっていなかったことが示される。

 予断と推測で冤罪が構成された司法手続の問題は、昨今でも“国策捜査”として話題になっているところと相通ずるところがある。また、遺族に向けられた世間のこわばった視線には社会的な同調圧力の冷たさがうかがわれ、こうしたことは現代でも決してなくなってはいないのではないかという著者の問題意識がうかがわれる。私自身が物心ついた時点では大逆事件は冤罪であることがすでに周知の前提となっており、暗黙のうちにすでにけりのついた問題であるという受け止め方をしていたが、当事者の息吹をヴィヴィッドに伝えてくれる本書の筆致から改めて問題の根深さを考えさせられる。

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2011年1月 5日 (水)

林媽利《我們流著不同的血液:以血型、基因的科學證據揭開台灣各族群身世之謎》

林媽利《我們流著不同的血液:以血型、基因的科學證據揭開台灣各族群身世之謎》前衛出版、2010年

 これも台湾の書店で歴史関係の新刊台に積まれているのを見かけて購入した本で、昨晩、帰りの飛行機で読み終えた。タイトルを日本語訳すれば、『私たちには違った血液が流れている:血液型・遺伝子の科学的根拠に基づいて台湾各族群の出自の謎を明らかにする』というところだろうか。ここで言う「私たち」というのはもちろん広い意味での台湾人のことだ。台湾住民の血液型やDNAの分析結果に基づいて「台湾人」には形質人類学的に非常に複雑なルーツが絡まりあっていることを示し、「台湾人」=「中国人」というかつては自明視されていた言説は必ずしも成り立たないことを指摘する。

 著者は馬偕紀念醫院の医師であり、もともと台湾において未整備であった輸血制度の確立に尽力していた。その仕事に取り組む中で台湾住民の血液型分布を研究、とりわけ「米田堡(Miltenberger)血型」という輸血時に注意を要する特殊な血液型が台湾に頻出していることの発見がきっかけだったらしい。「米田堡血型」は原住民のアミ族には95%、ヤミ族に34%、プユマ族に21%見られ、これは世界的に極めて稀な頻出度だという。他方で、同じ原住民でもブヌン族は0%、また外省人のうち長江以北出身者も0%であり(日本人も0%)、このように台湾来住者のルーツの多様性を血液型分布の分析によって明らかする。それから、原住民のSARS罹患率は0%で、大陸渡来の漢族系と際立った対照を成しており、これはなぜなのかという医療現場において実際的な問題提起もしている。

 明清期の海禁政策により大陸から渡来した漢族は男性がほとんどで女性は少なく、従って平埔族(台湾西岸平野部の原住民)との混血が進んでいたことは昔から指摘されており、その点では必ずしも目新しい議論ではないが、医学的な根拠による知見が提示されているところが興味深い。

 本書でもう一つポイントとなるのは、大陸渡来の閩南系・客家系のルーツを北方漢族とは異なった南方漢族=「越」族に求める議論である。彼らは中国の史書に見える「百越」にルーツを持つが、これはもともと「漢」族ではなく、「中原」の北方文化から影響を受けて「漢」族としてのアイデンティティを持つようになった南方系の「越」族である。つまり、言語的・習俗的に「漢」族へと同化した「越」系民族が閩南系・客家系それぞれの自意識を持ちながら台湾へ渡来、この地で平埔族との混血が進んだと捉えられ、いずれにしてもDNA分析上では北方漢族との相違が大きいことが指摘される。なお、昨年末に読んだばかりの矢吹晋・藤野彰『客家と中国革命』(東方書店、2010年)でも「越」系民族が「漢」化したグループに客家のルーツの一つを求める議論が提示されており、本書の議論とも共鳴して興味深い。

 もちろん、「中華」民族観念は文化的共有性に基づくアイデンティティ意識であるため、こうした形質人類学的相違が明らかになったからといってその観念が崩れるわけではない。また、血統意識をあまり強調しすぎると優生学的人種論に陥る可能性も懸念されるので注意する必要はある。他方で、「一つの中国」意識が政治的に強固な国民国家イデオロギーとして作用している場合には、その虚構性を相対化して民族的ルーツの多元的開放性を示す論拠としてプラスの意味を持ち得るだろう。

 なお、台湾独立派の歴史家である李筱峰が本書に序文を寄せている。著者たちの研究で被験者の一人となった彭明敏の紹介で知り合ったようだ。

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石文誠、陳怡宏、蔡承豪、謝仕淵《簡明臺灣圖史:從區域地理環境的角度看台灣史》

石文誠、陳怡宏、蔡承豪、謝仕淵《簡明臺灣圖史:從區域地理環境的角度看台灣史》如果出版、2010年

 台湾の書店で歴史関係の新刊台に積まれていたので購入した本。帰りの飛行機の中でざっと読了した。国立台湾歴史博物館の監修なので、現在の台湾史研究における基本的なコンセンサスは本書に反映されているのだろう。カラー図版が豊富できれいなつくり、各章ごとに年表も付されていて、100ページほどの分量ながらも台湾史の大きな流れがコンパクトに把握できる。

 第1章〈早期的居民〉は考古学・民族学的な成果から原住民の存在に注目。第2章〈異文化的相遇〉はオランダ人・スペイン人の台湾来航により、ヨーロッパ人・漢人・原住民の三角関係が形成、原住民も含めて世界規模の商品経済との接触が始まったことを指摘。第3章〈唐山過台湾〉は鄭成功など漢人の来台について。第4章〈地域社会與多元発展〉は漢人の定住化、農業・商業の発達について。第5章〈鉅変與新秩序〉は日本による植民地化・近代化によって台湾の社会生活が一変、他方で圧制もあり、苦楽悲喜こもごも、一言では言い尽くせない複雑さ。以上、台湾の地域特性を踏まえながら社会史的変化に着目しているのが本書の特色である。南方系原住民がいて、大陸から漢族が来て、オランダ人・スペイン人の来航で世界経済システムと接触して、日本統治期があって、このような形で見えてくる多元的な重層性として台湾史を捉える視点はすでに定着していると言えるだろうか。

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