池上貞子『張愛玲──愛と生と文学』
池上貞子『張愛玲──愛と生と文学』(東方書店、2011年)
華語圏の人気作家・張愛玲といっても日本の普通の読書人にはいまいちピンとこないかもしれないが、例えば映画「ラスト、コーション」の原作者と言えば多少はイメージがつかめるだろうか。中国文学者の藤井省三さんの本だったと思うが、学生のとき張愛玲の作品を読んでいると言ったら中国人留学生から笑われたなんていう回想を読んだ覚えがある。張愛玲作品は台湾・香港などではもともとよく読まれていたが、反共・ブルジョワ作家とみなされていたせいか大陸でも読まれるようになったのは改革開放以降のこと。台北や上海の大きな書店に行くと張愛玲専用の棚もあるから、現在の華語圏で最もコンスタントに読まれ続けている作家の一人である。アカデミックな評価はともかく読者層の厚みという点では、彼女の存在感はひょっとすると魯迅や老舎を上回っているのかもしれない。
張愛玲は1920年、上海に生まれた。李鴻章は曽祖父にあたるらしい。名門の生まれではあっても両親との関係には複雑な葛藤があり、これ自体が張愛玲作品を読み込む上で一つのテーマになりそうだ。ロンドンに留学しようとしたところ第二次世界大戦の勃発により断念、かわって香港大学に入学したが、日本軍の香港占領により上海に戻る。上海で若くして作品を発表。しかし、日本軍占領下の上海にあって発表媒体を選ばなかったこと、また胡蘭成(一時期、汪兆銘政権の宣伝部次官を務めた)と結婚したことなどによって文化漢奸の容疑を受けかねないおそれもあったようだ。その後は主に香港、アメリカで暮らし、1995年、ロサンジェルスの自宅マンションで孤独死しているのが発見された。
ひとむかし前の現代中国文学というとどうしても大文字の政治性が濃厚な印象があるが、対して張愛玲の作品でテーマとして取り上げられるのは結婚や男女関係が中心。そこには儒教的・伝統的な家族観念との葛藤が意識されているし、またコンベンショナルな道徳観念からは自由でどこかシニカルに感じさせる視点も含めて人間の心理描写のこまやかなところは、同時代の他の中国文学とは異質なモダンな印象すら私は受ける。西洋文学への造詣の深さ、それから生まれ育った上海という土地柄の影響もあるだろうか。いずれにせよ、論ずる対象としての間口の広さが彼女の作品にはあって、そうしたあたりは本書に収録された論考を一読してもらえば分かるだろう。私としては、胡蘭成、阿部知二などとの関わりに関心を持った。
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