【映画】「マイ・バック・ページ」
「マイ・バック・ページ」
1969年、東大安田講堂が陥落。学生運動が高揚している世相の中、新人記者の沢田(妻夫木聡)はドヤ街で体験取材をしていた。編集会議で、現地に入っても他人事の目線でしか見られない自身のもどかしさを吐露すると、何をセンチメンタルなこと言っているんだ!と怒鳴られてしまう。ジャーナリストと言っても所詮、高みの見物に過ぎないのではないか? 後ろめたさを引きずっていたある日、先輩記者・中平(古舘寛治)に連れられて梅山(松山ケンイチ)という過激派の青年に会った。取材後、中平は「あいつはニセモノだな」と言うが、沢田は宮沢賢治やCCRといった共通の関心から彼に親近感を抱き始める。一方、梅山ははったりを重ねて仲間を動かし、革命のための武器奪取という名目で自衛官殺害事件を引起した。沢田はスクープのつもりで単独取材を申し入れたが、社会部記者も同行したところから成り行きは暗転、社の方針として梅山を思想犯ではなく刑事犯とみなすことになり、警察に通報された。取材源秘匿というジャーナリスト倫理を守るべきか。しかし、梅山の“思想”なるものが怪しいことにも薄々気づいている。どうしたらいいのか──。
ある種の目立ちたがり願望から“革命”騒ぎをやりたいだけの梅山、そんな彼に対して現実のうねりに自らコミットしたいという理想を投影しようとした新人記者・沢田──要するに、ヘタレ二人の物語、と言ったら少々酷だろうか。ただ、悪意をもってこんな言い方をしているつもりはない。自らの人間的に未成熟な部分から目を背けようとしたとき“大義”や“理想”といった大きな物語に寄りかかりたくなる、それは若者の時分には当然にあり得ることだ。そこに罠があり、挫折があった。しかしながら、世故を知らず未成熟だったからこそ潔癖な情熱を持ち得たことも確かなのである。この線引きの難しいモヤモヤした葛藤を、正当化するのではなく、かと言って簡単に否定しさってしまうのでもなく、できるだけありのままに見つめようとしたところに川本三郎の原作の魅力があると考えている(→以前にこちらで取り上げた)。
この映画では、原作の良い意味でセンチメンタルなところをたくみにつなぎ合わせてストーリーが構成されている。ストーリー上で大きな話題となる、革命のための暴力の是非、取材源秘匿のジャーナリスト倫理、こういったテーマに私は実はそれほど関心がない。と言うよりも、問題設定として当たり前すぎて深みがあるとは思っていない。それよりも、沢田が事件で会社を退職後、たまたま入った飲み屋で以前にドヤ街での体験取材中に親しくなった仲間と再会し、わけもわからず涙を流してしまうラスト・シーンが私には印象的だった。彼の挫折感と、そこにしんみりと触れ合う人情的機微とが自然に表現されていて、原作にはないシーンだが、結末のつけ方としてとても良いと感じた。
【データ】
監督:山下敦弘
脚本:向井康介
原作:川本三郎
2011年/141分
(2011年6月18日、新宿ピカデリーにて)
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