ジョン・へーガン『戦争犯罪を裁く──ハーグ国際戦犯法廷の挑戦』
ジョン・へーガン(本間さおり・訳、坪内淳・監修)『戦争犯罪を裁く──ハーグ国際戦犯法廷の挑戦』(上下、NHKブックス、2011年)
今年の5月末、最後の大物戦犯ラトコ・ムラディッチが逮捕されたばかり、本書の刊行はまさにドンピシャリのタイミングだ。旧ユーゴスラヴィア連邦解体に伴う内戦でエスカレートした凄惨な民族虐殺、その戦争犯罪を裁くため1993年の国連安保理決議によって旧ユーゴスラヴィア国際法廷(ICTY: International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia)が設立された。本書はこのICTYで活躍した検事や捜査官へのインタビューに基づき法廷活動の具体的な展開過程を分析する。上巻頭にはバルカン半島の多民族事情について柴宜弘、下巻末にはICTYの国際法的意義についてICTY元判事でもあった多谷千香子による解説が付されている。
リベラル・リーガリズムに基づく理念を生々しい政治的現実の中で実現するのは、言うは易く実行は甚だ困難である。内戦仲介の和平交渉が進行中であるため当事者の反発を買ってしまうとして外交官のデイヴィッド・オーウェンから妨害されることもあった。そもそも戦犯指名をしても当事各国がそう簡単に引き渡してくれるわけでもない。政治的リスクが高すぎるため他の関与者も及び腰になってしまう。欠席裁判をやったところで単なる象徴的儀礼に終わり、言い換えれば茶番に過ぎないと嘲笑されるだけだ。国際法的規範を具現化させる法廷としての存在意義は希薄になってしまう。
結論から言うと、ICTYはもちろん万全とは言えないにせよ、おおむね成功を収めたと言えるだろう。本書は、国際正義の追求はどうあるべきかという規範的な側面を静態的に述べるのではなく、ICTYの実際の法廷活動がどのような経緯をたどって実効あるものへと軌道に乗り始めたのか、その動態的な側面を描き出しているところに特徴がある。とりわけ主導的なキーパーソンのイニシアティヴに着目し、それが法廷活動に与えたプラスの影響を社会学的・組織論的に分析する視点が主軸となっている。
初代主席検事のゴールドストーンは資金集めや広報活動にふさわしい人物で法廷活動の初発条件を整えた。いったん動き出した法廷組織を軌道に乗せる枠組み作りで大きな貢献をしたのが二代目主席検事アルブールであり、彼女について本書では「規範企業家」という表現も用いられている。例えば、戦犯容疑者が確保できないことがネックとなっていたが、秘密起訴という強硬手段で闇討ち的に大物戦犯を逮捕、成功例を具体的に示すことによって現地駐留のNATO軍の間に「名誉競争」の原理が働き、具体的成果があがり始めた。またコソヴォに入境できなかった問題では、小柄な彼女が国境警備兵と押し問答している姿が世界中に報道されるとセルビア側の非がアピールされるという意図せざる効果もあった。三代目主席検事デル・ポンテはアメリカに働きかけて金融支援の問題をセルビア側にちらつかせることでミロシェヴィッチ引き渡しを成功させた。アルブールが言うように、国際法が合意を優先させるのに対して、戦犯法廷の原理となる刑法の考え方では執行のための強制が問題となる。これは国際法的には未整備の問題領域であり、所与の条件の中でどうやって実効あるアイデアを出すかが重要だったと言えるだろう。
法廷活動に関わった人々の動機の部分について「オルタネーション・エクスペリエンス」という視点が一貫して出てくる。つまり人生に大きな変化をもたらすきっかけとなった経験を指すが、内戦における残虐行為の具体的な調査そのものが彼らにこうした内面的変化をもたらし、法廷活動を続けていく動機として働いていたという分析が目を引いた。
なお、本書ではミロシェヴィッチをはじめセルビア人勢力の戦犯裁判が中心となっている。ただし、彼に比肩する大物戦犯になり得ると考えられていたクロアチア人勢力のトゥジマン、モスレム人勢力のイゼトヴェゴヴェッチなどは捜査対象になる前後にすでに病死しており、また三勢力の中でもセルビア人勢力の軍事力が圧倒的であったため、結果としてセルビア人戦犯裁判が突出した印象になっているという事情があるようだ。セルビア人は残虐な加害者、モスレム人は高潔な被害者という単純な構図が一時流布されたこともあった(この問題については高木徹『戦争広告代理店』を参照のこと)。しかし、実際には一部の政治家・軍人が自らの権力欲のため意図的に煽り立てた恐怖心に人々が駆り立てられて殺戮を行ったという点で三民族とも同様の問題構造がはらまれていたことは、審理を通して明らかにされている(本書の巻頭・巻末それぞれの解説を参照のこと)。
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