武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す──秋瑾女士伝』、山崎厚子『秋瑾 火焔の女』
秋瑾というと、日本式の小刀を構え、日本髪を結った和服姿の凛々しい写真が思い浮かぶ。日本留学時に撮影されたものだが、このアンバランスな装いに漂う悲壮感は誰の目にも印象的なようで、日本で彼女を取り上げた本は必ずこの写真を採録している。中国の愛国烈士が日本式の装いをしている写真は考えようによっては奇異でもあるが、秋瑾が留学していたのはちょうど日露戦争の最中で、日本の大陸侵略は本格化しておらず、従って中国では近代化への志がまだ日本への憧れと結び付いていた頃であった。
秋瑾は1875年に紹興で生まれた。魯迅たち兄弟と同郷である。挙人を代々輩出した名家であり、彼女自身も文武に秀でた才能を幼い頃から示していたが、まだ女性の社会進出が認められていない時代、やはり名門の家に嫁いで行った。宮仕えをする夫に従って北京へ行き、ここで出会った人々から大きな影響を受ける。とりわけ、京師大学堂教授として北京に来ていた服部宇之吉の夫人が世話役をしていた夫人たちの社交会に出入りしたことは秋瑾の気持ちにさらなる火をつける。保守的な夫の反対を押し切って1904年、29歳のとき日本へ渡り、下田歌子の実践女学校に入学。東京では革命家たちと交流、男の彼らよりも秋瑾はさらに過激な主張を展開して驚かせる。気持ちの焦る彼女は、実践女学校で留学生の待遇への不満から衝突したこともあって、翌1905年に帰国。故郷の紹興で教師をしていたが、同志である徐錫麟の武装蜂起に連座して、1907年に処刑された。享年33歳。
秋瑾をテーマとした本で、武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す──秋瑾女士伝』(筑摩叢書、1976年)と山崎厚子『秋瑾 火焔の女』(河出書房新社、2007年)の二冊に目を通した。前者が自らの身を殺しても仁をなすというタイプの直情型革命家として描いた評伝であるのに対して、後者は小説形式であり、熱血タイプとして捉える点は同じだが、古い因習にとらわれた女性の地位を解放しようという意気込みに叙述の力点が置かれる。
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