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2011年6月

2011年6月28日 (火)

エリック・ミラン『資本主義の起源と「西洋の勃興」』

エリック・ミラン(山下範久訳)『資本主義の起源と「西洋の勃興」』(藤原書店、2011年)

・著者はウォーラーステインの弟子で、世界システム論の手法に則って議論が進められる。資本主義の起源をめぐって、マルクス主義や近代化論が産業革命重視・中世経済停滞史観を取り、また師匠のウォーラーステインの世界システム論も16世紀以降にこだわっているのに対して、本書は15世紀以前からすでに資本主義の特徴は見られると指摘、中世からの連続性の中で資本主義の起源や13世紀以降の「西洋の勃興」を捉え返す議論を展開。とりわけ都市国家という要因を重視。
・中国、南インド、北アフリカのイスラーム世界との比較を通してヨーロッパの特徴を捉える。前者の世界においては政治的領域と経済的領域との隔たりが大きく、商人階級が権力に接近するための制度的な居場所がなかった。商人の活動に対する国家による支援の不在。
・ヨーロッパの場合、その居場所が都市国家。ヨーロッパの貴族層は非ヨーロッパ世界の貴族と比べて相対的に貧困→政治的権力に限界→都市は納税等の見返りとして特権や自律性を獲得。富裕な商人や都市に基盤をおくブルジョワジーが政治的権力をもつことが資本主義システムの形成に不可欠な要件。
・都市国家は隣接する農村から安価な原材料、労働力、課税などを獲得→こうした都市/農村関係は後に中核/周辺という関係のプロトタイプとなる。
・富の蓄積自体はアジア、アフリカ、ヨーロッパを通してどの地域でも見られた。しかし、植民地化、搾取、中核による従属的周辺の支配という過程の推進から資本を蓄積するという体系的な政策は、ヨーロッパの商人によって着手された例外的なプロセス。ヨーロッパにおいて都市が隣接する農村を支配→このプロセスが非ヨーロッパ地域へ拡大して、商業的帝国主義に立脚した資本主義システムへの道が現れた。都市国家はこうした動態における「権力の器」として作用→1500年以降はこの役割を国民国家が果たすことになる。

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2011年6月27日 (月)

秋山孝『中国ポスター/Chinese Posters』、武田雅哉『よいこの文化大革命──紅小兵の世界』

 秋山孝『中国ポスター/Chinese Posters』(朝日新聞出版、2008年)は中華人民共和国成立から改革開放、そして四川大地震までに至るポスターの変遷を見ながら中国現代史をたどる。図版が豊富でなかなか見ごたえある。ほとんど例外なく人物画中心で、みんなキリッとした表情。こんなのばかり続くと、かえって不気味ではあるのだが…。人物なしのデザイン中心のポスターは本当につい最近になるまで現れないのだな。それから、どの時代も紅色がふんだんに使われ、とりわけ文革期、赤旗ブンブン振り回してた中、「毛主席安源へ」のさわやかな青色には独特な清涼感を感じてしまった(この絵は牧陽一『中国現代アート』[講談社選書メチエ、2007年]でも見覚えある)。華国鋒をメインにしたプロパガンダ・ポスターはどう見ても様にならず、毛沢東のキャラの立ち方はやはり尋常ではなかったのかと再確認。林彪はどれも帽子をかぶっているのはなぜか。禿頭は腐敗した悪人の決まりキャラなので、帽子で禿を隠さねばならなかったそうだ。失脚・死亡後、林彪批判のポスターでは帽子を取り上げられ、禿頭が強調されることになる。

 武田雅哉『よいこの文化大革命──紅小兵の世界』(廣済堂出版、2003年)が取り上げるのは文革期の少年向け雑誌『紅小兵』。紅衛兵の少年少女、いわばピオニールたちが読者層。ワイワイ、ドタバタ、いたずらしたいお年頃、そんな子どもたちにとってオトナいじめという面白い遊びの格好な口実となったのが文化大革命、と言ったら言い過ぎか? その時々の風向き次第ではあっても、プロパガンダを真に受けた生真面目な突き上げ、これがまた妙におかしみを感じさせてしまうのは、キッチュな時代のせいか、著者の軽妙な筆力のおかげか。ちなみに、本書でも林彪を例として禿頭の図像学に言及あり。

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2011年6月26日 (日)

平井京之介『村から工場へ──東南アジア女性の近代化経験』

平井京之介『村から工場へ──東南アジア女性の近代化経験』(NTT出版、2011年)

 タイ北部の日系工場に潜り込んで行なったフィールドワークに基づくエスノグラフィ。タイ人インフォーマントの家に下宿、工場労働の様子ばかりでなく、稲刈りの手伝いで伝統的な仕事観も実地に観察して比較対照され、さらに女性労働者たちの余暇の過ごし方や家庭生活についての聞き取りも合わせ、工場労働によってもたらされた近代性がタイ農村社会の中でどのように受容されたのかを分析する。人間関係的なプロセスの中でどのような相互作用が起こっているのか、具体的に描き出されているところが興味深い。

 読む前には外国資本による搾取や文化的摩擦といった問題を先入見として持っていたが、実際にはそれほど緊張したものではないようだ。工場システムの中に入っても、農村で働くのと同様な伝統的な行動パターンで現場は動いている。調査対象が農村の中にある工業団地にあるため、労働者たちに自宅通勤が多いこと、また慢性的な労働不足で離職にためらいはなく、こうしたことがマネジメントに対する抵抗力となっているという。また、タイ人労働者は、民族的優位性/劣位性や職位的上下関係よりも業績評価的な眼差しで日本人マネージャーを見ているというのも興味深い。いざとなった時に日本人マネージャーが見せる専門的知識やスキルへの敬意から彼らの権威を承認しているのであって、タイ語がうまくても専門知識の乏しい日本人の指示には従わないらしい。

 日本人とタイ人労働者との媒介者たる通訳や事務員たちの行動様式が目を引く。実際に日本人マネージャーと最も親しい関係を持っているのは他ならぬ彼ら媒介者自身なのだが、タイ人労働者に向かって「日本人はタイ文化を無視して命令ばかりする」と言いふらし、我々/彼らという区別を際立たせることでタイ人労働者の連帯を呼びかけ、抜け駆けを牽制しようとする。日本人マネージャーとタイ人労働者との距離感を広げる一方、自分たちの影響力を強めようという意図があるらしい。

 女性が工場労働に出ることで、一人暮らしを始めたり、自宅から通っていても伝統的な生活様式に従って収入の低い夫への評価が下がったりといった意識上の変化が現れているが、とりわけ「タン・サマイ」という表現で特徴付けられるライフスタイルが興味深い。「最新の、モダンな」といった意味で、都市的なライフスタイルに影響された個人的消費活動を指すが、農村社会における伝統的な規範システムからの逸脱を正当化する機能を持つ。「自分は都会的な女」と誇示することで同僚の間での威信を高める作用も持つが、女性グループの間でこの感覚が広まることにより、文化的伝統の自明性を意識的・反省的に考え直すきっかけともなる。それは「自由になった」という実感をもたらした。同時に、商品経済による組織化の網に巻き込まれ、現実の都市文化に対して周縁的な地位に組み込まれるプロセスであるとも言える。

 調査に協力してくれた日系企業は取引先から製品価格の引き下げを要求されてタイへ進出した中小企業らしい。海外進出を考える企業の担当者が何か参考書を手に取るとしたら、法務・会計・税務といった分野が一般的になるのだろうが、人間や文化といった生ものを相手にせざるを得ない以上、本書のようなエスノグラフィを読んで具体的に起こり得る問題を考えるのも必要だろう。

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アブラハム・H・マズロー『人間性の心理学』『完全なる経営』

アブラハム・H・マズロー(小口忠彦訳)『人間性の心理学』(改訂新版、産業能率大学出版部、1987年)

・人間の向上心→成長、自己実現、健康を得る努力、自己同一性と自律性の探求、卓越への憧れ。
・要素還元的な捉え方で具体的なリストを並べても無意味、有機的全体性の中で中傷的モデルを示す。
・一つの欲求が充足されても更に高度な不満が現れる、その繰り返しで至高体験は持続するものではない。全生涯を通じて何かを欲し続ける存在としての人間。動機付けの複合的な多様性。目標達成による満足は全体的に複雑な動機付けから人為的に取り出した一例に過ぎない。様々な欲求の間には一種の優先序列の階層がある。
・生理的欲求→安全の欲求→所属と愛の欲求(社会的欲求)→承認の欲求(尊敬への欲求)→自己実現の欲求(自身の本性に忠実であること、なり得るものにならなければならない→一人ひとりにとってかけがえのない存在であることで、一般論に還元はできない)。前四者が欠乏動機(D欲求)であるのに対して、自己実現の欲求は存在動機(B欲求)。
・欲求不満をそれ自体として考えても無意味、基本的でない欲求の剥奪と、パーソナリティーへの脅威(自己実現の禁止)とを区別。
・本能か否かという二分法は無意味。生物的遺伝的決定因は存在するにしても、多くの場合、学習された文化によって抑えられる。本能の残り物としての弱い本能的傾向→有害というわけではなく、この潜在可能性を壊さないよう努力することは文化の一つの機能。
・対処行動:手段─目的の道具的な行動。表出行動:無意識の、動機付けられていない行動。
・自己実現的人間の調査:自己中心的というよりも課題中心的な人間。不安定な人々に見られる内観性とは対照的。欠乏動機よりも成長動機で動く→満足や良き生活を規定するのは社会的環境ではなく、内なる個人の自律性。利己的/利他的という二分法は解消された状態。

アブラハム・H・マズロー(金井壽宏監訳、大川修二訳)『完全なる経営』(日本経済新聞社、2001年)

・ユーサイキア(Eupsychia):マズローの造語。現実的可能性や向上の余地、心理学的な健康を目指す動き、健康志向。
・個人の成長→企業は自律的な欲求充足に加えて、共同的な欲求充足をもたらすことが可能。
・自己救済→自分に運命付けられた「天職」をやりとげること。例えば、黒澤明監督の映画「生きる」。こうした志向性はおのずと自己超越、自己を追求すると同時に、無我でもある。自己/利他、内的/外的、主観/客観といった二項対立は解消(仕事の大義名分も自己の一部に取り込まれているのだから)。
・研究課題→「人間の尊厳を奪ったり、損なったりしない組織を作るにはどうすればよいのか。組み立てラインのような非人間的な環境は、産業界では避けることができないが、こうした環境を浄化し、労働者の尊厳と自尊心をできる限り保つためには、どうすればよいのか──」(96~97ページ)。
・マグレガーのX理論(人間は一般に怠惰→管理は命令。低次の欲求に対応)とY理論(人間は本当は働きたい→自発的な創造性を生かす。高次の欲求に対応)はマズローの動機付け、自己実現の理論を応用。晩年のマズローはさらに、経済的欲求の次なる段階として価値ある人生や創造的な職業生活を求めるものとしてZ理論を構想。
・産業的権威主義に対して、自律的な人間モデルによる民主主義的なものとしての「進歩的な経営管理」→ただし、客観的要件がそろっていることが必要。生存的に厳しい社会では権威主義的上司の方が適合的かもしれない。状況に応じて最高の、機能する管理方法を選ぶこと。
・リーダーシップ:その状況における客観的要件を誰よりも鋭く見抜き、そうであるが故に全く利他的な人間が問題解決や職務遂行に最適→安全の欲求、所属の欲求、愛の欲求、尊敬の欲求、自尊の欲求のすべてが満たされた、自己実現に近づいた人間がリーダーとして理想的。そうでない人間は、自身の欲求充足のレベルで右往左往してしまう。
・ルーキー・ルー・タイプ(打ち込むことのない人間)と参加者タイプ。

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ダグラス・マグレガー『企業の人間的側面』

ダグラス・マグレガー(高橋達男訳)『企業の人間的側面』(新版、産業能率短期大学出版部、1970年)

・有名なY理論はマズローの自己実現に至る段階モデルを応用。マズローは本書を読んで自身の心理学的議論が経営論に応用できることを知り、自ら経営論に関心を寄せ始めるきっかけになったらしい。
・統制とは、相手の人間性を自分の望みに合わせることではなく、自分のほうが相手の人間性に合わせたやりかたをすることだと認識してはじめて、統制力が向上する。経営者と従業員との相互依存関係の理解が組織理論では重要。
・X理論:権限による命令統制→従業員のやる気はおきない。温情主義も表面的。一般に人間は怠け者であり、強制・統制・命令がなければ動かない、大衆は凡庸だという人間観。
・Y理論:従業員個々人の目標と企業目標との統合。人間は本来的に仕事をしたい、強制ではなく自ら進んで委ねた目標には責任を持って努力するという人間観。現代企業において従業員の知的能力は一部しか活用されていない→その人間の持つ能力を引き出すのが経営者の手腕。
・参加→部下の潜在能力を信頼し、従業員が決定に影響力を持てる機会と条件をつくる。社内関係の特質、つまり会社の目標を納得させ、自ら進んで工夫を凝らす、自己統制の機会を与えるような環境の整備。
・リーダーシップ:リーダー、部下、会社、社会環境の関係の組み合わせとして捉える。

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2011年6月25日 (土)

【映画】「ファの豆腐」「NINIFUMI」「冬の日」

 何気なく観に行ったテアトル新宿のレイトショー。【movie PAO】という企画で若手監督3人による中篇映画3本立て。

 「ファの豆腐」(久万真路監督)。舞台は下町の商店街。仕事をやめて実家の豆腐屋を継ぐつもりで仕事を手伝っている女性(菊池亜希子)。冬の寒さで早起きはつらそうだが、慣れない彼女を見守る父(塩見三省)の眼差しは温かい。変わらぬ街並、同じような生活リズム。彼女が自転車を引いて豆腐を売りに行き、チャルメラを吹いてもなかなか様にならない。幼馴染みにふられ、気持ちがくじけそうになってもやがて立ち直る彼女の表情の変化、一見平淡のように見える毎日の繰り返しを映し出している中だからこそ、表情の変化がしっかりと捉えられている。菊池亜希子のさり気ないたたずまいが良い。全体的に落ち着きのあるテンポで感情的な機微を描き出しているところが印象深い。今回の3作品の中では一番好きだな。

 「NINIFUMI」(真利子哲也監督)。殺風景な国道沿いの風景が主人公(宮崎将)のすさんだように逃げ場のない心象風景を描き出している、セリフがないだけに風景そのものでよくこれだけ印象的な雰囲気を出しているなあ、と思っていたら、途中からガキのアイドルの撮影風景が紛れ込んだり、後付けのように事件性を強調したり、後半は何だか興醒め。

 「冬の日」(黒崎博監督)。事情があってカメラマンをやめ、東京から故郷へ戻ってきていた女性(長澤まさみ)が旧知のおばさん(風吹ジュン)と再会、話をしているうちに彼女がガンにおかされていることを知り、彼女を撮りたいという気持ちを奮い立たされる、という話。うーん、ストーリー的に当たり前すぎるというか、そもそも長澤まさみが「撮らせてください!」というシーンでの表情が、真剣そうではあるんだけど平板というか、かえって浮き上がってしまって、肝となるシーンの説得力が半減という印象。

(2011年6月24日レイトショー、テアトル新宿にて)

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2011年6月24日 (金)

J.リンス&A.ステパン『民主化の理論──民主主義への移行と定着の課題』

J.リンス&A.ステパン(荒井祐介・五十嵐誠一・上田太郎訳)『民主化の理論──民主主義への移行と定着の課題』(一藝社、2005年)

・非民主主義体制から民主主義体制への移行の完了、定着するまでの政治的プロセスについて諸類型を提示しながら分析した研究。
・民主主義を成り立たせる5つの主要領域:①自由で活力のある市民社会、②相対的に自立した政治社会、③市民社会や政治社会における自由を保障する法の支配、④民主政府に有用な官僚層としての国家機構の整備、⑤制度化された経済社会(国家と市場との媒介)→これらの領域が相互に関連しながら機能しているのが民主主義体制。これらのうち欠如している領域の創出が民主主義への移行、定着に必要だという考え方。
・国家性の問題。ある組織単位の構成員になることを望まない人々の割合が高いと、その中での民主主義の定着は難しくなる。多民族国家において政治的アイデンティティが混在、多民族・多言語・多宗教・多文化→合意形成が複雑→民主主義的規範や制度を幅広く作りあげる必要。
・フアン・リンスはかつて民主主義と全体主義という両極の間のグレーゾーンに固有の内在論理を持つ政治体制を見いだし、それを「権威主義体制」と呼んだ(高橋進『国際政治史の理論』[岩波現代文庫]に議論の要約が示されていた記憶がある)。本書ではさらにポスト全体主義、スルタン主義を追加→民主主義、全体主義、ポスト全体主義、権威主義、スルタン主義という5類型について多元主義、イデオロギー、動員、リーダーシップという4つの側面から特徴づけ。
・非民主主義(全体主義、ポスト全体主義、権威主義、スルタン主義)の4類型から民主主義定着に必要な領域の構築しやすさを分析、移行経路のパターンを検討する。
・移行にあたっての条件→旧体制のリーダーシップ、移行の担い手、国際的影響、正統性と強制の政治経済、憲法制定環境について検討。

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2011年6月23日 (木)

岩崎育夫『アジア政治とは何か──開発・民主化・民主主義再考』

岩崎育夫『アジア政治とは何か──開発・民主化・民主主義再考』(中公叢書、2009年)

・欧米社会をモデルとした政治学理論とアジア各国それぞれに固有の社会的・歴史的事情、両方の視点を軸に東~南アジア諸国における開発体制→民主化(民主主義体制への移行)→民主主義(制度として定着)というプロセスを分析、多様な政治社会の中でも大きな枠組みとなる視点を打ち出すことで議論のたたき台を提示するのが本書の趣旨。
・普遍的公式制度/伝統的・非公式的制度→双方の相互作用によって表れる広い意味での「制度」として捉える二重構造モデル。
・開発体制:経済的開発を正統性として掲げることで、政治分野の権威主義体制と経済分野の国家主導型とが結合された体制。
・開発体制→民主化→民主主義というモデルは、アジアの伝統社会が歴史的な構造変容の中で生起した一連の政治動態であると捉え、それらの諸相を把握するための概念枠組みを段階ごとに整理しながら提示。

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ファリード・ザカリア『アメリカ後の世界』

ファリード・ザカリア(楡井浩一訳)『アメリカ後の世界』(徳間書店、2008年)

・著者は『フォーリン・アフェアーズ』『ニューズウィーク国際版』編集長などを務めたインド出身の著名な国際問題コラムニスト。
・文明史的レベルで現在の国際情勢を俯瞰しながら、アメリカは凋落しているのではなく、アメリカ以外のすべての国が台頭しつつある状況に直面しているという指摘がメインテーマ。
・テロや内戦リスクにおびえる一方で、政治的動揺と経済的繁栄とが共存する現代世界。
・19世紀の大英帝国の覇権は稀有な環境の産物→ドイツやアメリカの台頭に直面して、イギリスはアメリカと争うのではなく、アメリカの台頭に自らを順応させる外交的決断。こうした姿は現在のアメリカが中国の台頭を目の当たりにしているのを髣髴とさせる。
・他方で、当時のイギリスとは異なり、現在のアメリカには軍事的優位性があり、それは財政破綻を招かずに維持されている。しっかりした経済的・技術的基盤、高等教育による人材の吸引・輩出。従って、アメリカ以外の諸国の台頭は世界のGNPにおける占有率を低下させはするが、アメリカの活発な力は維持できる。
・今後は単独主義的なヒエラルキーを求めるのではなく、仲裁者としての役割にシフトすべき。新興諸国を現行の国際システムの枠内にとどまらせて安定化を図るため、アメリカ自身が率先してルールを守る必要。正当性の力→政治課題を設定、自らの政策に向けて他国やNGOの支持を動員できる。

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2011年6月20日 (月)

アナリー・サクセニアン『最新・経済地理学──グローバル経済と地域の優位性』

アナリー・サクセニアン(酒井泰介訳、星野岳穂・本山康之監訳)『最新・経済地理学──グローバル経済と地域の優位性』(日経BP社、2008年)

・邦訳のタイトルは誤解を招きそうだが、原題はThe New Argonauts、つまりギリシア神話でイアソンと共に黄金の羊毛を求めて大海に漕ぎ出したアルゴ船隊員たちの姿に、ハイリスク・ハイリターンをとる現代のハイテク企業家たちを重ね合わせている。
・アメリカのシリコンバレーは開放的で流動性の高い労働市場→個人のナレッジやノウハウが拡大・浸透しやすい。母国を離れてアメリカのシリコンバレーにやって来て、ここのノウハウを吸収、その上で母国に戻ってノウハウを移植、発展させていく企業家たちの行動形態をイスラエル、台湾、中国、インドを具体例として検証。
・シリコンバレーからの頭脳流出と捉えるのではなく、地域横断的なノウハウや技能の循環によって補完的でダイナミックなネットワークが形成されており、それぞれが発展の恩恵を受けていると指摘、頭脳還流と表現。
・地元と遠隔地のノウハウや専門知識を組み替え続けることが今日のグローバル経済で強い地域となるための条件。産業の専門的分化やサプライチェーンの分散化→適応力が必要。
・シリコンバレーのイスラエル人や台湾人は母国へ戻るインセンティブがあるのに対して、イラン人やベトナム人移民起業家たちは戻らない。また、日本やフランスは大企業・銀行中心の企業構造となっており、アウトサイダー的起業家たちの芽を摘んでしまいやすい。シリコンバレーへと向けて出て行くだけでなく、戻っていくインセンティブがあって技術者や企業家たちの国際的循環が生まれる。国際的に双方向的なコミュニティの形成、国際的企業家たちの横断的ネットワーク。

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2011年6月18日 (土)

【映画】「マイ・バック・ページ」

「マイ・バック・ページ」

 1969年、東大安田講堂が陥落。学生運動が高揚している世相の中、新人記者の沢田(妻夫木聡)はドヤ街で体験取材をしていた。編集会議で、現地に入っても他人事の目線でしか見られない自身のもどかしさを吐露すると、何をセンチメンタルなこと言っているんだ!と怒鳴られてしまう。ジャーナリストと言っても所詮、高みの見物に過ぎないのではないか? 後ろめたさを引きずっていたある日、先輩記者・中平(古舘寛治)に連れられて梅山(松山ケンイチ)という過激派の青年に会った。取材後、中平は「あいつはニセモノだな」と言うが、沢田は宮沢賢治やCCRといった共通の関心から彼に親近感を抱き始める。一方、梅山ははったりを重ねて仲間を動かし、革命のための武器奪取という名目で自衛官殺害事件を引起した。沢田はスクープのつもりで単独取材を申し入れたが、社会部記者も同行したところから成り行きは暗転、社の方針として梅山を思想犯ではなく刑事犯とみなすことになり、警察に通報された。取材源秘匿というジャーナリスト倫理を守るべきか。しかし、梅山の“思想”なるものが怪しいことにも薄々気づいている。どうしたらいいのか──。

 ある種の目立ちたがり願望から“革命”騒ぎをやりたいだけの梅山、そんな彼に対して現実のうねりに自らコミットしたいという理想を投影しようとした新人記者・沢田──要するに、ヘタレ二人の物語、と言ったら少々酷だろうか。ただ、悪意をもってこんな言い方をしているつもりはない。自らの人間的に未成熟な部分から目を背けようとしたとき“大義”や“理想”といった大きな物語に寄りかかりたくなる、それは若者の時分には当然にあり得ることだ。そこに罠があり、挫折があった。しかしながら、世故を知らず未成熟だったからこそ潔癖な情熱を持ち得たことも確かなのである。この線引きの難しいモヤモヤした葛藤を、正当化するのではなく、かと言って簡単に否定しさってしまうのでもなく、できるだけありのままに見つめようとしたところに川本三郎の原作の魅力があると考えている(→以前にこちらで取り上げた)。

 この映画では、原作の良い意味でセンチメンタルなところをたくみにつなぎ合わせてストーリーが構成されている。ストーリー上で大きな話題となる、革命のための暴力の是非、取材源秘匿のジャーナリスト倫理、こういったテーマに私は実はそれほど関心がない。と言うよりも、問題設定として当たり前すぎて深みがあるとは思っていない。それよりも、沢田が事件で会社を退職後、たまたま入った飲み屋で以前にドヤ街での体験取材中に親しくなった仲間と再会し、わけもわからず涙を流してしまうラスト・シーンが私には印象的だった。彼の挫折感と、そこにしんみりと触れ合う人情的機微とが自然に表現されていて、原作にはないシーンだが、結末のつけ方としてとても良いと感じた。

【データ】
監督:山下敦弘
脚本:向井康介
原作:川本三郎
2011年/141分
(2011年6月18日、新宿ピカデリーにて)

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リチャード・フロリダ『クリエイティブ資本論──新たな経済階級(クリエイティブ・クラス)の台頭』『クリエイティブ都市論──創造性は居心地のよい場所を求める』『クリエイティブ都市経済論──地域活性化の条件』『グレート・リセット──新しい経済と社会は大不況から生まれる』

リチャード・フロリダ(井口典夫訳)『クリエイティブ資本論──新たな経済階級(クリエイティブ・クラス)の台頭』(ダイヤモンド社、2008年)

・従来型のワーキング・クラスやサービス・クラスが決められた計画に沿って実行する人々であるのに対し、金銭的報酬よりも内発的動機により、意義のある新しい形態や付加価値を作り出していくクリエイティブ階級がこれからの経済の牽引役として重要になっていく。彼らの仕事への意識やライフスタイルを調査を踏まえ、クリエイティブな能力を集める場所=都市が決め手となるというのが本書の趣旨。
・流動的な労働市場の中で、人と仕事とを結びつける場所。寛容性が高く、多様性に富み、クリエイティビティに開かれた地域で経済発展が進む、こうした場所=都市の条件を考える。著者は都市コミュニティのあり方としてジェイン・ジェイコブスに共感。
・クリエイティブ階級とは言ってもエリート主義ではなく、すべての人々は本来クリエイティブであるはずという前提。ワーキング・クラスでもクリエイティブであり得る例として日本の製造現場を例示、日本では現場の労働者自らが工夫をこらしており、そうした現場の力がアメリカの製造業を追い越したと指摘。
・「地域の経済成長は、多様性があり寛容で新しいアイデアに開放的な場所を好むクリエイティブな人々が原動力となる。多様性があればその場所は、さまざまなスキルやアイデアを持つクリエイティブな人々を惹きつける可能性が高くなる。クリエイティブな人々が混じり合う場所では、新しい組み合わせを生みやすい。そのうえ、多様性と集中が重なることで知識の流れが速くなる。より大きな、多様性に富むクリエイティブ資本の集積が、イノベーションの可能性を高め、ハイテク企業の設立、そして雇用の創出や経済成長に結びついていく。」(313~314ページ)

・要するに、世界がフラット化して「場所」が無意義になったのではなく、人々の創発的出会いが経済を成長させる、その出会いの場所として魅力的な都市の存在感がますます大きくなっているという議論。同時に、これは都市の間の格差を広げていくことにもなる。
・クリエイティビティという概念が分かりそうで分からないのだが、私の解釈としては、差異性によって生み出された新奇性・優位性を経済的価値と結びつけることで、これを仕事とする人々が量的に拡大傾向にあるということか。言い換えると、万人が絶え間なく差異を生み出し続けなければならないわけで、ジグムント・バウマン言うところのリキッド・モダニティ、つまりすべてを個人単位に帰責する流動的な社会の加速化を別の視点から実証した議論だと言えるだろうか。
・差異を生み出す人々の創発的出会いの場所を重視している点では、岩井克人『会社はこれからどうなるのか』で指摘された会社の重要性の議論とも比較できるのではないかとも思った。

同(井口典夫訳)『クリエイティブ都市論──創造性は居心地のよい場所を求める』(ダイヤモンド社、2009年)
・現代産業の重要生産要素たるクリエイティビティはどのような都市に集まってくるのか、その条件は何か? 自己実現、個性磨きに役立つ開放性や活気、こうした心理的ニーズから考察。
・クリエイティブな能力は開放的で魅力のある都市に集まる→特定地域に偏りが生じ、都市間の格差がこれから取り組むべき課題であると問題提起。なお、メガ地域については大泉啓一郎『消費するアジア』(中公新書、2011年)でも主要論点となっている。

同(小長谷一之訳)『クリエイティブ都市経済論──地域活性化の条件』(日本評論社、2010年)
・上掲の議論を踏まえて都市の質を考えるため様々な指標を組み合わせながら経済地理学的に因子分析。
・都市の質としての多様性を考察するため「ゲイ指数」「ボヘミアン指数」といった分析指標を導入しているのが面白い。

同(仙名紀訳)『グレート・リセット──新しい経済と社会は大不況から生まれる』(早川書房、2011年)
・1870年代、1930年代に続いて三度目の大不況としての現代。しかし、これまでも不況のたびにイノベーティブな工夫によって乗り切ってきたのだから、今回も新しいテクノロジーと経済システムを作りだしていける。そうした趣旨から上掲のクリエイティブ階級と都市との結びつきについて論じている。

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今週読んだ中国関連本12冊

 ブログ更新を怠っていたからと言って、読書してなかったわけではないんだけど、ここのところ、あまり気合が入っていないのも事実だな、などと思う今日この頃。とりあえず、今週読んだ中国関連本12冊。別に論評しているわけではなくて、単に読んだよ、というメモに過ぎないので、念のため。

津上俊哉『岐路に立つ中国──超大国を待つ7つの壁』(日本経済新聞出版社、2011年)
・中国が直面しつつある課題を「7つの壁」と表現、難易度の低い順番から①人民元問題、②都市と農村との差別的な二元構造、③「官の官による官のための経済」(官製資本主義、国進民退)の行き詰まり、④政治改革は進むのか? ⑤歴史トラウマと漢奸タブー、⑥急激な高齢化「未富先老」問題をどうするか? ⑦世界に受け容れられる理念を中国は語れるのか?といった問題点を指摘。課題ごとに政治・経済・社会的背景を整理・解説してくれるので、現代中国について大きな視点から考えるとっかかりとして勉強になる。
・漢奸タブーという論点に関心を持った。つまり、対日関係について中国内部でも柔軟に考えようとする論者が存在するが、そうした新思考を日本側で「日本はもう謝罪しなくていい、と言っている中国人がいるぞ!」と鬼の首をとったように喧伝→彼らの中国内部での立場を悪化させてしまい、日中関係にとってかえってマイナスになってしまった問題。彼らは漢奸として糾弾されることになってしま、日中提携を考える中国人に「日本はハシゴを外す」というトラウマを残してしまった。汪兆銘を例示。

呉軍華『中国 静かなる革命──官製資本主義の終焉と民主化へのグランドビジョン』(日本経済新聞出版社、2008年)
・天安門事件後、共産党はイデオロギー的革命政党ではなく、政権維持を至上命題とする開発独裁型政党に変身、これに伴って経済界の利益を優先する政策を展開→官製資本主義。いわゆる「三つの代表論」も全民的というよりは経済界との利益的同盟関係を正当化するものだったと指摘。
・一般的に中産階層は民主化支援に向かうと考えられるが、中国の場合、中産階層そのものが共産党によって育成されて恩恵を蒙ってきたため、彼らは共産党支持。共産党はさらに知識階層の取り込みも積極的。共産党はこうした各階層との同盟関係や権威主義的傾向によって弱者階層を押さえ込み。
・他方、体制内部で政治改革への助走はすでに始まっており、2012年以降に本格化するだろうと予測。

丸川知雄『「中国なし」で生活できるか──貿易から読み解く日中関係の真実』(PHP研究所、2009年)は毒ギョーザ事件の騒ぎを受けて刊行された本。中国から輸入されている品目を一つ一つ具体的に取り上げながら、「中国製品は危ない」という誤解を解きほぐしていくのが趣旨。むしろ経済的相互依存関係の進展を強調する。

丸川知雄『現代中国の産業──勃興する中国企業の強さと脆さ』(中公新書、2007年)は、中国における家電、IT機器、自動車といった電機産業を分析。モジュール化等で進展する「垂直分裂」がキーワード。日本が「閉じた垂直分裂」であるのに対して、中国は「開かれた垂直分裂」であると指摘。中国のメーカーは基幹部品を日系メーカー等に依存、ただし見方を変えれば、外国メーカーの力を利用しながらも自立的な企業を生み出した工業化戦略と捉えられる。

大橋英夫・丸川知雄『叢書★中国的問題群6 中国企業のルネサンス』(岩波書店、2009年)
・中国の国有企業、民間企業、外資系企業それぞれの背景や特徴を解説。ルーツをたどれば清朝末期や民国期までさかのぼる企業はあるにしても、1950年代にすべて国有化されたので、民間企業そのものは現代中国では新しい。
・本来なら企業は株主総会や取締役会で意思決定をする。ところが、中国では社内でも共産党の序列の高い者に実権があり、企業は党という企業外の指令で動かされる側面がある。
・税法の体系が未整備であり、通達等で済ませているケースが多い→行政の末端まで税務知識が行渡っていないことが多く、現場の裁量で決着→税負担について予測不可能な要素が大きく、企業経営の方針決定にマイナス。
・モジュラー型製品によって技術的な参入障壁が引き下げられ、労働集約型産業として外国企業の中国進出。工程間分業として東アジア全体で重層的な生産・輸出ネットワークの形成。いったん産業集積が現れると新たな投資を呼び寄せる。→こうした直接投資=貿易連鎖による対中投資急増は、東アジアの雁行形態論による従来の説明とは異なる展開であることを指摘。

郭四志『中国エネルギー事情』(岩波新書、2011年)
・経済成長を支えるためエネルギー資源確保に向けて国家戦略を展開すると同時に、環境汚染や地球温暖化対策も考えなければならない中国のエネルギー事情、その全体像を解説。再生エネルギーに力を入れようとしていると共に、原発も拡大傾向にあるのは気になるところだ。

遠藤誉『拝金社会主義 中国』(ちくま新書、2010年)は、改革開放で国民みんなが一挙に金儲けに向かった中国の、とりわけ結婚、大学と就職、社会的格差の問題を取り上げる。

遠藤誉『ネット大国中国──言論をめぐる攻防』(岩波新書、2011年)は、いわゆる「八〇后」のメンタリティーに目配りしながら、ネット世代の中国を考察、とりわけネットを部舞台として官民攻防戦が興味深い。

麻生晴一郎『反日、暴動、バブル──新聞・テレビが報じない中国』(光文社新書、2009年)は、反日か否かという論点はあくまでも話題の取っ掛かりで、読んでみるとタイトルが醸し出すイメージとはちょっと違う。辺縁の芸術家たち、人権問題や社会活動に地道に取り組む人たちなど、政治的次元ではなかなか見えづらい人々の息吹を汲み取ろうとしたルポルタージュ。

吉岡桂子『愛国経済──中国の全球化』(朝日新聞出版、2008年)は経済や社会問題についてのルポルタージュ。

柴田聡『チャイナ・インパクト』(中央公論新社、2010年)は中国における経済運営の内在的なメカニズムを考察する。

明木茂夫『オタク的中国学入門』(楽工社、2007年)は、と学会レポートと銘打っているだけあって題材はキワモノ的だが、それをとっかかりに中国の言語・歴史・社会について傾ける薀蓄は奥深くて、実はなかなか勉強になる本なのだ。

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2011年6月12日 (日)

イアン・ブレマー『自由市場の終焉──国家資本主義とどう闘うか』

イアン・ブレマー(有賀裕子訳)『自由市場の終焉──国家資本主義とどう闘うか』(日本経済新聞出版社、2011年)

・かつては欧米の多国籍企業が国家という枠組みを超えて国際政治を左右してしまうと言われたことがあったが、近年は傾向が変わってきた。すなわち、新興国の政府保有もしくは緊密な関係にある企業が世界経済の中で台頭しつつあり、これらの政府系企業にとっては市場動向など経済的要件ばかりでなく政治的要素が大きい。こうした政府主導の資本主義経済を国家資本主義と呼び(具体的には中国、ロシア、湾岸首長国など権威主義的傾向のある国家)、従来の日米欧を中心とした自由市場主義を脅かしているという認識を本書は示す。
・自由市場主義と国家資本主義との線引きは明確ではなく、指令経済↔自由市場経済というスペクトルにおいて国ごとに様々なヴァリエーションがある。ただし、①一時的な経済再建・景気刺激策としてではなく長期的・戦略的な政治判断として経済介入を行なう、②個人に市場的チャンスを与えるのではなく、国益や支配者層の目的にかなうように市場を利用する、以上の点で国家資本主義は自由市場主義とは根本的に相違する。
・かつての共産主義とは異なって国家資本主義にイデオロギー的普遍性はなく、あくまでも自国の排他的国益追求のための政策手段に過ぎないので、これらの国々が同盟を組むことはない。
・例えば、中国経済は台頭しつつあるとは言っても、アメリカなど他国の市場への輸出によって成り立っており、内需拡大によってアメリカ依存の関係から脱却することは当面は難しい。このような「経済の相互確証破壊」を意識しつつ、自由市場経済の普及へと働きかけていく方向性を提案。

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角幡唯介『空白の五マイル──チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』

角幡唯介『空白の五マイル──チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社、2010年)

 19世紀以来、内陸アジアには様々な探検家が入り込み、地理的空白はほとんど埋められてきた。しかし、すべてではない。1924年、チベットの奥地、ツアンポー峡谷を探検したキングトン=ウォードが踏破しきれなかった「空白の五マイル」。中国共産党のチベット占領によりこの辺りは外国人の立入が禁止されたが、1990年代から再び門戸が開かれるにつれて、この「空白の五マイル」は改めて脚光を浴び、現代の探検家たちも新たなロマンをかき立てられた。著者もまたそうした魅惑に引き寄せられた一人である。

 19世紀に探検家たちがやって来た背景にはいわゆるグレートゲームの帝国主義政策があり、戦後中国が門戸を閉ざしたのも安全保障上の恐怖心を抱いていたからだとも言われる。そのような政治的背景以外でも、探検家たち個人レベルで考えると、地理学、博物学、宗教的情熱、さらにはロマンティシズム、様々な動機もあるだろう。だが、何よりも、命をかけてでも冒険に飛び込んでいこうとする理屈では割り切れない部分は見逃せない。

 本書の前半ではカヌーで行方不明となった人のことが出てくるし、そもそも著者自身が体力を消耗しきって落命しそうになった切迫感がクライマックスとなっている。トラブル続きの冒険行を描いたスリリングな記述ももちろん面白い。だが、それ以上に魅力的なのは、命がけで冒険に飛び込んでいった自身の心情を内省的に捉え返そうとしているところだ。朦朧とした意識の中でさまよった体験からは、世間的に知られることもなく非業に倒れたあまたの探険家たち一人ひとりが死を目前にした絶対的経験の中で見ようとしたもの、そこを想起させる手掛かりも見えてくるのかもしれない。

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【映画】「バビロンの陽光」

「バビロンの陽光」

 サダム・フセイン政権が崩壊してから三週間経ったイラク。荒涼たる砂漠の中の一本道、車が来るのを待ちながらたたずむ老婆と少年。車の運転手から「邪魔だ、どけ!」と怒鳴られても、老婆は一言も抗弁しない。クルド人である彼女はアラビア語が分からないため、片言ながらもアラビア語ができる孫の少年が代わって交渉する。

 二人は、老婆の息子で少年の父親にあたるイブラヒムの行方を捜す旅路にあった。路上ではアメリカ軍の検問で止められ、バクダッド市内に入るとあちこちで発生する銃声や噴煙に戸惑い、集団墓地では黒服の女性たちが悲嘆にくれている。サダム・フセイン政権下では150万人以上の人々が行方不明となり、身元不明の遺体が次々と発見されている。遺族が抱えた悲しみと和解への道のりを模索するロード・ムービーである。

 この映画の画期点は、アラブ人監督が主人公として敢えてクルド人を選んだところにある。混乱した世情の中でも二人が出会った人々の善意には、観ていて気持ちがホッとさせられるが、とりわけ二人の登場人物が印象に残る。一人は元共和国防衛隊員であったムサ。アラブ人である彼が流暢なクルド語を話すことを老婆が不審に思ったところ、ムサはかつて命令で掃討作戦に加わり、やむを得ずクルド人を殺害した過去を告白し、赦しを請う。老婆から厳しく拒絶されても彼は手助けをしたいと二人についてきて、その気持ちはやがて老婆にも伝わる。もう一人は共同墓地で出会った黒服のアラブ人女性。夫を失っていた彼女は、老婆の言葉は分からないが同じ気持ちを抱えていることはよく分かると語る。

 こうやって文章で整理すると陳腐なように思われてしまうかもしれない。しかし、互いに何とか気持ちを通い合わせようと努力している彼らの姿は、イラクの荒廃した光景の中で目にすると何とも言えず目頭が熱くなるようなものが迫ってくる。時折、少年は伝説の「バビロンの空中庭園」を見たいとつぶやく。廃墟が焼け爛れた世界の中、一人ぼっちとなった彼は一体どこへ向かうのか。

【データ】
英題:Son of Babylon(バビロンの息子)
監督:モハメド・アルダラジー
2010年/イラク・イギリス・フランス・オランダ・パレスチナ・UAE・エジプト合作/90分
(2011年6月11日、シネスイッチ銀座にて)

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【映画】「アトムの足音が聞こえる」

「アトムの足音が聞こえる」

 テレビや映画でさり気なく耳にする効果音。扉をしめればバタンと音がする。ヒールを履いて歩けばコツコツと音がする。しかし、現実には存在しない音はどうやって表現すればいいのか。例えば宇宙を漂う音、体内のミクロな世界で細胞が動く音など、現実にはあり得ないシーンでも効果音が鳴り響くのを我々は当たり前のことのように受け止め、むしろそのシーンに説得力を感じていることがある。効果音の不思議、それをこの映画では次のように定義する──本物よりも本物らしい音、本物を超えた音。

 日本初のテレビアニメーション「鉄腕アトム」で音響効果担当として起用された大野松雄が奔放なイマジネーションで次々と作り出した「音」は音響効果の概念を根本的に変えてしまった。関係者の証言も交えながら、この世ならぬ「音」の世界を切り開いていった大野の生涯をたどったドキュメンタリーである。彼は一時期、カールハインツ・シュトックハウゼンの電子音楽にはまっており、そこから得たインスピレーションも活用されているらしいというのは初めて知った。

 もともと映像の仕事での効果音担当者の地位は低かったらしく、大野が「効果の大野さん」と呼ばれると激怒し「音響デザイナー」という呼称にこだわったというあたりには、自分たちの仕事が正当に評価されていないという不満が込められていたようだ。彼には放浪癖があるのか、借金取りに追われて「亡命」し、表舞台からは姿を消していた。見いだされた現在の彼は、知的障害者施設で合唱指揮をしている。以前、知的障害者を題材とした記録映画の音響効果を担当したとき監督の「上から目線」に反発して、自分自身でこのテーマに取り組み始めたという経緯もあるらしい。この世ならぬ宇宙の音を奔放に追及する姿、同時に「上から目線」を嫌って知的障害者たちの中で交わる姿、両方が一点に結び付いたところに立ち現れてくる大野という人物そのものに不思議な魅力を感じる。音響効果の奥深さを彼の人物的魅力を通して描き出しているところが本当に面白いドキュメンタリーだ。

 音響効果にまつわる人物のドキュメンタリーとしては、以前に観た「テルミン」も面白かった。例えばUFOが出てくるシーンで流れるファーンという音を手かざしで出す不思議な楽器を開発した旧ソ連の科学者の名前でもあり、楽器名でもある。

【データ】
監督:冨永昌敬
2010年/82分
(2011年6月10日レイトショー、渋谷・ユーロスペースにて)

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川本三郎を5冊

 ここ2週間ばかり色々あって疲れておって、久しぶりの更新。リハビリ代わりに川本三郎さんの本を5冊ほど立て続けに読んだ。何と言ったらいいのか、薀蓄の出し方や文章の堅くもなくしかし抑え気味なところが私自身の体感リズムにしっくりくるというのか、読みながら身を委ねていると心地よいのである。

 『言葉のなかに風景が立ち上がる』(新潮社、2006年)は書評エッセイ集だが、文学作品を読解するというよりも、作品世界を成り立たせている風景を見る。風景があってはじめてその中にいる人間模様が物語となって現れる。都市空間との関連で文学を読み解いていく川本さんの視点の先達として、奥野健男『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(集英社、1972年)、磯田光一『思想としての東京 近代文学史論ノート』(国文社、1978年)、前田愛『都市空間のなかの文学』(筑摩書房、1982年)の3冊が挙げられている。『郊外の文学誌』(新潮社、2003年)は東京が拡大しつつある空間としての郊外を舞台とした作品を取り上げている。

 『今日はお墓参り』(平凡社、1999年)は、知名度は低いが興味深い文人・芸術家・映画人・芸能人の短い連作列伝といった感じ。この本はなかなか好きだな。

 『いまも、君を想う』(新潮社、2010年)は、亡くなったファッション評論家・川本恵子夫人への追悼文。はあ、川本さん、奥様にずいぶん甘えっぱなしだったんですなあ、と思いつつ、『マイ・バック・ページ』とはまた違った形で文筆活動に入ったばかりの時期のことをつづっているのは興味を引いた。文学評論として作品の良し悪しを高踏的に分析・批判するのではなく、自分が好きなもの、面白いと思ったものを素直に紹介していけばいいという態度は恵子夫人との会話の中で感じたことだという。なお、彼に物書きになれと勧めたのは松本健一だったらしい。

 『小説、時にはそのほかの本も』(晶文社、2001年)は、あちこちの媒体に掲載された書評を集めたもの。

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2011年6月 2日 (木)

ジョン・へーガン『戦争犯罪を裁く──ハーグ国際戦犯法廷の挑戦』

ジョン・へーガン(本間さおり・訳、坪内淳・監修)『戦争犯罪を裁く──ハーグ国際戦犯法廷の挑戦』(上下、NHKブックス、2011年)

 今年の5月末、最後の大物戦犯ラトコ・ムラディッチが逮捕されたばかり、本書の刊行はまさにドンピシャリのタイミングだ。旧ユーゴスラヴィア連邦解体に伴う内戦でエスカレートした凄惨な民族虐殺、その戦争犯罪を裁くため1993年の国連安保理決議によって旧ユーゴスラヴィア国際法廷(ICTY: International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia)が設立された。本書はこのICTYで活躍した検事や捜査官へのインタビューに基づき法廷活動の具体的な展開過程を分析する。上巻頭にはバルカン半島の多民族事情について柴宜弘、下巻末にはICTYの国際法的意義についてICTY元判事でもあった多谷千香子による解説が付されている。

 リベラル・リーガリズムに基づく理念を生々しい政治的現実の中で実現するのは、言うは易く実行は甚だ困難である。内戦仲介の和平交渉が進行中であるため当事者の反発を買ってしまうとして外交官のデイヴィッド・オーウェンから妨害されることもあった。そもそも戦犯指名をしても当事各国がそう簡単に引き渡してくれるわけでもない。政治的リスクが高すぎるため他の関与者も及び腰になってしまう。欠席裁判をやったところで単なる象徴的儀礼に終わり、言い換えれば茶番に過ぎないと嘲笑されるだけだ。国際法的規範を具現化させる法廷としての存在意義は希薄になってしまう。

 結論から言うと、ICTYはもちろん万全とは言えないにせよ、おおむね成功を収めたと言えるだろう。本書は、国際正義の追求はどうあるべきかという規範的な側面を静態的に述べるのではなく、ICTYの実際の法廷活動がどのような経緯をたどって実効あるものへと軌道に乗り始めたのか、その動態的な側面を描き出しているところに特徴がある。とりわけ主導的なキーパーソンのイニシアティヴに着目し、それが法廷活動に与えたプラスの影響を社会学的・組織論的に分析する視点が主軸となっている。

 初代主席検事のゴールドストーンは資金集めや広報活動にふさわしい人物で法廷活動の初発条件を整えた。いったん動き出した法廷組織を軌道に乗せる枠組み作りで大きな貢献をしたのが二代目主席検事アルブールであり、彼女について本書では「規範企業家」という表現も用いられている。例えば、戦犯容疑者が確保できないことがネックとなっていたが、秘密起訴という強硬手段で闇討ち的に大物戦犯を逮捕、成功例を具体的に示すことによって現地駐留のNATO軍の間に「名誉競争」の原理が働き、具体的成果があがり始めた。またコソヴォに入境できなかった問題では、小柄な彼女が国境警備兵と押し問答している姿が世界中に報道されるとセルビア側の非がアピールされるという意図せざる効果もあった。三代目主席検事デル・ポンテはアメリカに働きかけて金融支援の問題をセルビア側にちらつかせることでミロシェヴィッチ引き渡しを成功させた。アルブールが言うように、国際法が合意を優先させるのに対して、戦犯法廷の原理となる刑法の考え方では執行のための強制が問題となる。これは国際法的には未整備の問題領域であり、所与の条件の中でどうやって実効あるアイデアを出すかが重要だったと言えるだろう。

 法廷活動に関わった人々の動機の部分について「オルタネーション・エクスペリエンス」という視点が一貫して出てくる。つまり人生に大きな変化をもたらすきっかけとなった経験を指すが、内戦における残虐行為の具体的な調査そのものが彼らにこうした内面的変化をもたらし、法廷活動を続けていく動機として働いていたという分析が目を引いた。

 なお、本書ではミロシェヴィッチをはじめセルビア人勢力の戦犯裁判が中心となっている。ただし、彼に比肩する大物戦犯になり得ると考えられていたクロアチア人勢力のトゥジマン、モスレム人勢力のイゼトヴェゴヴェッチなどは捜査対象になる前後にすでに病死しており、また三勢力の中でもセルビア人勢力の軍事力が圧倒的であったため、結果としてセルビア人戦犯裁判が突出した印象になっているという事情があるようだ。セルビア人は残虐な加害者、モスレム人は高潔な被害者という単純な構図が一時流布されたこともあった(この問題については高木徹『戦争広告代理店』を参照のこと)。しかし、実際には一部の政治家・軍人が自らの権力欲のため意図的に煽り立てた恐怖心に人々が駆り立てられて殺戮を行ったという点で三民族とも同様の問題構造がはらまれていたことは、審理を通して明らかにされている(本書の巻頭・巻末それぞれの解説を参照のこと)。

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