ウルリッヒ・ベック『〈私〉だけの神──平和と暴力のはざまにある宗教』
ウルリッヒ・ベック(鈴木直訳)『〈私〉だけの神──平和と暴力のはざまにある宗教』(岩波書店、2011年)
・近代社会を特徴付ける啓蒙主義や科学技術の合理性は世俗化を推し進め(ヴェーバーの表現を使うなら〈脱魔術化〉)、宗教が人々を捉える力は弱まったと考えられてきた。ところが、そうした想定とは異なり、現代社会においてはむしろ宗教回帰やスピリチュアルなものへの渇望が表面化しつつあるのはどうしてなのか? 宗教が世俗的な力を失っていくことは宗教性が力を得ていく理由になるというパラドックスに対して、本書は個人化、再帰的近代化、コスモポリタン化といったベック独特のキーワードを通して現代社会における宗教現象を捉えなおすための理論的視座を提示しようとする。
・世俗化のパラドックス:勝利したのは、ひとつは科学の世俗的合理性であり、もう一つは政治支配の現世的自己規定だった。両者は近代化の二つの主要アクターともいうべきもので、迷信の魔力と教皇による権力僭称から自らを解き放った。…しかし、キリスト教もまた迷信から、また支配の正当化という重荷から解放されたのではないか。すなわち、宗教と科学の分離および宗教と国家の分離が、宗教の解放に役立ったのではないか。宗教はこれによって、もともと果たし得ない任務の雑用から解き放たれたのではないか。そして自らの本来の仕事、すなわちスピリチュアルなものに専念できるようになったのではないか。…第一に、合理的認識や知識についての説明責任を科学ないし国家に押し付けることができた。第二に、宗教はこのようにして宗教以外の何ものでもないものになることを強いられた。…言い換えると、宗教が世俗化を強いられたことが、二十一世紀における宗教性とスピリチュアリティの再活性化の基礎になった。(38~40ページ)
・世俗化理論は、近代化が進めば進むほど宗教は退いていくと主張する。他方、宗教の個人化のテーゼは、逆の関係を想定する。すなわち近代化が進んでも宗教は消滅することなく、その相貌を変化させるに過ぎない、と。確かに実存主義的な問いにおいては、教父たちの権威が失われ、同様に組織された宗教共同体へのつながりは緩んでいく。しかしだからといって、それを別の想定と同一視して、宗教的経験や宗教的問いが個人に果たす役割はひたすら低下していくと思い込んではならない。(58ページ)
・「再帰的近代化」によるアプローチ:この立場から見れば、宗教社会学が分析すべき主たる課題は、宗教が人間の彼岸と此岸における魂の救済を主題化し、巨大なファンタジーを動員することによって、いかに個人と社会を根底から変えていきうるかを発見することだ。そのファンタジーは、人々の間の、また諸文化の間の境界線を撤廃し、同時に新しい境界線を作り出していく。そしてそれによって、寛容と暴力に間を揺れ動く宗教の根源的な葛藤が中心におどりでてくることになる。(80ページ)
・宗教の基本的特性:第一に、世界宗教は社会的ヒエラルヒーを乗り越え、またネイションの、あるいはエスニシティの間を隔てる境界線を乗り越える。第二に、宗教にそれができるのは、宗教が宗教的普遍主義をもたらすからだ。この普遍主義の前ではあらゆるナショナルな、社会的な垣根は意味を失う。ただし第三に、そこからエスニックな、ナショナルな、階級的な垣根に代わって、正しい信仰を持つ者と、誤った信仰を持つ者との間にバリケードが築かれる危険が生ずる。(80~81ページ)
・「コスモポリタン化」とは、言い換えれば、市場、国家、文明、文化、そして何よりも様々な民族の生活世界と宗教を隔ててきた明確な境界線が侵食され、同時にそこから異質な他社との意図せざる衝突が世界規模で発生してくる状態をいう。…コスモポリタン化はナショナルなもの、ローカルなもの、さらには自分の人生行路やアイデンティティの「内側で」生じる。グローバル化が前提としているのは世界の「玉ねぎモデル」、つまりローカルなものとナショナルなものが内側にあり、その周りをインターナショナルなものとグローバルなものが外皮として覆っているというモデルだ。これに対してコスモポリタン化のコンセプトは、グローバルとローカル、ナショナルとインターナショナルといった二元論を廃し、両者を経験的に分析可能な新たな形態へと溶かし込むところにある。言い換えればコスモポリタン化とは、(世界)宗教が成立当初から備えていた特徴である境界の混合、乗り越え、引き直しの特殊なあり方を捉えたものだ。…コスモポリタン化の原則は主題ごとの特殊性に合わせて──社会的、政治的行為のあらゆる水準と領域における特殊な境界線ごとに──発見され、適用されていくべきものだ。(102~104ページ)
・世界リスク社会とは、文化的他者の排除不可能性の別名にほかならない。この表現にこめられているのは現在の世界の密度であり、そこでは万人が万人とともに、あてがわれた隣人関係という新たな直接性の中で生きていいかざるを得ない。(124ページ)
・宗教の個人化とコスモポリタン化は、成育過程を介しての宗教的信仰の世襲とは縁を切る。また宗教的権威の領土的排他性を信じる正統信仰とも縁を切る。総じていえば、宗教の個人化とコスモポリタン化は集団的グローバル状況がはらむパラドックスを、すなわち各個人が様々な宗教的選択肢と成育過程での経験を交換し合い、競い合い、選び直しながら、同時に彼ら「自身」の宗教的真正さを作り出し、保持しなければならないというパラドックスを生み出す。(133ページ)
・制度化された個人化においては、各個人は自分自身の人生や、伝記的、社会的アイデンティティを作り上げていくために、あらかじめ決められた手本に頼ることはできない。その意味で、それは反省的な個人化なのだ。各個人は伝記的な物語を創造し、たえず自らの自己定義を修正していく能力を伸ばしていかねばならない。またその際、彼らは自らの決定を正当化するための抽象的原理を作り出していかねばならない。…個人化とグローバル化のプロセスの中で、個人のアイデンティティはたえず伝統から切り離され、生命力を失っていく。したがって、いずれの個人も、新しい思いつきで自分のアイデンティティを組み立てていく「プラモデル愛好家」か「日曜大工」に変身するように運命づけられている。自分自身の生は「数ある世界のうちの一つの世界」となり、そこでは何が起きても不思議ではなく、すべてのことは次から次へと手早く決定されねばならない。世界リスク社会に生きる個人には、自分自身に対して十分に反省的距離をとる可能性は失われている。彼らはもはや直線的で物語的な伝記を構成することはできない。離婚と、失業と、絶えざる自己宣伝と、変化に即応できる起業家魂の間で危ういバランスをとっている。彼らは自らを創造する芸術家ではなく、自らをとりつくろう修理屋に過ぎない。…その場その場の目的ごとに他者との連携を即興的に作り上げ、組み合わせ、構築していく。すべては、いつ破綻しても不思議ではない。…かつては省察(リフレクション)が可能であったかもしれない場所で、反射行動(リフレックス)を余儀なくさせているのは、こすいた新たな直接性、すなわち「直接性の文化」にほかならない。すべてのものが距離を失い、身近に迫っているために、遅滞なく、素早く、即座に防御し、排除し、阻止しなければならない。非常事態は陳腐な仕方で日常と化した。そこにあるのは完全に標準的なカオスであり、個人化された存在の標準的な混乱だ。…個人化とコスモポリタン化がもたらす結果は私的領域には限定し得ない。…信仰サークルとグローバル化した宗教運動の排他的な多元化と個人化はその一例であり、グローバル化した宗教運動は教会、セクト、個人的神秘主義、スピリチュアリティの境界線を取り払い、新たな結合と境界線の引き直しを不可避なものにしている。(184~186ページ)
・一方で、宗教的世界紛争の暴力的ポテンシャルを文明化するには、各世界宗教は自分自身を文明化する必要がある。しかし他方で、各世界宗教はいたるところで隣人関係を迫られることによって、自らの信仰の核心部分を明確にし、それを他から区別し、ドグマ化せざるを得なくなり、それによって宗教的な他者を同じものと認めるか、異なる者と認めるかが公言される。(206ページ)
・「自分自身の神」について語り得るための前提は、ラディカル化した宗教的自由が存在していることだ。「自分自身の」神は伝統によってあてがわれた神ではない。…自分自身の神は選択可能な個人的神であり、自分自身の生活という親密な空間の中で確固とした場所を占め、明確な声を発する神だ。こうした神の個人化は、すべてを包摂する唯一の「あれか、これか」の宗教体系に沿って人間を統一的に分類できるという基本想定とは、きっぱりと縁を切る。(208ページ)
・コスモポリタン化が生じるのは、新旧のグローバルな宗教や宗教運動がそれまでの境界線を越えてまったく異なるコンテクストに関連を持つようになったときだ。その中でそれらは、あるいは伝統となり、あるいは新たな生命力を獲得し、互いに競合し合い、統合し合い、既得権をめぐって争い、それぞれが相手の合法性や正統性を論駁し合う。つまりコスモポリタン化とは、世界宗教のマクロコスモスがネイションや地域といったミクロコスモスの中で屈折、反射する様式を意味している。その意味で近代化は──世俗化をもたらすとはいえないまでも──宗教的多様性が様々な、ナショナルなコンテクストの中で内的コスモポリタン化を経験していくという葛藤に満ちたプロセスをもたらす。…宗教的他者は、現在ではほとんどすべての人間の意識の中に存在する。それは必ずしも敵としてではなく、むしろ別の選択肢として存在している。それは宗教的なものについての別の選択肢であるのみならず、世界と人生を捉え、形成していく方法や様式の面での別の選択肢なのだ。(226~227ページ)
・現在の宗教的原理主義は、原初的な原理主義ではない。それは近代の、一部は再帰的近代化の産物としての原理主義であり、コスモポリタン化(マスメディア、インターネット、西洋市民社会のもろさ)を魚が水を求めるように利用することができる。→4つの特徴:①
疑問の余地なき確実性の回復、②自己自身の信仰確信と完全なる神との直接性、③信仰を持たざる者、異にする者の悪魔化、④トランスナショナルなネットワークとオペレーション。(254~255ページ)
・「寛容の普遍主義」がなければ、宗教的コスモポリタニズムは万人のための、すなわち信仰を持たない者、異にする者すべてのための勝手気ままな宗教へと転落してしまう危険がある。(266ページ)→真理の代わりに平和を
・19世紀中部ヨーロッパで、宗教の近代化は宗教のナショナル化を意味していた:宗教のナショナル化が外に向かうとき、異国のキリスト教徒は同じキリスト教徒としての同胞のイメージから、ネイションを異にする敵のイメージへと置き換わる。これによって、この敵が同じキリスト教徒であることは無意味になる。それが内に向かうときには宗教的他者の排除、いや殲滅という形で、神をネイションに奉仕させるようになる。…ナショナルな対立を「自然なもの」とする見方を、ネイションや宗教を異にする他者への不寛容を「自然なもの」とする見方へと転移。…このようにして神を引き合いに出すことで、本質主義化が賞揚され、それによって不寛容を、そしてそこから生じる暴力を「必要なこと」ないしは容認できることのように思わせる。なぜなら宗教もネイションと同じように現実に即して敵のイメージを作り上げていくからだ。(274~275ページ)
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コメント
お久しぶりです。
これらの“読み”・全てに付き合うわけにはいかないので、相変わらず良い導き手として参考にさせてもらっております。
アメリカ、日本の歴史的=現在と宗教、芸能、…切実に分け入って行きたいところです。Jazzの来し方なぞチラついたりしますが。
ところで、クラシックを介して平和と暴力のはざまを聴く批評から遠ざかってますが、そろそろ一発。
私は、タンゴにちょっといっちゃってますが。
投稿: 山猫 | 2011年10月 6日 (木) 00時48分
山猫さん、ご無沙汰してます。
相変わらず、適当な雑文で恐縮です…。
それにしても、難しい注文をされてきましたね(笑)
投稿: トゥルバドゥール | 2011年10月 9日 (日) 00時11分