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2011年12月14日 (水)

江文也(劉再生『中国近代音楽史簡述』から)

 チェレプニンに引き続き、次は江文也です。同様に刘再生《中国近代音乐史简述》(人民音乐出版社、2009年)からの抜粋で、訳文は森岡葉さんからご提供いただきました。
 江文也は台湾出身、日本に留学して音楽家としてデビュー、戦時下に中国大陸へと渡る。日本の敗戦後、一時は漢奸容疑で逮捕もされたが、再び北京で音楽家としての活動を開始。しかし、文化大革命で再び受難…たいへん波瀾万丈な生涯を送った人物です。彼についてはこのブログでも以前に色々と書き込んだことがありますが、音楽という観点から近現代東アジア史を考える上で非常に魅力的なテーマだと考えています。
 ところで、私が彼について読んでいたのは日本語文献もしくは台湾で刊行された文献が中心なので、どうしても視点が1945年以前に集中してしまい、1945年以降の大陸における彼の生涯の印象が薄くなっていました。原書は中国音楽史の本ですので、当然ながら彼を中国音楽史におけるコンテクストで位置づけています。その点で、1945年以降(下記の文中では北平創作時期(第二段階)以降)の叙述は簡略ながらも私としてはとても興味深く感じながら読みました。

(以下、転載)

追求总不如舍弃
全てを求むるは捨て去るに如かず
——江文也的音乐创作
  江文也の音楽創作

 業績を残した全ての作曲家の作品様式が変化する現象はしばしば人々の注目するところである。寿命が長い程、経験が広い程、作品数量が多い程、作品様式の変化の可能性は高い。音楽作品の様式が全く異なり、鮮やかさには眼を奪われ、一度ならず変化し、人を引き付けて夢中にさせ、聴覚世界に奇異な景観を形作った。江文也の音楽作品の様式変化はある種の典型としての意味を持っている。

 江文也(1919.6.11-1983.10.24), 原籍福建省永定、祖父の世代に台湾に移住した。彼は台湾淡水県(注:淡水県となった時期は無さそう。淡水郡あるいは淡水区はあり)で生まれ、原名は江文彬である。1916年父母とともに福建省厦門に転居した。幼年時代は厦門の旭瀛書院で学んだ。1923年、日本に赴き長野上田中学を卒業した。1928年東京武蔵高等工業学校電気機械科に入学し、余暇に東京上野音楽学校(注:夜間校)で声楽を学び、バリトンの音域であった。1932年工業学校を卒業し、東京コロムビアレコード社に入社して音楽生涯を開始した。二年間に二度、日本全国音楽コンクールに参加し、声楽部門で入選した。1933年東京音楽学校御茶水分校に入学し、山田耕筰に師事し作曲を学んだ。1934年作曲を開始した。1935年チェレピニンに作曲を学んだ。翌年6月チェレプニンに従い北平と上海に行き、中国の民族、民間音楽を研究した。1938年3月末、北京師範大学男子学院音楽学部主任の柯政和の招きにより、同学部の作曲、声楽教授に着き、この時より北平に居を定めた。1945年冬、以前傀儡勢力の歌曲を作曲したという理由で政府当局に逮捕され、10ヶ月拘禁された後釈放された。1947年秋、趙梅伯の招きで、北平芸術専科学校音楽学部教授となった。新中国成立後、1950年より中央音楽学院作曲学部教授となる。1957年、「右派分子」と誤認され、教授の職務を取り消され、教育部門から図書館で資料を作成する職場に配置転換させられた。「文革」中には下放されて軍隊労働に従事し、心身ともに重大な損害を受けた。1979年2月、「右派」の誤認は修正され、名誉回復された。1983年10月4日病没、享年73歳。江文也が歩き通した道は、芸術探究の道であるとともに不運な人生道路であった。

 江文也の音楽作品の題材と様式の変化はおおよそ4つの段階に区分できる。

日本作曲時期(1934-1937)
 これは江文也が頭角を現し、名を挙げた時期である。1934年から1937年まで、彼の音楽作品は連続4年間、日本全国音楽コンクールで賞を獲得した。国際的音楽界においても、しばしば賞を獲得した。1936年8月、管弦楽《台湾舞曲》はベルリン第11回オリンピック国際音楽コンクールにおいて、作曲特別賞を受賞した。1938年、ピアノ組曲《16のバガテル》(1936)がベニスの第4回国際音楽コンクールにて入選し、我国近代の国際的に最も多く受賞した音楽家となった。この他、ピアノ小曲《5つのスケッチ》(1935)、声楽作品《台湾山地同胞歌》4曲(1936)、室内楽《フルートとピアノ》(1937)等の多くの作品を世に問うた。江文也は我国近代で最も早く西洋20世紀音楽技法で創作を行った作曲家であった。一般には、《台湾舞曲》(1934)が最も代表的とされている。この曲は幻想性に満ちた1楽章からなる交響詩である。楽曲は自由なロンドのソナタ形式であり、「舞曲」のテーマが全曲を貫いており、久しく離れている故郷に対する作者の想いと憧憬が表現され、祖国の古代文化に対する追想とあこがれも含んでいる。彼は総譜の扉に詩を普通の日本語で次のように書いた:

私はそこに華麗を尽くした殿堂を見た
荘厳を極めた楼閣を見た
深い森に囲まれた演舞場や祖廟を見た
しかし、これらのものはもう終わりを告げた
これらはみな霊となって微妙なる空間に融けこんで
幻想が消え失せるように、紙と子の寵愛をほしいままに一身に集めた
これらは、脱穀のように闇に浮かんでいた
ああ、私はそこに引き潮に残る二つ三つの泡沫のある風景を見た

 《台湾舞曲》音楽の主題は五音音階を主として、楽器は木管楽器の色彩の多様性に重きを置き、弦楽器こそはしばしば長い音あるいはピチカートで浮き上がり、中間のゆっくりした部分ではドビュッシーの印象派の趣がある。或る学者は次のように評している。「江文也の初期の作品における、音に対しての敏感さ、リズム、調性、組織、楽曲構造に対する卓越した支配力、及び彼の作曲家としての感性と理性は、いずれも抜きん出ていることが感じられる。」「30年代の江文也はいまだ他の作曲家の模倣段階であり、彼の作品は強烈なバルトーク(Bela Bartok,1881-1945)の楽風の影響が現れているにもかかわらず、これらの作品には既に江文也故人のスタイルが明確に示されている。」江文也が日本に居た期間の作曲は、当時の国内音楽界にはまだ重要な影響を与えていなかった。

北平創作時期(第一段階、1930-1945)
 江文也の帰国目的は作曲のためであった。彼はかって友人に次のように語っている。「私は中国文化を強く渇望して北京にやって来た。北京は東洋のパリだ。北京は私の創作意欲をかき立てる。」彼は中国伝統音楽と古代の詩の研究に没頭し、中国を題材にした大量の作品を創作した。主な作品は、《中国名歌集》第1巻、ピアノ組曲《北京万華集》(後に《北京素描》(1938)と改題)、歌曲集《唐詩七言絶句篇》(1939)、管弦楽曲《北京点描》(1939)、合唱曲《漁翁楽》(1939)、《孔廟大晟楽章》(1939)、バレエ《大地の歌》(1940)、《香妃伝》(1942)、交響詩《世紀の神話に寄せる頌歌》(1943)(注:Wikipediaでは映画音楽「あの旗を撃て」のため)、管弦楽曲《藍碧の空に鳴り響く鳩笛に》(1943)、《一宇同光》(1943)、ピアノソナタ第3番《江南風月》(1945)、ピアノ叙事詩《潯陽月夜》(1945)等である。彼の作曲する作品の様式は明らかに変化した。彼はかってこのように言った。「近代科学の方法を使って中国各種の『楽』を復興するとともに永久保存し、この中国古代音楽の精神に基づいて、新しい音楽を創造することにより、世界の音楽界に貢献したい。これが、この8年間私がひたすら研究に没頭してきたことの根本思想だ。」中でも《孔廟大晟楽章》の作品様式の変化は代表的な意味を持っている。 
 《孔廟大晟楽章》(1940)は「迎神」、「初献」、「亜献」、「終献」、「撤饌」、「送神」の6楽章よりなり、全てが緩慢な楽章で、孔子を祭る音楽の伝統様式を表現している。これは管弦楽曲では極めて稀である。音楽は荘重な、安らかな、泰然とした、古代の一種の「天人合一」の域を表現しており、帰国以後の音楽創作観念と様式の重大な変化を反映している。ある学者は次のように評している。「この研究は彼に中国音楽の神髄と民族の二つの面に触れさせたばかりでなく、彼に西洋現代音楽の多くの様式を捨てさせることになり、中国音楽様式の研究と創作に転向させることになった。……彼は孔廟大晟楽が東洋文化の宝庫であり、世界の各種の音楽類型とは異なる際立った個性を持った存在で、これまでの西洋音楽美学では説明できない、喜びや悲哀のない「法悦境」であると認識していた。」この評は江文也の重要な音楽的特色を簡潔に要約している。

北平創作時期(第二段階、1946-1948)
 江文也は1946年秋に保釈されると、欧州宗教音楽の創作に転向した。彼はカソリック教徒ではなかったが、カソリック音楽を理解するために、日曜日には方継堂に行きミサに参加した。1947年9月、「聖歌作曲集」第1巻を完成した。「結言」で、「私は中国音楽に多くの欠点があることを知っていたが、この欠点があるがためにこそ、私が中国音楽を大切に思うことになった。私はむしろこれまであの精密な西洋音楽理論を追いかけてきた半生を否定し、この貴重な欠点を保持しよう、この貴重な欠点を再創造しよう。私は中国音楽の「伝統」を深く愛する……今日、我々もまた、何らかの新しい要素を創り出し、この「伝統」の上につけ加えなければならない。」江文也は、さらに、「第一ミサ曲」、「児童聖歌集」(1948)と「児童聖歌歌曲集」第2巻(1948)も出版した。「ミサ曲」の後、江文也はこのように書き残している。「これは私の祈りである。芸術の世界をさまよう一人の求道者の最大の祈りである。」これらの作品はカソリック教合唱団に広く影響を与えた。彼はまた、我国近代において楊蔭瀏の後に「聖歌歌曲」を作曲した音楽科であった。江文也の音楽創作テーマと様式はまた変化した。彼の精神は音楽の中で浄化されるとともに、依然として中国音楽の「伝統」を追求し続けていた。

北京創作時期(1949-1964)
 この時期の作曲は合唱曲「更生曲」(歌詞郭沫若「鳳凰涅槃」抜粋)を新たな出発点としている。彼は鳳凰が涅槃の烈火の中で新たな命を得ると同様に、自分と祖国とが新たな命を得ることを希望した。1949年2月、作品は北平芸専師生祝賀北平平和解放合同祝賀会で初演された。6月、第4ピアノソナタ「狂歓日」完成。1950年末、ピアノ組曲「郷土節令詩」を完成。この後、バイオリンソナタ「頌春」(1951)、ピアノソナタ「曲楽」(1951)、ピアノ曲「杜甫賛歌」、交響詩「汨羅沈流」(1953)、ピアノトリオ「台湾高山地帯にて」(1955)、交響曲「鄭成功による台湾解放三百周年を祝して」(1962)等の作品を完成するとともに、100曲の台湾民歌を整理編曲した。「文革」の期間は江文也の一生において、創作面の空白期間である。1978年春、管弦楽曲「阿里山の歌声」の作曲を構想し、5つの部分の初稿を書き終えたが、病のため未完成に終わった。管弦楽曲「汨羅沈流」は彼の成熟期の音楽の代表的作品である。「ここには屈原の後期の詩のある種の憂鬱、鬱憤と絶望的な気分が表現されており、国難と人民のために殉ずることへの哀悼の念が表現されている。……これは真の中国の交響詩であり、中国伝統技法により構成された油絵であり、欧州の交響音楽が発展させた心理描写手法を既に取り入れるとともに、中国伝統音楽の芸術的な筆致で人物を描き出し、彼等の内面世界を表現している。」これは、彼の全ての作品中最もロマン的雰囲気の作品である。

 江文也には一つの名言がある: 全てを求むるは、捨てるに如かず。彼は初期の作品のドライブの利いたリズム感、豪放な気質と活力及び欧州前衛作曲技法の影響を受けた極点の状態から、中国民族音楽様式の作曲に回帰した。江文也の様式の変化は、彼の歩んだ人生の道の屈託の反映でもある。彼は一生たゆまずに、中国近現代音楽に対し、多くの種類の形式と様式を探究し創り出すことにより貢献した。

 江文也の良し悪し、功労と失敗は、人を考え込ませる。抗日戦争勝利後、友人は彼と日本に行くことを誘ったが、彼に拒絶された。1948年冬、香港で教えるように招かれたが、内地に留まった。「文革」の間も、祖国の前途に対する信念を失うことはなかった。彼は、「目まぐるしい悪ふざけ、舞台の一場面に過ぎない」と蔑んで言われた。確かに、彼は過失があった。「君子之过也,如日月之食焉。过也,人皆见之;更也,人皆仰之。」(《論語・子張篇》) 彼はいち早く誤りを正したにもかかわらず、重すぎる人生の代償を払った!

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