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2011年7月

2011年7月31日 (日)

鄭振鐸『書物を焼くの記──日本占領下の上海知識人』

鄭振鐸(安藤彦太郎・斎藤秋男訳)『書物を焼くの記──日本占領下の上海知識人』(岩波新書、1954年)

 鄭振鐸(1897~1958)は編集者・作家、1935年からは上海・曁南大学文学院長を務めていた。本書は、終戦直後に上海で発行された雑誌『周報』に連載した「蟄居散記」という随筆の翻訳で、タイトルはこの中の一篇による。日本軍の大陸侵略が本格化し、1941年の太平洋戦争開戦以降は上海の共同租界も占領、彼は自宅の一室に息を潜めて蟄居することになる。他方で、重慶政権側と地下で連絡を取りながら文筆活動もしていたらしい。日本軍占領下、いわゆる「淪陥期」の上海を生き残った中国人知識人の記録である。

 抗日テロや漢奸による報復テロが日常茶飯事となった上海。タイトルとなったエピソードは、万一、日本の憲兵による家宅捜索を受けたときに疑われたら困るので書物を焼却処分し、また仕事がないので生活費を捻出するために貴重な書物を売り払ければならない、そうした知識人としては断腸の思いを迫られた体験による。そして、他国に占領された国難への激憤、文中には悔しさで歯軋りする音が聞こえてきそうなほど激しい筆致がおどる。日本軍そのものよりも、日本側に協力したいわゆる「漢奸」への痛烈な批判、逆に非協力を貫いた人物への賞賛(例えば、旧軍閥の呉佩孚)など、占領下での中国人の身の処し方への論評がむしろ目立つ。汪兆銘政権の特務、丁黙邨暗殺に失敗した鄭蘋如のことも出てきた。

 他の漢奸などどうでもいいが、周作人の対日協力はあまりに惜しいと記す。かつて新文学運動で一緒に活動したことがあり、周作人の学識への高い評価があるからだ。ところで、周作人が大東亜文学者大会に参加したと批判しているが、実際には彼は距離を置いていたのではなかったか? 

 漢奸に対してはすべて私利私欲、出世欲といったところに理由を求めて裁断しておしまいという論法で終始している。裏切り者といっても動機がすべて同じではないわけで、裏切り者なりにやむを得ない事情や葛藤があり得るというところまで思考を及ぼさないのは、現在の視点から読むと違和感を思えるところではあるが、これは時代背景からしてやむを得ないか。

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2011年7月28日 (木)

佐藤忠男・刈間文俊『上海キネマポート』、佐藤忠男『キネマと砲聲──日中映画前史』、清水晶『上海租界映画私史』、辻久一『中華電影史話──一兵卒の日中映画回想記1939~1945』、劉文兵『映画のなかの上海──表象としての都市・女性・プロパガンダ』、他

 佐藤忠男・刈間文俊『上海キネマポート』(凱風社、1985年)は、映画評論の佐藤忠男と中国文学の刈間文俊との対談を中心に、それまで日本ではよく知られていなかった中国映画の見直しを図る。中国映画概論的な内容ではあるが、タイトルに上海とあるのはやはり中国では映画の中心がもともと上海だったからであろう。主な作品の梗概が掲載されているので資料的にも参考になる。佐藤が、戦前上海映画のモダニティにエルンスト・ルビッチの影響があるのを知り、同時代の日本映画のモダニティと共通するという意味で近い関係にあると喜んでいるのが興味深い。後半は刈間による中国映画通史。中国に映画が持ち込まれたのは1896年で日本とほぼ同時期、1904年にスペイン人ラモスが上海・四馬路の青蓮閣で上映したのが興行映画の最初であった。当初はフランス映画が中心だったが、第一次世界大戦を転機にアメリカ映画が流入、ハリウッド映画が圧倒的な優勢を誇るようになる。中国の国産映画としては、1913年の亜細亜影劇公司が最初、ただしこの時期は会社としての体制が整っていなかったが、1918年から商務印書館の映画部門が製作を開始、1922年設立の明星影片公司が本格的な映画製作を始める。1930年代が黄金期で、羅明祐が上海で設立した聨華影業製片公司が有力となった。他方、左翼映画も活発となり、国民党政権から弾圧を受けたほか、新感覚派の劉吶鷗たちから映画としての芸術性がないと批判もされた。1930年代後半は日本軍が上海を占領、戦後は国民党が日産接収によって映画関連施設を手中にする。中華人民共和国成立後間もなくの1951年、毛沢東による「武訓伝」批判はその後の右派批判の烽火となった。上海の民間映画会社は徐々に国有化が進められ、1955年には完了した。

 清水晶『上海租界映画私史』(新潮社、1995年)は、清水自身が勤務していた折の見聞をもとに中華電影公司をめぐる経緯をまとめている。川喜多長政が日中の架け橋になろうとしたことには同情的で、他のエピソードも興味深い。辻久一(清水晶・校注)『中華電影史話──一兵卒の日中映画回想記1939~1945』(凱風社、1987年)も同様に中華電影に在籍した映画人の回想である。辻自身もともと映画評論を生業としていたが、1939年に召集されて中支那方面派遣軍の上海軍報道部に勤務、映画部門を担当し、1943年5月に除隊した後も引き続き嘱託として報道部に在籍しながら中華電影の社員となった。1941年12月8日、日本軍の上海共同租界進駐時には川喜多にお願いして一緒に中国人経営の撮影所の接収に回る。その描写には臨場感があるが、川喜多が流暢な中国語で腹を割って話し合い、説得する姿に感心するなど彼の信念への敬意もにじみ出ている。戦後の正統的な中国映画史からは抹消された作品群にもページが割かれる。

 陸軍等の対中国文化工作の一環として1939年、上海に設立された中華電影公司(董事長は汪兆銘政権外交部長の褚民誼が兼任。株式の50%は汪兆銘政権、25%は満映、25%は日本の民間映画会社による投資組合)、その運営責任者としては映画事業の実績ばかりでなく堪能な中国語力が評価された川喜多長政に白羽の矢が立った。彼自身は軍部の方針に対して異論があったが、別の人間が行くと中国に対してもっと無神経なことをやりかねない。やむをえず腹を括って川喜多は上海に渡る。彼は中華電影は配給専門として、自前の映画を製作する意図はなかったという。中国人監督や俳優はもし日本側に協力したら漢奸とみなされてテロの対象になる恐れがあったし、そもそも自前で作っても元々盛んだった上海映画の代用品にはならないと考えたからである。当時、上海の共同租界には日本軍といえども踏み入ることはできず、いわば「孤島」となっており、その中で息を潜めていた抗日的意識を持つ知識人や映画人たちとの関係をつなぎとめておきたいという意図が川喜多にはむしろあった。中国人プロデューサーの張善琨(中国聨合影業公司)と協力関係を築き、彼が製作した「木蘭従軍」は中国の古典を踏まえつつ抗日意識が秘められているのではと日本側当局からにらまれたときにも積極的に擁護、これが中華電影による配給第一作となった。汪兆銘政権による対英米宣戦布告、汪政権への租界返還など日本の政策変化に応じて、1943年5月、中聨など分立していた映画関連会社を合併して中華聯合電影公司が成立、華南・華中の映画製作・配給を一手に担うことになる(華北には華北電影公司があり、こちらは満映の影響下にあった)。引き続き副董事長として実質的な経営にあたっていた川喜多は、逮捕された中国人映画関係者の釈放に掛け合うなど軍部からの圧力への防波堤的役割を果す。華影にいた中国人映画関係者は日本のプロパガンダに協力しないで済み、そのため漢奸容疑を受ける者は出なかったという。国策映画が中心となった満映と中国人の主体性をできるだけ重んじようとした華影、両者の違いはもちろんその置かれた政治力学的コンテクストによるところが大きいだろうが、それぞれの指揮を取っていた甘粕正彦と川喜多長政という二人のパーソナリティーの相違が与えた影響も興味あるところだ。

 こうした戦時下における日中映画人の葛藤については佐藤忠男『キネマと砲聲──日中映画前史』(岩波現代文庫、2004年)が上海の映画界と満洲映画協会をめぐる人物群像にスポットライトを当てながら描き出している。戦後もしばらく残った日本人映画関係者などのエピソードも興味深い。日本による中国侵略というナーバスな事実に配慮して日本映画人の良心を過度に持ち上げる態度は抑えつつも、それでも彼らの努力はできるだけ汲み上げようとしている。中聨や華影で中国人が製作した映画は、上海が日本軍に占領されているという事情から政治性を避けざるを得ず、従って逃避的で低調なものとなってしまったものが多いし、その後の中国における正統的映画史でも批判もしくは黙殺されがちであった。そうした「暗黒時代」の中でも馬徐維邦監督「夜半歌声続集」(1941年)や「秋海裳」(1943年)、「萬世流芳」(1943年)などの作品には映画的にすぐれたものを、時には見過ごされている秘められた抗日意識までも読み取っている。

 劉文兵『映画のなかの上海──表象としての都市・女性・プロパガンダ』〔慶應義塾大学出版会、2004年〕は、ハリウッド映画や戦時中の日本映画に表れた上海イメージから社会主義中国のプロパガンダ映画まで、主に都市や女性の描き方やオリエンタリズムといったテーマに焦点を合わせ、上海という都市がはらんだ映画表象の多元的重層性がステレオタイプの反復によって形成されてきた力学を読み解こうとする。いわゆるレトロモダンな上海イメージは日本、台湾、香港の映画で生み出されつつ、中国第5世代の監督たちがハリウッドの上海イメージに回帰したという指摘は、確かにその通りだなと思った。

 なお、映画という視点から日本と中国の戦後交流史を描いた劉文兵『中国10億人の日本映画熱愛史──高倉健、山口百恵からキムタク、アニメまで』(集英社新書、2006年)、同『証言日中映画人交流』(集英社新書、2011年)も興味深い。例えば、佐藤純彌監督、高倉健主演の「君よ憤怒の河を渉れ」という映画を記憶している日本人は少ないと思うが(私自身観たことがない)、中国では圧倒的に人気があったというギャップ、これはどうしたわけなのかを考えることはそのまま当時の中国社会事情を分析することにつながる。

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2011年7月24日 (日)

【映画】「遥かなるふるさと──旅順・大連」

「遥かなるふるさと──旅順・大連」

 記録映画の女性監督として先駆的に幅広いジャンルの作品を発表し続けてきた羽田澄子さんは1926年の生まれだからすでに80代半ば。心筋梗塞で倒れたこともあり身体的に移動には困難を伴うが、それでも今回選んだテーマは旅順・大連──羽田さん自身の生まれ故郷である。旅順生まれの日本人の運営で日中交流のため現地の小学校への支援を続けている団体が企画したツアー旅行に参加、思い出の地を一つ一つ訪ね歩いていく。

 父親が大連にある学校で教師をしていたため羽田さんはこの地で生まれた。父親の転勤に従って日本に行った後は旅順に定着、戦時中に東京の自由学園に通っていた次期を除くと、1948年の引揚まで旅順に住んでいた。家族がそろって幸せに暮らしていたのは旅順にいた頃だったとしみじみと思い返す。しかし、まさに大陸で戦火が拡大しつつある時期であり、しかも植民者たる立場にあったことを考え合わせると、そのノスタルジーは実に複雑だ。中国の地に暮らし続けていたにもかかわらず、中国の人々の存在がほとんど眼中になかったことへの自覚は、ノスタルジックな感傷の中にもある種の贖罪意識を同時に伏流させることにもつながったのだろう。

 旅順は軍港として外国人の立入りが制限されていたが、近年開放されたこともこの映画を成り立たせるきっかけになっている。往年の建物や遺跡はよく保存されているようだ。水師営の乃木・ステッセル会見の建物が復元されていたり、乃木の息子が戦死した場所の碑文も残されていたりするのは、日本人観光客を当て込んでのことだろうか。ロシア人が残した西洋式の街並や、朝鮮戦争に極秘に参加して戦死したソ連軍パイロットの墓所の存在にも触れるなど、ロシア(ソ連)・日本・中国と三層構造をなす歴史的地層が垣間見えてくるところも興味深い。羽田さん一家がかつて住んでいた家屋は現在アパートのように分割されて3家族が住んでいる。わざわざ日本から訪ねてきたと聞くと、どのお宅も快く中へ招じ入れてくれるのは心温まるところだ。

 大連の旧ヤマトホテル、旧満鉄本社ビルなどは写真やテレビの映像で見たことはある。しかし、かつてこの地に暮らした人の「私語り」を通すと、単に政治史や建築史のコンテクストで見るのとは違って、思わずもらすつぶやきやため息から体感的な空気が浮かび上がる。例えば、かつてのたたずまいを残す壮麗な建築も今では林立する高層建築の前で威厳はかすんでしまっているが、そうしたことへの驚きも素直に伝わってくる。他方で、博物館へ行けば、かつて日露戦争のとき中国人が多数殺されたことを昔ここに暮らしていた時には知らなかったことを今さらのように思い知らされる。「私語り」だからこそ歴史の奥行きが立体的に見えてくる、そうしたドキュメンタリーとして観ながら興味が尽きなかった。

【データ】
監督:羽田澄子
2010年/110分
(2011年7月24日、岩波ホールにて)

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武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す──秋瑾女士伝』、山崎厚子『秋瑾 火焔の女』

 秋瑾というと、日本式の小刀を構え、日本髪を結った和服姿の凛々しい写真が思い浮かぶ。日本留学時に撮影されたものだが、このアンバランスな装いに漂う悲壮感は誰の目にも印象的なようで、日本で彼女を取り上げた本は必ずこの写真を採録している。中国の愛国烈士が日本式の装いをしている写真は考えようによっては奇異でもあるが、秋瑾が留学していたのはちょうど日露戦争の最中で、日本の大陸侵略は本格化しておらず、従って中国では近代化への志がまだ日本への憧れと結び付いていた頃であった。

 秋瑾は1875年に紹興で生まれた。魯迅たち兄弟と同郷である。挙人を代々輩出した名家であり、彼女自身も文武に秀でた才能を幼い頃から示していたが、まだ女性の社会進出が認められていない時代、やはり名門の家に嫁いで行った。宮仕えをする夫に従って北京へ行き、ここで出会った人々から大きな影響を受ける。とりわけ、京師大学堂教授として北京に来ていた服部宇之吉の夫人が世話役をしていた夫人たちの社交会に出入りしたことは秋瑾の気持ちにさらなる火をつける。保守的な夫の反対を押し切って1904年、29歳のとき日本へ渡り、下田歌子の実践女学校に入学。東京では革命家たちと交流、男の彼らよりも秋瑾はさらに過激な主張を展開して驚かせる。気持ちの焦る彼女は、実践女学校で留学生の待遇への不満から衝突したこともあって、翌1905年に帰国。故郷の紹興で教師をしていたが、同志である徐錫麟の武装蜂起に連座して、1907年に処刑された。享年33歳。

 秋瑾をテーマとした本で、武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す──秋瑾女士伝』(筑摩叢書、1976年)と山崎厚子『秋瑾 火焔の女』(河出書房新社、2007年)の二冊に目を通した。前者が自らの身を殺しても仁をなすというタイプの直情型革命家として描いた評伝であるのに対して、後者は小説形式であり、熱血タイプとして捉える点は同じだが、古い因習にとらわれた女性の地位を解放しようという意気込みに叙述の力点が置かれる。

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2011年7月23日 (土)

高橋信也『魔都上海に生きた女間諜──鄭蘋如の伝説1914─1940』

高橋信也『魔都上海に生きた女間諜──鄭蘋如の伝説1914─1940』(平凡社新書、2011年)

 1930~40年代、日本軍の大陸侵略という時代状況下、日中双方の様々な思惑から謀略が渦巻き、テロや戦火で荒廃していく国際都市・上海。いわゆる“魔都”を舞台に有象無象、様々な人々がうごめいていたが、その中でも本書が注目するのは数奇な運命をたどった一輪の花、鄭蘋如である。父は日本留学経験のある中国人法律家、母は日本人、日中混血の生まれとして葛藤しながらも中国人としての愛国意識に目覚めた彼女は、日本語能力や自らの美貌も武器に上海の社交界に打って出る。

 重慶政権のスパイとして汪兆銘政権の要人・丁黙邨に接近、暗殺に失敗して処刑された彼女の姿は、後年、その際立った存在感から様々に脚色されていくことになる。例えば、近年ではアン・リー監督でトニー・レオンが主演した映画「ラスト、コーション」が話題となった。この映画や張愛玲の原作については以前にこちらで触れたことがある。

 本書は、彼女を取り巻く謀略戦の背景と、彼女を主人公としたフィクションの形成過程との2点に焦点を当てながら、彼女の実像と虚像のあわいをたどり返そうとする。私自身としては前者の謀略戦というテーマの方が興味深い。日本側有志が進める汪兆銘擁立工作、激化する抗日テロ、国民党CC団を離脱した丁黙邨や李士群らが日本に協力して逆に抗日テロ弾圧に辣腕を振るった「ジェスフィールド76号」、そして「親日派」内部の勢力争い──こういった上海を舞台とする謀略戦の展開について、鄭蘋如というヒロインを得て描き出されているところが歴史ノンフィクションとして面白かった。

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【映画】「サンザシの樹の下で」

「サンザシの樹の下で」

 高校の実習授業で農村にやって来た静秋は、地質調査隊として同じ村に滞在していた老三と出会った(老三=三番目のお兄さんというのは、二人の下宿先での呼び名)。ひかれ合う二人。しかし、時代は文化大革命のさなか、そろそろ政府の方針が変わりそうな気配はあるものの、やはり油断は禁物。老三の父は失脚はしたが名誉回復をとげた党幹部。対して静秋の両親はブルジョワ知識人として指弾され、父は労働改造所に送られたまま。優等生である静秋は一所懸命に勉強して教員として学校に残りたいという希望を持っているが、どんな難癖をつけられるか分からない。二人の秘密の交際はやがて母に知られてしまい、将来を考えて当面は会ってはいけないと厳しく言いつけられた。しかし、ある日、静秋は老三が白血病で入院したという噂を耳にする。

 文革期のある地方(山峡ダムに水没する地域のようだ)を舞台にしたメロドラマ。一応、純愛ものというのが売りらしい。まあ、ノスタルジックに、健全に、しかし甘ったる~い映画を作りたいという意図はよく見えてくる。清潔感を強調するからこそ、ウブな少女が男から迫られて恥ずかしげにイヤ、イヤ…ってやるシーンに萌えようという趣向か。1970年代の中国の地方都市の情景が再現されているので、文革史に詳しい人には色々と見所があるのかもしれない。

 主人公二人が並ぶと、浅田真央とネプチューンの原田泰造という感じだな。張芸謀だからもっと美少女ものを期待していたのだが。「初恋が来た道」の頃の章子怡はかわいかった…。

【データ】
監督:張芸謀
2010年/中国/113分
(2011年7月23日、新宿ピカデリーにて)

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【映画】「蜂蜜」

「蜂蜜」

 ユスフはまだ小学校に入ったばかり。極度のどもりで、授業中にあてられて教科書の朗読をしてもうまく読み上げられないのが悩み。クラスメートが次々とご褒美のバッジをもらっているのに、一人だけ取り残されそうな孤独感。そんな彼を優しく見守る父と、やや心許なげに見やる母。父は蜂蜜採集の仕事をしている。高い木にも軽々とよじ登り、何事も器用にこなす父を見上げるユスフの眼差しにはいつも憧れの気持ちが輝いている。ある日、良い蜂蜜が採れなくなってきたので遠くの山へと出かけた父が帰ってこない。ユスフを不安がらせまいと自制する母も落ち着かない焦りを隠せない…。

 舞台はトルコの山あいにひっそりとたたずむ小さな村。鬱蒼とした針葉樹林に囲まれ、近くまで迫ってくる澄みわたった青空は、下界よりもさらに異界に近いかのような錯覚すら感じさせる。映画全編を通して音楽はなく、セリフも抑え気味。しかし、風のそよぎで葉っぱがささめく音、渓流のせせらぎ、そして蜜蜂がブンブンうなる羽音、そういった自然の音がストーリー全体を包み込み、山林の雄渾な風景と相俟って、叙情的な美しさが強く胸に迫ってくる。さり気ない仕草も丁寧に描き出され、一つ一つの印象的なシーンの積み重ねから、ユスフ少年の心象風景を静かに浮かび上がらせてくる。ミルクが嫌いで呑めなかったユスフは、母から飲みなさいと言われるたびに、こっそり父に代わって飲んでもらっていた。父を喪い、悲嘆にくれる母の前でユスフがミルクを一気に飲み干すのは、少年期に終わりを告げ、大人へと一歩踏み出す瞬間を示すということなのだろう。

 ユスフがカレンダーを読み上げるシーンが何度かある。日付は2009年、つまりこの映画が製作された時点となっているのはどうしたわけか。この「蜂蜜」という作品は、セミフ・カプランオール監督の「卵」「ミルク」に続く三部作の完結編という位置づけらしい。私は観ていないのだが、「卵」では詩人となったユスフが母の葬儀で帰郷する話、「ミルク」は青年期のユスフの母との触れあいを描いているということで、第三作「蜂蜜」は父を喪った少年期。つまり、時間をさかのぼる構成を通して、皮を一枚一枚剥ぎ取るように詩人ユスフの内面的葛藤の核心へと迫っていくという意図があるらしい。言い換えると、少年期を描いたように見えるこの「蜂蜜」も、実は現時点における詩人の内面的風景を表しているという構成なのだろうか。

 なお、観た後になって初めて知ったのだが、字幕は大阪大学外国語学部の学生さんが担当している。この映画に入れ込んで、監督に自らお願いして配給に至るまで奔走したらしい。

【データ】
監督:セミフ・カプランオール
2010年/トルコ・ドイツ/103分
(2011年7月22日レイトショー、銀座テアトルシネマにて)

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2011年7月21日 (木)

ピーター・へスラー『疾走中国──変わりゆく都市と農村』

ピーター・へスラー(栗原泉訳)『疾走中国──変わりゆく都市と農村』(白水社、2011年)

 アメリカ人ジャーナリストが中国で運転免許を取り、一人でレンタカーを運転して各地をまわった見聞をつづるノンフィクションである。三部構成で、第1部では北京を出発、万里の長城沿いに内モンゴルや河西回廊まで遠出。第2部は北京北郊の村落に長期滞在した記録。第3部では浙江省南部、温州市や麗水市の工場都市で出会った労働者たちの姿を観察する。

 著者は中国語ができるので、人々との出会い、語り合いを通して、フォーマルな交流では見えてこない農村や地方都市における人々の意識の変容を捉えようと努めている。運転途中、ヒッチハイクの人々を乗せることもしばしばあり、著者近影を見ると明らかにアングロサクソン系の顔立ちだが、何度か「中国人ですか?」ときかれたことがあるというのが面白い。ウイグル人、回族、モンゴル人に思われたこともあるという。そんなところで中国の広さを実感してしまうが。

 人々の貧しい境遇を通して中国社会の構造的矛盾も垣間見える。ただし、彼らとの語らいを素直に描き出そうとするのがメインで、社会的不公正告発といったスタンスが前面に出てくるわけではないので、その点では生硬さを感じさせずに読み進めることができる。目の当たりにした光景の一つ一つが丁寧に描写されるところが興味深い。都会の高速道路をあしらったカバーは内容とはイメージがちょっと違うような気がした。

 なお、著者は『現代中国女工哀史』(白水社、2010年。原題はFactory Girls)を書いたレスリー・T・チャンの旦那らしい。この本もなかなか興味深くて、こちらで以前に取り上げたことがある(ただし、私が読んだのは原書)。

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2011年7月17日 (日)

陳祖恩『上海に生きた日本人──幕末から敗戦まで』、高綱博文『「国際都市」上海のなかの日本人』

陳祖恩(大里浩秋監訳)『上海に生きた日本人──幕末から敗戦まで』(大修館書店、2010年)は千歳丸に乗船して来航した幕末の高杉晋作やいち早く上海に進出してた長崎商人、からゆきさんたちから、日本敗戦後の引き揚げまで、上海を舞台に行き交った有名無名さまざまな日本人の足跡をたどる。時系列的な叙述をとりつつ人物的なエピソードもふんだんに取り混ぜられているので興味深く上海史をたどることができる。

高綱博文『「国際都市」上海のなかの日本人』(研文出版、2009年)は上海における日本人居留民の意識構造の変化を分析した論考を中心に集めている。
・時期区分:第一期(前史)は日清修好条規が結ばれた1871年から日清戦争まで、第二期(形成・発展期)は1937年の第二次上海事変まで、第三期(戦時期)は1945年の敗戦まで、第四期(「日僑集中区」期)は引揚まで。
・第一次世界大戦から1920年代にかけて日本人居留民でもおおまかに3つの区分→「会社派」エリート層は旧イギリス租界やフランス租界に居住。「会社派」中間層は会社員で社宅やアパートメントに居住。「土着派」はその他の一般庶民層で虹口・閘北などに居住。
・1906年の「居留民団法」、1907年の「居留民団法施行規則」によって上海租界日本人の居留民団設立→会社派の影響が強い。他方、町内会─日本人各路聨合会→土着派が依拠する「草の根のファシズム」的組織・
・1925年の「在華紡」争議。
・1932年の第一次上海事変→パニックの中、日本人の在郷軍人会や自警団も動員され、中国人民衆への残虐行為。
・日中戦争期における「上海租界問題」:1937年8月13日の第二次上海事変→日本軍が華界を占領、租界を包囲、しかし租界は孤島のように存続→強硬派は接収を主張、国際派は国際都市としての上海の位置付け維持を主張→1941年の対英米開戦で日本軍は共同租界に進駐したが、国際都市としての外観は維持するために工部局の行政は英米人に任せる現状維持。
・上海内山書店小史。
・上海の高校に赴任した英文学者・沖田一の上海郷土史研究の分析を通して、上海日本人居留民の歴史意識の生成を捉える。
・上海居留民社会の敗戦後における意識の変化。
・引揚後のノスタルジーの分析。

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2011年7月16日 (土)

丸山直起『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』、関根真保『日本占領下の〈上海ユダヤ人ゲットー〉──「避難」と「監視」の狭間で』、ウルスラ・ベーコン『ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記』

 かつて上海にいたユダヤ人はおおまかに言って3つのグループに分けられる。第一に中東から来たセファルディ系ユダヤ人。上海に租界が設定されたのとほぼ同時期で、バグダード出身のサッスーン家など商人として活躍、上海の経済界で大きな勢力を築いた。第二に、ロシア革命がおこるとロシア系ユダヤ人が流入。第三に、ドイツでナチス政権が成立すると、中央ヨーロッパ系ユダヤ人難民が迫害を逃れて査証なしで上陸できる上海へとたどり着いた。太平洋戦争が勃発すると、第一のセファルディ系はイギリスとつながりがあったため上海から事実上追い出され、第三の中央ヨーロッパ系は1943年に設定された楊樹浦の指定区域、いわゆる「上海ゲットー」に集められた。

 丸山直起『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局、2005年)は、日中戦争・太平洋戦争時、上海にいたユダヤ人難民に対する日本の政策的対応の分析が主要テーマであるが、上海租界におけるユダヤ人社会の成立から、国共内戦や中華人民共和国成立と同時にイスラエル独立という時代状況の中で彼らがイスラエルへ渡航するまでのタイムスパンにわたって上海にいたユダヤ人社会の歴史を描き出している。国際関係史的な視点をとっている。
 日本軍はユダヤ人「ゲットー」を設定はしたが、ナチスが意図した「最終的解決」まではやっていない。ユダヤ人問題に関しては日独間に協力はなかった。例えば、1937年12月、ハルビンで第1回極東ユダヤ人大会が開催され、満洲国政府やハルビン特務機関のバックアップを受けていた。アメリカ資本導入による産業振興のため日米関係改善手段の一つとしてユダヤ人問題を捉える人々が軍部や財界の一部にいたようだが、これに対してドイツ側は不快感を示していた。ワルシャワ・ゲットーで辣腕をふるったゲシュタポのマイジンガーが上海や日本に来てユダヤ人狩りを要求したとも言われるが、その頃ゾルゲ事件がおこり、ドイツ大使館も巻き込まれていたため日本側はドイツ側に不信感を抱いており、マイジンガーの要求など通る雰囲気ではなかったという事情もある。ただし、安江仙弘の離任以降、日本でも反ユダヤ主義系の人々の主導権が強まったらしい。

 関根真保『日本占領下の〈上海ユダヤ人ゲットー〉──「避難」と「監視」の狭間で』(昭和堂、2010年)は「上海ゲットー」そのものをめぐる構造的力学を分析することで、ユダヤ人難民たちを翻弄した日本側の政治的思惑の背景を浮き彫りにしていく。
・日本のユダヤ問題専門家として知られた陸軍の安江仙弘と海軍の犬塚惟重。ユダヤ人救出を図ったとして評価する向きもあるが、ただし前半生では反ユダヤ主義を鼓吹した過去もあって矛盾が交錯しており、評価は複雑そうだ。二人の間でも対ユダヤ観に相違があり、安江が接点を持ったのが日本に協力したハルビンのユダヤ人であったのに対し、犬塚が接点を持ったのがイギリスに協力的な上海のユダヤ人だった点も指摘されている。二人とも基本的には裕福なユダヤ人を親日に転向させて利用するのが主目的ではあっても、難民としてやってきた人々の窮状も考慮、彼らに生きる場を提供するために自治州の構想も出したが、これは政府や軍部から拒否される。二人は担当から外され、その後に久保田勤が担当者として着任して以降、隔離・監視の体制が強められる。
・1943年2月18日に「上海ゲットー」設置、無国籍避難民=具体的にはナチスの迫害を逃れて来た中央ヨーロッパ系ユダヤ人を集める。
・①ナチスの圧力によるという説、②日本政府自身のユダヤ人監視政策とする説→ユダヤ人だけを特殊とみなした「ゲットー」というよりも、より広い意味で外国人を対象とした治安対策の一環であったと指摘。
・「上海無国籍避難民処理事務所」の分析が本書の中心。パスシステムによる囲い込み→管理システム。外人保甲自警団(Foreign Pao Chia)による監視。
・ロシア系ユダヤ人はソ連成立以降、無国籍者→上海アシュケナジ系ユダヤ人救済協力協会(Shanghai Ashkenazi Collaborating Relief Association=SACRA)が対応。
・「国際政経学会」の反ユダヤ主義や「フリーメーソンの陰謀」言説が国策と連動。メンバーは久保田勤(通敦)、赤池濃、四王天延孝、増田正雄、顧問的に白鳥敏夫など。

 ウルスラ・ベーコン(和田まゆ子訳)『ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記』(祥伝社、2006年)は、1939年にナチスの迫害を逃れて家族と一緒に上海へ逃れ、戦後アメリカへ渡るまで上海に滞在した経験を回想。上海に逃れてきてもナチスの影におびえ、1943年には指定区域へ移住させられる。ゲットー内での厳しい生活を描写。オクラ(オオクラ?)とゴヤ(合屋)という二人の乱暴な日本人役人も出てくる。ゴヤは自ら「ユダヤの王」と名乗る尊大な態度で嫌われたらしい。

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2011年7月14日 (木)

ポーターとかプラハラードとか適当に経営戦略論

 『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2011年6月号の特集は「マイケル・E.ポーター 戦略と競争優位」。ポーターの理論のエッセンスや最近の議論がわかる論文を6本収録。有名な競争優位の戦略論は、要するに、業界構造を正確に把握→差異化により自らを負けないポジションに置くことを戦略の本質と捉え、この応用で議論を展開していると言えるだろうか。

 業界構造におけるポジショニングで優位に立とうとするポーターの戦略論が静態的であるとするなら、これに対して企業が自らの能力を活かしながら市場機会を創出、業界構造そのものを変えていく、そうした動態的な側面に注目しながら戦略論を構築したのが、ゲイリー・ハメル&C・K・プラハラード(一條和生訳)『コアコンピタンスの経営──未来への競争戦略』(日経ビジネス人文庫、2001年)である。コアコンピタンスとは要するに企業の優位性を持続させる核心的・総合的な競争力の源泉のことだが、単に技術力などのハードを指すだけでなく、経営資源のマネジメントなども含め、結果として競争優位をもたらした要因を幅広く捉える概念である。長期的なタイムスパンの中でようやく捉えられる動態的なものであり、業界構造分析の静態的視点とは異なる。ただし、沼上幹『経営戦略の思考法──時間展開・相互作用・ダイナミクス』(日本経済新聞出版社、2009年)でも指摘されているように、両者を排他的な概念と捉えるのではなく、戦略行動のどの側面に重きを置くかによって表れた相違であって、むしろ両者を相補的に考えるのがベストであろう。

 プラハラードはBOPビジネス、つまり貧困層をターゲットとしたビジネスモデルを提起したことでもよく知られている。C・K・プラハラード(スカイライン コンサルティング株式会社訳)『ネクスト・マーケット──「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略』(増補改訂版、英治出版・ウォートン経営戦略シリーズ、2010年)を読みながらメモ。
・BOP(Bottom of the Pyramid)の一日2ドル未満で暮らしている40億人を市場として開発する。大企業の投資力をいかに活用できるのか? 収益を上げつつ貧困を撲滅するという発想。
・貧困者一人一人を個人として尊重するのが出発点。商取引の民主化、一人一人をマイクロ生産者、マイクロ起業家、マイクロ投資家と考える。「貧しい人は犠牲者であり、重荷である」→「彼らは内に力を秘めた創造的な起業家であり、価値を重視する消費者である」と認識を改める。
・BOPの潜在力に働きかけて消費力を創出、ビジネスを展開→新たな製品やサービス開発のチャンス(イノベーション)→貧困者が消費者へと変わると購買のために自ら選択するという行為→「貧困層が自ら選択し、自尊心を養う機会を創り出す」ところにこうしたアプローチの長所。
・BOP市場におけるイノベーション12の原則:①コストパフォーマンスを劇的に向上、②最新の技術を活用して複合型で解決、③規模の拡大を前提、④環境資源を浪費しない、⑤富裕層向けの考えを捨て、求められる機能を一から考え直す、⑥提供するプロセスを革新する(流通の問題)、⑦BOP市場の人々は作業スキルが高くない→現地での作業を単純化、⑧顧客の教育を工夫、⑨劣悪な環境にも適応させる、⑩消費特性に合うユーザー・インターフェースを設計、⑪貧困層にアプローチする手段を構築、⑫これまでの常識を捨てる。
・入手できる情報、選択の自由、契約施行の力、社会的地位における非対称性→貧困層自身の取引統治力を培う。民間企業は資源活用・市場対応力を高めるために市場特性に合わせたシステムを創ろうとする→社会的にもプラスの影響。
・BOPビジネスのケーススタディを豊富に収録。

 なお、上掲『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』「マイケル・E.ポーター 戦略と競争優位」特集の冒頭に掲載された論文、マイケル・E.ポーター、マーク・R.クラマー「共通価値の戦略」は、事業活動と社会的課題とをトレードオフではなく、営利・非営利という境界を越えてビジネス戦略のロジックで捉える。社会のニーズや問題に取り組む→社会的価値を創造→経済的価値へと結びつける。企業の目的は、単なる利益ではなく、共通価値の創出と再定義すべきと言う。

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2011年7月13日 (水)

J・M・ブキャナン、G・タロック『公共選択の理論──合意の経済論理』

J・M・ブキャナン、G・タロック(宇田川璋仁監訳、米原淳七郎、田中清和、黒川和美訳)『公共選択の理論──合意の経済論理』(東洋経済新報社、1979年)

・国家の有機体概念を排除、方法的個人主義を仮定した上で、意思決定において社会の構成員がいかに合意に至るかを経済学的手法で分析した古典的理論書。パレート最適とかゲーム理論とかを私は正確に理解しているわけではないので数式分析の箇所は飛ばし読みしてしまったのだが、要するに、アトム的個人を出発点とした社会秩序形成の論理的可能性を数理モデルを使って検証するのが基本的な趣旨である。言い換えると、社会契約論を数理モデルで構成しなおした議論であり、序文ではロールズの公正としての正議論と同じ方向性を持つと言及している。
・一個人の選択計算は費用のかかるプロセスであり、費用よりも便益の方が大きいと期待できる場合に同意するという効用拡大化仮説をとる。外部費用+意思決定費用=社会的相互依存費用、これが最小になるように、言い換えると期待効用を最大化するように個人は振舞う。
・同意によって成立した秩序構成をconstitutionと呼び、本書では「憲法」と訳されている。もちろん字義通り「憲法」と訳すべき箇所もあるが、人間が一定の振舞いを行なう際に準拠する前もって合意された一連のルールと考えれば、より広く「制度」と解した方が分かりやすいように思った。
・同質性が高い社会→制限の少ないルールを受け入れる。他方、鋭い対立を内包した社会→全会一致に近いルールを伴う意思決定費用の余裕なし。
・所得再配分の共同行為が実際に行なわれていることをどのように説明するかという問題意識。
・一方の得は他方の損というゼロサムゲームではなく、当事者すべてが相互的に得をする経済的交換過程として捉える→相互利益があれば全会一致に基づく社会契約は可能であることを論証。
・合理的個人モデルを議論の出発点としつつも、それは複雑な事象を単純化して人間の社会行動の一側面を把握、モデル化するための方法論に過ぎず、決して万能ではないことを強調している。
・道徳規範的な「べき」論からトップダウン的に政治秩序を構成するのではなく、仮定モデルに基づくにしても実際にいかに「ある」かというところからボトムアップ的な論理構成を目指す議論も特徴と言えるだろうか。

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2011年7月12日 (火)

関志雄『中国を動かす経済学者たち──改革開放の水先案内人』、胡鞍鋼『国情報告 経済大国中国の課題』、樊鋼『中国 未完の経済改革』

関志雄『中国を動かす経済学者たち──改革開放の水先案内人』(東洋経済新報社、2007年)
・計画経済の壁→自由な経済活動は個人の違法行為だが黙認→地方レベルで部分的合法化→全面的合法化、こうしたプロセスの中で経済活動正当化のための理論的サポートを求められて経済学者の需要。
・中国政府に政策提言をしている主流派は効率重視の新自由主義者。他方、格差拡大への懸念から、結果の平等重視の新左派も非主流派ながら庶民の間では人気。両者は経済問題に関してはタブーなく議論。本書では、政策目標を効率に置く新自由主義者→機会の平等重視→結果の平等重視の新左派というグラデーションの中で著名な経済学者を分類。
・計画経済から市場経済への制度移行という問題意識→安定的な市場を暗黙の前提として資源配分のあり方を研究する新古典派経済学ではなく、新制度経済学を導入。例えば、ロナルド・コースの取引費用の理論、ダグラス・ノースの新経済史の理論、ジェームズ・ブキャナンの公共選択の理論など。
・価格改革か(呉敬璉)、所有制改革か(厲以寧)
・張五常(香港大学):所有権を軸に中国経済分析、民営化を主張→新自由主義による経済改革の方向性を示す。経済随筆というスタイルを確立。
・楊小凱(モナッシュ大学):ジェフリー・サックスと共著あり。技術模倣(ex洋務運動)よりも制度革新(ex明治維新)の方が重要→技術模倣に終わって制度設計ができなければ先に進めない(後発性の劣位)→憲政とビッグバン・アプローチを主張。また、銭頴一(カリフォルニア大学バークレー校→清華大学)は健全な市場のために政府を抑制→法治の確立を主張。
・林毅夫(台湾出身で大陸へ亡命、北京大学):民営化よりも前に企業の「自生能力」の育成が前提。漸進的改革を主張。技術移転により低コストでキャッチアップ→後発性の優位。競争的市場では価格が製品と生産要素の希少性・需給関係を正確に反映する→その情報に基づいて比較優位の戦略を立てる。
・胡鞍鋼(清華大学):国情研究。効率重視の市場競争と同時に公平性を確保するため政府の役割→第三の道。
・樊鋼(民間学術機構である中国経済改革研究基金会国民経済研究所所長):市場移行と経済発展の同時進行過程として中国の経済改革を把握。
・朗咸平(台湾出身、アメリカで活躍→香港中文大学)は民営化による国有資産の不当な流出を公平性の観点から批判。対して、周其仁(北京大学)は効率性重視の観点から、そういった問題があっても改革の中止ではなく加速化を主張。

胡鞍鋼(王京濱・訳)『国情報告 経済大国中国の課題』(岩波書店、2007年)
・中国経済が各方面で抱える問題点を概観しながら課題と方向性を示すのが趣旨。
・中国経済の不均衡な発展→環境とのバランス、人を中心としたサステイナビリティなど緑色発展への転換が必要。
・経済成長を牽引するのは都市であり、内需拡大、三農問題の解決などの問題意識→都市化の進展が重要。
・かつては宗族、人民公社といった横のつながり→市場経済化の進展により個体の分断傾向。また、社会的格差の二極化傾向→ソーシャル・ガバナンスの機能不全という問題意識。
・経済環境安定のためには政治の安定、つまり政策決定の制度化が必要。その中に専門家・有識者による諮問メカニズムを確立させる必要。中央集権と地方分権の混合型の公共安全システム構築の必要→国民を第一に、制度化建設を中心に、多様な社会問題に対応できるソーシャル・ガバナンス能力の引き上げを図る。官民摩擦、官の腐敗→クリーンな政治として共産党の施政能力を高める必要。グッド・ガバナンス。
・中国の台頭は平和的台頭・内需型台頭。国際社会の中で中国台頭のインパクト→5つの規模の経済性。巨大人口、労働力と就業の問題、経済規模による誘発効果、対外開放による市場拡大、他方で資源消費の問題は規模の不経済。

樊鋼(関志雄・訳)『中国 未完の経済改革』(岩波書店、2003年)
・いきなり高度な産業は無理。まず付加価値は低くても労働集約的な部門から後発性優位を活かしながら。自力更生よりも海外からの技術移転。国際競争力強化のためには、蛙飛びでハイテクを目指すよりも適正技術。
・地域格差、とりわけ労働移動の障害。大都市の発展→他地域への波及を期待。
・農業問題。自給自足を強調するよりも、低価格の食糧の輸入も考慮すべき。工業化による余剰労働力の吸収。
・市場メカニズムの導入→担い手は専門家の指導(人治)から民衆の自発的行為(制度による調整、契約→法治)へ。
・中国の漸進的改革の特徴阿、旧体制に対する改革が多くの障害によって実施困難な中、旧体制の周辺で新しい経済主体を育成・発展、新体制へ向けた環境整備によって徐々に旧体制を改革→ソ連・東欧のビッグバン・アプローチとは違う。改革の進行過程に応じて目標を常に修正・調整。
・双軌制(二重価格制→既存製品は計画価格、新たに生産された製品は市場価格→市場取引が増えるにつれて計画価格は駆逐、市場価格へ収斂)。
・経済改革が先行、政治改革は遅れている。
・所有制改革では国有企業改革がカギ。「放権譲利」(下級政府や企業に権限を委譲して利益を分ける)→所有者の権限と責任が不明確で失敗。非国有企業の発展による環境変化が前提。
・銀行の不良債権は実質的には国有企業に対する財政補助の役割。中国経済の特徴は、銀行の不良債権の金額が大きく、政府債務と対外債務が相対的に小さいこと。
・改革は政府自らの意志で設計した発展戦略というよりも、多くの主体の利益衝突を反映した「公共選択」の結果。

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2011年7月11日 (月)

李大同『『氷点』停刊の舞台裏』

李大同(三潴正道・監訳、而立会・訳)『『氷点』停刊の舞台裏』日本僑報社、2006年

・共産主義青年団の機関紙・中国青年報の折込附属紙「氷点週刊」は率直な問題提起で本紙よりも人気があったが、2006年1月、当局の指示で停刊させられた。本書は、編集者として当事者であった著者が停刊前後にどのようなやり取りがあったのか、その経過を記した手記である。中国では刊行できないことを見越してだろうか、中文の原文も収録されている。

・停刊の理由は、袁偉時(中山大学教授)の論文「現代化と歴史教科書」の掲載が当局から問題視されたこと。中国の歴史教科書では義和団を帝国主義に抵抗した愛国主義として称賛する一方、彼らの非理性的な性格がかえって欧米列強につけ込まれるきっかけになったマイナス面を無視していると袁教授は指摘、歴史を客観的に考察できない硬直した教科書記述について問題提起をしていた。ところが、中国では歴史の解釈権は共産党にあり、この論文は党や国家の方針に反するものだと批判された。

・学術的議論を一方的に封殺するのは言論の自由に対する圧迫だとして、一般読者や党内改革派も含めて多くの人々が反発。同時期、「氷点週刊」に「你可能不知道的台湾」を掲載したばかりの台湾の作家・龍応台が早速「请用文明来说明我」というタイトルの胡錦濤宛公開書簡を発表(中台統一を妨げているのは台湾の独立派ではなく、言論の自由が許されず「価値観のアイデンティティー」が保障されない中国の社会体制にあると指摘)したのをはじめ、国外のメディアからも批判を受けた。

・こうした批判を当局も気にしてであろうか、3月には「氷点週刊」復刊の許可が出た。ただし、袁偉時批判論文の掲載が条件とされた。これを読んだ袁偉時は早速反論の論文を執筆したが、掲載は許可されなかった。他方で、当局は袁偉時には反論の機会は保障されており中国では言論の自由はゆるやかになっていると声明を出しているという矛盾。

・なお、ふるまいよしこ『中国新声代(しんしょんだい)』(集広舎、2010年)に袁偉時と龍応台の二人へのインタビューが収録されており、この事件を通して考えるべき問題点について語っている。

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2011年7月10日 (日)

トーマス・フリードマン『フラット化する世界』

トーマス・フリードマン(伏見威蕃訳)『フラット化する世界〔増補改訂版〕』上下、日本経済新聞出版社、2008年

・インターネットの普及をはじめ飛躍的な技術革新によって、個人レベルでできる仕事の可能性が大幅に拡大、市場・ビジネス環境を制約していた国境を乗り越えていく趨勢、これによって個人を束縛していたヒエラルキーが水平化しつつある現状を本書はフラット化と呼ぶ。
・すでにおなじみの議論で新味はないと思うが、グローバリゼーションの拡大深化に伴う個人の役割拡大という側面について様々な事例を列挙しながら「フラット」というキーワードで括ってみせたところに本書のアピール・ポイントがあるようだ。
・国際的なフラット化は仕事のルーティンを急速に流動化させる。できることの可能性が広がる→他人も同様→流動化しつつある環境に適応しつつ、コア・コンピテンシーはどこに求められるのか?→個人の創発的な能力。
・フラット化されていない途上国の人々は可能性を奪われている状態。個人にとって必要なのは金銭ではなく自らの可能性を試す自尊心、そのチャンスを広げるべきという指摘には共感できる。
・他方で、フラット化が進むと、個人レベルでの負荷が極端なまでに高まること、またモラル上の自律もますます重要になるのだろう。
・流動的な環境に適応する個人レベルの創発的能力が重要になる見通しを持っている点で、ジグムント・バウマンの『リキッド・モダニティ』をはじめとした一連の議論と基本的な方向は同じだという印象を受けた。フリードマンが技術革新に理由を求め、個人のチャンス拡大を肯定的に受け止めビジネス親和的な議論を展開する一方、バウマンの議論は近代化の進展というパースペクティブの中で捉え、流動的な環境に適応しようと右往左往する個人の負荷が極端に強まっていく悲観的な側面に注目するというところが違う。

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古田和子『上海ネットワークと近代東アジア』

古田和子『上海ネットワークと近代東アジア』(東京大学出版会、2000年)

・19世紀後半、上海は世界経済と東アジア地域経済とを接合する位置にあり、中国という枠組みにはとらわれず東アジア全体にとってのディストリビューション・センター。中国を一つの自己完結的な国民経済と捉えると国境を超えた動態が分からないという問題意識から上海ネットワークに注目。
・上海を中心に放射線状にのびたネットワークの一つとして、例えば神戸(1868年開港)も位置付けられる。イギリス製綿製品→上海で中国商人が仕入れて神戸へ輸出というルート。
・イギリス製綿製品→上海→長崎→朝鮮の開港地というルート(統計上は日朝二国間交易のように見えても上海ネットワークの一環という側面)。
・やがて上海─仁川ルート:山東系の中国商人が仁川へ進出、長崎に居留していた浙江系の中国商人に打撃。
・1870年代にインドのボンベイで近代紡績業→80年代に中国・日本向けに綿糸を輸出。他方、1880年代以降、日本でも紡績工場設立→上海は中国綿花の日本向け輸出元。→「インド紡績業─上海綿糸市場」対「上海綿花市場─日本紡績業」という対立構図。
・上海ネットワークを成り立たせていたのは客幇ネットワーク(新規参入の取引コストを逓減、取引の不確実性を低減)。
・19世紀末~20世紀初頭にかけて日本が国家的バックアップにより黄海交易圏(朝鮮半島・北京方面)を主導、上海ネットワークと対抗する構図に。

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2011年7月 9日 (土)

上海について適当に12冊

 中国の中でもいち早く国際的に開かれて経済的・文化的に顕著な発展を示した一方、それは租界を通じたものであったがゆえに半植民地化という中国史のマイナス面をも体現、光と影の両面を抱え込んだ都市・上海。榎本泰子『上海──多国籍都市の百年』(中公新書、2009年)は1843年にイギリスが租界を設置して以降、約百年にわたる上海の近現代史に足跡を残した人々の姿を国籍別に捉えていく。自由都市としての基盤を築き上げたイギリス人。消費文化的ファッションを持ち込んだアメリカ人。革命を逃れてやって来て音楽・演劇・舞踊などクラシカルな文化をもたらしたロシア人。商人ばかりでなくナチスの迫害を逃れてこの自由都市へ難民として流入したユダヤ人。繁栄期には上海最多の外国人となり、中国との間に愛憎こもごもの関係を持った日本人。そして、政治的・経済的な実力を着実に蓄えながら最終的にこの都市を取り戻す中国人自身。外国から来た人々がそれぞれ何を残していったのか、国際都市上海の多面的な様相が浮かび上がってきてとても読みやすい良書。

 村松伸『上海・都市と建築1842─1949』(PARCO出版、1991年)は豊富な図版や写真を用いながら上海という都市空間の生成過程を分析した本格的な建築史論。最初にやって来たイギリス人はインド経由なのでヴェランダ付のコロニアル様式で邸宅を建てたが、やがて土地柄に合わないことに気づく。アン女王復古様式、ネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式を経て、サッスーン財閥の土地経営戦略はアール・デコ調の高層建築を現出、その摩天楼は古き上海のイメージを形成した。当時の建築の多くを請け負っていたのがパーマー&ターナー設計事務所(横浜正金銀行もここが手がけた)。やがて留学帰りの中国人建築家も育ち、1920年代から中国国内で租界回収の主張が高またのを受ける形で租界に対抗するため孫伝芳、さらには蒋介石が「大上海計画」を提案、しかし上海事変によって計画は頓挫。これを受け継いだのが皮肉なことに日本軍だった。都市計画を委嘱された前川国男がモダニストとして国際様式への意気込みから(日本化を進めた満州国でのやり方には批判的)、日本国内では実現できないプランを持ち込もうとしたらしい。建築にまつわる人物群像も含めて非常に興味深い本だが、少し難しいと感じる人には村松伸(文)・増田彰久(写真)『図説 上海──モダン都市の150年』(河出書房新社、1998年)がおすすめ。増田彰久は建築探偵・藤森照信の本の写真でもおなじみの人だ。建築・都市論としては藤原恵洋『上海──疾走する近代都市』(講談社現代新書、1988年)もある。刊行年は少々古いが、その頃の様子も垣間見えるところが興味深い。なお、本書の著者も路上観察学会の人のようだ。

 劉建輝『増補 魔都上海──日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫、2010年)は幕末以降、日本の知識人が上海体験を通して何を受け止めてきたのか、その精神史的系譜をたどる。当初は上海が租界を通して受容していた「近代性」への憧れ、他方で外国支配への警戒心をかき立てられ、これらは明治維新へと進む駆動力の一つとなった。いったん国民国家形成に成功すると、今度は体制確立による息苦しさから上海の混沌とした「反近代性」(すなわち「魔都」イメージ)にロマンを感じるようになる。上海のモダニズム(摩登)は帰属の曖昧な内外文化の混沌たる状態に由来するわけだが、その混沌を画一性へと収斂させてモダニズムを消滅させたのが、第一に日本軍の上海租界占領、第二に新中国成立による社会主義化、両者の合作によるという指摘が興味深い。

 上海を舞台とした日中の知識人群像については丸山昇『上海物語──国際都市上海と日中文化人』(講談社学術文庫、2004年)が詳しい。尾崎秀樹『上海1930年』(岩波新書、1989年)は尾崎秀実、魯迅、スメドレー、ゾルゲなど、著者のライフワークたるゾルゲ事件関連の人物群像を中心に描き出している。

 海野弘編『上海摩登』(冬樹社、1985年)は1934~35年にかけて上海で出版されたナンセンス系風刺漫画雑誌を採録・再編集。中国語の「摩登」とはモダンの意味。1920~30年代にかけてヨーロッパや日本で花開いたモダニズム文化と共振していた雰囲気がうかがわれて面白い。ただし、ダダ的雰囲気を出そうとしたのだろうけど組版が凝りすぎて少々読みづらい。原本は竹内好の所蔵品らしい。

 荘魯迅『上海 時空往来』(平凡社、2010年)は著者自身の故郷への愛着がこもった眼差しが特徴。古今のエピソードで彩りながら上海の歴史をつづる。こちらまで食欲をそそられる思い出の料理の味わい、そして文化大革命で苦難を味わった家族や自身の記憶、こういった時折交えられる私的エピソードは叙述に体感的な奥行きを感じさせる。

 竹内実『中国という世界──人・風土・近代』(岩波新書、2009年)は中国の文化的特質を総論的に示そうとしているが、近代については上海に代表させて論じている。

 田島英一『上海──大陸精神と海洋精神の融合炉』(PHP新書、2004年)は大陸の中華世界と海洋文化との接点として上海が興隆した背景を捉える。著者自身の留学体験やナショナリズム論なども交えられている。

 渡辺浩平『上海路上探検』(講談社現代新書、1997年)の著者は1980年代初めに上海へ留学、その後90年代に今度は企業の駐在員として上海に滞在。この間の変化を踏まえながら上海の日常生活を紹介してくれる。

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2011年7月 3日 (日)

【映画】「愛の勝利を──ムッソリーニを愛した女」

「愛の勝利を──ムッソリーニを愛した女」

 第一次世界大戦勃発直前の時期、後年の独裁者ベニート・ムッソリーニがまだイタリア社会党機関紙「アヴァンティ(前進)」の編集長だった頃、政府の弾圧にもめげない彼の闘争的な野心に惚れ込んだ女性イーダ。戦争支持を打ち出したムッソリーニは党の方針に反したと批判されて孤立無援、そんな彼が新たな新聞を発行するにあたってイーダは自らの全財産を渡すなど献身的につくす。しかし彼にはすでに家族があり、他の女性にも目移りしてばかり。権力の階段を駆け上がる彼にとってイーダは目障りとなった。彼女は精神病院に押し込められ、歴史の闇へと葬り去られる──。

 男に裏切られて無理やり“狂気”を押し付けられた女性の悲劇──表面的にはそうしたストーリーのように見える。しかし、彼女がそもそも惹かれたのはムッソリーニの狂的なまでのすごみであって、そのデモーニッシュな力への熱狂的な献身は彼女自身のプライドと密接につながっていたのではないか。自分はドゥーチェと特別な関係にある、他の人間とは違うんだという強烈な自意識。それは人的動員にあたって情緒面で作用する重要な要因だ。弊履の如く捨て去られてもなおかつすがり続けるのは、愛なんて美しいものではなく、実はムッソリーニに投影された他ならぬ彼女自身の強烈な自意識過剰であろう。その意味で、彼女を通してファシズムという政治社会現象の心理的一側面を描き出していると言えるだろうか。少なくとも私はそのように観た。

 モノクロの実写映像や過去の映像作品(例えば、ロシア革命のシーンはソ連映画「11月」ではないか)を独特な様式美で随所にコラージュする構成は、時代背景の緊張感を出すと共に象徴的な意味合いをも際立たせる。暗がりの中で人物の表情をとらえるショットが印象的だ。イーダの憂いを帯びた表情、それから彼女と愛し合っている時でさえもギラギラと光るムッソリーニの野心満々の目つき。ベロッキオ監督の映画では以前、過激派によるモロ元首相誘拐・殺害事件を題材とした「夜よ、こんにちは」を観たことがあるが、この映画でも暗がりの中でとらえられた人物それぞれの表情が印象的だった覚えがある。

【データ】
監督:マルコ・ベロッキオ
2009年/イタリア/128分
(2011年7月3日、シネマート新宿にて)

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青木正児『江南春』、中砂明徳『江南──中国文雅の源流』、司馬遼太郎『街道をゆく19 中国・江南のみち』

 江南という言葉でまず思い出すのは、青木正児(「まさる」と読む)が中国文学・文化について薀蓄を傾けたエッセー集『江南春』(平凡社・東洋文庫、1972年)。タイトルとなっている一編は、大正11年の3月から5月まで2ヶ月ばかり、蘇州・杭州・揚州・南京など江南の地に滞在した折の記録。物売りとのやりとりとか、中国人のおのぼりさんから「あの山は何か?」と尋ねられて適当な返事をしてしまったり(方言的な差異が大きいから起こり得たハプニングだろう)、気取らない筆致。他方、現地に行ってみれば夢に見たのとは相違して殺風景だったりすることもあるが、そういうところでも豊かな中国古典の知識からイマジネーションをふくらませて強引にでも何がしかの感興を引き出そうとしているところがなかなか読ませる。

 北方が遊牧民族系王朝に支配され、中華文明の正統は江南に移ったと一般に言われる。中砂明徳『江南──中国文雅の源流』(講談社選書メチエ、2002年)は、南宋の成立以降、北方から移植されて花開いた江南文化が、南北関係の中でなぜ優位になっていったのか、その過程を考察する。都市経済の発展によって社会的流動化が進み、広域的な人の動きが現れる。江南の地における美術市場の形成、出版の普及などの要因はさらに全国規模に押し広げられていく。蘇州の雅、福建の俗という対比が興味深い。

 司馬遼太郎『街道をゆく19 中国・江南のみち』(朝日文庫・新装版、2008年)は蘇州・杭州・紹興・寧波を歩いた記録。『街道をゆく』シリーズはその都度関心のあるテーマの巻を拾い読みしているが、旅の情景描写とそれぞれの土地にまつわる歴史的背景とをバランスよくたくみに織り上げていく司馬遼太郎の筆致には毎回うならされる。古代史に思いをはせ、『空海の風景』を書き上げたときに勉強した仏教史の知識も動員して、海を挟んだ日中交渉史の一端をもさり気なく描き出してしまう。一見さり気ないが、小説を書くときには、たとえば空海や最澄はどんな船に乗ったのか、それはどんな技術水準だったのか、そういったディテールにまでこだわらないとシーンが成立しない。従って事前調査も相当なもので、奥行きのある学識に裏打ちされたイマジネーションが司馬の魅力だと再確認。

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喜多由浩『北朝鮮に消えた歌声──永田絃次郎の生涯』

喜多由浩『北朝鮮に消えた歌声──永田絃次郎の生涯』(新潮社、2011年)

 かつてプッチーニ「蝶々夫人」で三浦環の相手役をつとめ、藤原歌劇団では主宰者・藤原義江と交代で主役をはるほどの実力を持っていたテノール歌手、永田絃次郎。本名は金永吉。植民地時代の朝鮮半島に生まれたが日本で活躍、その後、北朝鮮への帰還事業で帰国したものの行方不明となった永田の生涯を描き出したノンフィクションである。

 1909年、平壌近くの農村で生まれた少年は音楽を志し、東京の陸軍戸山学校軍楽隊に入学、見事に首席で卒業して銀時計をもらった。その後、除隊して通った下八川声楽研究所では東海林太郎と共に頭角を現す。ただし、コンクールには何度挑戦しても二位どまり。植民地出身者への差別待遇があったと言うべきだろう(なお、台湾出身の江文也も同様であった)。それでも彼の実力は広く認められ、一躍スターダムへと駆け上がっていく。

 1960年に永田は家族を連れて北朝鮮へ帰国した。人気に翳りが出てきたため仕切り直しを図りたいという気持ちもあったようだ。帰国当初は、同郷の金日成から可愛がられていたこともあって華々しく活躍できたが、北朝鮮の一筋縄ではいかない国情にやがて直面することになる。外国の歌を歌えなかったり、海外公演へ行かせてもらえない不満がつのる。日本から連れ帰った日本人妻がもらした里帰りの希望は当局者からマークされた。金日成お気に入りという立場は、他の者からの嫉妬をかうことにもなり、永田がかつて日本にいた頃、“軍国主義賛美”の歌を歌っていたことは「親日派」として糾弾の材料となってしまう。やがて彼は表舞台から遠ざかり、1985年に病死。そういった事実が公になったのはようやく2010年になってのことだという。

 芸術家としての永田はただひたすら純粋に歌いたかった。植民地支配下で朝鮮半島出身者が差別待遇を受けていたことに当然反感はあったろうが、そうした時代状況の中でも彼は歌うために「日本人」になりきろうとしたし、逆に北朝鮮に戻ってからは自ら舞台に立つために「日本の悪口」を言うことにもなった。敵か見方か、画然たる態度表明を強いられる政治的アイデンティティーの中で、純粋に“芸術家”であり続ける余地のなかった葛藤、それが永田の生涯から浮かび上がってくる。台湾出身、日本で活躍、その後中国大陸へ渡って文化大革命で迫害された音楽家・江文也と比較しながら考えてみると興味深い。

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