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2011年11月

2011年11月30日 (水)

姜信子『棄郷ノート』

姜信子『棄郷ノート』(作品社、2000年)

 「棄郷」という表現は両義的だ。言葉のニュアンスとしては能動的・意図的に自分の「故郷」を棄てるという印象を受けるが、本書に登場するのはむしろ、自分の意図とは関係のない事情、もっと言うと現代史の政治的転変に翻弄されるまま異郷へと押し出された人々──ディアスポラが中心である。

 在日韓国人として生まれた著者がめぐるのは、自分のルーツ探しで一族の墓所を訪ねて行った韓国、さらには上海、旧満洲と、韓国人が足跡を残した東アジア一円に広がっていく。行く先々で出会い、身の上話を聞き取っていく著者自身、「在日韓国人」としての立場性から日本に「故郷」と言うほどの居心地の良さを感じられず、かと言って韓国も「故郷」ではない、そうしたアンビバレンスを抱えている。だからこそ、出会った一人ひとりのパーソナル・ヒストリーへの感じ方はセンシティヴ、それは安易に共感するというのではなく、違和感によって自身の内面で感じたズレをもこまかに捉え返していく。自分の生身の感受性や葛藤を率直に打ち出しながら書き綴った現代史ノンフィクションと言えるだろうか。

 安昌浩、金九、崔南善など近現代韓国史に多少とも馴染みがあるなら見覚えのある人物も時折顔をのぞかせる中、著者の旅路の導き手となるのは、李光洙──韓国近代文学の重要人物で、崔南善と同様に民族運動家としての履歴を持ちながらも「民族改造論」を発表、日本の植民地支配に協力した「親日派」として指弾された、あの人物である。

 朝鮮半島にとっては暗い時代であった20世紀前半、弱肉強食の「力」がものを言った世界、そのただ中で無力さを噛み締めるしかなかった植民地支配下の苦境。「力」への渇望と現実の無力さとのギャップを目の当たりにした李光洙による日本への同化の主張には、同時に実力養成をした後に民族独立を求めようという意図もあったと言われる。つまり、弱者生き残りのための戦術的な選択肢であった「親日行為」。ただし、それは彼の主観的意図の中では民族主義であっても、海外で活躍していた亡命独立運動家たちが日本の敗戦により帰国すると、彼の主張の正当性は当然ながら失われる。残るのは、「親日行為」をしたという事実による負い目ばかり──。

 現実政治の位相転換の中で指弾される側に陥った「親日派」。しかし、彼らだって好き好んで「親日派」になったわけではあるまい。彼らには彼らなりの意図があり、葛藤があり、そして絶望があった。政治的正統性を軸とした単純なロジックで裁断されると、人それぞれにやむを得ない立場の中で抱えていた葛藤は陳腐な悪意へと矮小化されてしまう。それでは見えてこない葛藤のドラマ、本書の筆致はそうしたところにも目配りされていくところに私は関心を持ったが、問題はそれだけではない。

 現実政治の位相転換の前後を通じて、「力」を求める「民族」という病は実は続いているのではないか? その具体例の一つの姿を李光洙に見出すのが本書の問いかけである。ディアスポラの足跡をたどり、李光洙が絡め取られた「民族」という病とその落とし穴を捉え返しながら、(今やありふれた言い回しではあるが)この越境の旅路そのものに「ナショナル・ヒストリー」の解きほぐしがほのめかされてくる。

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小島毅『近代日本の陽明学』

小島毅『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ、2006年)

・中国哲学における学的展開としての陽明学と、近代日本である種の政治的行動主義として現われた陽明学、両者が違うのはもちろんそうなのだが、近代日本というコンテクストの中で見えてくるものは何か? 中国哲学を専門とする研究者による近代日本思想史の読み直し。カギは、「こちたき理屈」に我慢ならない「善意の人々」の暴走という悲劇。
・例えば、大塩中斎(平八郎)の考えでは、倫理的規範を外界に求めるのではなく、自身の内なる自然の働き=「良知」に気づき、それを十全に発揮させるところに学問の意義。
・江戸時代における公式の学問としての朱子学→理屈ばった教義に疑問を感ずる→煩悶しながら自分独自の考え方を模索→そんな折に陽明学と出会って「これだ!」と感激→学問として学んだから陽明学に向かったのではなく、むしろ自分自身の「陽明学」的心性に反応する形で陽明学の教説を受容していく、というパターンが繰り返された。理屈ではなくメンタリティーの問題なので、極論すると動機さえ純粋であれば何でもあり。
・後世になると、「体制派=朱子学、反体制改革派=陽明学」という図式でレッテル貼り。
・水戸学と陽明学との気質的同質性。戦後の靖国問題などにもつながるある種の「語り」は、水戸学の大義名分論と日本陽明学の純粋動機主義とが結合した産物。
・内村鑑三や新渡戸稲造など明治期キリスト者の王陽明への関心→天理を外的規範に求めるのではなく内心にある良知に従って生きる教えとしてイエスの人格への共感、キリスト教を受容。この点で彼らにも朱子学→陽明学への転換と同質の傾向。
・幸徳秋水の「志士仁人の社会主義」だって陽明学的→大逆事件にあたり、陽明学も危険思想だと言われかねない中、井上哲次郎は「自分の頭で考えた末の国体護持主義」として陽明学を位置づけ→こうした「白い陽明学」に対して、革命の理想に燃える人々の「赤い陽明学」。
・志士仁人が「ディオニュソス的」な陽明学だとするなら、三島由紀夫は実は「アポロン的」だったのではないか、と指摘。

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2011年11月27日 (日)

速水融『江戸の農民生活史──宗門改帳にみる濃尾の一農村』『歴史人口学で見た日本』『歴史人口学の世界』、速見融・小嶋美代子『大正デモグラフィ──歴史人口学で見た狭間の時代』

 速水融『江戸の農民生活史──宗門改帳にみる濃尾の一農村』(NHKブックス、1988年)は、江戸時代のある農村(濃尾平野の西条村)における宗門改帳を史料として人口統計を作成、歴史人口学的な研究の進め方を具体的に紹介しながら、単に人口の増減というレベルではなく、人々のライフサイクル、通婚や労働移動など江戸時代における様々な庶民生活のライフヒストリーを描き出す。トップダウンではなく、ボトムアップの視点で歴史を描く試み。ただし、宗門改帳は地域によって整備のされ方が異なるので、全国的な比較は難しいなど史料を扱う上での難点も多いので、そうした点を考慮して近似値を求める形で研究を進める。流行病、飢饉などによる人口的災厄はもちろん大きかった一方で、空間的な移動範囲は広く、場合によっては身分的移動もあったことが示され、農村に閉じ込められた「暗い」農民像とは違った姿が示される。
・都市部の人口減少率が目立つ。経済発展→人口集中があったが、他方で人口密集地は流行病などの災厄への抵抗力が弱く、また流入人口には独身者が多かった→死亡率>出生率→著者は「アリ地獄」と表現(ヨーロッパでは「都市墓場説」)。農村における人口増加→西条村の場合には出稼で村の外へ出ることによって人口抑制。つまり、農村で増えた人口が都市で死んでいって、トータルで相殺されるという仕組みになっていた。
・地主からの分家は小作農になるという形で下層への階層移動。他方で、小作農は他所へ出稼奉公に行ったり、跡継ぎがいなくなったりして家系が途絶えたケースが目立つ。階層間移動と地理的移動の組み合わせで農村人口数の安定などの作用。
・江戸時代後期、西日本では人口増大が限界を超えたが、出稼に行く大都市が近くにないため吸収先がないことによる社会不安→明治維新を動かした一因であった可能性。
・濃尾平野は綿織物業が発達した地域→人口増加、遠距離出稼の減少などによる労働供給が背景にあった可能性→「プロト工業化」の議論へつなげる。

速水融『歴史人口学で見た日本』(文春新書、2001年)は、著者自身の歴史人口学との出会いから説き起こし、宗門改帳による江戸時代の研究ばかりでなく、明治以降の事情、さらには今後の課題まで含め、これまでの研究蓄積を概観的に示す。方法論的な解説をしながら研究成果の紹介をした入門書としては、速水融『歴史人口学の世界』(岩波書店、1997年)]もあり、前者は一般読者を対象とする一方、方法論上の概念解説は後者の方が詳しい。
・ハッテライト集団:アメリカの近代技術を拒否して生活している人々で、いかなる出生制限もしない→自然出生率を知る際の指標となっている。
・興味を持ったのは、江戸時代における「勤勉革命」の指摘。江戸時代の農民は年貢や小作料を一定料以上は取られないシステム→生産力上昇による余剰分は自分のものになる→一生懸命働けばその分、生活水準も上がるため、勤勉の美徳が普及→ヨーロッパの「産業革命」(industrial revolution)ではなく、日本の「勤勉革命」(industrious revolution)。
・それから、宗門改帳からうかがえる人口・家族構成における東北日本(アイヌ・縄文時代人)、中央日本(渡来人・弥生文化)、西南日本(海洋民)の相違。
・台湾で後藤新平が実施した「臨時台湾戸口調査」を実質的に担ったのは、日本で初めて人口統計を確立した杉享二の弟子たち(共立統計学校の卒業生)で、これは中国人社会を相手にした世界初の国勢調査であったことはメモしておく。

速水融・小嶋美代子『大正デモグラフィ──歴史人口学で見た狭間の時代』(文春新書、2004年)は、大正期には人口上の重大な問題があり、史料的にも豊富であるにもかかわらず研究が少ないという問題意識。人口統計上の状態・変動に加えて、民衆の生活や意識の状況・変革も合わせてトータルな変化を描き出そうという意味でデモグラフィー=民衆誌の試み。
・第一次世界大戦後の不景気にさらされた紡績業→これまでのような「女工哀史」を続けるのか、それとも人件費の安い中国に工場を進出させるのか(在華紡)という二者択一→後者を選び、日本国内では女工の失業、中国においては利害衝突。
・結核の全国的な蔓延。
・大正7年、スペイン・インフルエンザ。
・大正3~12年にかけて高死亡率期(大正死亡危機、mortality crisis)。大正末年以降は死亡率の長期的な低下。
・江戸時代の都市は「アリ地獄」→大正期になって公衆衛生、医療設備をはじめ社会インフラの整備→都市と農村との死亡率は大正期に逆転。他方で、出生率低下の徴候→産児制限運動の広がり。
・人口転換:死亡率の低下に続いて出生率の低下が始まることで、高出生率+高死亡率の状態から低出生率+低死亡率の状態へ移行する過程。ただし、長期的な変動であり、地域差もあるので明確に把握するのは難しい。強いて言うなら、明治末期から昭和初期にかけての四半世紀の期間に起こったと言える。

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2011年11月19日 (土)

塚原史『20世紀思想を読み解く──人間はなぜ非人間的になれるのか』

塚原史『20世紀思想を読み解く──人間はなぜ非人間的になれるのか』(ちくま学芸文庫、2011年)

・現在の我々が生きているこの社会における法的・政治的制度は、自律的な意思決定能力持ち自らの責任において自由な選択を行う「個人」を前提として成り立っている。それは極めて抽象度の高い人間モデルではあるが、だからこそ個々の属性にかかわらず、ある種の「普遍性」を仮構することで社会的・経済的関係を取り結ぶことを可能にしている。こうした「個人」モデルの構築が、日本も含めた非西欧社会においては「近代化」を成功させるための基礎作業とみなされてきた。
・他方で、こうした普遍的「人間」モデルの発祥地とも言うべき西欧近代社会において19世紀以降、例えば実存主義にせよ、精神分析学における「無意識」の発見にせよ、理性的主体に対する懐疑が思想的課題として繰り返し提起されてきた。「理性」的であるべき「人間」の「非人間」的であらざるを得ない存在という逆説──本書はこうしたテーマに対して、主に20世紀アヴァンギャルドの芸術家たちを中心に描き出した思想史的群像劇として面白い。

・孤独を自覚的・理性的に捉え返したソリチュードに対して、群れの中で自分を他者と感じる本能的な感覚としての孤立感=ロンリネス。
・ギュスターヴ・ルボンの群集論。
・トリスタン・ツァラたちダダの運動が標榜した、言葉と意味作用との断絶による「私」という主体の「無意味」化→「普遍的人間」という思想によって構築されてきた「市民社会=国民国家というシステム、つまり権利と義務の主体としての個人が「国語(自国語)」という制度化された言語の関係性を受け入れることを前提とするシステム」の破綻を反映。
・マリネッティたち未来派が提示した速度と機械の新しい美学→「「私」を破壊し人間を物質で置き換え、「機械人間」の創出さえも企てるという未来派の反知性と反人間の叫びは、理性的主体としての個人を土台とする近代社会そのものにたいする反抗につながっていたのだ。」(130ページ)
・アンドレ・ブルトンの精神医学との出会い、戦争体験、自動記述の実験、「狂気」のシミュレーション→「シュルレアリスムは、人間という理性的動物の範囲を理性の彼方へと拡張することをつうじて、西欧近代型の社会へのラディカルな反抗の一形態となった。」(233ページ)
・「西欧近代がつくりあげた「人間」という「普遍」と、それを支えてきた「個」や「理性」や「文明」といったアイディアが、近代社会そのものの自己展開をつうじて、それらの反対物である「全体」や「無意味」や「無意識」や「未開」への関心に転化していく過程で、「非人間的なもの」という「特殊」がしだいに人びとを誘惑するようになることを、私たちはすでに見てきた。したがって、普遍性の表現としての「人間性」を追求する過程で、かえって「非人間性」のもろもろの表象が出現したという二〇世紀文化の逆説は、じつは西欧近代という「特殊性」に「普遍性」としての位置をあたえてきたもうひとつのパラドックスから、いわば必然的に生じた出来事だったことになりはしないだろうか。」(243~244ページ)

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ジグムント・バウマンについて

 ジグムント・バウマン(Zygmunt Bauman)はポーランド出身でイギリスに亡命した社会学者。1925年生まれだからすでに80歳代も半ばを過ぎているが、今でも執筆意欲は旺盛で新刊は相次ぎ、それに応じて邦訳の数もここ数年で随分と増えてきている。近年はたくみな比喩も織り交ぜながら現代社会の様相を描き出す文明評論的なエッセイが多い。リーダブルな筆致が世界的に広く読まれている理由の一つであろうが、「リキッド・モダニティ」という彼の分析視点が現代社会を考える上で勘所をおさえている点がやはり大きい。

 いわゆる「近代化」には個人の自由を権利として認め、これまで人々を因習的に束縛してきた伝統社会から解き放っていく力学が働いていた。他方で、析出された個人がバラバラにならないよう一定の共通枠組み(例えば、国民国家や企業システムなど)へと括りつけるという反作用も同時に進行する。つまり、「近代」という時代は個人の分散化と拘束の両面を持っていた。しかし、近年は前者の分散化の比重がより強まることで「近代」が質的に変容しつつある。

  しばしば見られる「ポスト・モダン」という表現は「近代」が終わったというイメージを与えかねない。そこでバウマンは、現在の時代はむしろ「近代」の分散化の原理が徹底された時代であるという意味合いを明確にするため、かつての拘束としての側面が強かった時代、すなわち「ソリッド・モダニティ」(solid modernity、固形的近代)と対比させる形で「リキッド・モダニティ」(liquid modernity、液状的近代)という表現を用いる(森田典正訳『リキッド・モダニティ──液状化する社会』大月書店、2001年)。「近代」をこのように捉える二分法は、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの「前期近代/後期近代」、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの「第一の近代/第二の近代」という区分に対応しており、彼らはしばしば同じ関心を持つ者同士として著作の中で互いに言及し合っている。

 バウマンが「リキッド・モダニティ」と呼ぶ現在の社会には、もはや人々が求めるべき確固たる目標はない。激変する環境に適応すべく、個人一人一人もまたカメレオンのように変わり続けなければならない。そればかりか、競争で優位に立つためには率先して変わる努力を続けなければならない。何のために、ではなく、変化そのものが、目新しさそのものが価値を持つ。社会レベルでも、個人レベルでも、固定的な目標は嫌われる。彼が変わるから私も変わり、私が変われば彼も変わる、そうしたエンドレスのゲームが繰り広げられる社会。従って、流動的、液状的というイメージが浮かび上がってくる。

 かつてのソリッドな近代では経済効率性の向上による豊かさなり、自律的個人が対等に睦みあうユートピアなり、何らかの究極目標が了解されていた。しかしながら、「解放のために制限を打ち破るという、すぐれて近代的な情熱によって絶えず突き動かされながら、わたしたちはもはや、最終的な意図や目的についての明確なヴィジョンをもってはいないのである」(奥井智之訳『コミュニティ──安全と自由の戦場』筑摩書房、2008年、106ページ)。リキッド・モダニティにおいては、みんなに共有されたヴィジョンもないまま、各個人が自分自身の条件に合わせて取り合えずできることを手探りし続けるしかない。

 リキッドな社会には市場原理主義が最も適合的であり、その動きが国境からあふれ出してグローバリゼーションが進む。グローバリゼーションと言った場合、時間/空間の短縮、移動やコミュニケーション手段の無制約などによって、全世界が均質化していく傾向が指摘される。個人がグローバルなレベルと直結することにより一人で達成できることの範囲が格段に広がった。トーマス・フリードマン『フラット化する世界』はそうした意味でのグローバリゼーションの肯定的な側面に注目して話題となったが、バウマンは逆に負の側面に目を向けている。

 リキッドな社会において、個人レベルでの自由は格段に広がったように見える。しかし、“自由”は常に逆説をはらむ。“自由”な個人としての力を行使できるのはほんの一握りの人々に限定される(“事実上の個人”)。多くの人々は生物的に人間であるという一点において“自由”の可能性を持つとみなされるが、実際には困難である(“権利上の個人”)。成功者は容易に国境を越えてコスモポリタンと呼ばれるが、実際には他国の同様の人々と付き合っているだけで、意外と人間関係は閉ざされている。世界が広くなったとしても、移動できるだけの条件の備わった人々と欠如した人々との間で大きな断絶が生じ、前者は思いのままに世界を動き回る一方、後者は土地に縛り付けられる(ローカル化)、もしくは難民など不本意な形で追い立てられる。市場化の動きが全世界を席巻する一方、個々の生活世界では自律的な決定権が奪われる(すなわち自分たちの生きる意味やアイデンティティが剥ぎ取られる)。このようにグローバル化の進展が、動ける人/動けない人、自己決定できる人/できない人、といった非対称性を生み出し、世界が二分化・再階層化されていく趨勢が指摘される(中島道男他訳『廃棄された生──モダニティとその追放者』昭和堂、2007年。澤田眞治・中井愛子訳『グローバリゼーション──人間への影響』法政大学出版局、2010年)。

 こうした形で進行するリキッド・モダニティは、個人をソリッドな体制から解き放つことで各自の可能性を一層広げるのに寄与しているが、他方で社会はまさにその流動性によって危険と矛盾を生み出しつづける。そして、生み出された困難は「個人の生き方の問題として伝記的に解決される」(ウルリッヒ・ベック)。つまり、社会的矛盾は個人の自己責任言説へとすりかえられてしまうため、個人レベルでの負荷が極めて厳しい社会となる。どんな事情があろうとも、出自も含めてほんの偶然の不幸に過ぎなかったとしても、はじきとばされたこと自体がお前のせい、ということになる。結果として市場のプレイヤーとして振舞えるか否かだけが問題となるのであって、それまでの経緯は一切問われない。個人中心なので国家による再配分・再教育の機能を正当化する根拠も乏しい。しかし、はじき飛ばされた人々の抱く不満は潜在的な脅威となる。ゲームのプレイヤーを守るため、難民や貧困層に対しては、社会内において統合を図るよりも、隔離という対策を取る方が効率的となる。つまり、社会的排除の問題がここに現われる。

 このように描き出された現在進行形のリキッド・モダニティには悲観的な様相が濃厚であるが、だからといってかつてのソリッド・モダニティに郷愁を寄せるわけにはいかない。合理的組織モデルが社会の隅々にまで行き渡ることで個人レベルのイニシアティヴが失われていたところにソリッド・モダニティの問題点があり、バウマンはその極限的な具体例をナチスによるホロコーストに見出している(森田典正訳『近代とホロコースト』大月書店、2006年)。

 アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アレントが、ナチスによるホロコーストのおぞましさと、その実行責任者であったアイヒマンのあまりに凡庸な人物像とのギャップから“悪の陳腐さ”という表現を使ったことはよく知られている(『イェルサレムのアイヒマン』新装版、大久保和郎訳、みすず書房、1994年)。こうしたアレントによる問題提起に対して、バウマンは社会学の立場から考察を行なう(彼自身もユダヤ人であり、またゲットーから生き残った妻ヤニーナの手記を読んだことが『近代とホロコースト』執筆の動機となっているらしい)。彼はユダヤ人問題の歴史的特殊性としてホロコーストを片付けてしまうのではなく、“合理性”を特徴とする近代文明そのものが構造的に内包している問題が、ホロコーストという極限状態を通して浮かび上がったのだという論点を示している。

 ヴェーバー的な言い方になるが、“官僚制”を理念型とする組織の第一の特徴は分業である。いま自分が取組んでいる仕事が最終的にどのような結果をもたらすのか分からない、仮に分かっていても自分には関係ない、そのように思える距離感があると、眼前にいない者に対して同情はわかないし、同時に憎しみもない。ホロコーストにおいて必要だったのはユダヤ人に対する敵意ではなく、そうした道徳的麻痺であったという。第二の特徴は効率追求である。自分に与えられた仕事を効率よくこなすこと自体に職業的達成感を実感していると、最終的にもたらされる結果への道徳的責任が、自分が果すべき当面の仕事への技術的責任に置き換えられる。各自が自分の仕事に一所懸命に取り組めば取り組むほど殺人組織そのものが自己展開していくという逆説があった。このように行為と(最終的な)目的とが分離することですべてが量的な問題に還元され、それがユダヤ人という対象の非人間化につながった。それこそアイヒマンがいみじくも言い放ったように「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計上の問題に過ぎない」。

 組織経営の効率性によって現代の我々は大きな利便性を得ているが、それが使い方によってはホロコーストを可能にしてしまったし、また制度内在的にホロコーストの出現を食い止める手段を我々は持っていないという不安。「合理性が行動の能率的調整手段として成功するための根本条件は、道徳性の抑圧であった。また、そこからは、日常的な問題解決行動を完璧な形でおこなうために使われる一方で、合理性にはホロコースト型の解決行動を生む能力があることもはっきりする」(前掲書、39ページ)。つまり、非合理的な価値が目的であっても、いったんインプットされてしまうと、それを合理的かつ大規模に遂行してしまう組織の暴走の可能性にソリッドな近代の究極的なアポリアがあった。「人類の記憶に残るもっとも驚異的な悪は秩序の消滅でなく、秩序による安全で、完璧で、絶対的な支配の結果として現れることが、突然、明瞭となった。それは理性を失った暴徒の所業でなく、制服を着用し、従順で折り目正しく、規則に従い、指示を一字一句守る男たちの仕業であった。この男たちも制服を脱げば、けっして悪い人間ではない。彼らもわれわれと同じようにふるまう。彼らにも愛する妻がおり、大事にする子どもがおり、そして、悩めるときには助け、慰める友人がいる。制服に袖をとおした瞬間、彼らは殺し、ガス中毒死させ、銃殺に立ち会い、誰かの愛する妻である女、誰かの大事にする赤ん坊の子どもを含む、何千人をもガス室に送るという信じがたい行動にでる。…ホロコーストとその実行者にかんする知識から得られる戦慄の結論は、「これ」が場合によってはわれわれにも起こるかもしれないということでなく、われわれもこれをおこないうるということである」(前掲書、197~198ページ)。こうした合理的な形で暴力が実行され得たソリッドな段階から次へ進んだと考えるなら、リキッドな近代も必ずしも全否定される必要はない。

 リキッド・モダニティの前提となる個人のアトム化という問題意識を持った人びとの間では、コミュニティという形で横の絆を回復することで克服を目指そうとする見解もあるが、こうした議論に対してバウマンは批判的である。“コミュニティ”への帰属意識が共有されておれば相互扶助の可能性は保てるが、それを崩してきたのが他ならぬ“近代”であった。個人を取り巻く不安定な波に巻き込まれていることに気付いても、一人の努力ではどうにもならない。関係性の回復を求め、“コミュニティ”を再評価する動きが始まるのも当然と言えば当然である。しかしながら、「現実にある個人の弱さやもろさを、コミュニティの(想像上の)潜在力に作り替えることで、保守的なイデオロギーや排他主義的な語用論が生み出される」(前掲『コミュニティ』、138ページ)。もはや失われてしまった共同性を復活させようとしても、外への排外主義、内なる個人への抑圧というまた別種の問題が生じ得る。アイデンティティ・ポリティクスの陥穽がぽっかりと開いており、“コミュニティ”への忠誠心を利用して一定の政治目的に人々を動員操作する可能性が現われることにバウマンは注意を促している。こうした点では、インド独立時におけるヒンドゥーとムスリムとの間に起こった激しい暴力を目の当たりにした実体験を持つアマルティア・センやガヤトリ・スピヴァクがコミュニティへの帰属意識を強調する議論に対して懐疑的な見解を示しているのと共通するだろう(アマルティア・セン『アイデンティティと暴力』、ガヤトリ・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』)。

 バウマンは『幸福論──“生きづらい”時代の社会学』(高橋良輔・開内文乃訳、作品社、2009年、原著タイトルはThe Art of Life)でレヴィナスへの共感を示している。不確実性の中でこそ、内的な自発性に基づいて選択を行なうのが“道徳”であり、自分自身が確信している道徳感情によって後悔しない振る舞いを取るところに“幸福”なるものが見出される。例えば、ナチスに迫害されたユダヤ人を危険も顧みずに匿ったポーランド人の出身背景は様々で、彼らがなぜそのような行動を取ったのか、そこに社会的因果関係は何も見出せないのは魅力的な謎だという指摘が目を引く(188~194ページ)。

 バウマン言うところの“リキッド・モダニティ=液状化した近代”によって個人が目まぐるしく“変化”を迫られている中でも、個人の側にそうした強制に納得できない、従順にはなれない何かがある。それを様々な論点を提示しながら間接的に指し示し、読者自身に自分なりのあり方を考えさせようというところにバウマンの意図があると言えるだろうか。いずれにせよ、こうした「自由」な現代社会が抱えるプラス面・マイナス面の両方を「リキッド・モダニティ」という視点で捉え返しながら、それでもなおかつ人間が生きていく根拠は何であるのか問い続けているところにバウマンの議論の重みがある。

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【映画】「スプリング・フィーバー」

「スプリング・フィーバー」

 舞台は南京。同性愛の青年2人。片方は結婚しているが、ゲイの「恋人」との密会が妻にばれて夫婦喧嘩となり、妻はその「恋人」の職場へ殴り込みをかけ、「恋人」である彼は仕事を辞めてしまう。ノーマルでないこと=不潔とみなされてしまう、世間から向けられるコンベンショナルな眼差し。さらに、工場が倒産して投げ出された若い女工も一緒に、3人で当て所のない旅に出る。

 郁達夫の散文作品「春風沈酔の夜」が映画中のところどころで読み上げられる。映画のストーリーと重ねあわされているが、郁達夫が上海の安アパートに逼塞していた貧しい青年文士だった頃の鬱屈を描き出したこの作品とはもちろん内容的にイコールではない。ただ、世間から相容れず、どうにもならない自分へのやるせない焦りのような感覚を通底させようとしているのは間違いないだろう。

 冒頭からずっと薄暗い曇り空が続く。映像は決して明るくないのだが、登場人物それぞれが抱えるパセティックな心象風景と見事に呼応していて、それが感傷的に美しく感じられる瞬間すらある(ロウ・イエ監督の「天安門、恋人たち」も以前に観たことがあるが、こちらも映し出された光景がずっと薄暗かった印象がある)。同性愛とか、中国社会のあり方とか、そういった個別的な話題とはまた別に、時代や立場が違っても感じることのあり得るパセティックな心象風景を描き出しているところがこの映画の人の気持ちをつかむ魅力だろう。

【データ】
監督:婁燁(ロウ・イエ)
2009年/中国・フランス/115分
(DVDにて)

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アーサー・ウェイリーのこと(中文)

   一般的日本人看不懂古文,仔细地欣赏《源氏物语》的日本人不太多。不过《源氏物语》是世界文学史上最早出现的长篇叙事小说,很受世界读者的欢迎。这部古典作品负有盛名的原因与其在故事本身的魅力,不如在英译本的巧妙笔致。

  在大英博物馆工作的东洋学家亚瑟·伟雷(Arthur Waley)从1925年到1933年把《源氏物语》翻译成了英文,这部英译本被翻译成了别的外文。伟雷中文也不错,他把很多中国诗和古典作品翻译成了英文,出版了李白、白居易、袁枚的传记。听说伟雷翻译的中国诗影响了英文诗的新型式。

  伟雷当时交往的文人之一、女性作家维吉尼亚·伍尔芙(Virginia Woolf)对《源氏物语》特别感兴趣。很多的中世故事只有简单的情节,没有微妙的心理描写。不过《源氏物语》描写登场人物的感情动摇的样子被伟雷翻译成了复杂和丰富的心情表现,那种形式好像是现代的。伟雷正在翻译《源氏物语》的时候,法国作家马塞尔·普鲁斯特(Marcel Proust)的《追忆逝水年华》也出现了。当时有的评论家把伟雷的《源氏物语》当做了跟普鲁斯特和维吉尼亚·伍尔芙一样的心理分析小说。

  第一次把《源氏物语》翻译成英文的不是伟雷,而是去英国留学的日本人末松谦澄(他后来成了很有名的政治家)。他1882年在伦敦出版了《源氏物语》的英译本。但是维多利亚时代(Victorian era)的英国人对男女交往非常严格。听说末松怕伤害英国人那样的道德感情,改变了《源氏物语》谈恋爱的场景,所以他的英译本就索然寡味了。研究日本的先驱者巴兹尔·霍尔·钱伯林(Basil Hall Chamberlain,是东京帝国大学教授,第一次把《古事记》翻译成英文的学家)、埃內斯特·薩托(Ernest Satow,是在明治维新活跃的英国外交官)都说《源氏物语》没意思,只对研究古语有价值。

  伟雷的英译本改变了人们对《源氏物语》的评价。他的翻译给古典作品注入了生动的活力。日本作家正宗白鸟说“我以前看《源氏物语》的时候觉得没有意思,但是看到伟雷的英译本的时候就觉得很有意思”。伟雷的英译本出现也刺激了日本作家,比如说,使谷崎润一郎把《源氏物语》翻译成了现代日语。美国很有名的日本学家唐纳德·基恩(Donald Keene)、愛德華·山第斯笛卡(Edward Seidensticker)都看到伟雷的《源氏物语》就决定研究日本。最近伟雷的英译本被翻译成了日语。 

  伟雷原来没有来过日本和中国,而且当时在欧美没有人很深地研究日本和中国的文化,他的英译本有一些错译也是不得已。后来山第斯笛卡把《源氏物语》确切地翻译成英文,这部英译本也很受欢迎。山第斯笛卡还把川端康成的作品翻译成了英文,他巧妙的英译本使川端获得了诺贝尔文学奖。

  伟雷的翻译不只显示其学术水平很高,并且翻译水平也很高。翻译不仅是替换言辞。译者领会原书作者的意图,用其他语言把那个意图传给读者。言语不同,表现的方法也不同。又要保持原作者的意图,又要在别的外文摸索出新意,伟雷成就了这一伟业。

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2011年11月 7日 (月)

山本作兵衛『画文集 炭鉱(ヤマ)に生きる──地の底の人生記録』

山本作兵衛『画文集 炭鉱(ヤマ)に生きる──地の底の人生記録』(講談社、新装版、2011年)

 山本作兵衛翁といったら知る人ぞ知る人物だろうか。青年期からずっと炭鉱で働き続けていたが、年を取り仕事をやめた後になって、子供の頃に好きだった絵筆を五十数年ぶりに再び取り、エネルギー需要の変化から閉山が相次ぐ中、忘却のかなたへ追いやられかねない炭鉱の人々のありし日の生活の姿をつづり始めた。本書はもともと1967年に世に出ていたが、今年(2011年)の5月、彼の残した絵やノートが「世界記憶遺産」に指定されたことから新装版として刊行されたようだ。上野英信や森崎和江などの本で山本翁のことは知っていたし、絵も色々と目にしてはいたが、まとめて見たのはこれが初めてかもしれない。

 炭鉱における作業の具体的な手順や生活上のしきたりがヴィジュアル的に分かりやすく、社会史や民俗学の資料として貴重だということが第一に言える。ただ、そんな当たり前のことを今さら言っても仕方がない。この絵を一目見てそのまま見入ってしまう不思議な力は何なのだろうか。

 炭鉱は町から離れている上、炭鉱会社から厳しい管理を受けており、ある意味で外界から全く隔絶された生活世界を持っていた。余所者にはなかなかうかがい知れぬ独特な呼吸、貧困から逃げ出すことのできない絶望感、そして実際にヤマにもぐっていつ事故で死ぬか分からない運命感、こういったものは当事者でなければ分からない。極端な話、山本翁という画文の才質を持った人が現れたからこそこの世界を垣間見ることができたわけで、ひょっとしたらそのまま世に知られぬことがないまま消え去ってしまったかもしれない生活史。そこには割り切りがたい様々な想いがあったし、このまま忘れ去られてしまわないよう記録しておきたいという切迫感が山本翁にはあった。その画文を通して見えてくるものは、異なる時代に生きる自分にとって全く未知な異界を覗き見るような感じに不思議な興奮を感じさせることだ。同時に記録が残されることなく忘れ去られていったあまたの生活史があったであろうことに想到し、我々が「歴史」として知っているつもりのものの矮小さに改めて驚きを感じる。

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2011年11月 6日 (日)

松本三之助『近代日本の中国認識──徳川期儒学から東亜協同体論まで』

松本三之助『近代日本の中国認識──徳川期儒学から東亜共同体論まで』(以文社、2011年)

 欧米列強からのインパクトを受けてやむを得ず西洋文明を範とした近代化へと邁進せざるを得なくなった日本は、同時に従来の儒学的教養の中で「聖賢の国」と崇めていた中国への見方を切り替えることになる。アヘン戦争以降、欧米列強によって蚕食されつつあるにもかかわらず自己変革をできない中国の姿は、(福沢諭吉『文明論之概略』等で示された構想どおりに)西洋文明というグローバル・スタンダードを踏まえて追いつき追い越せの勢いで順調に西洋化を推し進めているという自信を高めつつある日本からは「固陋の国」として蔑視の対象となった。

 西洋文明の先進性に学びながらいかに近代化を推し進めるのか。あるいは、欧米列強の暴虐な侵略に対していかにして「東洋」は手を組んで対抗すべきなのか。いずれの問題意識を抱くにせよ、「西洋」といかに向き合うかが喫緊の課題となった日本にとって、それはまた隣国の中国をはじめとした「東洋」をいかに捉えるかという問題と密接に結びついていた。言い換えると、日本における中国認識の変遷は、西洋文明を標準としつつ中国を鏡としてその中に日本自身の姿も映し出されていたと言えるであろうか。他者認識は同時に自己認識の問題でもある。そうした意味で、日本の様々な思想家たちの中国認識が時代的条件の中でどのようなヴァリエーションを示してきたかを時系列に沿って論じた本書は、単に日本と中国との関わり方をテーマとしているだけでなく、他ならぬ日本自身の近代思想史における核心的なところにまで食い込んだ叙述構成となっている。

 私自身としては日本の近代思想史におけるアジア主義の動向に関心を持っているが、岡倉天心が「不二元論」(アドヴァイタ)によって唱えた「アジアは一つ」という言説にせよ、昭和期に入って盛んになった「東亜協同体」論にせよ、「西洋」に対する反措定として現れた「東洋」なる概念の虚構性は常々問題とされてきたところだ。そもそも「東洋」なるものを統一的に把握する上で基盤となる文化的共通性がないし、「東亜協同体」論では「抗日」という問題がネックとなった。なお、この「東亜協同体」論についても、日本自身の逼塞した国内状況を打開したいという鬱屈感や、日本が推し進めてきた帝国主義的態度への見直しを図る議論があった点で、日本側における自己認識をめぐる問題がまとわりついていたと言えるだろう。

 三木清の「東亜協同体」論では、「民族性の超克」による新たな「東亜の統一」の実現を期すると同時に、西欧近代由来の個人主義がある種の抽象性に陥っているという問題意識から、そこにはない生々しい具体性を帯びた有機的な結合のあり方を民族に求めていた。こうした発想から「東亜協同体」という形での統一を目指す一方で中国の民族主義も重視、これは同時に日本自身の偏狭な民族主義を相対化して批判する視点も内包されていた点が本書では「謙虚さ」として評価されている。ただし、国策として「東亜共栄圏」構想に進展していくにつれてこうした感覚は換骨奪胎されていくわけであるが。

 こうした話題の延長線上で考えてみると、本書では取り上げられていないが、例えば中国革命に参加した北一輝が『支那革命外史』で民族意識に覚醒して抗日に向かったならむしろそれこそ維新の精神を継承したあかしだという趣旨のことを述べていたり、石原莞爾らの東亜連盟にも日本以外の諸民族の自律性を認めようとする発想があったこと(この点で東亜連盟には朝鮮人などの参加者が多かった)などを考え合わせせると、右派とひとくくりにされる思想動向についても三木清の「東亜協同体」論と結びつけてみていくことはできないか、という関心を持っている。また、日本の急速な西洋化に対して国粋主義の立場から批判していた陸羯南が清朝における「中体西用」論を評価していたという指摘にも興味を感じた。

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