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2011年11月19日 (土)

塚原史『20世紀思想を読み解く──人間はなぜ非人間的になれるのか』

塚原史『20世紀思想を読み解く──人間はなぜ非人間的になれるのか』(ちくま学芸文庫、2011年)

・現在の我々が生きているこの社会における法的・政治的制度は、自律的な意思決定能力持ち自らの責任において自由な選択を行う「個人」を前提として成り立っている。それは極めて抽象度の高い人間モデルではあるが、だからこそ個々の属性にかかわらず、ある種の「普遍性」を仮構することで社会的・経済的関係を取り結ぶことを可能にしている。こうした「個人」モデルの構築が、日本も含めた非西欧社会においては「近代化」を成功させるための基礎作業とみなされてきた。
・他方で、こうした普遍的「人間」モデルの発祥地とも言うべき西欧近代社会において19世紀以降、例えば実存主義にせよ、精神分析学における「無意識」の発見にせよ、理性的主体に対する懐疑が思想的課題として繰り返し提起されてきた。「理性」的であるべき「人間」の「非人間」的であらざるを得ない存在という逆説──本書はこうしたテーマに対して、主に20世紀アヴァンギャルドの芸術家たちを中心に描き出した思想史的群像劇として面白い。

・孤独を自覚的・理性的に捉え返したソリチュードに対して、群れの中で自分を他者と感じる本能的な感覚としての孤立感=ロンリネス。
・ギュスターヴ・ルボンの群集論。
・トリスタン・ツァラたちダダの運動が標榜した、言葉と意味作用との断絶による「私」という主体の「無意味」化→「普遍的人間」という思想によって構築されてきた「市民社会=国民国家というシステム、つまり権利と義務の主体としての個人が「国語(自国語)」という制度化された言語の関係性を受け入れることを前提とするシステム」の破綻を反映。
・マリネッティたち未来派が提示した速度と機械の新しい美学→「「私」を破壊し人間を物質で置き換え、「機械人間」の創出さえも企てるという未来派の反知性と反人間の叫びは、理性的主体としての個人を土台とする近代社会そのものにたいする反抗につながっていたのだ。」(130ページ)
・アンドレ・ブルトンの精神医学との出会い、戦争体験、自動記述の実験、「狂気」のシミュレーション→「シュルレアリスムは、人間という理性的動物の範囲を理性の彼方へと拡張することをつうじて、西欧近代型の社会へのラディカルな反抗の一形態となった。」(233ページ)
・「西欧近代がつくりあげた「人間」という「普遍」と、それを支えてきた「個」や「理性」や「文明」といったアイディアが、近代社会そのものの自己展開をつうじて、それらの反対物である「全体」や「無意味」や「無意識」や「未開」への関心に転化していく過程で、「非人間的なもの」という「特殊」がしだいに人びとを誘惑するようになることを、私たちはすでに見てきた。したがって、普遍性の表現としての「人間性」を追求する過程で、かえって「非人間性」のもろもろの表象が出現したという二〇世紀文化の逆説は、じつは西欧近代という「特殊性」に「普遍性」としての位置をあたえてきたもうひとつのパラドックスから、いわば必然的に生じた出来事だったことになりはしないだろうか。」(243~244ページ)

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