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2011年5月 2日 (月)

黄煌雄《蒋渭水傳:臺灣的孫中山》

黄煌雄《蒋渭水傳:臺灣的孫中山》(台北:時報出版、2006年)

 蒋渭水について日本での知名度は低いと思うが、台湾現代史では欠かすことの出来ないキーパーソンの一人である。もともと医者だったが、日本による植民地支配体制下、台湾人の権利向上と自治を求めて非暴力的・合法的な抗日民族運動を指導、孫文の三民主義を信奉していたことから本書のサブタイトルにあるように「台湾の孫中山」と呼ぶ人もいる。1976年に初版の出た本書が蒋渭水の伝記として最初のものだという。三民主義の信奉者だったのだから国民党政権の後押しでもっと研究の厚みがあってもよさそうなものだが、抑圧的な政治体制を批判する彼の主張はどうやら戦後国民党政権のやましさに引っかかっていたらしく、しばらくタブーとなっていて、本格的な見直しが始まったのは戒厳令解除後のことだという。

 蒋渭水は1891年、宜蘭の生まれ。父親の方針で幼い頃から漢文教育を受け、文化的アイデンティティとしての漢民族意識を濃厚に身にまといながら育った。こうした教育環境のため公学校に入ったのは16歳のときと遅かったが、2年後には総督府医学校に入学する。在学中に中国で辛亥革命がおこり、政治社会問題に積極的な関心を寄せ、例えば同級生の杜聡明たちと一緒に袁世凱暗殺計画を立てたこともあったらしい。卒業後はしばらく宜蘭医院内科に勤務した後、1916年に台北で大安医院を開業(大稲埕太平町3丁目28番地、現在の大同区延平北路二段、義美本店あたり)。また酒場の春風得意楼も併設して経営し、これは政治関係の集会場の役割を果たした。

 1921年春から台湾議会設置請願運動が始まると趣意書を見て蒋渭水も同意し、同年10月17日に旗揚げされた台湾文化協会に参加、第3次(1923年)と第5次(1924年)には自らも委員として東京へ赴いた。文化協会の機関誌『台湾民報』に論説を発表、創刊第1号には「臨床講義」と題して台湾総督府を風刺。1923年におこった治警事件で仲間と共に起訴されて入獄(獄中では読書にいそしむ。様々な書籍の中には明治維新関連の本もあり、治警事件を安政の大獄になぞらえていたりするのも面白い。幸徳秋水『基督抹殺論』も読んだようだ)、これはかえって台湾民族運動の気運を高めることになった。このときには「入獄日記」「獄中随筆」を発表。世界の平和のためには東洋の平和、アジア民族連盟が必要であり、そのためには中華民族にして日本国民である台湾人は日華親善の役割を果たすべきところからひいては世界平和のカギとなる、こうした目標に向けて台湾人の「智識的営養不良症をなおす」すなわち啓蒙が必要という趣旨のことも書いている。一般の人々の啓蒙という目的から、『台湾民報』のほか、講習会を開いたり、文化書局という書店を開いたりした(1926年、中国名著として孫文、梁啓超、胡適、梁漱冥、章太炎など、それから日本語で社会科学書)。

 1925年、サトウキビ栽培農家が要求をはねつけた会社側と対立・衝突、警察が介入して多数の逮捕者を出す事件がおきた(二林事件)。このとき弁護のため布施辰治のほか労農党幹部だった麻生久も来台、講演活動なども行ったが、日本における無産運動の左右対立図式も台湾に持ち込まれた。こうした雰囲気の中、1927年に台中公会堂で開かれた臨時総会で階級闘争路線を主張する左派の突き上げから文化協会は分裂(左派が乗っ取った新文協が矢内原忠雄講演会を妨害したこともあったらしい)。蒋渭水もまた新文協から批判されたが、彼自身としては農工階級に依拠しつつも、三民主義を基礎として民族運動・全民運動を進めるべきだという考え方をとる。こうした考えから新たな政治組織の結成に動き出したが、1927年2月に自治主義を主張する台湾自治会は総督府から禁止され、さらに台湾同盟会も禁止、5月に台政革新会、台湾民党を旗揚げして政治的・経済的・社会的解放を主張したが、やはり民族主義団体とみなされて禁止された。用意した綱領から文言を削りに削った挙句、「1.確立民本政治 2.建設合理的経済組織 3.改除不合理的社会制度」→これなら宜しいと総督府は了解、ようやく1927年7月10日に台湾民衆党が成立した。ただし民族主義者の蒋渭水が主導権を握るとまずいから彼の参加は認めない、と総督府は条件を出してきたが、この留保条件は結党大会で否決、蒋渭水は委員に選ばれた。基本的な考え方としては、台湾の政治的・経済的・社会的自治を要求、その前提として台湾社会への啓蒙活動も意図、具体的には男女平等、教育の普及、科学知識普及による迷信悪習の撲滅、阿片禁止など。

 しかしながら、1931年2月18日に台湾民衆党も結社禁止となった。蒋渭水は病気に倒れ、同年8月5日に台北医院で大勢の親族知己が集まる中で息を引き取った。枕元には杜聡明、蔡培火などもいた。死因は傷寒病(腸チフス)で、法定伝染病であったため火葬にされた。このときばかりは台湾民族運動を糾弾してきた総督府の御用新聞も蒋渭水の熱血ぶりを賞賛する弔辞を載せたという。8月23日には台湾史上初めての大衆葬が行なわれて大勢の支持者が集まり、大稲埕には警官隊も出動して大騒ぎとなった。なお、彼が迷信打破のため合理的な葬儀を遺言していたことなどは、胎中千鶴『葬儀の植民地社会史─―帝国日本と台湾の〈近代〉』(風響社、2008年)に出ていた覚えがある。

 蒋渭水は中国革命の進展と日本における大正デモクラシーの動向に注意しつつ、さらに社会主義勢力が広がり始めると階級闘争路線をとる文化協会内左派の分派活動に直面、そうした勢力もできるだけ取り込めるように全民運動の必要を主張、その理論的支柱は孫文の三民主義に求められた。こうした背景を踏まえつつ彼の思想活動の特徴としては、第一に漢民族アイデンティティの強さが挙げられ、自ら経営していた文化書局には孫文をはじめとした中国の思想家の著作を積極的に置いていた。他方で労農問題など社会科学に関する日本語文献も多数置き、自ら体験している台湾社会の具体的状況を踏まえながら両方のジャンルを総合的に摂取、そこから台湾における政治社会運動の方向性を打ち出そうとしていた。「以農工為中心的民族運動」→全民運動と階級闘争の同時進行として民族運動を展開する。また、「防止小児病老衰病、把持理想、凝視現実的原則」という考え方からバランスをとるべきことを強調していた。性格的には物事を徹底的にやらなければならない熱血漢であったこと、台湾民衆党の結成後は党の規律への絶対的忠誠を求めていたことなども指摘されている。

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