福岡伸一『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』『動的平衡』
流行りものはほとぼりがさめた頃に読むという微妙にへそ曲がりなところがあるので、福岡伸一の評判はもちろん知っていたものの、今さらながら『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)、『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書、2009年)、『動的平衡』(木楽舎、2009年)と立て続けに読んだ。確かに面白かった。科学啓蒙エッセイとして秀逸だと思う。研究者の世界の徒弟制度など、ある種薄暗いドロドロした部分も絡めて描き出しているところも興味深い。
生物と無生物のあいだとは要するにウィルスを指し、無機的で硬質なものであってもDNAによる自己複製能力を持っている点で「生命」の定義には合致するとされているらしい(議論はあるそうだが)。しかし、ウィルスには「生命の律動」が感じられない。この「生命の律動」という言葉が喚起するイメージを、科学的な解像度を損なわない形で描写していけるか。そうした試みとして「生命」のあり方を探究していくところに福岡さんのエッセイの方向性がある。
例えば、次の一文がある。「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる」(『生物と無生物のあいだ』163ページ)。「流れ」と「淀み」という表現が良い感じ。絶え間ない流れでありつつも、そこに一つの秩序が成り立っている。その秩序が維持されるためには、自己複製という手順をたどりながら常に壊され続けなければならないという逆説がある。そこから「生命とは動的平衡にある流れである」という定義が導き出されてくる。
どうでもいいが、『動的平衡』を読んでいたら、カニバリズム忌避についてこんなことが書いてあった。要するに、病原体を選択的に受け取る機能を持つレセプターは種によって異なる。従って、他の種の肉を食べたからといって必ずしもその肉の持っている病原体に感染するわけではないが、同じ種同士だと肉の中にある病原体をすべて受け容れてしまうことになる、という生物学的根拠も考えられるという。
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コメント
はじめまして
いつも興味深い書籍のご紹介を有難うございます。
この記事の“どうでもいい”部分にことのほか関心をもってしまいました(笑)。
倫理や社会規範をこえた何がしかの理由があるように感じつつ、なかなか関係文献を探すことができずにいたのですが、『動的平衡』、是非読んでみようと思います。
東海村臨界事故に関する書籍(「朽ちていった命」)によると、患者はDNAによる自己複製能力が失われ死に至ったのだそうで、だとすると、生きながら生命でなくなっていたということでしょうか。
『生物と無生物のあいだ』も再読してみます。
投稿: 鈴木 | 2011年6月 1日 (水) 06時15分
コメントをありがとうございました。
『動的平衡』も、タイトルはかたいですが、内容的には連載エッセイを一冊にまとめたものなので、色々面白いエピソードが盛り込まれていました。
生命という現象の不可思議、その魅力をたくみにとらえていく福岡さんの筆致は本当に良いなあと思っています。
投稿: トゥルバドゥール | 2011年6月 1日 (水) 09時52分