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2011年5月 4日 (水)

国分拓『ヤノマミ』

国分拓『ヤノマミ』(日本放送出版協会、2010年)

 ブラジル、アマゾンの奥地に広がる未踏のジャングルで暮らす先住民、ヤノマミ。欧米人によって「発見」される以前からの伝統的生活風習を保持しているのはほとんど彼らだけとなっているらしい。意思疎通可能なレベルでポルトガル語を話せる人は限られており、中には「文明」を知らず隔絶された集団もまだ存在しているともいう。本書は、ヤノマミの一集落ワトリキで断続的に計150日間住み込みで観察したNHKのドキュメンタリー番組がもとになっている。

 カメラがこうやって入っているのだから拒まれたわけではないだろうが、かと言って歓迎されているわけでもない。原始的生活=パラダイスみたいな夢想を抱いている人もいまどきいないだろうが、紀行番組でよく見かけるようなプリミティブな人々の親切な笑顔なんてものはない。時には関係が険悪化して数キロメートル離れた保健所に退避、冷却期間を待つこともしばしば繰り返される。生活のロジックが異なるのだから、不測の事態に備えなければならない。

 死と性にまつわる観察が目立つ。人間生活の根源に関わるところだ。性生活はむしろ旺盛に営まれているのに、どれだけ子供を生んでいるかというと、年子は見当たらないという。産まれたばかりの子供は精霊であり、育てる余裕のない場合、ただちに天へと返される。産んだばかりの母親自身が自ら子供の首を絞めて。その瞬間を目の当たりにした著者たちは衝撃を受けつつも、目を背けまいときばる。周囲に集ったヤノマミの人々の屈託のない表情との対照が印象的だ。彼らが悲しみなど人間的感情を持ってないわけではない、ただ彼らなりに感情を処理するロジックがあり、それが我々と同じとは限らない。使い古された文化人類学的相対主義と言われてしまうかもしれないが、当たり前のこととばかりに浮かぶ屈託のない表情と死や暴力が紙一重で共存している。他方で、人間が生きて死ぬあり様がむき出しになっている彼らの生活態度を、素直には受け止められずに改めて驚いている我々がここにいる、そのことへの二重の驚き。世界があらゆるレベルで「文明」化=均質化されつつある現代、こうした驚きに直面できるだけの文化人類学的素材はもはや乏しくなりつつあるのだろうか。

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