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2011年12月26日 (月)

奥田英朗『オリンピックの身代金』

奥田英朗『オリンピックの身代金』(角川書店、2008年/角川文庫、2011年)

 1964年、東京オリンピック。日本全国がオリンピック開催に向けて気分を高揚させている中、苦学している東大生の島崎は、突貫工事中の建設現場で土方として働く兄の死を知った。オリンピック景気で華やいだ世相の陰で犠牲となっても顧みられることのない貧しき人々の苦衷──。義憤に駆られた島崎はオリンピック妨害のテロを決意する。

 川本三郎『小説を、映画を、鉄道が走る』(集英社、2011年)を読んでいたら、地方からの上京者について触れた箇所で『オリンピックの身代金』に何度か言及し、本当によく調べて書かれている、とほめていたので手に取ってみた。確かにストーリーテリングがうまいだけでなく、細かなシーンでも当時の世相がしっかり描きこまれているところが私には面白かった。経済的格差の理不尽さに対する怒りが動機となった犯罪という点で黒澤明の「天国と地獄」のような筋立てだ。川本さんには最近映画化された『マイ・バック・ページ』(河出文庫、1993年/平凡社、2010年)で記されているような個人的事情があるから、こうした筋立てにも共感しているのかもしれない。奥田英朗作品では『サウス・バウンド』(角川書店、2005年)も読んだことがあったが、これは元全共闘活動家の時代錯誤なおっさんが南の島でリゾート開発業者を相手に戦いを挑む話だった。

 初めの方、中野の名曲喫茶クラシックの名前が出てきたのが何となく嬉しい。この店の最晩年、私も足を踏み入れたことがある。奥行きがある店内の不可思議な構造が面白かった。折に触れて来ようと思ったのだが、次に行ったときは閉店のお知らせと管財人の告知文が貼ってあり、もうしばらくして通りかかったら跡形もなく消えて新しいビルに変身していた。当時の名曲喫茶の雰囲気を窺い知ることができるのは、今では渋谷のライオンくらいしか思い浮かばない。

 柄の悪いヤクザ者は外国人観光客の目障りだからオリンピック期間中は東京から出て行け、というお達しが東声会の町井久之を通じて出されていたらしい。「文明国」としての外向けの体裁を取り繕うことに、当の暴力団までが協力した。ちなみにこの町井というのも昭和の裏面史では興味深い人物で、城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』(新潮社、2009年)というノンフィクションを読んだ。未解決の「草加次郎」事件のエピソードは桐野夏生の小説にも出てきた記憶がある。確か『水の眠り 灰の夢』(文春文庫、1998年)だったか。

 社会的・経済的格差はここ最近の話題というわけではない。岩田正美『現代の貧困』(ちくま新書、2007年)で指摘されているように、貧困層や地方・中央の格差は実際には高度経済成長期を通じて一貫して存在しており、しばしば用いられる「一億総中流」という表現はある種の虚像に過ぎなかった。ここで描かれる昭和の光景は、例えば映画「Always──三丁目の夕日」でノスタルジックに描かれた「貧しいけれど未来に希望のあった庶民生活」とはまた異なる。繁栄に向けて日本中が浮き足立つ中、取り残された人々の諦めや屈折に思いを凝らすことはなかなか容易ではない。政府や企業ばかりでなくヤクザ、過激派学生、飯場で働く者たちまで誰もが異口同音に「日本のためオリンピックを成功させよう」と言っていた。将来の展望が開けない者にとって、自らの不遇を何とか意義あるものにつなげたいという気持ちの表われだったのかもしれない。だが、オリンピックという国家的イベントによって高揚された「日本人意識」は厳然として存在する貧困や格差といった負の現実を覆い隠す作用も同時に果しており、その矛盾点を突こうとしたのが『オリンピックの身代金』の主人公・島崎の意図であった。

 そう言えば、北京オリンピック後の北京を訪れたとき、街中のあちこちで「文明的に振舞おう」という趣旨のスローガンを見かけた。外国人観光客に見られても恥ずかしくないように、公衆道徳教育がだいぶ盛んに行なわれたようだ。地方から出稼ぎに来ていた農民工がオリンピック直前の時期に強制退去させられたという報道もあった。対外的に見栄えを取り繕うため、「汚い」ものは隠す。その「汚さ」とは社会的矛盾の具体的表われであり、とりもなおさず政府の失敗であるにもかかわらず。オリンピックが「スポーツの祭典」「平和の祭典」などというのは単なる建前であって、後進国にとってはあくまでも自国の発展ぶりを海外に向けて誇示するための国威発揚の舞台に過ぎない以上、恥ずかしいと感じている汚点はナショナリズムという「正義」の下で覆い隠そうとする。どの国も似たようなことをするものだと思った。

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