丸山眞男『日本政治思想史研究』
丸山眞男『日本政治思想史研究』(新装版、東京大学出版会、1983年)
・言わずと知れた、戦後のアカデミズムで日本思想史研究のたたき台となった古典的研究。近世初頭、幕藩体制を支えるイデオロギーとして正統的地位を占めた朱子学、その教義の思想圏内部における自己分解過程として伊藤仁斎や荻生徂徠、さらには逆説的反転としての本居宣長の国学へと至る展開を軸として江戸期政治思想史をスケッチ。
・政治的=社会的秩序が天地自然に存在していると考える普遍的教義としての朱子学的思惟(ゲマインシャフト的思惟)に対して、「自然」と「作為」との弁別によってそうした社会全体を覆う道徳的規範の拘束から自由意志の主体としての人間を析出した徂徠学的思惟(ゲゼルシャフト的思惟)への転換、そこに主体的人間によって担われる「政治」の契機を見出していくのが丸山の議論のポイント。
・たまたま子安宣邦『「事件」としての徂徠学』(ちくま学芸文庫、2000年)を読んでいたら、この本は、丸山眞男『日本政治思想史研究』が荻生徂徠を軸に描き出した「思想史」は恣意的な虚構だ、という問題意識から出発しており、再確認のため改めて手に取ってみた次第。確かに、江戸思想史研究が進んだ現在において丸山の議論は鵜呑みにはできない。むしろ丸山が江戸期思想に仮託しながら「近代」なるものを語りたかったその意味や動機を彼が生きた時代状況の中で考えていくという読み方になる、つまり江戸思想史というよりも丸山眞男論というコンテクストの中で本書は読まれることになるのだろう(本書の元となった論文は戦時中に書かれた)。
・新装版に収録された「英語版への著者の序文」を見ると、(a)戦時中にやかましかった「近代の超克」論への反感、(b)伝統主義者が強調するほど維新前の日本は「近代」とは無縁な「東洋精神」ばかりではなかった、徳川時代の思想にも「近代」へと続く発展が底流していたことを指摘したかった、という趣旨のことを述べている(398ページ)。丸山は発禁本が読めない中、福沢諭吉のテクストに新鮮な軍国主義批判を読み取って一人溜飲を下げていたらしいが、それと同様の精神状態で本書に収録された論文を書いていたのだろう。
・第2章では次のように問題意識を明示している。「いはゆる開化思想が直接的な思想的系譜に於て「外来」のものであるにせよ、外のものが入り込みえたのは、既に在来の「内のもの」が外のものをさしたる障害なく迎へうるだけに変質してゐたからにほかならない。…事実、もし吾々が表面に現はれた結論だけに眼を奪はれずに、その結論に導いた体系的構成に立ち入つて見るならば、徳川期思想の思想的展開過程のうちに、一見それと深淵を以て隔てられてゐるかの如き維新後の「近代」思想の論理的鉱脈を多々探り当てることが出来る。」(196~197ページ)
・蛇足ながら、伝統拘束的で停滞した前近代社会の中にも「近代」へと接合される素地としての内的発展があった、その意味でアジアにおける「近代」は外発的なものとばかりは言えない、という上記のロジックは、姜在彦による一連の朝鮮近代思想史研究にも共通していることを思い浮かべた。ただし、丸山の場合には戦時下に荒れ狂った反「近代」的言説に対する嫌悪感が動機であったが、姜在彦の場合には、朝鮮王朝時代の停滞性→外からの圧力(すなわち、日本による植民地支配)による外発的近代しかあり得なかったという言説に内包された植民地肯定論への反論が動機であった点が異なる。
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