野口雅弘『官僚制批判の論理と心理──デモクラシーの友と敵』
野口雅弘『官僚制批判の論理と心理──デモクラシーの友と敵』(中公新書、2011年)
・エリート官僚の不祥事、「脱官僚」政治=政治主導のスローガン…「官僚」への世評は芳しくない。しかし、現代社会の複雑な統治機構において「官僚」が不可欠なのも事実である。官僚制に対する反感は、直感的には分からないでもないにせよ、それはあくまでも心情レベルのものにとどまっている限り、実際の政治課題遂行に支障を来たす困難に直面する。こうした官僚制をめぐる議論はどのようにして仕切り直しが可能であろうか。
・本書はウェーバーをはじめミヘルス、トクヴィル、カフカ、シュミット、アレント、ハーバーマスなどの論者が「官僚制」についてどのように議論を展開してきたのかを確認する構成を取っているため、一見、迂遠に感じられるかもしれない。しかし、現在の政治的論点を相対化しながら捉え返す視座を提示するためにこそ政治思想史の知見を活用している点で良書だと思う。
・近代社会では既存の身分秩序を否定し、個人の平等を前提とした社会へと秩序原理が変容してきた。こうしたデモクラシーの進展において人間の平等の取り扱い、言い換えると標準化が求められ、新たな人間集団を運営するためにはどうしても官僚制的なメカニズムが必須となってくる。恣意的なもの、非合理的なものを排除する秩序原理が浸透する一方(脱「魔術」化)、その内部においては個人のイニシアティブ、イマジナリーなものが失われていく。もちろん、ロマン主義的な異議申し立ては早くからあり、その点では「官僚制」論はネガティブに評価される形で展開してきたと言える。
・つまり、「官僚制」批判は珍しいことではない以上、日本社会ではなぜ近年になって官僚制への信頼が失われたか、ではなく、なぜこれまで官僚制に対する否定的情念が炎上せずにすんできたのか、という点が本書の問題提起となる。
・テクノクラート支配は専門知の合理性と結び付いて高いパフォーマンスを示したからこそ正当性が維持されてきた。逆に言うと、バブル崩壊、「失われた十年」以降の日本社会の状況の中で官僚主導体制のパフォーマンスの悪さが見えてきたため、これまで顕在化していなかった官僚制の「正当性の危機」がようやく露呈した。
・官僚制には行政の複雑なルーティンを縮減する機能があったが、「脱官僚」=政治主導は政治的決定で負うべき説明責任の幅が格段に広がる→実際には、その負荷に耐えるだけの準備がない。こうした中、「脱官僚」のスローガンに適合的なのが新自由主義だったと本書は指摘する。つまり、「小さな政府」志向は政治的決定の負荷を減らしながら同時に「脱官僚」というイメージ的な筋を通しやすくなる。「脱官僚」のスローガンを掲げながら別の政策ビジョンを示そうとした場合、財政や具体的な問題への介入の仕方についていちいち説明責任を負わねばならず、収拾がつかなくなる。
・官僚制の画一主義にはもちろん問題があるが、他方でこうした画一主義への批判がそのまま一部の特権や格差拡大を擁護する論拠に使われてしまってもまずい。実質合理性と形式合理性(=普遍性志向)、この両義性に耐えつつ粘り強く当面の課題について考え続けるしかない。
・ウェーバーの比較類型論はこうしたジレンマを浮かび上がらせるところに特徴がある。現実の政治課題がどうしても抱えざるを得ない矛盾を直視するよう促しているところにウェーバーを改めて読み直す意義があると示唆。
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