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2011年12月

2011年12月26日 (月)

奥田英朗『オリンピックの身代金』

奥田英朗『オリンピックの身代金』(角川書店、2008年/角川文庫、2011年)

 1964年、東京オリンピック。日本全国がオリンピック開催に向けて気分を高揚させている中、苦学している東大生の島崎は、突貫工事中の建設現場で土方として働く兄の死を知った。オリンピック景気で華やいだ世相の陰で犠牲となっても顧みられることのない貧しき人々の苦衷──。義憤に駆られた島崎はオリンピック妨害のテロを決意する。

 川本三郎『小説を、映画を、鉄道が走る』(集英社、2011年)を読んでいたら、地方からの上京者について触れた箇所で『オリンピックの身代金』に何度か言及し、本当によく調べて書かれている、とほめていたので手に取ってみた。確かにストーリーテリングがうまいだけでなく、細かなシーンでも当時の世相がしっかり描きこまれているところが私には面白かった。経済的格差の理不尽さに対する怒りが動機となった犯罪という点で黒澤明の「天国と地獄」のような筋立てだ。川本さんには最近映画化された『マイ・バック・ページ』(河出文庫、1993年/平凡社、2010年)で記されているような個人的事情があるから、こうした筋立てにも共感しているのかもしれない。奥田英朗作品では『サウス・バウンド』(角川書店、2005年)も読んだことがあったが、これは元全共闘活動家の時代錯誤なおっさんが南の島でリゾート開発業者を相手に戦いを挑む話だった。

 初めの方、中野の名曲喫茶クラシックの名前が出てきたのが何となく嬉しい。この店の最晩年、私も足を踏み入れたことがある。奥行きがある店内の不可思議な構造が面白かった。折に触れて来ようと思ったのだが、次に行ったときは閉店のお知らせと管財人の告知文が貼ってあり、もうしばらくして通りかかったら跡形もなく消えて新しいビルに変身していた。当時の名曲喫茶の雰囲気を窺い知ることができるのは、今では渋谷のライオンくらいしか思い浮かばない。

 柄の悪いヤクザ者は外国人観光客の目障りだからオリンピック期間中は東京から出て行け、というお達しが東声会の町井久之を通じて出されていたらしい。「文明国」としての外向けの体裁を取り繕うことに、当の暴力団までが協力した。ちなみにこの町井というのも昭和の裏面史では興味深い人物で、城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』(新潮社、2009年)というノンフィクションを読んだ。未解決の「草加次郎」事件のエピソードは桐野夏生の小説にも出てきた記憶がある。確か『水の眠り 灰の夢』(文春文庫、1998年)だったか。

 社会的・経済的格差はここ最近の話題というわけではない。岩田正美『現代の貧困』(ちくま新書、2007年)で指摘されているように、貧困層や地方・中央の格差は実際には高度経済成長期を通じて一貫して存在しており、しばしば用いられる「一億総中流」という表現はある種の虚像に過ぎなかった。ここで描かれる昭和の光景は、例えば映画「Always──三丁目の夕日」でノスタルジックに描かれた「貧しいけれど未来に希望のあった庶民生活」とはまた異なる。繁栄に向けて日本中が浮き足立つ中、取り残された人々の諦めや屈折に思いを凝らすことはなかなか容易ではない。政府や企業ばかりでなくヤクザ、過激派学生、飯場で働く者たちまで誰もが異口同音に「日本のためオリンピックを成功させよう」と言っていた。将来の展望が開けない者にとって、自らの不遇を何とか意義あるものにつなげたいという気持ちの表われだったのかもしれない。だが、オリンピックという国家的イベントによって高揚された「日本人意識」は厳然として存在する貧困や格差といった負の現実を覆い隠す作用も同時に果しており、その矛盾点を突こうとしたのが『オリンピックの身代金』の主人公・島崎の意図であった。

 そう言えば、北京オリンピック後の北京を訪れたとき、街中のあちこちで「文明的に振舞おう」という趣旨のスローガンを見かけた。外国人観光客に見られても恥ずかしくないように、公衆道徳教育がだいぶ盛んに行なわれたようだ。地方から出稼ぎに来ていた農民工がオリンピック直前の時期に強制退去させられたという報道もあった。対外的に見栄えを取り繕うため、「汚い」ものは隠す。その「汚さ」とは社会的矛盾の具体的表われであり、とりもなおさず政府の失敗であるにもかかわらず。オリンピックが「スポーツの祭典」「平和の祭典」などというのは単なる建前であって、後進国にとってはあくまでも自国の発展ぶりを海外に向けて誇示するための国威発揚の舞台に過ぎない以上、恥ずかしいと感じている汚点はナショナリズムという「正義」の下で覆い隠そうとする。どの国も似たようなことをするものだと思った。

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2011年12月23日 (金)

【映画】「無言歌」

「無言歌」

 青く澄み渡った無窮の空、ゴツゴツと広がるゴビ沙漠の荒涼たる茶褐色、この二つの色合いに画然と分かたれた空間には冷たい緊張感が張りつめ、その近寄りがたいほどの峻厳さは畏怖と同時に不思議な美しさすら観る者の胸奥に引き起こす。一人、また一人とちっぽけな人間たちを呑み込んでいっても、この冷たくも美しい大地は身じろぎもしないかのようだ。

 1960年、中国・甘粛省の夾辺溝。いわゆる「反右派闘争」で「右派」として指弾された人々が思想再教育という名目で労働改造所に集められてきたが、農場労働とは言っても辺りには荒野が延々と広がっているのみ。

 「百花斉放・百家争鳴」で束の間に味わった言論の自由。しかし、政策批判の声があまりにも大きすぎることに驚いた毛沢東は態度を一変させ、むしろこの「言論の自由」によってあぶりだされた不満分子に対する圧迫を強め、「反右派闘争」へとつながっていく。労働改造所へ送られた人々を待ち受けていた運命は実に過酷であった。ほぼ同じ頃、毛沢東の指令で発動された「大躍進政策」は無惨な失敗に終わり、この時の混乱によって生じた飢饉は数多くの人命を奪った(この問題については、フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』がアクセス可能な記録を渉猟して実証的に研究しており、最近邦訳された)。その極限状態は労働改造所においても悲惨な形で現出していた。

 荒野の中、黙々と働き続ける人々の姿。しかし、彼らの動きは緩慢だ。食糧不足から極度の栄養失調に陥っているからだ。最初は、ソルジェニーツィン『イワン・デニソヴィッチの一日』のような感じだろうかと思いながら観始めたが、飢饉という要因が加わると様相がまた違ってくる。例えば、病で倒れた人が出たとき、そばにいた仲間はまず彼の吐瀉物から食べられるものをより分け、口の中に入れてから、ようやく介抱するというシーンがあったが、これなど序の口である。仲間の衰弱死が日常光景の中にすっかり溶け込んでおり、その様子が何の感動もないかのように淡々と描写される。毎朝の点呼では何人の死者が出たのか確認され、飢えをしのぐため人肉食も横行。亡くなった者の妻が来訪したとき、仲間が彼女を墓へ連れて行くのを拒んだのは、食べるために死体の一部が削ぎ取られた無惨な姿を見せたくなかったからだ。

 この映画は中国政府の許可を得ずに撮影されたため、中国本土で上映されることはない。労働改造所での出来事を記録した楊顕恵『告别夹边沟』が原作となっているが、王兵監督はさらに当時の生き残りの人々を探し出して会いに行き、その生々しい話を基に再構成しているという。複数の人々の証言を踏まえてクロスチェックされており、リアルに再現された光景はドキュメンタリーに近い。特定の政治傾向を帯びたメッセージをここから読み取るというよりは、むしろこのような悲劇があったという厳粛な事実への端的な驚きをそのままに受け止めていくしかない。

【データ】
原題:夹边沟/The Ditch
監督・脚本:王兵
2010年/香港・フランス・ベルギー/109分
(2011年12月23日、ヒューマントラストシネマ有楽町にて)

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【映画】「サラの鍵」

「サラの鍵」

 パリに古くから暮らす一家へ嫁いできたアメリカ人女性のジュリアは雑誌記者をしている。戦争中、ヴェルディヴ(冬季競輪場)で起こった出来事について記事に書くつもりで取材していたところ、そういえば夫の一家が現在のアパルトマンに移ってきたのはまさにここで「事件」が起こっていた時期だったことに思い当たる。当時、子供だった義父は何か事情を知っている様子だが、口が堅い。ジュリアの取材は家族の過去を振り返ることと結びついていく。

 ヴェルディヴではいったい何が起こったのか。1942年7月、ドイツ軍占領下のパリで1万3千人のユダヤ系住民が一斉検挙された。衛生状態の悪いヴェルディヴに収容され、4千人の子供たちは親から引き離されて、別々になったみんながアウシュヴィッツへと送られた。ナチスの圧力があったからとはいえ、この検挙・移送を実際に立案・実行したのはフランス政府と警察であり、パリ市民の多くは無関心を装ったことはフランス現代史の大きなタブーとなってきた。ジュリアの夫の実家は、この時に連行されたユダヤ人一家が残した空き室に引っ越してきたのであった。

 この映画はジュリアと少女時代のサラ、二人の視点を交錯させて現在と過去とを対比させながら進行するが、サラが後半生をどのような思いで生きたのかは明示されない。ヴェルディヴで起こった出来事が第一のテーマとするなら、戦後も複雑な思いを抱えて生きねばならなかったサラの後半生はどのようなものだったのか、そこへの関心が第二のテーマとなる。

 収容施設から逃げ出した少女サラは、匿ってくれた農家の夫婦の助けもあって自分の家だったアパルトマンへと急ぐ。警察に連行されたとき、とっさの判断で納戸に隠した弟が気がかりだったからだが、彼の死を目の当たりにし、両親をも失った彼女のその後の人生は決して幸せなものとはならなかった。自分だけ生き残ったことへのわだかまりが強すぎたのか、欝症状を悪化させていた。サラはユダヤ人としての自らの来歴を隠したため、息子も彼女の本当の人生を知らなかった。

 ジュリアの夫の実家にせよ、サラの息子にせよ、歴史的なタブーから目を背けることでその後の家族生活の安定が図られていた。しかし、タブーを敢えて直視することで、家族関係がギクシャクしそうにもなったが、やがて新たな関係を結び直していくことにつながる。これは単に家族の問題というばかりでなく、社会的レベルにおいて公的に語られてきた歴史を脱構築していくプロセスが重ね描きされていると言える。身近に手助けしてくれる人がいても、自らの心の中に一人抱え込んだものがあまりにも大きすぎて手助けを受け止めることすらできずに死んでいったサラ、そういった心情にはどのようにして想いをこらすことができるのか。このように大文字の歴史として語られる中ではかき消されてしまう一人ひとりへの慮りへとつながっていかねばならないのだろう。

【データ】
監督・脚本:ジル・パケ=ブレネール
原作:タチアナ・ド・ロネ(高見浩訳)『サラの鍵』新潮社、2010年
2010年/フランス/111分
(2011年12月22日、銀座テアトルシネマにて)
 
 

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2011年12月21日 (水)

西澤泰彦『植民地建築紀行──満洲・朝鮮・台湾を歩く』『東アジアの日本人建築家──世紀末から日中戦争』

 近代日本の対外的膨張による支配地の拡大、それは人的移動を促しただけでなく、人が住んだり公共的拠点とするための建築の広がりともつながっており、西洋から近代建築を学んだばかりの日本人建築家たちが東アジア各地へと渡っていった。西澤泰彦『植民地建築紀行──満洲・朝鮮・台湾を歩く』(吉川弘文館、2011年)と同『東アジアの日本人建築家──世紀末から日中戦争』(柏書房、2011年)は、こうした建築をめぐる活動の広がりを個別地域別ではなく東アジアというレベルで横断的に解説してくれるのが特徴だ。メインテーマは「海を渡った建築家たち」ということになる。

 建築は単に物理的に存在するというだけでなく、歴史的ドラマが繰り広げられた舞台でもある。必ずしも楽しいものばかりではなく、むしろ日本の対外的侵略という不幸な出来事の記憶の方が強く想起されることになろう。朝鮮総督府をめぐって生じた論争が端的に表しているように、現地の人々にとっては植民地支配という忌まわしい記憶のモニュメントとなる。他方で、当時における日本人建築家たちの技量の到達点を示した建築史的な意義も認められる。こうした二面性はなかなか解きがたい矛盾をはらんでいるが、近年は長い時間的経過をたどってきた中で歴史的価値にも配慮され、現地でも文化財指定を受けている場合も多くなってきた。

 著者は建築史家であるから建築としての構造や技法の話題がメインとなるのはもちろんだが、そればかりでなく、そもそもその建築がこの地に造営されたのはどのような歴史的背景によるのか、造営に携わった建築家たちはどんな人たちだったのか、こうした事情も合わせてトータルに考察が進められていくところが興味深い。

 『植民地建築紀行』は「広場と官衙」「駅舎とホテル」「学校・病院・図書館」「銀行」「支配者の住宅」などテーマ別に特徴ある建物を一つ一つ見ていく。東アジアを縦横に歩き回っているような気分でなかなか楽しい。本筋から外れるが興味を持ったところをメモしておくと、
・戦前、京城帝国大学本部を設計したのは当時の総督府営繕課に勤務していた朝鮮人建築家の朴吉龍で、彼は和信百貨店新館も設計。
・外国の支配地域近くにある中国人主体の市街地に目立つ中華バロック→西洋建築を見た中国人商人たちが同じような建物を建てたいと考えて中国人の職人に建てさせるが、彼らは外観を見ただけで誤解も多かったため奇妙な形になった。明治期日本の擬洋風建築と同様。

 『東アジアの日本人建築家』は、ともすれば存在の忘れられがちな建築家たち22人の人物群像を通して東アジア近代史の一側面がうかがえる。設計した建築の様式、用途、活動拠点、所属組織などを考えながらおおまかに6つのグループに分けて考察される。
①台湾、朝鮮の総督府の建設に関った野村一郎、国枝博。鉄筋コンクリート造の採用。
②満鉄所属の建築家:小野木孝治、太田毅、横井謙介、青木菊治郎、安井武雄、岡大路、太田宗太郎。満鉄の多様な事業に合わせて大連港、撫順炭坑、鞍山製鉄所など鉄道附属地の経営に関る建物。防寒性・耐火性の観点から煉瓦造建築→洋風建築。
③植民地銀行(朝鮮銀行、台湾銀行、横浜正金銀行、満洲中央銀行):中村與資平(植民地で建築したときの経験→日本へ還流)、西村好時(日本国内での経験→植民地銀行の本店を手がける)、宗像主一。
④在外公館:片山東熊、三橋四郎、真水英夫、平野勇造、福井房一。
⑤満洲国政府の建築組織:相賀兼介、石井達郎。
⑥ゼネコンを設立した岡田時太郎、高岡又一郎。
・建築を学んでも日本本国では仕事がなかったから海を渡ったと考えられていたが、実際にはむしろ転職対象として魅力があった。
・日本の敗戦で引き揚げた建築家たちは、帰国してからは活動基盤が一切ない状態で再起→支配地での建築活動で蓄積してきた経験が戦後の日本へ還流された。

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2011年12月19日 (月)

金正日死去の一報を受けて何冊か

 今年は日本も世界も色々なことがあったなあ、と感慨に浸っていた年の瀬、今度は金正日死去の一報。「強盛大国の大門を開く」はずの2012年を目前にして雲隠れ、「公約」延期の口実になるんだろうなあ、と思いつつ、東アジア情勢が不安定な状況に陥りそうな可能性にも思い当たってやや不安な気分にもかられたり。取りあえず、最近読んだ北朝鮮関連本について再掲。

・平井久志『なぜ北朝鮮は孤立するのか──金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書、2010年)、アンドレイ・ランコフ(鳥居英晴訳)『民衆の北朝鮮──知られざる日常生活』(花伝社、2009年)、綾野(富坂聡編訳)『中国が予測する“北朝鮮崩壊の日”』(文春新書、2008年)→こちら
・アンドレイ・ランコフ(下斗米伸夫・石井知章訳)『スターリンから金日成へ──北朝鮮国家の形成 1945~1960年』(法政大学出版局、2011年)→こちら

 金正日という人は単なる世襲のお坊ちゃんではなかった。彼自身が若い頃から身内との権力闘争を勝ち抜いて自らの手で権力を勝ち取り、党や軍をじかに掌握してきたところに独裁体制を維持してきた威信があった。従って、息子に権力を譲り渡したからと言ってスムーズにいく保証は全くなく、次の権力闘争が必ず起こるだろうし、その余波として強硬論者が不測の事態を引き起こす可能性すらある。

 北朝鮮のソフトランディングを進めるにはやはり経済改革が必要であるが、一貫して標榜している先軍体制は民生部門を圧迫している。他方で、この先軍体制によって住民の不満を力ずくで押さえ込んでようやく現在の体制が維持されている以上、制度改革に着手したら押さえ込まれてきた不満が爆発し、そのままなし崩し的に体制崩壊へとつながってしまう可能性に上層部は気付いている。それでもなおかつ体制内部での抵抗を抑えながら変革へとつなげることができるのは、圧倒的な独裁的権限を持つ金正日ただ一人である、と平井氏は指摘していたが、その可能性すら消えてしまったことになる。

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渡邉義浩『関羽──神になった「三国志」の英雄』、冨谷至『中国義人伝──節義に殉ず』

 三国志の中でも関羽がとりわけ「義人」として人気が高いのはなぜか? そうした問いに答えようとするのが、渡邉義浩『関羽──神になった「三国志」の英雄』(筑摩叢書、2011年)である。もちろん関羽は当初からそれなりにポピュラーではあっても、あくまでも三国志の英雄たちの中の一人という扱いに過ぎなかった。ところが、関羽の出身地は塩の産地であり、そこは塩の交易をもとに活躍した山西商人ゆかりの土地でもあったため、彼らがまず郷里の英雄として関羽を崇め始める。後代の宋や清の時代、商人への課税は軍事費を賄う上で重要な収入源であったため、商人たちの崇める者をおろそかには出来なかった。それ以上に、商人のネットワークが広がっていく中、遠隔地において商売を進める上で信頼感=義を確証することが必要になってくるが、その義を誓う場所として神格化された郷里の英雄を祀った関帝廟が位置づけられることになる。単に関羽の描き方の変遷をたどるだけでなく、関羽イメージに表された「義」の感覚が一定の社会的機能を果たしていたのが見えてきて興味深い。

 冨谷至『中国義人伝──節義に殉ず』(中公新書、2011年)が取り上げるのは、漢代の蘇武、唐代の顔真卿、宋代の文天祥。各々の時代相において逆境の中でも不屈の意志を貫き通した人物像を描く。中国的な感覚や論理におけるノブレス・オブリージュの具体例といったところか。文天祥について、科挙をトップでパスしたエリート(状元)であるが、他方で宋が敗れたという現実の中でも立て板に水の如く正論を吐き続ける彼の言葉には、元に投降した人々のやむを得ない事情を一切認めない硬さが表れており、こうした原理原則主義は受験秀才にありがちな生硬さという指摘に興味を持った。いずれにせよ、三者三様の形で、時代的価値観の中で人物的に具現化した「義」の感覚を本書は示してくれる。

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2011年12月14日 (水)

江文也(劉再生『中国近代音楽史簡述』から)

 チェレプニンに引き続き、次は江文也です。同様に刘再生《中国近代音乐史简述》(人民音乐出版社、2009年)からの抜粋で、訳文は森岡葉さんからご提供いただきました。
 江文也は台湾出身、日本に留学して音楽家としてデビュー、戦時下に中国大陸へと渡る。日本の敗戦後、一時は漢奸容疑で逮捕もされたが、再び北京で音楽家としての活動を開始。しかし、文化大革命で再び受難…たいへん波瀾万丈な生涯を送った人物です。彼についてはこのブログでも以前に色々と書き込んだことがありますが、音楽という観点から近現代東アジア史を考える上で非常に魅力的なテーマだと考えています。
 ところで、私が彼について読んでいたのは日本語文献もしくは台湾で刊行された文献が中心なので、どうしても視点が1945年以前に集中してしまい、1945年以降の大陸における彼の生涯の印象が薄くなっていました。原書は中国音楽史の本ですので、当然ながら彼を中国音楽史におけるコンテクストで位置づけています。その点で、1945年以降(下記の文中では北平創作時期(第二段階)以降)の叙述は簡略ながらも私としてはとても興味深く感じながら読みました。

(以下、転載)

追求总不如舍弃
全てを求むるは捨て去るに如かず
——江文也的音乐创作
  江文也の音楽創作

 業績を残した全ての作曲家の作品様式が変化する現象はしばしば人々の注目するところである。寿命が長い程、経験が広い程、作品数量が多い程、作品様式の変化の可能性は高い。音楽作品の様式が全く異なり、鮮やかさには眼を奪われ、一度ならず変化し、人を引き付けて夢中にさせ、聴覚世界に奇異な景観を形作った。江文也の音楽作品の様式変化はある種の典型としての意味を持っている。

 江文也(1919.6.11-1983.10.24), 原籍福建省永定、祖父の世代に台湾に移住した。彼は台湾淡水県(注:淡水県となった時期は無さそう。淡水郡あるいは淡水区はあり)で生まれ、原名は江文彬である。1916年父母とともに福建省厦門に転居した。幼年時代は厦門の旭瀛書院で学んだ。1923年、日本に赴き長野上田中学を卒業した。1928年東京武蔵高等工業学校電気機械科に入学し、余暇に東京上野音楽学校(注:夜間校)で声楽を学び、バリトンの音域であった。1932年工業学校を卒業し、東京コロムビアレコード社に入社して音楽生涯を開始した。二年間に二度、日本全国音楽コンクールに参加し、声楽部門で入選した。1933年東京音楽学校御茶水分校に入学し、山田耕筰に師事し作曲を学んだ。1934年作曲を開始した。1935年チェレピニンに作曲を学んだ。翌年6月チェレプニンに従い北平と上海に行き、中国の民族、民間音楽を研究した。1938年3月末、北京師範大学男子学院音楽学部主任の柯政和の招きにより、同学部の作曲、声楽教授に着き、この時より北平に居を定めた。1945年冬、以前傀儡勢力の歌曲を作曲したという理由で政府当局に逮捕され、10ヶ月拘禁された後釈放された。1947年秋、趙梅伯の招きで、北平芸術専科学校音楽学部教授となった。新中国成立後、1950年より中央音楽学院作曲学部教授となる。1957年、「右派分子」と誤認され、教授の職務を取り消され、教育部門から図書館で資料を作成する職場に配置転換させられた。「文革」中には下放されて軍隊労働に従事し、心身ともに重大な損害を受けた。1979年2月、「右派」の誤認は修正され、名誉回復された。1983年10月4日病没、享年73歳。江文也が歩き通した道は、芸術探究の道であるとともに不運な人生道路であった。

 江文也の音楽作品の題材と様式の変化はおおよそ4つの段階に区分できる。

日本作曲時期(1934-1937)
 これは江文也が頭角を現し、名を挙げた時期である。1934年から1937年まで、彼の音楽作品は連続4年間、日本全国音楽コンクールで賞を獲得した。国際的音楽界においても、しばしば賞を獲得した。1936年8月、管弦楽《台湾舞曲》はベルリン第11回オリンピック国際音楽コンクールにおいて、作曲特別賞を受賞した。1938年、ピアノ組曲《16のバガテル》(1936)がベニスの第4回国際音楽コンクールにて入選し、我国近代の国際的に最も多く受賞した音楽家となった。この他、ピアノ小曲《5つのスケッチ》(1935)、声楽作品《台湾山地同胞歌》4曲(1936)、室内楽《フルートとピアノ》(1937)等の多くの作品を世に問うた。江文也は我国近代で最も早く西洋20世紀音楽技法で創作を行った作曲家であった。一般には、《台湾舞曲》(1934)が最も代表的とされている。この曲は幻想性に満ちた1楽章からなる交響詩である。楽曲は自由なロンドのソナタ形式であり、「舞曲」のテーマが全曲を貫いており、久しく離れている故郷に対する作者の想いと憧憬が表現され、祖国の古代文化に対する追想とあこがれも含んでいる。彼は総譜の扉に詩を普通の日本語で次のように書いた:

私はそこに華麗を尽くした殿堂を見た
荘厳を極めた楼閣を見た
深い森に囲まれた演舞場や祖廟を見た
しかし、これらのものはもう終わりを告げた
これらはみな霊となって微妙なる空間に融けこんで
幻想が消え失せるように、紙と子の寵愛をほしいままに一身に集めた
これらは、脱穀のように闇に浮かんでいた
ああ、私はそこに引き潮に残る二つ三つの泡沫のある風景を見た

 《台湾舞曲》音楽の主題は五音音階を主として、楽器は木管楽器の色彩の多様性に重きを置き、弦楽器こそはしばしば長い音あるいはピチカートで浮き上がり、中間のゆっくりした部分ではドビュッシーの印象派の趣がある。或る学者は次のように評している。「江文也の初期の作品における、音に対しての敏感さ、リズム、調性、組織、楽曲構造に対する卓越した支配力、及び彼の作曲家としての感性と理性は、いずれも抜きん出ていることが感じられる。」「30年代の江文也はいまだ他の作曲家の模倣段階であり、彼の作品は強烈なバルトーク(Bela Bartok,1881-1945)の楽風の影響が現れているにもかかわらず、これらの作品には既に江文也故人のスタイルが明確に示されている。」江文也が日本に居た期間の作曲は、当時の国内音楽界にはまだ重要な影響を与えていなかった。

北平創作時期(第一段階、1930-1945)
 江文也の帰国目的は作曲のためであった。彼はかって友人に次のように語っている。「私は中国文化を強く渇望して北京にやって来た。北京は東洋のパリだ。北京は私の創作意欲をかき立てる。」彼は中国伝統音楽と古代の詩の研究に没頭し、中国を題材にした大量の作品を創作した。主な作品は、《中国名歌集》第1巻、ピアノ組曲《北京万華集》(後に《北京素描》(1938)と改題)、歌曲集《唐詩七言絶句篇》(1939)、管弦楽曲《北京点描》(1939)、合唱曲《漁翁楽》(1939)、《孔廟大晟楽章》(1939)、バレエ《大地の歌》(1940)、《香妃伝》(1942)、交響詩《世紀の神話に寄せる頌歌》(1943)(注:Wikipediaでは映画音楽「あの旗を撃て」のため)、管弦楽曲《藍碧の空に鳴り響く鳩笛に》(1943)、《一宇同光》(1943)、ピアノソナタ第3番《江南風月》(1945)、ピアノ叙事詩《潯陽月夜》(1945)等である。彼の作曲する作品の様式は明らかに変化した。彼はかってこのように言った。「近代科学の方法を使って中国各種の『楽』を復興するとともに永久保存し、この中国古代音楽の精神に基づいて、新しい音楽を創造することにより、世界の音楽界に貢献したい。これが、この8年間私がひたすら研究に没頭してきたことの根本思想だ。」中でも《孔廟大晟楽章》の作品様式の変化は代表的な意味を持っている。 
 《孔廟大晟楽章》(1940)は「迎神」、「初献」、「亜献」、「終献」、「撤饌」、「送神」の6楽章よりなり、全てが緩慢な楽章で、孔子を祭る音楽の伝統様式を表現している。これは管弦楽曲では極めて稀である。音楽は荘重な、安らかな、泰然とした、古代の一種の「天人合一」の域を表現しており、帰国以後の音楽創作観念と様式の重大な変化を反映している。ある学者は次のように評している。「この研究は彼に中国音楽の神髄と民族の二つの面に触れさせたばかりでなく、彼に西洋現代音楽の多くの様式を捨てさせることになり、中国音楽様式の研究と創作に転向させることになった。……彼は孔廟大晟楽が東洋文化の宝庫であり、世界の各種の音楽類型とは異なる際立った個性を持った存在で、これまでの西洋音楽美学では説明できない、喜びや悲哀のない「法悦境」であると認識していた。」この評は江文也の重要な音楽的特色を簡潔に要約している。

北平創作時期(第二段階、1946-1948)
 江文也は1946年秋に保釈されると、欧州宗教音楽の創作に転向した。彼はカソリック教徒ではなかったが、カソリック音楽を理解するために、日曜日には方継堂に行きミサに参加した。1947年9月、「聖歌作曲集」第1巻を完成した。「結言」で、「私は中国音楽に多くの欠点があることを知っていたが、この欠点があるがためにこそ、私が中国音楽を大切に思うことになった。私はむしろこれまであの精密な西洋音楽理論を追いかけてきた半生を否定し、この貴重な欠点を保持しよう、この貴重な欠点を再創造しよう。私は中国音楽の「伝統」を深く愛する……今日、我々もまた、何らかの新しい要素を創り出し、この「伝統」の上につけ加えなければならない。」江文也は、さらに、「第一ミサ曲」、「児童聖歌集」(1948)と「児童聖歌歌曲集」第2巻(1948)も出版した。「ミサ曲」の後、江文也はこのように書き残している。「これは私の祈りである。芸術の世界をさまよう一人の求道者の最大の祈りである。」これらの作品はカソリック教合唱団に広く影響を与えた。彼はまた、我国近代において楊蔭瀏の後に「聖歌歌曲」を作曲した音楽科であった。江文也の音楽創作テーマと様式はまた変化した。彼の精神は音楽の中で浄化されるとともに、依然として中国音楽の「伝統」を追求し続けていた。

北京創作時期(1949-1964)
 この時期の作曲は合唱曲「更生曲」(歌詞郭沫若「鳳凰涅槃」抜粋)を新たな出発点としている。彼は鳳凰が涅槃の烈火の中で新たな命を得ると同様に、自分と祖国とが新たな命を得ることを希望した。1949年2月、作品は北平芸専師生祝賀北平平和解放合同祝賀会で初演された。6月、第4ピアノソナタ「狂歓日」完成。1950年末、ピアノ組曲「郷土節令詩」を完成。この後、バイオリンソナタ「頌春」(1951)、ピアノソナタ「曲楽」(1951)、ピアノ曲「杜甫賛歌」、交響詩「汨羅沈流」(1953)、ピアノトリオ「台湾高山地帯にて」(1955)、交響曲「鄭成功による台湾解放三百周年を祝して」(1962)等の作品を完成するとともに、100曲の台湾民歌を整理編曲した。「文革」の期間は江文也の一生において、創作面の空白期間である。1978年春、管弦楽曲「阿里山の歌声」の作曲を構想し、5つの部分の初稿を書き終えたが、病のため未完成に終わった。管弦楽曲「汨羅沈流」は彼の成熟期の音楽の代表的作品である。「ここには屈原の後期の詩のある種の憂鬱、鬱憤と絶望的な気分が表現されており、国難と人民のために殉ずることへの哀悼の念が表現されている。……これは真の中国の交響詩であり、中国伝統技法により構成された油絵であり、欧州の交響音楽が発展させた心理描写手法を既に取り入れるとともに、中国伝統音楽の芸術的な筆致で人物を描き出し、彼等の内面世界を表現している。」これは、彼の全ての作品中最もロマン的雰囲気の作品である。

 江文也には一つの名言がある: 全てを求むるは、捨てるに如かず。彼は初期の作品のドライブの利いたリズム感、豪放な気質と活力及び欧州前衛作曲技法の影響を受けた極点の状態から、中国民族音楽様式の作曲に回帰した。江文也の様式の変化は、彼の歩んだ人生の道の屈託の反映でもある。彼は一生たゆまずに、中国近現代音楽に対し、多くの種類の形式と様式を探究し創り出すことにより貢献した。

 江文也の良し悪し、功労と失敗は、人を考え込ませる。抗日戦争勝利後、友人は彼と日本に行くことを誘ったが、彼に拒絶された。1948年冬、香港で教えるように招かれたが、内地に留まった。「文革」の間も、祖国の前途に対する信念を失うことはなかった。彼は、「目まぐるしい悪ふざけ、舞台の一場面に過ぎない」と蔑んで言われた。確かに、彼は過失があった。「君子之过也,如日月之食焉。过也,人皆见之;更也,人皆仰之。」(《論語・子張篇》) 彼はいち早く誤りを正したにもかかわらず、重すぎる人生の代償を払った!

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アレクサンドル・チェレプニン(劉再生『中国近代音楽史簡述』から)

 近現代東アジアにおける音楽的シーンを見ていく上で興味深い人物が何人かいますが、以下に掲げるのは、最近刊行された刘再生《中国近代音乐史简述》(人民音乐出版社、2009年)所収のアレクサンドル・チェレプニン及び江文也についての紹介です。訳文は、『望郷のマズルカ──激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』(ショパン、2007年)の著書がある森岡葉さんからご提供いただきました。私がチェレプニンや江文也に関心を持っていることにお気づきになってご好意でお送りくださり、彼ら二人について出来るだけ多くの方々に知ってもらおうと森岡さんのご諒解の下でここに転載いたします。

 彼らそれぞれの生涯や音楽的意義が簡潔な叙述の中でも的確にまとめられています。ただ、チェレプニンについて言うと、彼がそもそもヨーロッパ音楽という枠から敢えて飛び出していった動機の部分について説明が乏しいのが難点かもしれません。彼は既存の音楽がもの足りなく感じ、もっと広い音楽的沃野を探し求めていく過程で中国の魅力に出会ったわけですが、他方で日本の近代音楽史においてもチェレプニンの存在感は大きい。また、彼の音楽的感性のあり方を考える上で青年期に過ごしたコーカサスの音楽の影響も無視できない。そういった様々な事情もひっくるめた上で彼の国際性が見えてくればもっと良い小伝になっていただろう、そうしたところは少々残念には感じています。ただし、原書はあくまでも中国音楽史の本ですから、こうした不満は「ないものねだり」に過ぎません。むしろ、中国音楽史というコンテクストの中でチェレプニンがどのように位置付けられているのかが見えてくるところが興味深いと考えています。

(以下、転載)

中西结合 贵在创新
——齐尔品举办中国风味钢琴曲
    创作评奖

 音楽の創作は、新しいものを創り出すことに価値がある。中国のピアノ音楽創作がまさに始まった時に、一人の外国の音楽家が進むべき道を示し、「中国的ピアノ曲募集」の作曲コンテストを自ら出資して開催するとともに、中国音楽作品を国際音楽界に推奨することに尽力し、近代ピアノ音楽の創作に中国的な要素を融合させることに重要な貢献をした。その人物は、チェレプニンである。

 チェレプニン(中国名、齐尔品:チーアルピン)(Alexander Tcherepnine,1899.1.21-1977.9.29)は以前、切列普宁あるいは车列浦您の翻訳名が使われた。「齐尔品」は中国に来てからの名前である。彼は幼い時から家庭の中で音楽と文化芸術の薫陶を受けた。父親のニコラス・チェレプニン(1873-1945)はロシアのディアギレフバレエ団(バレエ・リュス)の音楽指揮者であった。チェレプニンは幼い時からリムスキー・コルサコフ、リャードフ、グラズノフ、ストラヴィンスキー、シャリアピン、ディアギレフ、バフルオワ、フージン等ロシア音楽界及びバレエ界の有名人を身近に見てきた。母親はメゾソプラノの声楽家であった。チェレプニンは幼い時からピアノを学び、作曲も始めていた。1917年にペテルスブルグ音楽院に入学した。1918年にはコレラから逃れるためにグルジアに転居し、トビリシ音楽学院で学んだ。1921年には一家揃ってパリに居を定めた。彼はパリ音楽院に入り、フランスの作曲家、指揮者のヴィダル(P.A.Vidal)に師事して作曲を学び、ピアニストのフィリップ(Isidor Philipp)に師事してピアノ演奏を学んだ。1922年、ロンドンを皮切りに、作曲家およびピアニストとして、各国で演奏活動を始め、1934年の4月初めに上海にやって来た。5月4日、チェレプニンは国立音楽専科学校(現在の上海音楽学院)にて、ピアノ作品のソロ演奏会を開いた。5月21日、萧友梅に手紙を書いて、中国民族の特徴ある音楽の創作を目指すコンテストの計画を依頼した。「中国の作曲家がつくった、民族的特徴のある最も優れた曲に、100銀元の賞金を出すこと、曲の長さは5分を超えないこと……このコンテストの後、この中国音楽の中の一曲を私が他の国で演奏したい。私は中国の音楽を学び、研究した結果、これをとても高く評価している。」手紙の中で、応募の締め切りを9月15日とすることと、萧友梅に評価委員会を組織することを求めていた。これをきっかけに、「中国的ピアノ曲募集」の創作と審査の活動が始まることになった。

 11月初め、萧友梅が辞退したため、チェレプニンが評価委員会を組織した。委員会は、黄自、萧友梅、ザハロフ、オサコフとチェレプニン本人の5人がメンバーとなった。作品を応募したのは11人であった。11月9日、学校の教会で審査会が開かれた。まず、応募作品の中から6曲を選び出し、チャパロフとチェレプニンがこれを演奏した後、第9番(賀緑汀)の「牧童短笛」を一等賞に選出した。規定では、選ばれた最高作品の作者一名のみに、奨金100銀元を与える計画であったが、チェレプニンが100銀元の奨金を追加して、奨励作品に資することを望んだため、兪便民の「ハ短調変奏曲」、老志誠の「牧童之楽」、陳田鶴の「序曲」、江定仙の「揺籃曲」を2等賞として選び、それぞれ奨金25元を与えることとした。賀緑汀の「揺籃曲」は名誉2等賞とし、奨金は無とした。「音」第48期(1934年11月)に「中国的ピアノ曲募集結果発表」に掲載し、受賞者リストを公表した。この創作評価活動は我国の才能ある青年作曲家とそのピアノ作品の登場を促進することになった。

 賀緑汀は受賞までの経緯を次のように回想している。「中国的ピアノ曲募集」のために、私は3つの曲を書いたが(受賞した2曲の他に、ピアノ曲「夜会」があった--引用者注)、学校の門内に設置された作品投函箱に作品を投函する勇気がなかった。ある日私は一人の同級生が、彼が書いた曲を投函したところを見たので、取り出して見たら自信が出て、3つの曲をこっそりと投函した。あの『牧童短笛』が一等賞を獲るとは、予想もしなかった。この曲は元々英語で”Buffalo Boy’s Flute”と書いていたが、中国語で「牧童短笛」と訳された。中国の一般的な概念では「幼い牧童、牛の背で、気ままに短笛をふきならす」の句が想起されるので、「牧童短笛」の改名は比較的適切である。」チェレプニンの意欲的な創作評価活動を通じて、この名曲が誕生したことを彼はこのように回想している。

 チェレプニンは当初中国に数週間滞在するつもりであった。しかし、中国に到着して何週間か過ごすうちに、中国の文化芸術に対して深い興味と強い思い入れを持つことになり、彼を中国に3年の長きにわたり滞在させることになった。彼は渇くがごとく中国伝統音楽を聴き歩くとともに、曹安和に琵琶を学び、影絵劇やマリオネット、梅蘭芳や程硯秋の京劇を鑑賞し、著名な演劇理論化の斉如山を義父として尊敬し、斉如山はチェレプニンを中国名「斉尔品」と命名した。中国に滞在している期間、彼は「五声音階のピアノ教本」を創作した。萧友梅は「巻頭言」で、「彼はいつも私にこのように語っていた、『中国と中国人は本当に素晴らしい。私は欧州各国を何度も旅行したが、中国のようなところは一つも無かった。』……本校の学生は彼を訪問して、限りない激励と丁寧な指導を受けた。彼は一人の優秀な作曲家、ピアノ演奏者に留まらず、一人の熱心な教師でもあった。このため、本校は彼を名誉教員として招いた。」チェレプニンは国立音専(国立音楽専科学校:現在の上海音楽学院)唯一の「名誉教員」であった。チェレプニンは「五声音階ピアノ練習曲」(作品51)と「五つの音楽会用練習曲」等の曲を書き、彼の中国音楽と戯曲に対する印象を反映させた。後に日本で楽譜出版のために「チェレプニン・コレクション」をつくり、相次いで賀緑汀の「牧童短笛」、「郷愁」;老志誠の「牧童之楽」、「秋興」;劉雪庵の「三歌曲」、「四歌曲」;賀緑汀の「四歌曲」及びチェレプニン本人と日本人作曲家の作品を出版した。

 1938年春、チェレプニンと国立音専第一期卒業生の李献敏女史はパリで結婚し、国際音楽界に中国音楽作品の影響を広めることに力を尽くした。

 李献敏(1911-1991.11.4)の原籍は広東省(仏山市)南海である。祖父はキリスト教の宣教師であった。彼女は寧波で幼年時代を過ごし、上海崇徳女子中学を卒業した。1928年9月に国立音楽院(国立音楽専科学校が改称:現在の上海音楽学院)に入学し、王瑞嫺に師事した。1930年ザハロフにも師事した。李献敏と喩宣萱、裘復生が国立音専第一期卒業生であった。1933年6月22日、青年会教会で卒業音楽会が開かれた。彼女はショパンの「ハ短調ノクターン」、「エチュード(作品10,No.2)」、サン=サーンスの「ト短調協奏曲」第2、第3楽章、チャイコフスキーの「トロイカ」とファリャの「火祭りの踊り」を演奏し、さらに裘復生とアレンスキーの2台ピアノのための組曲「ロマンス」、「ワルツ」を演奏し、高く称賛された。卒業後、依然としてザハロフの下で学んでいたが、崇徳女子中学で音楽教師の職に就いた。1934年萧友梅が中比庚款委員会に推薦したため、ベルギーに留学することになり、国立音専(国立音楽専科学校:現在の上海音楽学院)卒業生が欧州に行き研鑽を積む最初の人となった。同年10月3日、国立音専卒業生自治会は彼女のために盛大な歓送会を開き、同級生達は次々と称賛の言葉を述べ、附属高校師範科の孫徳志が同級生を代表して国旗を贈り、彼女が祖国の栄光を勝ち取ることを希望した。彼女はリストの「ハンガリー狂想曲」等の3曲をお礼に演奏した。萧友梅の題辞は、「……故に曲を学ぶ時、技術の他にその様式と表情の二点も注意しなければならず、これにより初めて曲全体の精神を知り得る。」(1934.10.29)であった。黄自は李白の詩より「琴心三叠道初成」を書き記して贈った(1934.1.26)。同級の賀緑汀、劉雪庵達は皆お互いに言葉を書き記して贈った。

 李献敏は1934年末船でベルギーに着き、1935年初ベルギー王立音楽院で、著名なピアニストのバスケ(E.Bosquet)よりピアノを学んだ。ブリュッセルでの勉強は不出来であったが、パリに行きコルトー(A.Cortot)の上級クラスに進んだ。その後、パリ音楽院ピアノ教授のフィリップ(L.Philipp)に学んだ。李献敏が持っていた書の中に、国立音楽院(国立音楽専科学校の改称:現在の上海音楽学院)で同郷、同級の学友の洗海星が毛筆で記した一つの題辞がある。「豈能尽如人意/但求無愧我心/臨書共二節/此数語為献敏同学前途祝/併望努力為中国音楽史上不能忘記之音楽家/星海19□□年」。洗星海はさらに毛筆で美しい印章を描いた。この題辞は李献敏がフランスに到着して、二人が会った時に、洗星海が記して贈ったものだと思われる。

 李献敏はチェレプニンと結婚してから、欧州で絶え間なく演奏した。20世紀前半、彼女の演奏の足跡はドイツ、オーストリア、ベルギー、ノルウェー、スウェーデン、エジプト、チェコ等の国にわたり、フランス大統領、ノルウェー国王、ベルギー皇后の前で演奏したこともあった。李献敏はいつも中国音楽の紹介を自分の役割としており、賀緑汀、老志誠、劉雪庵、江文也のいくつかの作品は、彼女の演奏を通じて最初に欧州に紹介された。彼女が中国ピアノ曲を紹介した最も有名な機会は、1947年チェコの首都のプラハで周小燕と共に、チェレプニンが文字で紹介した「中国現代音楽」を演奏したものである。ノルウェーのオスロの「朝刊」の評論は、「李献敏は才能豊かなピアニストで、彼女は現代音楽に通じ、いかにして東方の神秘を解くべきかを理解している!”と記し、彼女の西洋音楽の表現について、ロンドンの「デイリーテレグラフ」は、「卓越した才能を持ち、『西洋音楽』を理解するピアニスト」と記した。1949年1月、アメリカ・シカゴのデ・パウル大学(De Paul University)は彼等夫婦が大学に来て教職につくよう招請し、チェレプニンは作曲を教え、李献敏はピアノを教えた。彼等は1年間の教職を引き受けただけであったのに、引き続いて15年教えることになるとは思ってもいなかった。李献敏はデ・パウル大学で優れた業績を残し、多くの優秀なピアニストを育て、1964年ニューヨークに移った。李献敏はピアニストの立場で欧州に名を知られた、中国の最初の人であり、欧米各国で中国のピアノ作品を演奏した最初の人でもあった。チェレプニン夫婦は国際音楽界に中国のピアノ作品を紹介することに力を尽くし、国際音楽界に中国の現代音楽文明が立ち上がろうとしていることを理解させることに、特別の役割を果たした。

 チェレプニンは中国音楽の前途にことのほか関心を持っていた。彼は、「中国作曲家は中国のために、新しいものを作り出す精神で発展する道を切り開かなければならない。この歩みは既にはじまっており、……これは疑いなく発展すると予想され、音楽活動は中国において必ずや盛んになり、中国作曲家の作品は世界民族音楽の重要な源泉の一つになるであろう。中国は世界で最も人口の多い国であり、この点を考えると、中国作曲家の作品が民族的になればなるほど、世界的な価値を持つはずである」

 ある学者はチェレプニンについて次のように評している。「中国の現代音楽史において、チェレプニンほど中国、中国の音楽、そして中国の音楽家に深く関心を持った外国の音楽家は無かった。彼が中国に滞在した三年間にわたり、中国人の「良知」を目覚めさせるために費やした努力、達成した成果は、現在に至るまで他の外国音楽家の誰も彼に比肩することはできない。」

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2011年12月13日 (火)

ステファン・ハルパー『北京コンセンサス──中国流が世界を動かす?』

ステファン・ハルパー(園田茂人・加茂具樹訳)『北京コンセンサス──中国流が世界を動かす?』(岩波書店、2011年)

 新興国の経済的台頭が著しい一方で欧米など西側諸国の経済の地盤沈下が目立つ近年の国際情勢。それは単に経済的脅威ではなく政治社会体制の理念というレベルにおける脅威として本書は捉える。すなわち、新興国の間では西側の市場経済‐民主主義というモデル(ワシントン・コンセンサス)ではなく、中国の市場経済‐権威主義体制という国家資本主義モデル(北京コンセンサス)が広まり、今後の国際秩序に影響するという論点を示し、それを踏まえてアメリカ政府はどのように対応すべきかを提言するのが本書の趣旨。

 訳者解説でも言及されているように、本書では中国イメージは一面的に捉えるわけにはいかない複雑さがあるとたびたび指摘されるわりに、「国家資本主義」という中国イメージは非常に明快である。イアン・ブレマー(有賀裕子訳)『自由市場の終焉──国家資本主義とどう闘うか』(日本経済新聞出版社、2011年)とほぼ同様の内容で、これといって目新しい印象はない。むしろ、近年よく見かける中国論の一つの典型的議論がまとまっているものとして読む方が良いだろう。日本の読者にとっては、アメリカ政府内における対中政策の動向についてパンダ・ハガー(親中派)とパンダ・バッシャー(対中強硬派)の二つのグループとしてまとめているところが役立つだろうか。

(以下はメモ書き。※は私のコメント)
・国家資本主義ではビジネス上の決定が政治アクターによる誘導を受けやすい→経済原理よりも政治的動機による投資。
・中国の対外援助政策や経済活動→人権蹂躙や政治腐敗の目立つ独裁政権を援助。中国の進出著しいアフリカ諸国を例に取り、貧困から抜け出すため経済発展を進めるには原材料輸出、低品質商品の市場という現在の立場から脱却する必要があるが、中国との取引はそれを阻害している。中国は財力にものを言わせて途上国との関係を構築していると指摘。
※他方で、経済発展のためにはインフラの整備が必要→アフリカ諸国における中国への原材料輸出は物々交換的な形でインフラ投資に役立っているという指摘もある。開発経済学の方ではアフリカにおける中国の経済活動のマイナス面ばかりでなくプラス面もフェアに評価しようという動向もあることに留意。例えば、Deborah Brautigam, The Dragon’s Gift: The Real Story of China in Africa(Oxford University Press, 2009→こちら)、Sarah Raine, China’s African Challenges (Routledge, 2009→こちら)、Ian Taylor, China’s New Role in Africa,(Lynne Rienner, 2009→こちら)などを参照のこと。
・中国は国内の不満をそらすためナショナリズムと経済発展の持続が必要不可欠。中国の経済発展は国家資本主義体制によって推進されている以上、西側の基準に合わせてリベラルな国際秩序に同意することはあり得ない。この点で中国に対して幻想を抱くべきではないと主張。
※他方で、例えば第一次・第二次世界大戦におけるドイツや革命初期のソ連が既存の国際秩序をひっくり返すことで勢力拡大を狙ったのとは異なり、現在における中国の台頭は既存の国際ルールの枠内にある、したがって必要以上に脅威視すべきではないという議論があるが(G. John Ikenberry“The Rise of China and the Future of the West : Can the Liberal System Survive?” Foreign Affairs, 2008 Jan/Feb)、本書はこうした立場に対しては批判的ということになる。
・中国は独自の思惑で国際秩序に参加しているという現実を直視すること、またアメリカは依然として覇権国であるという立場を活用すべきことを主張。もちろん、アメリカ一国ですべてが解決できるわけではないが、アメリカなしでは問題解決はできない。アメリカは他国(インド、ロシア、日本など)の支援を得て多国間協調の枠組みをつくり、そこを通して中国へ働きかけていくべき。この際の国際的合意に向けてイニシアティヴが取れるかどうかがカギとなる。

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武田雅哉『万里の長城は月から見えるの?』

武田雅哉『万里の長城は月から見えるの?』(講談社、2011年)

 万里の長城は月から見える──長城を紹介するときに枕詞のように使われるこの言い回し、そう言えば私自身の頭の中でも自然に馴染んでいた。しかし、いくら距離的には長大だからと言って、あの程度の幅しかないものが本当に月から見えるのか…?なんて疑ったことはありません。と言うよりも、どうでもいいじゃん、そんなこと。

 結論から言おう。もちろん、月から見えるわけがない。ふーん、あっそ、では済まされないのは中国です。何しろ、中華文明の沽券に関わる重大疑惑ですから。神舟6号に乗って見下ろした中国人宇宙飛行士が「万里の長城は見えなかった」と発言したのが論争の始まり。小学生向け教科書に掲載された長城礼賛の詩文にも「月から見える」というフレーズがあり、子供にウソを教えてもいいのか!と「教科書問題」にまで発展。いやはや、シャレでした、って笑い飛ばすわけにはいかんのか。

 では、そもそもこんな言い回しが定着したのは一体どうしたわけなのか、そこを探究するのが本書のテーマ。要するに、欧米の旅行者が中華文明のエキゾティシズムを誇張するために用いたリリカルな表現が、いつの間にか「真実」へとすり替わってしまったということらしい。いったん定着した自尊心はなかなか撤回できないものです。

 いつもながらにユニークな(キワモノ的な?)テーマで中国関連の古文献や図像類を渉猟するのが得意な著者の腕の見せ所(例えば、『翔べ!大清帝国』[リブロポート、1988年]、『猪八戒の大冒険』[三省堂、1995年]、『よいこの文化大革命』[廣済堂出版、2003年]とか面白かった)。万里の長城が月から見えようが見えまいがどうでもいいけど、そのどうでもいいテーマをグイグイ引き延ばして一つの中国文化論にまで仕立て上げてしまった手際の良さには感心。

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吉村昭『海の史劇』

 NHKドラマ「坂の上の雲」もようやく二〇三高地を占拠、ロシアの旅順艦隊を壊滅させ、クライマックスの日本海海戦ももう間もなく…という中で、ふと思い立ち、吉村昭『海の史劇』(新潮文庫、改版、1981年)を手に取った。

 司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫)は私自身好きな作品で、初めて読んだ中学生の頃から何度か読み返している。この作品がうまいなあ、と思うのは秋山好古・真之と正岡子規という同郷の幼馴染三人を主軸に据えた着眼点。第一に、彼ら及びその人物的連関を幅広くたどっていくことで政治・軍事から文学まで明治という時代のあり方を横断的に見ていけること。それはすなわち、欧米由来の「近代」文明に向かって各々がどのように対峙したのかという問いと密接に結びついている。第二に、松山という四国の一隅の出身者に過ぎない彼ら三人がいかに国家的事業のメインストリームに絡まっていくのか、その「出世」は別の地域の出身者にも別様な形であり得たことも当然に含意されており、総体として「国民」形成の「物語」ともなっている。他方で、「近代」とは? 「明治国家」とは? このように大上段に振りかぶった問題意識で一貫した司馬の語り口は時に饒舌でもあり、(司馬自身の意図とは関わりなく)「○○史観」というテーゼにまとめたがる人々も後に生み出されてくることになる。

 同様に日露戦争を題材としつつも、司馬の『坂の上の雲』が近代日本という「大きな物語」を描き出す語り口に読み手を引きずり込んでいく力があるとすれば、吉村の『海の史劇』はむしろ出来事の記録的叙述に徹した堅実な筆致に特徴がある。もちろん史料の取捨選択という点で史実そのものの描写などあり得ないのは歴史学のイロハではあるが、具体的な事実関係を並べながら当事者の焦りや葛藤を浮き彫りにしていく手法は、吉村の禁欲的に抑えた筆致と相俟って戦争のプロセス全体として張りつめていた緊張感をいやが上でも高めていく。

 『海の史劇』の主役はロシアのバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊を改編した第二・第三太平洋艦隊)であるが、人物的に強いて挙げるとすれば艦隊司令長官のロジェストヴェンスキー提督ということになろうか。三十数隻もの大艦隊を引き連れてバルト海を出航、アフリカ南端を回ってインド洋を横切り、極東までの遥かなる航路は当時の技術水準でも非常な難事に属する。その上、日英同盟に従って日本を支援する世界第一の海軍大国・イギリスの妨害にたびたび悩まされて補給もままならず、日本の水雷艇が奇襲攻撃を仕掛けてくるのではないかと脅え続けていた。ロシア本国からの指令は見当はずれ、旅順艦隊全滅の報に士気は下がる一方…。日本海海戦における日本海軍の圧倒的戦勝は軍事史的に見て例のないものであり、その華々しさに目を奪われがちではあるが、敗れたバルチック艦隊も相当な困難を切り抜けてきたこともやはり特筆しておかねばならない(もちろん、その困難は『坂の上の雲』でもきちんと描かれていることは付記しておく)。

 戦争という大きな事件に絡めとられた一人一人の姿、その人間のドラマを事実関係の具体的な描写を通して掘り起こしていこうとするところが吉村の記録文学の持つ魅力であろう。例えば、バルチック艦隊がたどり着いた先の決戦で瞬く間に壊滅してしまうのは悲劇であるが、その悲劇の中でも死を決して勇戦するロシア将兵たちの姿が描かれる。彼らの勇敢さに敬意を表し、何とか助け出そうとする日本側将兵の姿もあった。そういえば、日本側の国際法規遵守という以上の礼儀正しさが昭和期に入って失われてしまったのはなぜかという問いは、司馬が『坂の上の雲』の執筆に着手した動機の一つであった。

 『海の史劇』では日露戦争後における後日譚の叙述は簡潔に進む。ロシア側にはまだ余力がある一方、日本は財政・兵力ともギリギリの戦いを強いられており、譲歩してでも戦勝を契機にただちに講和へと結びつける切迫した必要があった。他方で、日本軍の連戦連勝の報道は国内の民衆を沸き立たせており、彼らにとって日本の譲歩など思いもよらない。講和方針を示した政府に対して民衆は激昂し、焼き討ち事件が起こる。日露の国力差を冷静に認識して講和を進めようとする政府と対外硬の国民世論とのギャップ、それを横目で睨みながら苦渋の外交交渉に臨む小村寿太郎の奮闘は、『ポーツマスの旗』(新潮文庫、1983年)で描かれる。

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2011年12月 8日 (木)

子安宣邦『「宣長問題」とは何か』、菅野覚明『本居宣長──言葉と雅び』

 本居宣長の極めて緻密で実証的な文献学的方法と、他方で狂信的な古代主義・日本主義とが並存していることの不可解が宣長論における一番の問題点のようだ。例えば、『古事記』を注解するとき、文献学的方法を厳格に推し進めていった結果として分からないところに直面する、そこを一転して信ずるしかないと飛躍してしまう彼の態度をどのように考えたらいいのか。
 子安宣邦はそうした矛盾を捉えて、神の国は尊いから尊いのだといった類いのトートロジカルな自己言及的言説を宣長の語り口に見出す。そして、「漢意」批判に見られる宣長の排他的言説も合わせて、日本精神なるナショナル・アイデンティティーをめぐる〈正しい言説〉が神話として再生産されていくメカニズムの契機を指摘し、それが近代においてもイデオロギー的に作用する「宣長問題」として把握していく(子安宣邦『「宣長問題」とは何か』[ちくま学芸文庫、2000年]など)。
・「近代において〈正しい言説〉としての神話を構成し、そのことを通じていっそう自己(日本)の同一性をめぐる言説を近代において再生させる、そのようなものとして宣長における国学的言説の成立をとらえることである。…いいかえれば近代において絶えず再生される自己言及的な、あるいは自己同一性をめぐる言説、すなわち「宣長問題」を生じさせる言説の宣長における原初的な成立を闡明することである。」(51ページ)
・「国学は「異国」を措定し、その反照としての自己(日本)へと向かう。国学はその自己への言及的な言説として、まさしく自己正当化しながら、しかしその自己のありようを文節化する言語は、「異国」のさまではないという否定の言語なのである。くりかえしていえば、国学は異質な他者の反照として自己に向かう。しかしその自己のありようは否定的にのみ語られる。この自己のありようを文節化する言語の欠如が、新たに自己の同一性を形成することを要求する。」(66ページ)

 しかし、宣長における上述の二面性は、単純に飛躍による信仰と考えてしまっていいのだろうか。菅野覚明『本居宣長──言葉と雅び』(新装版、ぺりかん社、2004年)はむしろ、宣長の文献学的な態度が一貫していると捉えている。つまり、テクストそのものに向き合う宣長にとって、厳格な考証を進めた結果として分からないところに直面したとしても、そのテクストが厳然として存在する以上、そこから離れるわけにはいかない。不合理なテクストであっても、そのテクストのあるがままを受け止めるしかない。そうでなければ、読み手の勝手な解釈をテクストの中に持ち込むことになってしまう。
・「宣長は、あくまでも記述されていることがらのその記述に即して、ことがらの意味を考えようとする立場を保持しつづける。宣長の実証性は、そういうところにあらわれているのである。それに対して、記されてあることがらを、記述内部の微証を無視して、いきなり神はこれこれであるはずだという外在的・主観的推測をもって記述自体を批判するのが八五(引用者注:『石上私淑言』八五)の問いにあるような(即ち「漢意」)考え方なのである。八五条における宣長の批判的言説は、まさのそうした記述無視の非実証的言説に対する批判なのである。宣長の考えているのは、客観的な文言に即さない議論は無意味だということである。文言に即すというのが宣長の基本的方法であり、もし文言を批判する場合でも、それが文言に即した客観的な根拠に基づかないのであれば、どんなに道理にかなっているように見えても、結局のところ信ずるに足らぬ空論・臆説に過ぎないというのである。こうした宣長の考えが攻撃的に働くときには、文言の存在をくつがえせない以上は、それがどんなに不合理に見えても、そのまま受けとめ従うほかはないという論になる。後年の古道論にしばしばみられるこうした論法は、しかし単に人間の知の無効を言うだけの消極的な論なのではない。『古事記』の記述に対する、一見すると盲目的な宣長の信仰も、実は、ただ書かれていることを信ずる態度なのではない。そこにはその記述の正しさを判定する客観的基準が、はっきりとしかも実証的に把握されているのである。」(166~167ページ)

※以下は「もののあわれ」論についてメモ。
・「宣長があわれという語にこだわったのは、それが元来は歎息であり、思惟内容ではなく情の動き・振幅をあらわすニュアンスを持った語だったからである。そして、歌の発生を語るために、情の振幅をあらわす語を宣長が必要としたわけは、思いの内容を語る普通の言葉と区別された領域において歌を基礎づけようとする狙いを宣長が持っていたからなのである。言い換えれば、あわれという概念は、歌を、心の内容を説明的に語る普通の言葉とは別の、心の深さ・動き・振幅を語る言葉として位置づけるために抽出されてきた概念なのである。」(184~185ページ)
・「「あはれあはれといひて歎じたればとて、何の益もあらねども」(石上私淑言・一二)とか、「無用の詞のあや」(同・一四)といわれるように、政道教誡的な観点から見れば全くの冗語・無駄に過ぎない世界、いわば効用的言語からはみ出した間投詞の世界を、宣長はまさに自立した一つの世界として発見したのである。その限りにおいて、宣長は、政道教誡とは全くかかわりのない独自の領域を確保しえたといってよい。」(186ページ)
・「宣長が発見したあわれの領域とは、一言でいえば歎息の世界である。それは、心に即していえば、道理や意味とは別の、感情の動きそのもの、深さそのものに対応する領域である。この領域は、効用論の観点から見れば、何の意味も持たない無益・無用の世界である。それゆえ、その世界は、儒教的思考の枠組における近世の人間観の中では、正当な位置づけをあたえられないまま、無意味な世界として視界外に放置されていた。…宣長は心の動きそのものをあわれとして自立させることによって、それまでの歌論や儒教的詩歌論ではたかだか無用の飾りとしておとしめられてきた意味の間隙の世界を、詞の文という形で概念化し、そこに自立した意味や価値を探る足場を築いたのである。のみならずそれは、それまでの儒教的な人間観そのものをも逆に捉え返していく、新たな人間像構築の原点となりうる可能性を秘めたものでもある。儒教的人性論の中では、意味の陰影に過ぎなかった心の振幅・深浅が取り出され、独立したものとされたとき、それは儒教的人性論の不備を批判し捉え直していくものとなるのである。後年の古道論の中で展開される宣長の「真心」論が、物のあわれ論の延長上にあることはこれまでたびたび指摘されてきたところである。このとき、宣長が人間の真心として、儒教的な心の捉え方に対置したものは、まさに、動くことを本性とする心であった。」(188~190ページ)
・「宣長のいうのは、あわれの領域は、決断や意味づけとは本質的に無縁なのだということなのである。本当の心、つまり直接にものごとと触れる心のあり方は、決断や次につづく行為の契機を本質的に含んでいない。それ自身ただはかなく無意味に揺れ動くだけのものである。」(209~210ページ)
・「物のあわれを知る心は、儒教的な心のように実体化して考えられた心ではない。それは、物事に触れてあることそのものとして捉えられた心である。したがってそれは、効用的意味の文脈においては概念化できない、いわば物事そのものへの感心として見られた心である。宣長が問題にしているのは、意味として把握され直す以前の、直接触れてある物事の感触である。」(229ページ)
※一文字一文字の漢字において自立的意味をあらわす語の羅列として漢文を理解する当時の日本人の漢文的素養→文脈的あわいを分節的に切断して、名詞的意味を重視しながら解釈していく読み方が、日本語古典の読みにまで浸透していることを宣長は指摘。彼によれば、漢籍は名詞的意味を重視して要素的意味の集合によって表現、対して日本の雅語は文脈を重視という問題意識。
・「宣長の漢意批判の本質は、例証に基づかない推論の否定ということに尽きるのである。」(326ページ)
・「宣長は、『古事記』は純粋な日本語そのものであり、世界との第一次的な触れ合いのさまそのものの客体化されたものと考えたのである。『古事記』は道理によって捉え直したものではなく、世界のありように触れてある形そのもの、即ち捉え直す以前の、世界のありのままにそのまま従い、受けとめた形であると考えたのである。」(331ページ)
・「宣長にとっての『古事記』の原典性は、少なくともその正しさを言葉の定格性という形で客観的に提示することを介して主張されている」(346ページ)

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2011年12月 6日 (火)

丸山眞男『日本政治思想史研究』

丸山眞男『日本政治思想史研究』(新装版、東京大学出版会、1983年)

・言わずと知れた、戦後のアカデミズムで日本思想史研究のたたき台となった古典的研究。近世初頭、幕藩体制を支えるイデオロギーとして正統的地位を占めた朱子学、その教義の思想圏内部における自己分解過程として伊藤仁斎や荻生徂徠、さらには逆説的反転としての本居宣長の国学へと至る展開を軸として江戸期政治思想史をスケッチ。

・政治的=社会的秩序が天地自然に存在していると考える普遍的教義としての朱子学的思惟(ゲマインシャフト的思惟)に対して、「自然」と「作為」との弁別によってそうした社会全体を覆う道徳的規範の拘束から自由意志の主体としての人間を析出した徂徠学的思惟(ゲゼルシャフト的思惟)への転換、そこに主体的人間によって担われる「政治」の契機を見出していくのが丸山の議論のポイント。

・たまたま子安宣邦『「事件」としての徂徠学』(ちくま学芸文庫、2000年)を読んでいたら、この本は、丸山眞男『日本政治思想史研究』が荻生徂徠を軸に描き出した「思想史」は恣意的な虚構だ、という問題意識から出発しており、再確認のため改めて手に取ってみた次第。確かに、江戸思想史研究が進んだ現在において丸山の議論は鵜呑みにはできない。むしろ丸山が江戸期思想に仮託しながら「近代」なるものを語りたかったその意味や動機を彼が生きた時代状況の中で考えていくという読み方になる、つまり江戸思想史というよりも丸山眞男論というコンテクストの中で本書は読まれることになるのだろう(本書の元となった論文は戦時中に書かれた)。

・新装版に収録された「英語版への著者の序文」を見ると、(a)戦時中にやかましかった「近代の超克」論への反感、(b)伝統主義者が強調するほど維新前の日本は「近代」とは無縁な「東洋精神」ばかりではなかった、徳川時代の思想にも「近代」へと続く発展が底流していたことを指摘したかった、という趣旨のことを述べている(398ページ)。丸山は発禁本が読めない中、福沢諭吉のテクストに新鮮な軍国主義批判を読み取って一人溜飲を下げていたらしいが、それと同様の精神状態で本書に収録された論文を書いていたのだろう。

・第2章では次のように問題意識を明示している。「いはゆる開化思想が直接的な思想的系譜に於て「外来」のものであるにせよ、外のものが入り込みえたのは、既に在来の「内のもの」が外のものをさしたる障害なく迎へうるだけに変質してゐたからにほかならない。…事実、もし吾々が表面に現はれた結論だけに眼を奪はれずに、その結論に導いた体系的構成に立ち入つて見るならば、徳川期思想の思想的展開過程のうちに、一見それと深淵を以て隔てられてゐるかの如き維新後の「近代」思想の論理的鉱脈を多々探り当てることが出来る。」(196~197ページ)

・蛇足ながら、伝統拘束的で停滞した前近代社会の中にも「近代」へと接合される素地としての内的発展があった、その意味でアジアにおける「近代」は外発的なものとばかりは言えない、という上記のロジックは、姜在彦による一連の朝鮮近代思想史研究にも共通していることを思い浮かべた。ただし、丸山の場合には戦時下に荒れ狂った反「近代」的言説に対する嫌悪感が動機であったが、姜在彦の場合には、朝鮮王朝時代の停滞性→外からの圧力(すなわち、日本による植民地支配)による外発的近代しかあり得なかったという言説に内包された植民地肯定論への反論が動機であった点が異なる。

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