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2011年11月19日 (土)

ジグムント・バウマンについて

 ジグムント・バウマン(Zygmunt Bauman)はポーランド出身でイギリスに亡命した社会学者。1925年生まれだからすでに80歳代も半ばを過ぎているが、今でも執筆意欲は旺盛で新刊は相次ぎ、それに応じて邦訳の数もここ数年で随分と増えてきている。近年はたくみな比喩も織り交ぜながら現代社会の様相を描き出す文明評論的なエッセイが多い。リーダブルな筆致が世界的に広く読まれている理由の一つであろうが、「リキッド・モダニティ」という彼の分析視点が現代社会を考える上で勘所をおさえている点がやはり大きい。

 いわゆる「近代化」には個人の自由を権利として認め、これまで人々を因習的に束縛してきた伝統社会から解き放っていく力学が働いていた。他方で、析出された個人がバラバラにならないよう一定の共通枠組み(例えば、国民国家や企業システムなど)へと括りつけるという反作用も同時に進行する。つまり、「近代」という時代は個人の分散化と拘束の両面を持っていた。しかし、近年は前者の分散化の比重がより強まることで「近代」が質的に変容しつつある。

  しばしば見られる「ポスト・モダン」という表現は「近代」が終わったというイメージを与えかねない。そこでバウマンは、現在の時代はむしろ「近代」の分散化の原理が徹底された時代であるという意味合いを明確にするため、かつての拘束としての側面が強かった時代、すなわち「ソリッド・モダニティ」(solid modernity、固形的近代)と対比させる形で「リキッド・モダニティ」(liquid modernity、液状的近代)という表現を用いる(森田典正訳『リキッド・モダニティ──液状化する社会』大月書店、2001年)。「近代」をこのように捉える二分法は、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの「前期近代/後期近代」、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの「第一の近代/第二の近代」という区分に対応しており、彼らはしばしば同じ関心を持つ者同士として著作の中で互いに言及し合っている。

 バウマンが「リキッド・モダニティ」と呼ぶ現在の社会には、もはや人々が求めるべき確固たる目標はない。激変する環境に適応すべく、個人一人一人もまたカメレオンのように変わり続けなければならない。そればかりか、競争で優位に立つためには率先して変わる努力を続けなければならない。何のために、ではなく、変化そのものが、目新しさそのものが価値を持つ。社会レベルでも、個人レベルでも、固定的な目標は嫌われる。彼が変わるから私も変わり、私が変われば彼も変わる、そうしたエンドレスのゲームが繰り広げられる社会。従って、流動的、液状的というイメージが浮かび上がってくる。

 かつてのソリッドな近代では経済効率性の向上による豊かさなり、自律的個人が対等に睦みあうユートピアなり、何らかの究極目標が了解されていた。しかしながら、「解放のために制限を打ち破るという、すぐれて近代的な情熱によって絶えず突き動かされながら、わたしたちはもはや、最終的な意図や目的についての明確なヴィジョンをもってはいないのである」(奥井智之訳『コミュニティ──安全と自由の戦場』筑摩書房、2008年、106ページ)。リキッド・モダニティにおいては、みんなに共有されたヴィジョンもないまま、各個人が自分自身の条件に合わせて取り合えずできることを手探りし続けるしかない。

 リキッドな社会には市場原理主義が最も適合的であり、その動きが国境からあふれ出してグローバリゼーションが進む。グローバリゼーションと言った場合、時間/空間の短縮、移動やコミュニケーション手段の無制約などによって、全世界が均質化していく傾向が指摘される。個人がグローバルなレベルと直結することにより一人で達成できることの範囲が格段に広がった。トーマス・フリードマン『フラット化する世界』はそうした意味でのグローバリゼーションの肯定的な側面に注目して話題となったが、バウマンは逆に負の側面に目を向けている。

 リキッドな社会において、個人レベルでの自由は格段に広がったように見える。しかし、“自由”は常に逆説をはらむ。“自由”な個人としての力を行使できるのはほんの一握りの人々に限定される(“事実上の個人”)。多くの人々は生物的に人間であるという一点において“自由”の可能性を持つとみなされるが、実際には困難である(“権利上の個人”)。成功者は容易に国境を越えてコスモポリタンと呼ばれるが、実際には他国の同様の人々と付き合っているだけで、意外と人間関係は閉ざされている。世界が広くなったとしても、移動できるだけの条件の備わった人々と欠如した人々との間で大きな断絶が生じ、前者は思いのままに世界を動き回る一方、後者は土地に縛り付けられる(ローカル化)、もしくは難民など不本意な形で追い立てられる。市場化の動きが全世界を席巻する一方、個々の生活世界では自律的な決定権が奪われる(すなわち自分たちの生きる意味やアイデンティティが剥ぎ取られる)。このようにグローバル化の進展が、動ける人/動けない人、自己決定できる人/できない人、といった非対称性を生み出し、世界が二分化・再階層化されていく趨勢が指摘される(中島道男他訳『廃棄された生──モダニティとその追放者』昭和堂、2007年。澤田眞治・中井愛子訳『グローバリゼーション──人間への影響』法政大学出版局、2010年)。

 こうした形で進行するリキッド・モダニティは、個人をソリッドな体制から解き放つことで各自の可能性を一層広げるのに寄与しているが、他方で社会はまさにその流動性によって危険と矛盾を生み出しつづける。そして、生み出された困難は「個人の生き方の問題として伝記的に解決される」(ウルリッヒ・ベック)。つまり、社会的矛盾は個人の自己責任言説へとすりかえられてしまうため、個人レベルでの負荷が極めて厳しい社会となる。どんな事情があろうとも、出自も含めてほんの偶然の不幸に過ぎなかったとしても、はじきとばされたこと自体がお前のせい、ということになる。結果として市場のプレイヤーとして振舞えるか否かだけが問題となるのであって、それまでの経緯は一切問われない。個人中心なので国家による再配分・再教育の機能を正当化する根拠も乏しい。しかし、はじき飛ばされた人々の抱く不満は潜在的な脅威となる。ゲームのプレイヤーを守るため、難民や貧困層に対しては、社会内において統合を図るよりも、隔離という対策を取る方が効率的となる。つまり、社会的排除の問題がここに現われる。

 このように描き出された現在進行形のリキッド・モダニティには悲観的な様相が濃厚であるが、だからといってかつてのソリッド・モダニティに郷愁を寄せるわけにはいかない。合理的組織モデルが社会の隅々にまで行き渡ることで個人レベルのイニシアティヴが失われていたところにソリッド・モダニティの問題点があり、バウマンはその極限的な具体例をナチスによるホロコーストに見出している(森田典正訳『近代とホロコースト』大月書店、2006年)。

 アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アレントが、ナチスによるホロコーストのおぞましさと、その実行責任者であったアイヒマンのあまりに凡庸な人物像とのギャップから“悪の陳腐さ”という表現を使ったことはよく知られている(『イェルサレムのアイヒマン』新装版、大久保和郎訳、みすず書房、1994年)。こうしたアレントによる問題提起に対して、バウマンは社会学の立場から考察を行なう(彼自身もユダヤ人であり、またゲットーから生き残った妻ヤニーナの手記を読んだことが『近代とホロコースト』執筆の動機となっているらしい)。彼はユダヤ人問題の歴史的特殊性としてホロコーストを片付けてしまうのではなく、“合理性”を特徴とする近代文明そのものが構造的に内包している問題が、ホロコーストという極限状態を通して浮かび上がったのだという論点を示している。

 ヴェーバー的な言い方になるが、“官僚制”を理念型とする組織の第一の特徴は分業である。いま自分が取組んでいる仕事が最終的にどのような結果をもたらすのか分からない、仮に分かっていても自分には関係ない、そのように思える距離感があると、眼前にいない者に対して同情はわかないし、同時に憎しみもない。ホロコーストにおいて必要だったのはユダヤ人に対する敵意ではなく、そうした道徳的麻痺であったという。第二の特徴は効率追求である。自分に与えられた仕事を効率よくこなすこと自体に職業的達成感を実感していると、最終的にもたらされる結果への道徳的責任が、自分が果すべき当面の仕事への技術的責任に置き換えられる。各自が自分の仕事に一所懸命に取り組めば取り組むほど殺人組織そのものが自己展開していくという逆説があった。このように行為と(最終的な)目的とが分離することですべてが量的な問題に還元され、それがユダヤ人という対象の非人間化につながった。それこそアイヒマンがいみじくも言い放ったように「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計上の問題に過ぎない」。

 組織経営の効率性によって現代の我々は大きな利便性を得ているが、それが使い方によってはホロコーストを可能にしてしまったし、また制度内在的にホロコーストの出現を食い止める手段を我々は持っていないという不安。「合理性が行動の能率的調整手段として成功するための根本条件は、道徳性の抑圧であった。また、そこからは、日常的な問題解決行動を完璧な形でおこなうために使われる一方で、合理性にはホロコースト型の解決行動を生む能力があることもはっきりする」(前掲書、39ページ)。つまり、非合理的な価値が目的であっても、いったんインプットされてしまうと、それを合理的かつ大規模に遂行してしまう組織の暴走の可能性にソリッドな近代の究極的なアポリアがあった。「人類の記憶に残るもっとも驚異的な悪は秩序の消滅でなく、秩序による安全で、完璧で、絶対的な支配の結果として現れることが、突然、明瞭となった。それは理性を失った暴徒の所業でなく、制服を着用し、従順で折り目正しく、規則に従い、指示を一字一句守る男たちの仕業であった。この男たちも制服を脱げば、けっして悪い人間ではない。彼らもわれわれと同じようにふるまう。彼らにも愛する妻がおり、大事にする子どもがおり、そして、悩めるときには助け、慰める友人がいる。制服に袖をとおした瞬間、彼らは殺し、ガス中毒死させ、銃殺に立ち会い、誰かの愛する妻である女、誰かの大事にする赤ん坊の子どもを含む、何千人をもガス室に送るという信じがたい行動にでる。…ホロコーストとその実行者にかんする知識から得られる戦慄の結論は、「これ」が場合によってはわれわれにも起こるかもしれないということでなく、われわれもこれをおこないうるということである」(前掲書、197~198ページ)。こうした合理的な形で暴力が実行され得たソリッドな段階から次へ進んだと考えるなら、リキッドな近代も必ずしも全否定される必要はない。

 リキッド・モダニティの前提となる個人のアトム化という問題意識を持った人びとの間では、コミュニティという形で横の絆を回復することで克服を目指そうとする見解もあるが、こうした議論に対してバウマンは批判的である。“コミュニティ”への帰属意識が共有されておれば相互扶助の可能性は保てるが、それを崩してきたのが他ならぬ“近代”であった。個人を取り巻く不安定な波に巻き込まれていることに気付いても、一人の努力ではどうにもならない。関係性の回復を求め、“コミュニティ”を再評価する動きが始まるのも当然と言えば当然である。しかしながら、「現実にある個人の弱さやもろさを、コミュニティの(想像上の)潜在力に作り替えることで、保守的なイデオロギーや排他主義的な語用論が生み出される」(前掲『コミュニティ』、138ページ)。もはや失われてしまった共同性を復活させようとしても、外への排外主義、内なる個人への抑圧というまた別種の問題が生じ得る。アイデンティティ・ポリティクスの陥穽がぽっかりと開いており、“コミュニティ”への忠誠心を利用して一定の政治目的に人々を動員操作する可能性が現われることにバウマンは注意を促している。こうした点では、インド独立時におけるヒンドゥーとムスリムとの間に起こった激しい暴力を目の当たりにした実体験を持つアマルティア・センやガヤトリ・スピヴァクがコミュニティへの帰属意識を強調する議論に対して懐疑的な見解を示しているのと共通するだろう(アマルティア・セン『アイデンティティと暴力』、ガヤトリ・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』)。

 バウマンは『幸福論──“生きづらい”時代の社会学』(高橋良輔・開内文乃訳、作品社、2009年、原著タイトルはThe Art of Life)でレヴィナスへの共感を示している。不確実性の中でこそ、内的な自発性に基づいて選択を行なうのが“道徳”であり、自分自身が確信している道徳感情によって後悔しない振る舞いを取るところに“幸福”なるものが見出される。例えば、ナチスに迫害されたユダヤ人を危険も顧みずに匿ったポーランド人の出身背景は様々で、彼らがなぜそのような行動を取ったのか、そこに社会的因果関係は何も見出せないのは魅力的な謎だという指摘が目を引く(188~194ページ)。

 バウマン言うところの“リキッド・モダニティ=液状化した近代”によって個人が目まぐるしく“変化”を迫られている中でも、個人の側にそうした強制に納得できない、従順にはなれない何かがある。それを様々な論点を提示しながら間接的に指し示し、読者自身に自分なりのあり方を考えさせようというところにバウマンの意図があると言えるだろうか。いずれにせよ、こうした「自由」な現代社会が抱えるプラス面・マイナス面の両方を「リキッド・モダニティ」という視点で捉え返しながら、それでもなおかつ人間が生きていく根拠は何であるのか問い続けているところにバウマンの議論の重みがある。

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