塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦──冷戦後の国際政治』『民族とネイション──ナショナリズムという難問』
塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦──冷戦後の国際政治』(有志舎、2011年)
・例えば、「民族浄化」「人道的介入」「リベラル・デモクラシー」など、一見自明でもっともらしく受け取られながらも、実際には様々な意味内容が複雑に絡まりあっているキーワード。こうした言葉は気をつけて使わないと、状況的コンテクスト次第で自己正当化や他者への非難のための政治的含意を無自覚のうちに担わせてしまう可能性が常にある。例えば、ボスニア紛争において「民族浄化」という表現はセルビア側に対する一方的なレッテル貼りに用いられた。こうした表現の背後に潜む問題点を指摘すると、それはあくまでも用語法の恣意性への批判であって、戦争犯罪そのものの否定ではなくても、表現への批判→戦争犯罪の重さを相対化→セルビア擁護と曲解されかねなかった。
・本書の第Ⅰ部では「民族浄化」に対する「人道的介入」の是非をめぐる言説の分析、第Ⅱ部ではユーラシア空間の地政学的動向において「リベラル・デモクラシー」のあり方について検討される。現在進行形の具体的な問題とつき合わせながら、ともすると抽象論に陥りがちなキー概念の問題点を突き詰めていく。
・「人道的介入」をめぐって日本で見られた言説状況を整理する際、おおむね「人道的介入は正当化できる」とする見解が意外に多いと指摘される。しかし、肯定/否定のグラデーションの中で注意深く様々な留保条件をつけている論者も含めて「相対的肯定」「否定の否定」派という形で強引に線引きして「肯定派」に一括りしてしまうのはどうなんだろう…? むしろこのようにグラデーションの真ん中あたりが多い、ためらいがちに留保条件を様々に列挙する議論が多い点の方を注目すべきと思うのだが。他方で、「人道的介入」の理念的是非の問題ばかりでなく、どんなに整合的で説得力ある理由付けが展開されても、現地における「事実」と報道等を通したあやふやな「認識」との間にギャップがあるとき、場合によってはとんでもない政策決定がなされかねないという危険性は確かに首肯できる。
・第Ⅲ部ではロールズ、ウォルツァー、アーレント、カーを取り上げながら国際政治をめぐる思想的考察について、それぞれ検討される。ある普遍的価値を基準にして何らかの「介入」が行われるにしても、その「価値基準」そのものに恣意性とまでは言わないまでも、例えば西欧近代を基準としたバイアスがかかっている可能性など、必ずしも「普遍性」を主張しきれないアポリアをどのように考えたらいいのか、そうした問題提起が読み取れる。
塩川伸明『民族とネイション──ナショナリズムという難問』(岩波新書、2008年)
・民族、エスニシティ、国民国家、ネイション、ナショナリズム…それぞれ意味内容として共通性がありつつも様々なズレがあり、これらの言葉の内容的相互関係に無自覚なまま議論が混乱してしまうケースはよく見られる。本書はこのように難しい民族/ネイション概念についての理論的考察を整理するだけでなく、「国民国家」登場以降の近代史や国際政治の現実の中で生じた個別の民族紛争も取り上げていく。理論では捉えきれない残余を具体的な事例を突きつけながら考えていく構成なので、民族/ネイション概念の複雑さがより明瞭になり、この問題を考えるたたき台として格好な本である。
・シヴィック・ナショナリズム=「西のナショナリズム」=「よいナショナリズム」/エスニック・ナショナリズム=「東のナショナリズム」=「悪いナショナリズム」という区別に対する疑問→後者の野蛮さが批判されるが、「国民国家」形成が相対的に早かったどうかという問題として捉えると、強引な「上からの国民化」は遠い過去のことだったので単に忘れ去られているだけなのかもしれない。また、普遍主義の落とし穴によって、前者も抱える危険性が覆い隠されてしまう問題。
| 固定リンク
「国際関係論・海外事情」カテゴリの記事
- ジェームズ・ファーガソン『反政治機械──レソトにおける「開発」・脱政治化・官僚支配』(2021.09.15)
- 【メモ】荒野泰典『近世日本と東アジア』(2020.04.26)
- D・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体──パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』(2019.02.06)
- 下斗米伸夫『プーチンはアジアをめざす──激変する国際政治』(2014.12.14)
- 最近読んだ台湾の中文書3冊(2014.12.14)
コメント