宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男──アーサー・ウェイリー伝』、平川祐弘『アーサー・ウェイリー 『源氏物語』の翻訳者』
世界最古の長編小説とも言われることもある『源氏物語』。その世界的知名度の高さは、物語そのものの魅力というよりも、イギリスの東洋学者アーサー・ウェイリー(Arthur Waley、1889~1966)による翻訳The Tale of Genjiの英文の巧みさによるところが大きい。翻訳が単に学術的水準の高さにとどまらず、文学としてのクオリティーの高さをも示した格好のケースと言えるだろう。
1925~1933年にかけて出版されたThe Tale of Genjiは各国語にも翻訳(重訳)され、これを読んで日本研究を志した人も多いばかりか、当時のヨーロッパ文壇にも一定の影響を与えた。ウェイリーは当時のイギリスの進歩的文化サークルとして有名ないわゆる「ブルームズベリー・グループ」(ケインズ、ストレイチー、ラッセルなどがいた)とも交友があり、例えばヴァージニア・ウルフはThe Tale of Genjiを読んでいたく関心をそそられていたらしい。『源氏物語』に現れた登場人物の感情表現は、ウェイリーの近代的な語り口を通すと、中世物語にありがちな単にプロットをたどるだけの物語構成とは異なった心情描写の豊かさが印象付けられ、そこからこの翻訳とほぼ同じ頃に登場したマルセル・プルースト『失われた時を求めて』と同様の心理主義小説に近いと捉える論者もいたようだ。また、ウェイリーは漢詩の翻訳も手がけているが、それは英文詩に独特な新しいリズム感を与えたとも指摘される。ウェイリーには李白、白楽天、袁枚に関する著作もある。フェノロサの研究をもとにエズラ・パウンドが発表した能についての本にもウェイリーは助言したらしい。
なお、『源氏物語』の英訳はウェイリーが最初ではなく、イギリス留学中の末松謙澄によって1882年の時点で出されている。ただし、ヴィクトリア朝期の男女交際に厳しい倫理的気風を慮ってか、「淫ら」とみなされかねない箇所は大きく改変され、読んでもつまらない代物だったらしい。また、明治期日本のお雇い外国人の一人で日本研究の先駆者とされるバジル・ホール・チェンバレンは『源氏物語』などくだらないとこき下ろしていた。ウェイリー訳『源氏物語』はこうした低評価を一挙に覆すことになる。正宗白鳥などは「『源氏物語』を古文で読んでも面白くなかったが、ウェイリーの英訳を読んではじめて面白いと思った」と述懐している。ただし、欧米での日本研究がまだ深まっていなかった時代のことであり、誤訳があるのは仕方ない(ちなみに、ウェイリーは日本・中国へは一度も訪れたことがない)。戦後の『源氏物語』英訳ではエドワード・サイデンステッカーのものが有名だろう。
ウェイリーは1889年、ロンドンのユダヤ系商人の家に生まれた。ラグビー校からケンブリッジ大学へと典型的なエリートコースを歩むが、大学卒業時には健康問題等で思うような進路を選べず、紆余曲折を経た上で大英博物館の学芸員となる。新設の東洋版画部門に配属され、日本語や中国語を集中的に勉強してマスター。翻訳の仕事に専念するため1929年に大英博物館を辞職。『源氏物語』、日本・中国の詩集のほか、『枕草子』(抄訳)、『論語』、『西遊記』(抄訳)などをはじめ多くの作品の翻訳出版を生涯にわたって続けた。
ウェイリーの生涯をたどるには宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男──アーサー・ウェイリー伝』(新潮選書、1993年)がバランスよくまとまっていて読みやすい。著者自身もロンドンの図書館で晩年のウェイリーに何度か出くわしたことがあるらしい。平川祐弘『アーサー・ウェイリー 『源氏物語』の翻訳者』(白水社、2008年)は比較文学的な知見を存分につぎ込んで論じつくす議論はとても興味深いのだが、ただし「俺の博識すげーだろ!」的な押し付けがましさが鼻について閉口するなあ…。
ウェイリーの英訳版をさらに日本語に訳しなおした佐復秀樹訳『ウェイリー版源氏物語』(全4巻、平凡社ライブラリー、2008~2009年)も刊行されている。確かにこれはこれなりにリーダブルだ。
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コメント
取り上げられた本は未讀ながら、ウェイリーは日本だとどうしても「源氏物語の譯者」になってしまふのでせうが、漢文好きとしてはシノロジストたる面の方が知りたいと思ひます。衛利は聊齋志異なんかも譯してゐたと記憶します。
投稿: 森 洋介 | 2011年9月19日 (月) 23時55分
宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男』の年譜から中国ものを抜粋しますと、
・1918年、『中国詩百七十首』
・1938年、『論語』
・1939年、『古代中国における思想の三様式』
・1942年、『猿』(『西遊記』の抄訳)
・1949年、『白居易の生涯とその時代』
・1951年、『李白の詩とその生涯』
・1952年、『三蔵法師実伝』
・1957年、『袁枚』
・1958年、『中国人の眼から見た鴉片戦争』
・1960年、『敦煌歌譚集』
・1964年、『蒙古秘史』
といったところです。『聊斎志異』は見当たらないですが、省略されてるのか、あるいは雑集的な本にまとめられているのかもしれませんね。
投稿: トゥルバドゥール | 2011年9月20日 (火) 00時22分