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2011年11月30日 (水)

姜信子『棄郷ノート』

姜信子『棄郷ノート』(作品社、2000年)

 「棄郷」という表現は両義的だ。言葉のニュアンスとしては能動的・意図的に自分の「故郷」を棄てるという印象を受けるが、本書に登場するのはむしろ、自分の意図とは関係のない事情、もっと言うと現代史の政治的転変に翻弄されるまま異郷へと押し出された人々──ディアスポラが中心である。

 在日韓国人として生まれた著者がめぐるのは、自分のルーツ探しで一族の墓所を訪ねて行った韓国、さらには上海、旧満洲と、韓国人が足跡を残した東アジア一円に広がっていく。行く先々で出会い、身の上話を聞き取っていく著者自身、「在日韓国人」としての立場性から日本に「故郷」と言うほどの居心地の良さを感じられず、かと言って韓国も「故郷」ではない、そうしたアンビバレンスを抱えている。だからこそ、出会った一人ひとりのパーソナル・ヒストリーへの感じ方はセンシティヴ、それは安易に共感するというのではなく、違和感によって自身の内面で感じたズレをもこまかに捉え返していく。自分の生身の感受性や葛藤を率直に打ち出しながら書き綴った現代史ノンフィクションと言えるだろうか。

 安昌浩、金九、崔南善など近現代韓国史に多少とも馴染みがあるなら見覚えのある人物も時折顔をのぞかせる中、著者の旅路の導き手となるのは、李光洙──韓国近代文学の重要人物で、崔南善と同様に民族運動家としての履歴を持ちながらも「民族改造論」を発表、日本の植民地支配に協力した「親日派」として指弾された、あの人物である。

 朝鮮半島にとっては暗い時代であった20世紀前半、弱肉強食の「力」がものを言った世界、そのただ中で無力さを噛み締めるしかなかった植民地支配下の苦境。「力」への渇望と現実の無力さとのギャップを目の当たりにした李光洙による日本への同化の主張には、同時に実力養成をした後に民族独立を求めようという意図もあったと言われる。つまり、弱者生き残りのための戦術的な選択肢であった「親日行為」。ただし、それは彼の主観的意図の中では民族主義であっても、海外で活躍していた亡命独立運動家たちが日本の敗戦により帰国すると、彼の主張の正当性は当然ながら失われる。残るのは、「親日行為」をしたという事実による負い目ばかり──。

 現実政治の位相転換の中で指弾される側に陥った「親日派」。しかし、彼らだって好き好んで「親日派」になったわけではあるまい。彼らには彼らなりの意図があり、葛藤があり、そして絶望があった。政治的正統性を軸とした単純なロジックで裁断されると、人それぞれにやむを得ない立場の中で抱えていた葛藤は陳腐な悪意へと矮小化されてしまう。それでは見えてこない葛藤のドラマ、本書の筆致はそうしたところにも目配りされていくところに私は関心を持ったが、問題はそれだけではない。

 現実政治の位相転換の前後を通じて、「力」を求める「民族」という病は実は続いているのではないか? その具体例の一つの姿を李光洙に見出すのが本書の問いかけである。ディアスポラの足跡をたどり、李光洙が絡め取られた「民族」という病とその落とし穴を捉え返しながら、(今やありふれた言い回しではあるが)この越境の旅路そのものに「ナショナル・ヒストリー」の解きほぐしがほのめかされてくる。

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