『リスク化する日本社会──ウルリッヒ・ベックとの対話』
ウルリッヒ・ベック、鈴木宗徳、伊藤美登里編『リスク化する日本社会──ウルリッヒ・ベックとの対話』(岩波書店、2011年)
・リスク社会論で著名なドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックが初来日して行われたシンポジウムの成果。ヨーロッパ中心の視点ではなく、日本さらには東アジアを舞台とした多元的近代化という見通しを意識しながら、個人化、第二の近代、コスモポリタン化といったキーワードによってベックの提示した議論枠組みに対して日本や韓国の研究者が検討を加えていく構成。以下にはベックの示した論点についてメモ書き。
「個人化の多様性」
・第二の近代の仮説→ポストモダンではなく、第一の近代の徹底化の副作用の帰結として理解。これらの展開は、それが一緒に作用することで、われわれがそもそもまったく心構えができていないような状況を作り出す。(17ページ)…近代の諸原理(例えば、市場経済、個人化)のグローバルな勝利と、産業主義的近代の意図せざる副次的諸帰結(気候変動、グローバルな金融危機)とのおかげで、第一の近代における基本的は社会的諸制度は、社会にとっても個人にとっても効果がないか、あるいは機能障害をおこすようになった。(19ページ)→※前期近代と後期近代とに分けて把握するアンソニー・ギデンズ、ソリッド・モダニティとリキッド・モダニティとに分けて把握するジグムント・バウマンと同様の捉え方。
・個人化のテーゼ:①脱伝統化、②個人の制度化された解き放ちと再埋め込み、③「自分の人生」を追求せよとの強制と純粋な個人性の欠如、④システムによるリスクの内面化→理論的にはネオリベラリズムの対立命題、社会科学的には文化的な民主主義、福祉国家、古典的個人主義という諸条件の下にあるものとして、個人化過程を定義。
・第一の近代において家族は国民社会の単位。家族は第一の近代において診断されたような機能喪失ではなく、機能拡大に直面している。つまり、機能の過剰負担が際立っており、企業の社会保障機能さえも今や家族へと移されている。女性の社会進出によって家父長的なヒエラルキーは動揺→脱家族化と再家族化が同時に生じるパラドックス。→家族が安全の源泉からリスクの源泉へと変化する。家族生活は、かつては、嵐や危機によって振り回される冷たい資本主義世界における避難所であったが、今やその正反対のもの、リスクに満ちた冒険となった。結婚し、家族を形成し、子をもうけるという決定は、個人化の圧力下にある女性および男性にとって計算困難なリスクとなった。…家族は、その成員の社会保障と国民社会の再生産を同時に行う制度であったが、いずれにしてもすでに個人化によるストレスを受けている個人に、さらなる経済的および社会的リスクを負わせる制度へと機能転化した。(30~31ページ)
「リスク社会における家族と社会保障」
・「個人化」とは、人間のアイデンティティがもはや「所与」ではなく「任務」となり、その結果、この任務を成功裏に遂行するかどうか、どのような副作用を伴うかについて、行為者自身に責任が課せられるということである。さらに言い換えれば、諸個人が自分のアイデンティティ、生活史、恋愛関係・生活関係・雇用関係の「日曜大工」となり、(良い意味でも悪い意味でも)自分の生活の状態が自分に帰責される(しかも集団的な危機やシステム上の危機が問題の場合であってさえ)ということである。つまり、個人化とは法的主体としての自律を打ち立てることであって、事実上の自律はまったく含んでいない。もはや人間は自分のアイデンティティのなかへ「産み込まれる」のではない。…人は自分がそうであるところのものにならなければならない(しかも自分の決断で)、というのが原理なのである。これが個人化を──少なくともヨーロッパの近代化における──(第二の)近代の鍵概念にせしめている。再帰的近代化の過程は、この個人化の力学(もしくは近代化の力学──両者は同一のものの二つの側面である)を、階級、家族、ジェンダー役割、さらにネーション、エスニシティ、宗教といった集合的形態に対抗し、徹底化させる。しかもこれは、一部の社会的行為領域──親密性、愛、家族の私的領域など──だけでなく、社会全体──つまり例えば経済、政党、労働組合、教会など──についてもあてはまるのである。(79~80ページ)
・「個人化」は「個性化」とは違う→あくまで特定の社会的類型やモデルへと行動を規格化し、それらを適用せしめるという、能動的な順応主義をも意味するのである。未知の規範の模倣、内面化、適応であって、人々は意味ある他者による承認をめぐって格闘し、けっして「歩調を乱そう」とはしない。(80ページ)
・第一の近代における個人の「解き放ち」「脱伝統化」「脱埋め込み」という意味での個人化にはいつも「再埋め込み」のための「床」に不足しなかった。ところが、第二の近代では、解き放たれた個人を再び「埋め込む」「床」はもはや存在しない。あったとしても、持続的ではなく短期的なものにすぎず、入れ替わりやすく、自分の活動と決断に依存したものである。「フレキシブルであれ!」(81ページ)
・第二の近代においては、個人化は運命であり、選択できるものではない!…その結果、男性も女性も、問題、欲求不満、拒否、懐疑、絶望を、もはや他者に押し付けることができない。しかも、彼らは、自分がそうであり、他ではない(他とはならなかった)ところのもの全てに対して、自身で責任をもたなければならない。かくして、どのように生きるかは「かのように」となる──自分の人生を、耐えきれないほど困難なものにする何かについて、自分の責任であるかのように〔振舞わなければならない〕。どのように生きるかは、システムの矛盾に対して生活史によって答えを与えるということになる。(82ページ)
・以上はあくまでもヨーロッパ・モデルであって普遍化できない。東アジアの「圧縮された」近代化においては、第一の近代の発展と第二の近代への移行はほぼ同時に行われた。
「第2の近代の多様性とコスモポリタン的構想」
・方法的ナショナリズムで社会的不平等性をめぐる配置図を書き直す→ナショナルな境界は、政治的に関連する不平等と無関係なそれとを鋭く区別する。ナショナルな社会内部での不平等は、その認知において途方もなく誇張されるが、同時に、ナショナルな社会間の不平等は消え去っていく。グローバルな不平等の「正統化」は、制度化された「別の見方をすること」に基礎づけられているのである。ナショナルなまなざしは、世界の悲惨を見つめることから「解放」されている。それは二重の排除という方法によって作動している。すなわち、それは排除されたものを排除するのだ。(153ページ)→これが社会科学において正統化されているという問題意識→※ジグムント・バウマン『廃棄された生』と同様の論点。
・リスクとはカタストロフィーについての予想をめぐること。通常、われわれがリスクを眺めるときには、そこには計測の問題があり、計算されるべき不確実性があるが、社会学的観点からみて驚くべき事実は、グローバルなカタストロフィーに対する予想は、われわれが未来を知らない場合でも、世界を変化させつつあることだ。予想とは舞台化を意味し、つまり社会的構築を意味する。それは世論形成において、メディアがリスク・プロジェクトの翻訳と説明にかかわるようにうながす。(155ページ)→リスクの予想はあらゆる種類の巨大な動員力となる。
・コスモポリタニズムの規範とコスモポリタン化の事実という区別の必要。前者は道徳的・倫理的規範であり、後者は経験的かつ理論的な社会科学の論点。コスモポリタン社会学の構想。
・コスモポリタニズムなきコスモポリタン化、個人主義なき個人化。コスモポリタン化と個人化という概念を結びつけて第二の近代を見通していく視点。
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