アレクサンドル・チェレプニン(劉再生『中国近代音楽史簡述』から)
近現代東アジアにおける音楽的シーンを見ていく上で興味深い人物が何人かいますが、以下に掲げるのは、最近刊行された刘再生《中国近代音乐史简述》(人民音乐出版社、2009年)所収のアレクサンドル・チェレプニン及び江文也についての紹介です。訳文は、『望郷のマズルカ──激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』(ショパン、2007年)の著書がある森岡葉さんからご提供いただきました。私がチェレプニンや江文也に関心を持っていることにお気づきになってご好意でお送りくださり、彼ら二人について出来るだけ多くの方々に知ってもらおうと森岡さんのご諒解の下でここに転載いたします。
彼らそれぞれの生涯や音楽的意義が簡潔な叙述の中でも的確にまとめられています。ただ、チェレプニンについて言うと、彼がそもそもヨーロッパ音楽という枠から敢えて飛び出していった動機の部分について説明が乏しいのが難点かもしれません。彼は既存の音楽がもの足りなく感じ、もっと広い音楽的沃野を探し求めていく過程で中国の魅力に出会ったわけですが、他方で日本の近代音楽史においてもチェレプニンの存在感は大きい。また、彼の音楽的感性のあり方を考える上で青年期に過ごしたコーカサスの音楽の影響も無視できない。そういった様々な事情もひっくるめた上で彼の国際性が見えてくればもっと良い小伝になっていただろう、そうしたところは少々残念には感じています。ただし、原書はあくまでも中国音楽史の本ですから、こうした不満は「ないものねだり」に過ぎません。むしろ、中国音楽史というコンテクストの中でチェレプニンがどのように位置付けられているのかが見えてくるところが興味深いと考えています。
(以下、転載)
中西结合 贵在创新
——齐尔品举办中国风味钢琴曲
创作评奖
音楽の創作は、新しいものを創り出すことに価値がある。中国のピアノ音楽創作がまさに始まった時に、一人の外国の音楽家が進むべき道を示し、「中国的ピアノ曲募集」の作曲コンテストを自ら出資して開催するとともに、中国音楽作品を国際音楽界に推奨することに尽力し、近代ピアノ音楽の創作に中国的な要素を融合させることに重要な貢献をした。その人物は、チェレプニンである。
チェレプニン(中国名、齐尔品:チーアルピン)(Alexander Tcherepnine,1899.1.21-1977.9.29)は以前、切列普宁あるいは车列浦您の翻訳名が使われた。「齐尔品」は中国に来てからの名前である。彼は幼い時から家庭の中で音楽と文化芸術の薫陶を受けた。父親のニコラス・チェレプニン(1873-1945)はロシアのディアギレフバレエ団(バレエ・リュス)の音楽指揮者であった。チェレプニンは幼い時からリムスキー・コルサコフ、リャードフ、グラズノフ、ストラヴィンスキー、シャリアピン、ディアギレフ、バフルオワ、フージン等ロシア音楽界及びバレエ界の有名人を身近に見てきた。母親はメゾソプラノの声楽家であった。チェレプニンは幼い時からピアノを学び、作曲も始めていた。1917年にペテルスブルグ音楽院に入学した。1918年にはコレラから逃れるためにグルジアに転居し、トビリシ音楽学院で学んだ。1921年には一家揃ってパリに居を定めた。彼はパリ音楽院に入り、フランスの作曲家、指揮者のヴィダル(P.A.Vidal)に師事して作曲を学び、ピアニストのフィリップ(Isidor Philipp)に師事してピアノ演奏を学んだ。1922年、ロンドンを皮切りに、作曲家およびピアニストとして、各国で演奏活動を始め、1934年の4月初めに上海にやって来た。5月4日、チェレプニンは国立音楽専科学校(現在の上海音楽学院)にて、ピアノ作品のソロ演奏会を開いた。5月21日、萧友梅に手紙を書いて、中国民族の特徴ある音楽の創作を目指すコンテストの計画を依頼した。「中国の作曲家がつくった、民族的特徴のある最も優れた曲に、100銀元の賞金を出すこと、曲の長さは5分を超えないこと……このコンテストの後、この中国音楽の中の一曲を私が他の国で演奏したい。私は中国の音楽を学び、研究した結果、これをとても高く評価している。」手紙の中で、応募の締め切りを9月15日とすることと、萧友梅に評価委員会を組織することを求めていた。これをきっかけに、「中国的ピアノ曲募集」の創作と審査の活動が始まることになった。
11月初め、萧友梅が辞退したため、チェレプニンが評価委員会を組織した。委員会は、黄自、萧友梅、ザハロフ、オサコフとチェレプニン本人の5人がメンバーとなった。作品を応募したのは11人であった。11月9日、学校の教会で審査会が開かれた。まず、応募作品の中から6曲を選び出し、チャパロフとチェレプニンがこれを演奏した後、第9番(賀緑汀)の「牧童短笛」を一等賞に選出した。規定では、選ばれた最高作品の作者一名のみに、奨金100銀元を与える計画であったが、チェレプニンが100銀元の奨金を追加して、奨励作品に資することを望んだため、兪便民の「ハ短調変奏曲」、老志誠の「牧童之楽」、陳田鶴の「序曲」、江定仙の「揺籃曲」を2等賞として選び、それぞれ奨金25元を与えることとした。賀緑汀の「揺籃曲」は名誉2等賞とし、奨金は無とした。「音」第48期(1934年11月)に「中国的ピアノ曲募集結果発表」に掲載し、受賞者リストを公表した。この創作評価活動は我国の才能ある青年作曲家とそのピアノ作品の登場を促進することになった。
賀緑汀は受賞までの経緯を次のように回想している。「中国的ピアノ曲募集」のために、私は3つの曲を書いたが(受賞した2曲の他に、ピアノ曲「夜会」があった--引用者注)、学校の門内に設置された作品投函箱に作品を投函する勇気がなかった。ある日私は一人の同級生が、彼が書いた曲を投函したところを見たので、取り出して見たら自信が出て、3つの曲をこっそりと投函した。あの『牧童短笛』が一等賞を獲るとは、予想もしなかった。この曲は元々英語で”Buffalo Boy’s Flute”と書いていたが、中国語で「牧童短笛」と訳された。中国の一般的な概念では「幼い牧童、牛の背で、気ままに短笛をふきならす」の句が想起されるので、「牧童短笛」の改名は比較的適切である。」チェレプニンの意欲的な創作評価活動を通じて、この名曲が誕生したことを彼はこのように回想している。
チェレプニンは当初中国に数週間滞在するつもりであった。しかし、中国に到着して何週間か過ごすうちに、中国の文化芸術に対して深い興味と強い思い入れを持つことになり、彼を中国に3年の長きにわたり滞在させることになった。彼は渇くがごとく中国伝統音楽を聴き歩くとともに、曹安和に琵琶を学び、影絵劇やマリオネット、梅蘭芳や程硯秋の京劇を鑑賞し、著名な演劇理論化の斉如山を義父として尊敬し、斉如山はチェレプニンを中国名「斉尔品」と命名した。中国に滞在している期間、彼は「五声音階のピアノ教本」を創作した。萧友梅は「巻頭言」で、「彼はいつも私にこのように語っていた、『中国と中国人は本当に素晴らしい。私は欧州各国を何度も旅行したが、中国のようなところは一つも無かった。』……本校の学生は彼を訪問して、限りない激励と丁寧な指導を受けた。彼は一人の優秀な作曲家、ピアノ演奏者に留まらず、一人の熱心な教師でもあった。このため、本校は彼を名誉教員として招いた。」チェレプニンは国立音専(国立音楽専科学校:現在の上海音楽学院)唯一の「名誉教員」であった。チェレプニンは「五声音階ピアノ練習曲」(作品51)と「五つの音楽会用練習曲」等の曲を書き、彼の中国音楽と戯曲に対する印象を反映させた。後に日本で楽譜出版のために「チェレプニン・コレクション」をつくり、相次いで賀緑汀の「牧童短笛」、「郷愁」;老志誠の「牧童之楽」、「秋興」;劉雪庵の「三歌曲」、「四歌曲」;賀緑汀の「四歌曲」及びチェレプニン本人と日本人作曲家の作品を出版した。
1938年春、チェレプニンと国立音専第一期卒業生の李献敏女史はパリで結婚し、国際音楽界に中国音楽作品の影響を広めることに力を尽くした。
李献敏(1911-1991.11.4)の原籍は広東省(仏山市)南海である。祖父はキリスト教の宣教師であった。彼女は寧波で幼年時代を過ごし、上海崇徳女子中学を卒業した。1928年9月に国立音楽院(国立音楽専科学校が改称:現在の上海音楽学院)に入学し、王瑞嫺に師事した。1930年ザハロフにも師事した。李献敏と喩宣萱、裘復生が国立音専第一期卒業生であった。1933年6月22日、青年会教会で卒業音楽会が開かれた。彼女はショパンの「ハ短調ノクターン」、「エチュード(作品10,No.2)」、サン=サーンスの「ト短調協奏曲」第2、第3楽章、チャイコフスキーの「トロイカ」とファリャの「火祭りの踊り」を演奏し、さらに裘復生とアレンスキーの2台ピアノのための組曲「ロマンス」、「ワルツ」を演奏し、高く称賛された。卒業後、依然としてザハロフの下で学んでいたが、崇徳女子中学で音楽教師の職に就いた。1934年萧友梅が中比庚款委員会に推薦したため、ベルギーに留学することになり、国立音専(国立音楽専科学校:現在の上海音楽学院)卒業生が欧州に行き研鑽を積む最初の人となった。同年10月3日、国立音専卒業生自治会は彼女のために盛大な歓送会を開き、同級生達は次々と称賛の言葉を述べ、附属高校師範科の孫徳志が同級生を代表して国旗を贈り、彼女が祖国の栄光を勝ち取ることを希望した。彼女はリストの「ハンガリー狂想曲」等の3曲をお礼に演奏した。萧友梅の題辞は、「……故に曲を学ぶ時、技術の他にその様式と表情の二点も注意しなければならず、これにより初めて曲全体の精神を知り得る。」(1934.10.29)であった。黄自は李白の詩より「琴心三叠道初成」を書き記して贈った(1934.1.26)。同級の賀緑汀、劉雪庵達は皆お互いに言葉を書き記して贈った。
李献敏は1934年末船でベルギーに着き、1935年初ベルギー王立音楽院で、著名なピアニストのバスケ(E.Bosquet)よりピアノを学んだ。ブリュッセルでの勉強は不出来であったが、パリに行きコルトー(A.Cortot)の上級クラスに進んだ。その後、パリ音楽院ピアノ教授のフィリップ(L.Philipp)に学んだ。李献敏が持っていた書の中に、国立音楽院(国立音楽専科学校の改称:現在の上海音楽学院)で同郷、同級の学友の洗海星が毛筆で記した一つの題辞がある。「豈能尽如人意/但求無愧我心/臨書共二節/此数語為献敏同学前途祝/併望努力為中国音楽史上不能忘記之音楽家/星海19□□年」。洗星海はさらに毛筆で美しい印章を描いた。この題辞は李献敏がフランスに到着して、二人が会った時に、洗星海が記して贈ったものだと思われる。
李献敏はチェレプニンと結婚してから、欧州で絶え間なく演奏した。20世紀前半、彼女の演奏の足跡はドイツ、オーストリア、ベルギー、ノルウェー、スウェーデン、エジプト、チェコ等の国にわたり、フランス大統領、ノルウェー国王、ベルギー皇后の前で演奏したこともあった。李献敏はいつも中国音楽の紹介を自分の役割としており、賀緑汀、老志誠、劉雪庵、江文也のいくつかの作品は、彼女の演奏を通じて最初に欧州に紹介された。彼女が中国ピアノ曲を紹介した最も有名な機会は、1947年チェコの首都のプラハで周小燕と共に、チェレプニンが文字で紹介した「中国現代音楽」を演奏したものである。ノルウェーのオスロの「朝刊」の評論は、「李献敏は才能豊かなピアニストで、彼女は現代音楽に通じ、いかにして東方の神秘を解くべきかを理解している!”と記し、彼女の西洋音楽の表現について、ロンドンの「デイリーテレグラフ」は、「卓越した才能を持ち、『西洋音楽』を理解するピアニスト」と記した。1949年1月、アメリカ・シカゴのデ・パウル大学(De Paul University)は彼等夫婦が大学に来て教職につくよう招請し、チェレプニンは作曲を教え、李献敏はピアノを教えた。彼等は1年間の教職を引き受けただけであったのに、引き続いて15年教えることになるとは思ってもいなかった。李献敏はデ・パウル大学で優れた業績を残し、多くの優秀なピアニストを育て、1964年ニューヨークに移った。李献敏はピアニストの立場で欧州に名を知られた、中国の最初の人であり、欧米各国で中国のピアノ作品を演奏した最初の人でもあった。チェレプニン夫婦は国際音楽界に中国のピアノ作品を紹介することに力を尽くし、国際音楽界に中国の現代音楽文明が立ち上がろうとしていることを理解させることに、特別の役割を果たした。
チェレプニンは中国音楽の前途にことのほか関心を持っていた。彼は、「中国作曲家は中国のために、新しいものを作り出す精神で発展する道を切り開かなければならない。この歩みは既にはじまっており、……これは疑いなく発展すると予想され、音楽活動は中国において必ずや盛んになり、中国作曲家の作品は世界民族音楽の重要な源泉の一つになるであろう。中国は世界で最も人口の多い国であり、この点を考えると、中国作曲家の作品が民族的になればなるほど、世界的な価値を持つはずである」
ある学者はチェレプニンについて次のように評している。「中国の現代音楽史において、チェレプニンほど中国、中国の音楽、そして中国の音楽家に深く関心を持った外国の音楽家は無かった。彼が中国に滞在した三年間にわたり、中国人の「良知」を目覚めさせるために費やした努力、達成した成果は、現在に至るまで他の外国音楽家の誰も彼に比肩することはできない。」
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