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2011年5月

2011年5月29日 (日)

大泉啓一郎『消費するアジア──新興国市場の可能性と不安』

大泉啓一郎『消費するアジア──新興国市場の可能性と不安』(中公新書、2011年)

・著者は前著『老いてゆくアジア──繁栄の構図が変わるとき』(中公新書、2007年)で少子高齢化はアジア諸国共通の課題だと指摘していた。他方で、アジア各地の大都市の躍動感あふれる若々しさとのギャップをどのように捉えたら良いのか。本書はこうした問題意識から、国レベルで平均化された経済指標ではなく、メガリージョンやメガ都市と地方・農村との相違、さらには両者の分断が進行しつつある現状に注目しながら、アジア経済のダイナミズムとその背景に伏在する問題を把握しようとしている。
・「ボリュームゾーン」(売れ筋商品の市場)→アジアで拡大しつつある中間所得層に着目して、機能の簡素化などのコストダウンによって販売網を開拓→ボリュームゾーン・イノベーション。現地のニーズに合わせて機能を調整。
・BOP(Base of Pyramid)ビジネスや外国企業による需要掘り起こし、通信手段発達による消費意欲の向上、大量生産・技術革新による製品価格低下→アジアの消費市場拡大。
・たとえて言うと「メガ都市」は東京都、「メガリージョン」は埼玉県、千葉県、神奈川県などを含めた東京経済圏に相当する。このような裾野の広がりを持った北京、上海、バンコク、クアラルンプールといったメガ都市の国際競争力がアジア経済成長の牽引力となっており、その成果がさらに地方・農村まで浸透するかどうかが課題となる。
・タイのタクシン政権は、メガ都市・バンコクの牽引力を強化するため競争戦略を採用した一方、それによって取り残されかねない地方・農村にも目配りした政策を実施、この点で「中進国の課題」を正確に捉えていたと言える。ところが、都市内部の低所得層は軽視されてしまい、これが政治的不安定要因につながってしまったという。メガ都市・メガリージョンは経済成長の重要な牽引役であるが、それを支える社会基盤はあまり強くないという課題が指摘される。

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2011年5月25日 (水)

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』『動的平衡』

 流行りものはほとぼりがさめた頃に読むという微妙にへそ曲がりなところがあるので、福岡伸一の評判はもちろん知っていたものの、今さらながら『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)、『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書、2009年)、『動的平衡』(木楽舎、2009年)と立て続けに読んだ。確かに面白かった。科学啓蒙エッセイとして秀逸だと思う。研究者の世界の徒弟制度など、ある種薄暗いドロドロした部分も絡めて描き出しているところも興味深い。

 生物と無生物のあいだとは要するにウィルスを指し、無機的で硬質なものであってもDNAによる自己複製能力を持っている点で「生命」の定義には合致するとされているらしい(議論はあるそうだが)。しかし、ウィルスには「生命の律動」が感じられない。この「生命の律動」という言葉が喚起するイメージを、科学的な解像度を損なわない形で描写していけるか。そうした試みとして「生命」のあり方を探究していくところに福岡さんのエッセイの方向性がある。

 例えば、次の一文がある。「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる」(『生物と無生物のあいだ』163ページ)。「流れ」と「淀み」という表現が良い感じ。絶え間ない流れでありつつも、そこに一つの秩序が成り立っている。その秩序が維持されるためには、自己複製という手順をたどりながら常に壊され続けなければならないという逆説がある。そこから「生命とは動的平衡にある流れである」という定義が導き出されてくる。

 どうでもいいが、『動的平衡』を読んでいたら、カニバリズム忌避についてこんなことが書いてあった。要するに、病原体を選択的に受け取る機能を持つレセプターは種によって異なる。従って、他の種の肉を食べたからといって必ずしもその肉の持っている病原体に感染するわけではないが、同じ種同士だと肉の中にある病原体をすべて受け容れてしまうことになる、という生物学的根拠も考えられるという。

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2011年5月24日 (火)

岩井克人・佐藤孝弘『IFRSに異議あり─国際会計基準の品質を問う』

岩井克人・佐藤孝弘『IFRSに異議あり─国際会計基準の品質を問う』(日本経済新聞出版社・日経プレミアシリーズ、2011年)

・日本でもIFRS(国際財務報告基準)の強制適用をするかどうか、2012年を目途に判断するといわれる中、「世界的潮流だから」という曖昧な理由で思考停止するのではなく、そもそもIFRSに内在する理論的欠陥が一般に認識されているのか?と問題提起。一律に強制適用するのではなく、各社それぞれの経営判断による選択適用として複数の会計基準を並立させ、基準間競争を促す方が望ましいという立場をとる。IFRSを導入すると会計観が根本的に変化するわけだが、その前後、二つの会計観の説明が本書の中心となる。
・従来、日本で採用されてきた収益費用アプローチは、当期純利益によって一年間の企業業績を把握、過去の業績に基づく客観的数値を示す。
・対して、IFRSが依拠する資産負債アプローチは、期首・期末における資産の増減によって把握された数値を利益とみなす(包括利益)→事業活動(本業)以外の金融活動等による資産の増減もこの「利益」の中に含まれて、事業活動の相違が区別されない。さらに、資産は「公正価値」、つまりその資産が将来生み出すキャッシュフローに基づいて算定される(割引現在価値)。ところで、「公正価値」の測定には市場価格が参照されるが、バブルのようにファンダメンタル価値から乖離する可能性が常にあるわけで、市場価格=客観的とは必ずしも言えない。また、現在価値の算定にあたっては経営者自身が適切と考える割引率を採用→主観的な判断がまじる。従って、実際に行われた取引に基づいて観察可能で検証可能な客観的事実を報告するのが会計であるとするならば、資産負債アプローチは客観性の点で欠陥をはらんでいると指摘される。
・「公正価値」がはらむ矛盾の最たる例として、「自己創設のれん」をオンバランス化する問題。
・IFRSに適合的な業種とそうでない業種とがある。有形固定資産の場合、仮想的市場モデルによって算定する必要→予測・見積り部分の割合が大きくなる。むしろ、金融資産の割合が多い業種(例えば、ヘッジファンド)にとって資産負債アプローチは親和的となる。これは金融業の割合が多いイギリスに有利で、イギリスがIFRSを推進していることと無関係ではない。会計基準にも政治的思惑が働いていることに留意すべき。
・IFRSは今後どうなるのか? 現場の実務的ニーズに合わせて例外規定が増やされていくと、会計基準としての一貫性がなくなる。逆にIFRSの思想を徹底化させると、実現不可能な全面的公正価値化に進んでしまう。

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2011年5月23日 (月)

エリック・エンノ・タム『雲駆け抜ける馬:スパイ、シルクロード、現代中国の台頭にまつわる物語』

Eric Enno Tamm, The Horse that Leaps through Clouds: A Tale of Espionage, the Silk Road and the Rise of Modern China, Counterpoint, 2011

 フィンランド独立の英雄として有名なマンネルへイム(Carl Gustav Emil Mannerheim、1867~1951年)。スウェーデン系貴族で男爵の称号を持つ家柄に生まれたが、当時フィンランドを支配していた帝政ロシアの軍人となり、彼のスマートな物腰は軍隊ばかりでなく社交界でも注目を浴びた。第一次世界大戦およびロシア革命でフィンランドは独立を宣言、続いて起こった内戦では白衛軍司令官として赤軍を押さえ込んで国情を安定させる。しばらく一線を退いていたが、1939年、第二次世界大戦の勃発と共にソ連軍が侵攻してきた際には再びフィンランド国軍最高司令官としてこれを撃退。1944年から46年にかけては大統領を務め、ソ連との困難な講和を成し遂げて中立路線への道筋を開いた。

 ところで、マンネルへイムは帝政ロシア軍将校だった頃、1906~08年にかけて中央アジア探検を行なっており、そのときの日誌も刊行されている。本書は、同じルートを著者自身が実際に踏破、日誌を折々参照しながら道中の体験を100年前のマンネルへイムに重ね合わせながら書き進められたルポルタージュである。著者はエストニア系カナダ人で、マンネルへイムを尊敬していた父から彼の話を聞きながら育ったらしい。エストニアとフィンランドは言語的に非常に近い関係にあるため、同様にソ連軍の侵略を受けた際、マンネルへイムの徹底抗戦への呼びかけはエストニア人の士気も鼓舞したのだという。現代史に関心のある人なら、圧倒的な戦略差を跳ね返して奇跡的にソ連軍を撃退したいわゆるマンネルへイム線で彼の名前を知っていることだろう。中央アジア探検というのは意外なテーマかもしれないが、彼は同じ探検家としてスヴェン・ヘディンと親交があり、そのヘディンが彼への友情からヒトラーに対してフィンランド支援を促したという事情もあるので、間接的には現代史にも関わってくるとも言える。ただし、マンネルへイム自身はヒトラーやナチスに対してあまり良い感情は持っていなかったらしい。

 マンネルへイムは1906年にサンクト・ペテルブルクを出発、モスクワを経てヴォルガ河を下ってカスピ海へ出る。アゼルバイジャンのバクーから現在のトルクメニスタンに渡り、さらにウスベキスタン、カザフスタン、クルグズスタンを通過、天山山脈を越えて新疆ウイグル自治区に入り、カシュガル、ホータン、グルジャ、ウルムチ、トルファンを回る。敦煌から河西回廊に沿って黄河流域に出て、西安、太原、五台山、フフホトを経由、1908年に北京に到着。

 なお、マンネルヘイムは新疆を通過する際、中国人の役人から馬達漢という漢字名を与えられた。馬はイニシャルの音訳、「達漢」は漢土つまり中国領へやって来たという意味。ところが、マンネルヘイム自身は「馬が雲を駆け抜ける」と意訳して日誌に書き記しており、これが本書のタイトルの由来である。西トルキスタンから中国領東トルキスタンへと入る際に越えた天山山脈の雲間まで聳え立つ険峻なイメージを重ね合わせたのだろうか。

 彼が探検旅行に出発したのはまさに帝国主義がクライマックスに達していた時代、英露間のいわゆるグレートゲームがそろそろ大詰めにさしかかり(彼が旅行途上にあった1907年には英露協商が結ばれる)、前年には日露戦争に敗れたため、中国情勢もにらみながらロシア国境地帯の最新状況を把握する必要に迫られていた。そのため、彼はロシア軍人という身分を隠し、フィンランド人の学術探検という偽装の下で出発、途中、イギリスへの対抗上ロシアと同盟関係にあったフランスとの連携によりポール・ペリオの探検隊に加わることになった。ただし、ペリオとの折り合いは悪く、「中国政府とトラブルになったらお前の身分は正直に言うからな」と念押しされていたらしい。ちょうどオーレル・スタインと発掘競争をしていた時期でもある。ウルムチでは義和団事件の責任を問われて配流されていたDuke Lan(載瀾?)と会い、ショーヴィニストという先入観とは異なって穏やかな彼の応対に驚いたり、五台山では前代ダライ・ラマと会い、チベット人が漢人によって圧迫されている窮状を訴え、ロシアが支援してくれないならイギリスに頼ると言うのを聞いたりもしている。

 同じルートをたどる現代の著者にとっても、行く先々で政治的にナーバスな問題と出くわす点では変わらない。バクーではアルメニア人とアゼルバイジャン人との民族紛争を目の当たりにして、クルバン・サイード『アリとニノ』(以前にこちらで取り上げた)を薦められて読む。トルクメニスタンではニヤゾフが死ぬ直前の統治体制を実感。とりわけ問題となるのが中国の少数民族問題である。著者は出発前に中国大使館でヴィザを申請したところ拒否されていた。海外亡命中のチベット人、ウイグル人(核実験による放射能被害を調査して亡命せざるを得なくなったアニワル・トフティEnver Tohtiさんの名前も挙がっていた→以前にこちらで触れたことがある)、法輪功、民主化運動家などにインタビューしたことがあり、その中に中国政府の内通者がいたらしい。しかし、エストニアがソ連から独立した際に一族の国籍も回復されていたとのことで、カナダ国籍ではなくエストニア国籍で申請したところ許可されたという。

 ウルムチで開催されていたマンネルへイムの新疆入り100周年の学術シンポジウムに出席。主催者は中国の国境問題研究センター(the Borderland Research Centre)前所長のMa Dazheng、「テロへの戦争」という名目でウイグル人弾圧を正当化する議論を展開していた人物らしい。話をメモしていたところ、覗き込んできた中国側出席者から「東トルキスタンではなく新疆と書くように」と注意を受けるシーンがあった。甘粛省内のチベット自治区にあるLabrangでは、自分の故郷を見たいと言って密かに亡命先のインドから戻ってきている青年僧に出会う。漢民族への同化によってモンゴル語話者が減少していることを嘆く人と、いや現在の中国政府の言語政策はよくやっているという人、二つのタイプのモンゴル人学者に出会っているのも興味深い(モンゴル人学者でフィンランド留学経験者が複数出てくるのは、ウラル・アルタイ語族研究のためか。現在ではこの括りは外されているようだが)。言語的・文化的アイデンティティーを喪失しつつある少数民族によって自文化の再構築は切迫した問題だが、例えば裕固族(Yugur)にとってマンネルへイムの日誌は貴重な史料になるそうだ。

 ウイグル人からすると、ロシアという抑圧的な隣の大国から独立を勝ち取ったフィンランドは見習う対象になるのだろうと指摘されている。ただし、マンネルヘイムが帯びた性格の二重性は微妙な問題もはらんでいる。フィンランド人にとって彼は独立の英雄であったが、中央アジア探検の時点で彼は帝政ロシアのスパイであった。フィンランドの研究者から彼の探検の民族学的・地理学的側面は注目されるにしても、軍事的・地政学的な重要性は比較的軽視されていると指摘される。そこにはやはり自分たちの英雄がロシア帝国主義の手先になって働いていたことを認めたくないという動機が働いているのだろう。他方で、中国側研究者はマンネルヘイムの活動を中国分断・侵略の計画(少数民族への「扇動」も含めて)があった証拠だと捉え、この議論はさらに現代において少数民族の「独立」運動を祖国防衛の観点から抑圧すべきという論拠へとつなげられてしまう。立場や思惑の相違によって議論の力点の置き方も全く異なってしまうのは本当に難しいところだ。接点をつなぎ合わせるには、やはり様々な議論を可能にすべく、著者が期待するように民主化の方向を模索するしかないのだろう。

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【映画】「星を追う子ども」

「星を追う子ども」

 郷愁をさそう山間の村、緑が瑞々しい森の中を高台へと駆け上がっていく少女アスナの姿。青白く光る石を使った鉱石ラジオをセッティング、広々とした青空の下、はるかに耳を澄ます彼女の表情は晴れやかでありながら、一抹の孤独感もにじみ出ている。ある日、アスナが正体不明の獣に襲われたところ、シュンという少年が助けてくれた。しかし、姿を消した彼の死体が見つかったと聞いて悲しむアスナだが、シュンと瓜二つの少年に出くわす。そこに戦闘態勢の男たちが現われ、わけも分からず一緒に岩穴へと逃げ込んだ。行き先は地下に広がる伝説の国、アガルタ──。

 新海誠のアニメーション作品は、奥行きの広がりを感じさせる画面構成の中での映像の叙情的な美しさがいつも気になっていて、ついつい観に行ってしまう。ただし、あくまでも彼の作る映像が好きなのであって、ストーリーそのものにはそれほど感心していない。例えば、前作「秒速5センチメートル」のノベライズやコミックを一応手に取ってはみたが、話が甘すぎて甘すぎて、とてもじゃないが食えたもんじゃない。

 …とは言うものの、今回はストーリー的にもよく頑張っているなと思った。要するに、古事記に出てくるイザナギが亡きイザナミに会いに黄泉の国へ行く話を換骨奪胎して無国籍的ファンタジーに仕立て上げたといった趣きだ。しかし(と再び逆説だが)、よく出来ている、とは思いつつも、何か見たことのある雰囲気だなあ、というモヤモヤ感も同時に沸き起こってきた。これはキャラ的にも設定的にも宮崎アニメの路線だな。ナウシカ、ラピュタ、とりわけ映画化はされていないが『シュナの旅』を思い浮かべた。まあ、だからこそストーリーの部分は安心しながら新海さんの映像をじっくり堪能できたわけではあるのだが。

【データ】
原作・脚本・監督:新海誠
2011年/116分
(2011年5月21日、新宿バルト9にて)

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2011年5月22日 (日)

【映画】「北京の自転車」

「北京の自転車」

 地方から出てきて北京の運送会社に勤め始めた青年。無口で愚直な彼は慣れない都会に戸惑いながらもとにかくひたむきに汗を流して働きづめの毎日だ。一定額を稼ぎ出せば会社から貸与されている最新型マウンテンバイクを買い取ることができ、独立だって夢ではない。だが、目標まであと一歩というところでその自転車を盗まれてしまった。ショックで仕事をミスしてしまい、解雇の憂き目に会う。意地になって探し出した自転車は不良高校生が乗っていた。中古で買ったんだと主張する彼だが、その彼も家庭や友人関係で事情を抱えていた。

 愚直でひたむきに頑張る人間であっても、その不器用さと社会的立場の弱さゆえに報われないという人生の不条理を描き出した映画である。自転車を奪われそうになって嗚咽をもらす青年、そんな彼を見て自転車なんてまた買えばいいじゃないか、と軽く言い放つ「持てる者」とのギャップ。単に自転車が奪われるというだけでなく、そこに込められている生きていく希望やプライドまでも奪い取られてしまうことを意味するところまで理解されない非対称性。まさに現代の『駱駝祥子』というべきストーリーだ。自転車を盗まれた青年と、中古自転車のつもりで買った高校生、二人がいがみ合うことになるが、肝心の盗んで売りさばいた者の姿が全く見えないあたり、暗示的なものを感じさせる。近代的な高層ビルと高校生の暮らす胡同との落差には北京の急速な変貌が映し出される。明示はされていないが、セリフの端々から察するに農民工の劣悪な労働待遇という社会背景も描きこまれているのだろう。どうでもいいが、あの美少女は周迅か。

【データ】
原題:十七歳的単車
監督・脚本:王小帥
2000年/中国・台湾/113分
(DVDにて)

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【映画】「告白」

「告白」

 幼い娘を何者かによって殺された中学校の女教師が、受け持っていたクラスの中にいる犯人に心理的なプレッシャーを与えて復讐するという話。コラージュ的な映像を次々と繰り出してくる構成はシュールなサイコ・サスペンスという感じ。学級崩壊や空回りする熱血教師といった陳腐になりかねない素材も、むしろその陳腐さゆえにこのシュールさを引き立てる道具立てとしてぴったり。本屋大賞を受賞した湊かなえの原作を読んでも私はこれといった印象はなかったのだが、中島哲也監督の料理の仕方がやはりうまい。

【データ】
監督・脚本:中島哲也
出演:松たか子、木村佳乃、岡田将生、他
2010年/106分
(DVDにて)

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2011年5月19日 (木)

G・J・アイケンベリー他『アメリカ外交の危機:21世紀のウィルソン主義』

G. John Ikenberry, Thomas J. Knock, Anne-Marie Slaughter, Tony Smith, The Crisis of American Foreign Policy: Wilsonianism in the Twenty-first Century, Princeton University Press, 2009

・第一次世界大戦においてウィルソンが掲げた外交指針については、アイケンベリーの序論での要約によると、①平和な秩序は民主主義国家の共同体によって確立される、②自由貿易の擁護、③国際法や国際的協力機構の設立によって平和や自由貿易を促進する、④community of power→集団的安全保障のシステム、⑤こうした理想は達成できるはずという進歩の観念、⑥アメリカが先導的な役割を果す。
・ウィルソン主義は一般的にはリベラルな国際主義と考えられている。しかし、第2章のトニー・スミスは、イラク戦争をもたらしたネオコンのブッシュ・ドクトリンはアメリカ主導による世界民主化構想を持っていた点でウィルソン主義に起源が求められるのではないか?と問題提起、これに対して他の論者が反駁するという構成。
・ウィルソン主義の後継者たるリベラル派は国際社会の政治的多元性を前提とした上でやむを得ない選択として人道的介入を求める。他方で、軍事介入という政治的選択をとると、民主化という「普遍的正義」の名の下で超大国アメリカ自身の国益に基づいた国際秩序再編をねらうネオコンと表面的には重なってしまう。動機はそれぞれ異なっているのだが(本書のリベラル派もウィルソンをネオコンなんかと一緒にしないでくれ!と怒っている)、いったん軍事介入という具体的局面に入ってしまうと両方の思惑が交錯し始め、このグレーゾーンを理論としてすっきり説明できなくなってしまう難しさがどうにもならないなあ、という印象は残る。このアポリアはいつまでたっても終わらないだろうな。

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2011年5月18日 (水)

ジェミル・アイドゥン『アジアにおける反西洋主義の政治学:汎イスラーム主義および汎アジア主義思想における世界秩序観』

Cemil Aydin, The Politics of Anti-Westernism in Asia: Visions of World Order in Pan-Islamic and Pan-Asian Thought, Columbia University Press, 2007

・19世紀後半から20世紀前半まで、主にオスマン帝国期トルコの汎イスラーム主義と明治以降の日本における汎アジア主義とに焦点を合わせ、比較思想史と国際関係論の枠組みの中で「反西洋主義」思想の動態的過程を考察するのが本書の趣旨である。「東洋」対「西洋」という対立図式が現代史の中でどのような相互作用を示したのか、こうした問題を大きく捉える上で叩き台となる見取り図が提示されている。

・最初の世代の改革派知識人たち(日本の福澤諭吉、トルコのNamık Kemalなど)は、西洋化を自分たちの文化的アイデンティティーと矛盾するとは考えず、西洋文明の啓蒙的・普遍的価値観を受容→文明国の仲間入りをすることで西洋と対等な関係になれると楽観的な見通しを持っていた。
・しかし、西洋中心の帝国主義的秩序の現実→「文明化の使命」を称する一方で、彼ら自身の主張している「文明」の基準に反している矛盾、キリスト教や白人の優越性という疑似科学的根拠への疑問→対抗的なビジョンとして汎イスラーム主義や汎アジア主義。
・他方で、近代への企てを「西洋」そのものから分けて捉える発想。西洋と東洋との対等な関係を主張する際に、その基礎として民族自決、文化的多様性、人種の平等といった西洋のリベラルな思想的系譜に由来する普遍的価値観が反西洋主義を根拠付けていた点も指摘される。
・1880年代までほとんどのオスマン期知識人は自分たちをヨーロッパに近いと考え、日本と同じ「東洋」に属するとは考えていなかった。ところが、「西洋」に圧倒されている「東洋」という自覚から、1890年代以降、日本と同じ「東洋」という言及が見られる。
・日本の「東洋」観でも範囲は中華圏に限定され、オスマン帝国やイスラーム圏は本来含まれていなかった(例えば、エルトゥールル号事件関連の報道でもアジア・アイデンティティー共有の態度を示すような記事は見られず)→20世紀への変わり目から日露戦争のあたり以降、この範囲はインド以西にも広がる。日本とイスラーム圏との直接の交渉は限定されていた一方で、むしろヨーロッパでの言論を通して間接的に相互認識を深めた可能性。
・日露戦争→従来、西洋中心の帝国主義的秩序を「文明化」と称して正当化していた西洋の優越性/東洋の後進性という言説枠組が日本の勝利によって崩れた。日本は西洋文明にキャッチアップした上で軍事力によって列強に仲間入り→社会進化論的認識が広がる。また、西洋に対抗するという目的によって汎イスラーム主義や汎アジア主義の言説が国際政治的な現実の中に組み込まれ始める。
・第一次世界大戦→オスマン帝国は汎イスラーム主義的プロパガンダを動員し、ムスリム世界における民族自決の観念を一般化させることに成功→英仏もアラブの独立を約束して対抗→こうした対抗言説の相互反応を通して、「西洋」中心の帝国主義的秩序の正統性を崩し、アジア諸国の民族自決を容認せざるを得ない気運が生み出された→この点で汎イスラーム主義はウィルソンの民族自決主義や社会主義の国際主義と同様の役割を果した。
・オスマン帝国期知識人たちは戦争には敗れてもウィルソン主義を歓迎。領土は縮小されてもトルコという国民国家として西洋諸国と対等の関係になれると期待→汎イスラーム主義を放棄。ムスタファ・ケマルもギリシア軍侵入という事態に直面して汎イスラーム主義を動員したが、ギリシア軍撃退、ローザンヌ条約で一定の地位が認められた(ウィルソン主義を掲げつつも、理想ではなく武力で勝ち取った民族自決)→1924年3月、カリフ制廃止、汎イスラーム主義の放棄。
・日本の汎アジア主義の矛盾。日清・日露戦争を通して領有した台湾・朝鮮半島等→「文明と進歩」という大義名分の下で植民地支配を正当化→その後の帝国主義的拡大においては汎アジア主義(公的に改訂されたものであって、以前の汎アジア主義とは異なる)を正当化に利用。中国侵略という現実は正当化できない矛盾→対米開戦は「西洋と東洋の対立」という言説によってこの矛盾を覆い隠せるようになった(とりわけ進歩的知識人からアジア主義に向かった人々は安心)。他方で、汎アジア主義に基づくプロパガンダ→アメリカ側も日本との対抗、さらには戦後において中国・インドなどとの協力を取り付ける必要から、アジア諸国の脱植民地化に留意しなければならなくなった。

・以下は、本書の議論を踏まえた現代の問題に対する示唆。汎イスラーム主義にせよ、汎アジア主義にせよ、西洋中心の帝国主義的秩序に対抗するための戦略として主張された言説であった→これを文明論的に同質性を持った枠組みとして固定化して捉えてしまうと「文明の衝突」論のように異質性だけを強調する議論へ導かれてしまう危険。
・タゴール、ハリル・ハリド、サイード・ハリム・パシャ、孫文、岡倉天心などの西洋文明に対する批判は、戦間期になると西洋の知識人にも大きな影響を与えていた→部分的ではあっても生じ始めていた西洋側の動揺や変化をその後のアジア主義者は無視、過去の議論を選択的に取り上げながら西洋批判のロジックに固執(本書では大川周明を例示)→仲間内以外の世界に向けてアピールする力を失った。批判する相手との対話の可能性がなくなると、自分たちを正当化するためだけの非建設的な言説に終わってしまう問題(※本書で言及はないが、例えばジンバブウェのムガベが繰り返す、何でもかんでも欧米のせいだから自分の行為は正当化される、という主張はまさしくこのタイプだろう)。

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2011年5月17日 (火)

川本三郎『マイ・バック・ページ──ある60年代の物語』

川本三郎『マイ・バック・ページ──ある60年代の物語』(河出文庫、1993年)

 近々公開予定の映画「マイ・バック・ページ」の原作。私は川本三郎のファンで、当然この本のことも知ってはいた。しかし、1960年代という時代に私はあまり興味がないので読んでおらず、この機会に手に取ってみた。

 1960年代、川本青年は朝日新聞社に入社、出版局に配属され、新米雑誌記者として動き回り始めたばかり。学生運動が昂揚していた世相。私的回想を通して当時のカウンター・カルチャー的雰囲気の一端を垣間見ていく。出会った人々の様々な表情をつづった前半の方が私は好きだが、重点は後半に置かれている。

 取材中に出会った過激派のK。情熱的な理想家というよりも何かコンプレックスから目立とうとしているタイプで胡散臭さを感じつつも、彼の言葉のいくつかに川本青年は反応して感情移入していく。そのKが革命と称して自衛官を殺害、川本青年も事件に巻き込まれてしまった。一市民の義務として警察に通報すべきなのか。情報源秘匿というジャーナリズム倫理を守るべきなのか。正直なところ、Kの行為には正義や潔癖さとは違った何かイヤなものを感じている。他方で、警察へ出頭せよという会社側の圧力への反発もあり、意固地になってしまう。「どうせ心中するなら、Kよりも山本義隆や秋田明大の方が良かったなあ」という自嘲的なつぶやき、だがこれは地位や名声でKを差別することでもあり、そうした自身の俗物根性的なものも正直に告白している。結局、証拠隠滅の罪状で執行猶予付きの有罪となり、会社は懲戒免職となった。

 青春の蹉跌、その苦さを噛み締めるノスタルジー。私自身としては当時の学生運動への共感はほとんどない。だが、川本さんの筆致は、単に感傷に浸るのではなく、自身が抱えた古傷を、おそらく居た堪れない当惑に動揺しながらだとは思うが、率直に見つめなおそうとしている。私語りだが当時の自身から適度に距離を取ろうとしている。この微妙な間合いによって、川本青年の“青くささ”と時代的雰囲気との関わりを一連なりのものとして感情的な襞を浮かび上がらせてくる。肯定/否定という硬いロジックの罠に陥らず、時代の感情的側面を描き出そうとしている意味で文学的な回想だ。こういう川本さんの文章はやはり好きだな。

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2011年5月16日 (月)

【映画】「そして、一粒のひかり」

「そして、一粒のひかり」

 コロンビアのある田舎町、工場で花の枝きり作業に従事する17歳の少女マリア。妊娠して仕事中に具合が悪くなったが、工場主任の容赦ない態度に反発して辞めてしまった。恋人は頼りにならず、家族からは収入源を絶たれたことを一方的になじられるばかり。嫌気がさして町を出ようとするが、そんな彼女の前に降ってわいたようなもうけ話。麻薬を胃の中に隠してニューヨークへ持ち運べば五千ドルもらえるという。どうにもならない立場に追い詰められていた彼女は不安を押し殺すように麻薬の運び屋となって飛行機に乗った。そして目の当たりにした苛酷な現実──。

 生活苦から麻薬密売という非合法活動に踏み込まざるを得なくなってしまった社会背景を、一人の少女の視点を通して浮かび上がらせている。実際の麻薬の運び屋への取材なども踏まえ、設定はリアルに描かれているらしい。

 身の危険を感じて麻薬の売人のアジトから逃げ出し、あてどもなくさまようニューヨークの街並み。不安に苛まされる彼女の視線を通すとそれは灰色にくすんだ殺風景なものとして映り、その中でも目に入るごく当たり前の日常生活を送る人々の姿は、余計に自分の不安と孤独感とをいっそう強めてしまう。このときの憂いを帯びた表情は、コロンビアの故郷で広々とした青空を見上げたときとは明らかなコントラストをなしている。

 どうしてこんな羽目になってしまったのか。当然ながら後悔の気持ちで押し流されそうなはずだが、それでもしっかり前を見据えようとする彼女の眼差しは、不安に揺れながらも、むしろその動揺に抗おうとする気持ちが見えるからこそ凛々しい。道は前にしかないのだから。彼女がアメリカに踏みとどまろうとするのは、アメリカで子供を産めばその子には自動的に市民権が付与されるのを見越してだろう。とりあえずは麻薬の運び屋から足を洗うことができた。しかし、国へ戻らないという決断、そこに希望を見出すしかないのだとしたら、この現実はあまりに哀しい。

【データ】
原題:Maria Full of Grace
監督:ジョシュア・マーストン
2004年/アメリカ・コロンビア/103分

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【映画】「4月の涙」

「4月の涙」

 1918年、フィンランド。ロシア革命に際して帝政ロシアから独立を宣言したものの、革命の進展に伴って翻弄される形でフィンランド国内でも赤軍と白衛軍とが血みどろの内戦を繰り広げている。

 赤軍女性部隊が白衛軍に追い詰められ、残虐に殺されるシーンから始まる。ただ一人生き残ったリーダー格のミーナ。居合わせた白衛軍の青年士官アーロは「こんな殺害は非合法だ、彼女たちには捕虜として正当な裁判を受けさせなければならない」と主張、かねがね尊敬していた人文主義的な作家で判事のエーミルがいる裁判所へと彼女を連行する。途中、乗っていた船が難破して無人島に漂着、このときアーロの心中にミーナへの愛情が芽生える。ようやくたどり着いた裁判所で出迎えてくれたエーミルは、正義の名の下、赤軍捕虜へ死刑判決を量産する殺人鬼になっていた。ホモセクシュアルのエーミルは実直で凛々しいアーロに好意を寄せ、ミーナとの関係を詮索する。内戦という異常事態の中、欲望と血とがまとわりついた奇妙な三角関係。

 見るべきポイントの一つ目は、プライド、愛情、欲望などが混ざり合って矛盾しつつも、やみがたい衝動として三人それぞれを衝き動かしている姿。とりわけエーミルのデモーニッシュな凄みが目を引いた。二つ目は、この映画の背景をなすフィンランド内戦という歴史的事情。この内戦で身近な者同士が殺しあった古傷はフィンランド社会の大きなタブーとしてしばらく尾を引き、そこに敢えて目を向けようというのもこの映画が企画された動機になっているという。

【データ】
監督:アク・ロウヒミエス
2009年/フィンランド・ドイツ・ギリシア/113分
(2011年5月14日、シネマート新宿にて)

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2011年5月15日 (日)

李筱峰《林茂生・陳炘和他們的時代》

李筱峰《林茂生・陳炘和他們的時代》玉山社、1996年

・日本植民地支配下台湾において知識エリートとして重きをなしていた林茂生と陳炘。台湾民族運動では穏健派に属していた二人だが、皇民化運動に巻き込まれて否応なく皇民奉公会(大政翼賛会の台湾版)の役職に就かされ、日本の敗戦によって祖国復帰を喜んだのも束の間、今度は大陸出身者による差別待遇、失政や腐敗を目の当たりにして幻滅、1947年の二・二八事件で二人とも命を奪われてしまった。戦前・戦中・戦後にわたって彼らが歩んだ軌跡をたどることで、二人の生涯に縮図として込められた台湾近代史の悲劇的な矛盾を見つめなおす。

・林茂生は1887年、台南の生まれ。父の林燕臣は儒者だったがキリスト教に改宗、その関係で林茂生は長老教会学校で学ぶ。成績優秀だったため(台北の杜聡明と並び称される)日本へ留学、同志社中学、第三高等学校を経て東京帝国大学に入学、文学部で東洋哲学(とりわけ陽明学に関心)を学び、1916年に卒業、台湾人として初の文学士。この頃、東京の台湾人留学生の民族団体に所属。台湾に戻って長老教会学校、台南師範学校、台南高等商業学校で教鞭をとる(高等官待遇)。また、林献堂たちの台湾文化協会にも講師として参加、文協が左右分裂した頃、台湾総督府の公費でコロンビア大学へ留学。ジョン・デューイに師事して台湾人初のPh.D.をとる。博士論文は、日本の植民地教育政策によって台湾人生徒の自主性涵養が阻害されていることを批判する内容。

・陳炘は1893年、台中の生まれ。公学校、国語学校を経て日本へ留学、慶應義塾大学理財科を卒業。林茂生と同様、台湾人留学生の民族団体に所属。さらにアメリカへ留学してコロンビア大学のビジネススクールを修了。台湾へ戻ると、林献堂の肝煎りで大東信託株式会社を興して経営にあたる。初の台湾土着資本による金融機関だが、民族運動の経済的自衛行動という意味合いもあった。ただし、戦争中に台湾信託株式会社へと合併される。

・1941年成立の皇民奉公会で役職に就いた彼らを「漢奸」「親日派」として糾弾して果たして済むのだろうか?という疑問を提起、「絶対的抗日史観」「大漢族主義」を単純に適用するだけでは見落とされてしまう彼らの板ばさみになった苦衷を汲み取って理解しようとするのが本書の趣旨となっている。そもそも植民地支配下でも彼らの言動から漢民族意識をうかがうことはできる。他方で、台湾民族運動は左右に分裂してラディカルな左派はすでにつぶされてしまい、台湾総督府は彼らのような穏健派を懐柔・取り込みの対象としており、かつ時局が厳しくなるにつれて彼らには逃れる術は事実上なくなっていた。陳炘が日本人右翼の宮原武熊と結成した「東亜共栄協会」も非難の原因となったが、実際には同床異夢の組織で、台湾人の立場を守ろうという意図があった。
・つまり、植民地統治下、日本という支配者の圧倒的な力を前にしながらも台湾人の地位向上のために現実的な妥協を図らざるを得なかった点では、例えば根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年→こちらで取り上げた)で示されている「抵抗と協力のはざま」という行動様式と同様の意図を見いだすことができるだろう。本心を隠さざるを得ない不自然なパーソナリティー(「不能講老實話」的「非自然之人」)を強いられた彼らは、日本の敗戦によってようやく自分たちの民族意識=漢民族意識をおおっぴらに主張できるようになった。そうした喜びから三民主義を学習、中華民国への復帰を祝したのも束の間、新たに大陸からやって来た支配者の実際の振る舞いは自分たちの考えた理想の「祖国」との間に大きなギャップがあることに気づき、失政や政治腐敗、何よりも台湾人への差別待遇について意見を提起し始める。しかし、新来の支配者は言論の自由を許さない。彼らは再び「不能講老實話」の態度を強いられた末に1947年の二・二八事件で林茂生は連行されて行方不明となり、陳炘は処刑されてしまった。

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2011年5月10日 (火)

曾士榮『「本島人」から「本省人」へ:台湾民族意識の起源と展開』

Shih-jung Tzeng, From Honto Jin to Bensheng Ren: The Origin and Development of Taiwanese National Consciousness, University Press of America, 2009

・日本による植民地統治、戦争、日本の敗戦に伴う中国国民党の台湾接収といった時代的転変に伴い、アイデンティティーの大きな揺らぎを経験してきた近代台湾。本書は、陳旺成(Chen Wangcheng、1888~1979)と呉新榮(Wu Xinrong、1907~1967)という二人の知識人がつけていた日記を史料として用い、時勢の変転に応じて彼らがどのようなコメントを記していたのか、あるいは読書傾向からどのような思想的態度が読み取れるのかを検討、そこから日本、中国、台湾という三つの位相が絡まりあった民族意識の多面的な変遷過程を時系列に沿って分析する。分析視角としては、主にベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」で示された議論枠組が応用され、ナショナル・アイデンティティーは状況的連関の中で構築されたものと捉える立場に立っている。

・陳旺成は教師生活から出発、しかし日本人同僚との不和、その背景として植民地という差別構造の中での「本島人」と「内地人」との対立→両者の相互反応的プロセスの中から「本島人」=台湾人意識が自覚される。台中で林献堂たちの知識人サークルに加わり知的刺激を受けたほか、台湾文化協会の活動を通して台湾全島レベルでの社会的ネットワーク。蒋渭水を支持→台湾民衆党創立者の一人となる。前近代的な漢民族意識よりも、自由・平等・政治的自治などの近代的価値に基づいた権利観念による民族意識を抱く。
・呉新榮は東京留学中に留学生の民族団体に所属、リベラリズムや社会主義などの政治思潮の影響を受けた。

・二人とも左翼シンパ的な民族意識から反植民地運動に参画し、台湾総督府から疑われる立場にいた。他方で、台湾人/日本国民というダブル・アイデンティティー→先行研究では皇民化運動による文化・宗教政策による影響が重視されていたが、対して本書では戦争の展開に伴う政治動向によるインパクトの方が大きかったと指摘される。つまり、戦前は植民地支配の差別構造への不満や漢民族意識に基づく日本への反発があったが、戦争が勃発すると欧米という共通の敵を想定、運命共同体的な意識(日本が敗れたら台湾もアメリカにやられる)、緒戦の勢いを見て日本は勝つと思った→ダブル・アイデンティティー。政治傾向としては日本国民だが、文化傾向としては台湾人意識を保持。
・日本の中国侵略に対しては同じ漢民族意識から大陸の同胞への同情があった。ところが、日本の占領地域拡大(→台湾人の活動領域も飛躍的に拡大)、雑誌・映画などのメディアを通して当局寄りの言説に触れて中国認識も変化→台湾人は中華民族の一員というよりも、東アジア人(「大日本帝国」「大東亜共栄圏」)の一員という意識へと変化。例えば、呉新榮は日本国民アイデンティティーが強まる一方で、漢民族意識は後退、同時に台湾土着の文化を調べなおすなど台湾人アイデンティティーへと変化。

・日本の敗戦、中国国民党の台湾接収という局面に入って、二人とも中華民国への帰属を歓迎した。ところが、その中国人アイデンティティーには三民主義学習などによって想像された祖国意識による過剰な思い入れがあったため、国民党政権の実際の施策を目の当たりにして幻滅。
・大陸出身者やまだ引き揚げ前の日本人と比べて自分たち台湾人の待遇が低い→中国人・日本人と区別するため「本省人」という表現が用いられた(初出は1945年11月初旬、この時点では原住民を含まず)→国民党政権による新たな差別構造に対して台湾ネイティヴの地位を守るためのイデオロギー的手段として「本省人」アイデンティティー。
・日本統治期に経験した近代性が「本省人」アイデンティティーの一部となり、日本との対比によって大陸出身者による失政や腐敗を批判する論拠となった。これに伴い、同胞としての中国人意識は急速に薄れていく。他方で、「外省人」(この表現は1945年12月の時点で初出)には抗日意識が強いため、こうした台湾ネイティヴの批判に対しては中華民族意識が足りないと猛反発→抗日ナショナリズムが「外省人」アイデンティティーの一部となる。近代性に基づく「本省人」アイデンティティーと中国ナショナリズムに基づく「外省人」アイデンティティー、すなわち日本経験が対照的な形で表われた二つのアイデンティティーがぶつかり合う構図となった。こうした亀裂は二・二八事件で爆発、白色テロなどでさらに深まっていく。

・その後、陳旺成は無党派の立場から役職などにも就いたが、国民党への入党を勧誘されても固辞→台湾人意識の暗黙の表われ。
・冷戦構造が固まる中で海峡を挟んだ対立も膠着状態→呉新栄は台湾の孤立と考えたが、同時にほぼ台湾サイズの政治的枠組が成立、さらには事実上の独立政体として捉えることもできるわけで、これもまた呉の「本省人」意識を形成。

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2011年5月 8日 (日)

根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』

根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年)

 本書のタイトルとなっている「抵抗と協力のはざま」とはすなわち、ナショナリストとしての立場を維持しながらも宗主国イギリスもしくは占領者日本と協力、一定の信頼をかち取り、この関係をテコとした政治的バーゲニングによってビルマ独立という最終的目標を目指した行動様式を指している。それはイギリス、日本の圧倒的な政治・軍事力を前にしてやむを得ない戦術であったが、一方で他のナショナリストから「裏切り者」呼ばわりされかねないリスクも同時にはらんでいた。本書は、そうした危ない橋をしたたかな計算をめぐらしながら渡ったビルマ人政治・行政エリートたちの動向をたどることで、一面的なナショナル・ヒストリーの枠組みでは見落とされがちなエアポケットを注意深く拾い上げつつ近代ビルマ史を描きなおしている。

 具体的に取り上げられるのは、イギリス領ビルマで初代首相となったが下野、反英闘争から日本軍に協力、日本軍政下で首相となって大東亜会議にも出席したバモウ。タキン党ナショナリストとして出発、日本軍の南機関で軍事教練を受けてバモウ政権に参加したが後にパサパラを率いて抗日蜂起、独立ビルマのリーダーとなる目前で暗殺された国民的英雄アウンサン。イギリス領ビルマで首相在任中、外遊途中のハワイで日本軍の真珠湾攻撃を目撃、日本へ接近したため逮捕され、戦後ビルマに帰国したもののアウンサン暗殺の黒幕として処刑されたウー・ソオ。タキン党ナショナリズムの流れにあるコミュニストは反日(反ファシズム)の立場を貫いたが、革命家としてはイギリス帝国主義と組むなど本来はあり得ないのに「苦渋の親英」を選択、またナショナリズムと共産主義革命とのどちらを優先させるかという問題にも呻吟した。イギリス植民地統治下のビルマ人高等文官たちは必ずしも親英ではなく、戦時下のバモウ政権に多数の参加者がいたことからは彼らにもビルマ・ナショナリストとしての考え方が浸透していたことがうかがわれる。

 「抵抗と協力のはざま」という捉え方は、他の地域で例えば「漢奸」「親日派」として指弾された人々を改めて洗いなおす際にも一つの参照枠組になると思われるし、それは「抵抗」言説を基軸としたナショナル・ヒストリーの脱構築によって歴史の理解に幅を広げることにもつながるだろう。ビルマの場合、イギリスからの独立のため対日協力もやむを得なかったという了解が国民的に広く共有されているため「親日派」批判はおこりにくいという事情があるらしい。他方で、アウンサンを英雄とするナショナル・ヒストリーの枠組みでは(ただし、民主化運動でアウンサン・スーチーの存在感が大きくなってからは抑え気味らしい)、暗殺者ウー・ソオのナショナリストとしての側面は完全に無視されており、そうしたあたりにも光を当てて理解の幅を広げようという視点も本書には含まれている。また、ビルマ国軍中心の独立闘争史観において日本軍の南機関の存在が特筆され、それが日本人側の「親日的なビルマ」という歴史認識と共振していた点も指摘される。

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山室信一『複合戦争と総力戦の断層──日本にとっての第一次世界大戦』

山室信一『複合戦争と総力戦の断層──日本にとっての第一次世界大戦』(人文書院、2011年)

・日本は第一次世界大戦に参戦はしたものの、ヨーロッパのような全面戦争に巻き込まれたわけではないのでその影響は限定的なもの、むしろ戦争特需など余得にあずかった傍観者的なものと思われやすい。対して本書は、当時の日本が直面していた国際問題の諸連関が第一次世界大戦という局面で絡まりあっていた点を再考する必要を提起する。具体的には対独戦争、シベリア戦争(シベリア出兵)という二つの戦火を交えた戦争、対イギリス、対アメリカ、対中国という三つの外交戦、合わせて五つの戦いから成る複合戦争として日本にとっての第一次世界大戦の意義を捉える見取り図を提示、その背景には日本の中国権益という問題が伏在していたことに注意を促す。
・イギリスは、日本が中国権益を単独行動で取ってしまうことを懸念、他方で日本がドイツ側につくのを警戒→参戦要請が揺れ動く。日本の青島攻略に際してイギリス軍は日本の単独行動牽制のため天津駐屯軍を参加させる一方、日本軍はイギリスとの共同出兵を国際的にアピール。
・加藤高明外相は元老への外交文書閲覧を廃止して牽制、外交一元化への試み。他方で彼がイギリスから学び取った外交手法は「旧外交」そのもので時代遅れ、しかし彼が主導した参戦外交の背景には外務省や陸海軍の中堅層から厚い支持があった。
・対華二十一か条要求→日露戦争、第一次世界大戦における日独戦争という二つの戦後処理問題と同時に、英米との外交戦の側面。中国の主権侵害にもなりかねない項目5号は日本の譲歩を演出するブラフとして付け加えられたが、計算が狂って国際的に問題化、乱暴な日本、蹂躙される中国、善意の仲介者としてのアメリカというイメージの広がり。また、日中外交が政府間の外交戦というよりも、国民的対立が表面化する時代への転換点ともなった。
・シベリア出兵は単なる革命干渉戦争ではない→「シベリア戦争」として把握。(ロシア革命→ロシアの対独単独講和を受けて)対独戦争の継続、中国・アメリカとの外交戦の延長、資源獲得の局面、民族自決主義で盛り上がった朝鮮独立運動抑圧など様々な要因が絡まりあっている。

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2011年5月 7日 (土)

ケネス・ルオフ『紀元二千六百年──消費と観光のナショナリズム』

ケネス・ルオフ(木村剛久訳)『紀元二千六百年──消費と観光のナショナリズム』(朝日選書、2010年)

 「ファシズム」という用語は単に曖昧というばかりでなく、ある種の禍々しさをイメージとして喚起させ、その含意によって感情的な罵倒語として使われることがある。本書ではドイツやイタリアとの共通性に着目するため敢えてこの「ファシズム」概念が分析用語として用いられているが、そうしたレッテル貼り的なものとは区別して読む必要がある。 「ファシズム」とは単に反動なのではない。むしろモダンな現象である。すなわち、大衆消費社会が成立し、人々は消費という一見個人的な行動を通して国民的一体感への自発的な参与をしていく、そうした逆説的なメカニズムの分析が本書の基本的な視座をなしている。

 ヒトラーやムッソリーニに相当するようなカリスマ的なアジテーターは日本にはいなかった。その代わり、万世一系の天皇というフィクショナルな国史がカリスマの代役を果たしていたと指摘される。神話的観念は、その内容だけを見ると時代錯誤にも見えるが、これがシンボルとなって儀礼に向けて全国民を動員していく技術装置(鉄道、放送など)は近代そのものであった。皇紀二千六百年(昭和十五年、西暦一九四〇年)は日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争直前という暗い軍国主義の時代だったと一般に考えられている。ところが、消費活動を見るとむしろ活発で、決して暗くはなかった。百貨店は皇紀二千六百年を祝した催事によって消費者の購買意欲をかき立て、国家の史蹟めぐりや植民地への旅行は余暇であると同時に国家への帰属意識を再確認する機能を果たした。従って、当時の日本の政治体制は、上から国民を押さえつけていたのではなく、むしろ広範な国民の自発的参加によって成り立っていたと捉える視点を示すのが本書の趣旨となる。

 戦争を画期としてその前後を断絶と捉えるのではなく、経済力や人々のメンタリティーの近代性という点ではむしろ大正・昭和初期と戦後とには戦争をはさんで連続性があるという捉え方は私自身としても実感しているところなので、見取り図としておおむね肯定できると思う。どうでもいい蛇足だが、歓喜力行団などを取り上げてナチス時代ドイツ市民生活の消費社会的明るさを指摘している本をむかし読んだ覚えがあるのだが、何だったか忘れてしまった。

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2011年5月 5日 (木)

黄煌雄《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》

黄煌雄《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》(台北:時報出版、2006年)

・タイトルは、賀川豊彦が台湾について原住民の神話を引きながら書いた文章に由来するという。すなわち、日本という支配者=政治勢力と、台湾在住漢民族という被支配者=社会勢力と二つの太陽が台湾には輝いている、しかし二つの太陽が並び立つことはできず、いずれかが射落とされなければならない、という趣旨で、後者の太陽を本書のテーマである非武装抗日運動になぞらえている。
・ウィルソンが唱えた民族自決、日本の大正デモクラシーにおける民本主義、中国革命の進展、朝鮮半島における三・一運動など世界的潮流から刺激を受けながら、東京の留学生の運動として1919年から萌芽が現われた台湾近代非武装抗日運動、本書はその展開過程を台湾議会設置請願運動が始まった1921年から台湾民衆党が解散、蒋渭水が死んだ1931年までの十年間を軸として描く。おおむね時系列にそってトピックは並べられ、リーダブルな構成。著者の《蒋渭水傳:臺灣的孫中山》(台北:時報出版、2006年→こちらで取り上げた)の姉妹編という位置付けなので、彼の活動の同時代的背景を整理するという趣旨にもなっている。
・対象とする十年間は大まかに二分され、前半の1921~26年までは文化協会の活動がメイン。台湾総督に強大な権限を与えている六三法撤廃を求めるのか、それとも自治を要求するのかという論点→後者については、六三法が台湾総督に委任立法権を与えているのは台湾の特殊事情という理由付けがある→この特殊性というポイントを逆手にとって自治を要求しようというロジック。いずれにせよ、運動内部に考え方の相違はあっても台湾議会設置という目標は共通なのだから一致団結。また、文化協会は講演会を積極的に開催して、台湾の一般民衆への啓蒙活動に力を入れた。
・後半の1927~31年は運動の分裂。啓蒙活動の努力、さらには社会経済的情勢の変化もあって、大衆運動の気運が盛り上がり始めた→従来のような名望家・知識分子主導の運動でいいのか?という疑問。また、農民争議の二林事件で労農党の麻生久、布施辰治、古屋貞雄が弁護のために来台→社会主義的傾向が強まったが、当時、日本では普通選挙が施行されて無産運動も政党化され始めていたが、その左右対立の図式まで持ち込まれた(なお、楊逵の小説「郵便配達夫」に言及、台湾農民組合を主人公の楊君、新聞屋の悪辣な手口について注意を喚起してくれる田中・伊藤を労農党になぞらえている)→階級闘争路線を主張する勢力が文化協会を乗っ取り、反発した人々が離脱したり除名されたりという形で分裂が繰り返される。蒋渭水たち文化協会草創期のメンバーは新たに台湾民衆党を結成したが、彼の主張する「要以農工民衆為全民解放運動的主力軍」といった方針への反発もあり、さらに地方自治連盟が分裂。また新文協も除名を繰り返した末、台湾共産党に乗っ取られたところを弾圧され、壊滅。他方で、台湾史上はじめて組織だった政治運動が展開されたことの意義は大きい。
・なお、以上の時期の運動に関して日本語文献としては若林正丈『台湾抗日運動史研究』(増補版、研文出版、2001年)がある。

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2011年5月 4日 (水)

国分拓『ヤノマミ』

国分拓『ヤノマミ』(日本放送出版協会、2010年)

 ブラジル、アマゾンの奥地に広がる未踏のジャングルで暮らす先住民、ヤノマミ。欧米人によって「発見」される以前からの伝統的生活風習を保持しているのはほとんど彼らだけとなっているらしい。意思疎通可能なレベルでポルトガル語を話せる人は限られており、中には「文明」を知らず隔絶された集団もまだ存在しているともいう。本書は、ヤノマミの一集落ワトリキで断続的に計150日間住み込みで観察したNHKのドキュメンタリー番組がもとになっている。

 カメラがこうやって入っているのだから拒まれたわけではないだろうが、かと言って歓迎されているわけでもない。原始的生活=パラダイスみたいな夢想を抱いている人もいまどきいないだろうが、紀行番組でよく見かけるようなプリミティブな人々の親切な笑顔なんてものはない。時には関係が険悪化して数キロメートル離れた保健所に退避、冷却期間を待つこともしばしば繰り返される。生活のロジックが異なるのだから、不測の事態に備えなければならない。

 死と性にまつわる観察が目立つ。人間生活の根源に関わるところだ。性生活はむしろ旺盛に営まれているのに、どれだけ子供を生んでいるかというと、年子は見当たらないという。産まれたばかりの子供は精霊であり、育てる余裕のない場合、ただちに天へと返される。産んだばかりの母親自身が自ら子供の首を絞めて。その瞬間を目の当たりにした著者たちは衝撃を受けつつも、目を背けまいときばる。周囲に集ったヤノマミの人々の屈託のない表情との対照が印象的だ。彼らが悲しみなど人間的感情を持ってないわけではない、ただ彼らなりに感情を処理するロジックがあり、それが我々と同じとは限らない。使い古された文化人類学的相対主義と言われてしまうかもしれないが、当たり前のこととばかりに浮かぶ屈託のない表情と死や暴力が紙一重で共存している。他方で、人間が生きて死ぬあり様がむき出しになっている彼らの生活態度を、素直には受け止められずに改めて驚いている我々がここにいる、そのことへの二重の驚き。世界があらゆるレベルで「文明」化=均質化されつつある現代、こうした驚きに直面できるだけの文化人類学的素材はもはや乏しくなりつつあるのだろうか。

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【映画】「戦火のナージャ」

「戦火のナージャ」

 スターリンから呼び出されて出頭したKGBのドミートリ・アーセンティエフ大佐、自ら逮捕して銃殺刑に処されたはずのコトフ大佐が実はまだ生きていると聞かされ、彼の行方を捜すよう命じられた。かつてコトフの美しい妻をめぐって嫉妬の火花を散らしたドミートリは、スターリンによる大粛清を名分として陥れた彼の娘ナージャを自ら育てていた。時あたかもドイツ軍が侵攻中であり、従軍看護婦となったナージャは戦争の凄惨な有様を目の当たりにしてショックを受けている。激しい戦火の中、交錯する三人の運命。

 ミハルコフ監督の評判が高い「太陽に灼かれて」の続編ということらしいが、私はまだ前作を観ていない。今作は三人の人間ドラマというよりも、むしろ背景をなす独ソ戦を描き出すことに重きが置かれた戦争映画となっている。実際、ミハルコフ監督はスピルバーグ監督「プライベート・ライアン」を観たときにこの映画のアイデアが浮かんだと語っている。しかし、どうなんだろう、「プライベート・ライアン」の場合、ノルマンディー上陸作戦の進行を延々とリアルに描き続けることによって、善悪是非とは違う位相から戦争の問題を観客へと投げ出していくという方法をとった(もちろん、リアルに描く=中立性を装いながらも、その背景に西側的歴史観を暗黙のうちに刷り込ませて観客に押し付ける、という逆説的な考え方も可能だが)。「戦火のナージャ」の場合、観客に向けて解釈を意図して誘導するようなつまらない小芝居的エピソードが鼻について、戦場をリアルに描いたという印象は感じられない。映画としてはいまいちだった。

【データ】
監督・脚本・主演・製作:ニキータ・ミハルコフ
2010年/ロシア/150分
(2011年4月29日、新宿・武蔵野館にて)

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2011年5月 2日 (月)

黄煌雄《蒋渭水傳:臺灣的孫中山》

黄煌雄《蒋渭水傳:臺灣的孫中山》(台北:時報出版、2006年)

 蒋渭水について日本での知名度は低いと思うが、台湾現代史では欠かすことの出来ないキーパーソンの一人である。もともと医者だったが、日本による植民地支配体制下、台湾人の権利向上と自治を求めて非暴力的・合法的な抗日民族運動を指導、孫文の三民主義を信奉していたことから本書のサブタイトルにあるように「台湾の孫中山」と呼ぶ人もいる。1976年に初版の出た本書が蒋渭水の伝記として最初のものだという。三民主義の信奉者だったのだから国民党政権の後押しでもっと研究の厚みがあってもよさそうなものだが、抑圧的な政治体制を批判する彼の主張はどうやら戦後国民党政権のやましさに引っかかっていたらしく、しばらくタブーとなっていて、本格的な見直しが始まったのは戒厳令解除後のことだという。

 蒋渭水は1891年、宜蘭の生まれ。父親の方針で幼い頃から漢文教育を受け、文化的アイデンティティとしての漢民族意識を濃厚に身にまといながら育った。こうした教育環境のため公学校に入ったのは16歳のときと遅かったが、2年後には総督府医学校に入学する。在学中に中国で辛亥革命がおこり、政治社会問題に積極的な関心を寄せ、例えば同級生の杜聡明たちと一緒に袁世凱暗殺計画を立てたこともあったらしい。卒業後はしばらく宜蘭医院内科に勤務した後、1916年に台北で大安医院を開業(大稲埕太平町3丁目28番地、現在の大同区延平北路二段、義美本店あたり)。また酒場の春風得意楼も併設して経営し、これは政治関係の集会場の役割を果たした。

 1921年春から台湾議会設置請願運動が始まると趣意書を見て蒋渭水も同意し、同年10月17日に旗揚げされた台湾文化協会に参加、第3次(1923年)と第5次(1924年)には自らも委員として東京へ赴いた。文化協会の機関誌『台湾民報』に論説を発表、創刊第1号には「臨床講義」と題して台湾総督府を風刺。1923年におこった治警事件で仲間と共に起訴されて入獄(獄中では読書にいそしむ。様々な書籍の中には明治維新関連の本もあり、治警事件を安政の大獄になぞらえていたりするのも面白い。幸徳秋水『基督抹殺論』も読んだようだ)、これはかえって台湾民族運動の気運を高めることになった。このときには「入獄日記」「獄中随筆」を発表。世界の平和のためには東洋の平和、アジア民族連盟が必要であり、そのためには中華民族にして日本国民である台湾人は日華親善の役割を果たすべきところからひいては世界平和のカギとなる、こうした目標に向けて台湾人の「智識的営養不良症をなおす」すなわち啓蒙が必要という趣旨のことも書いている。一般の人々の啓蒙という目的から、『台湾民報』のほか、講習会を開いたり、文化書局という書店を開いたりした(1926年、中国名著として孫文、梁啓超、胡適、梁漱冥、章太炎など、それから日本語で社会科学書)。

 1925年、サトウキビ栽培農家が要求をはねつけた会社側と対立・衝突、警察が介入して多数の逮捕者を出す事件がおきた(二林事件)。このとき弁護のため布施辰治のほか労農党幹部だった麻生久も来台、講演活動なども行ったが、日本における無産運動の左右対立図式も台湾に持ち込まれた。こうした雰囲気の中、1927年に台中公会堂で開かれた臨時総会で階級闘争路線を主張する左派の突き上げから文化協会は分裂(左派が乗っ取った新文協が矢内原忠雄講演会を妨害したこともあったらしい)。蒋渭水もまた新文協から批判されたが、彼自身としては農工階級に依拠しつつも、三民主義を基礎として民族運動・全民運動を進めるべきだという考え方をとる。こうした考えから新たな政治組織の結成に動き出したが、1927年2月に自治主義を主張する台湾自治会は総督府から禁止され、さらに台湾同盟会も禁止、5月に台政革新会、台湾民党を旗揚げして政治的・経済的・社会的解放を主張したが、やはり民族主義団体とみなされて禁止された。用意した綱領から文言を削りに削った挙句、「1.確立民本政治 2.建設合理的経済組織 3.改除不合理的社会制度」→これなら宜しいと総督府は了解、ようやく1927年7月10日に台湾民衆党が成立した。ただし民族主義者の蒋渭水が主導権を握るとまずいから彼の参加は認めない、と総督府は条件を出してきたが、この留保条件は結党大会で否決、蒋渭水は委員に選ばれた。基本的な考え方としては、台湾の政治的・経済的・社会的自治を要求、その前提として台湾社会への啓蒙活動も意図、具体的には男女平等、教育の普及、科学知識普及による迷信悪習の撲滅、阿片禁止など。

 しかしながら、1931年2月18日に台湾民衆党も結社禁止となった。蒋渭水は病気に倒れ、同年8月5日に台北医院で大勢の親族知己が集まる中で息を引き取った。枕元には杜聡明、蔡培火などもいた。死因は傷寒病(腸チフス)で、法定伝染病であったため火葬にされた。このときばかりは台湾民族運動を糾弾してきた総督府の御用新聞も蒋渭水の熱血ぶりを賞賛する弔辞を載せたという。8月23日には台湾史上初めての大衆葬が行なわれて大勢の支持者が集まり、大稲埕には警官隊も出動して大騒ぎとなった。なお、彼が迷信打破のため合理的な葬儀を遺言していたことなどは、胎中千鶴『葬儀の植民地社会史─―帝国日本と台湾の〈近代〉』(風響社、2008年)に出ていた覚えがある。

 蒋渭水は中国革命の進展と日本における大正デモクラシーの動向に注意しつつ、さらに社会主義勢力が広がり始めると階級闘争路線をとる文化協会内左派の分派活動に直面、そうした勢力もできるだけ取り込めるように全民運動の必要を主張、その理論的支柱は孫文の三民主義に求められた。こうした背景を踏まえつつ彼の思想活動の特徴としては、第一に漢民族アイデンティティの強さが挙げられ、自ら経営していた文化書局には孫文をはじめとした中国の思想家の著作を積極的に置いていた。他方で労農問題など社会科学に関する日本語文献も多数置き、自ら体験している台湾社会の具体的状況を踏まえながら両方のジャンルを総合的に摂取、そこから台湾における政治社会運動の方向性を打ち出そうとしていた。「以農工為中心的民族運動」→全民運動と階級闘争の同時進行として民族運動を展開する。また、「防止小児病老衰病、把持理想、凝視現実的原則」という考え方からバランスをとるべきことを強調していた。性格的には物事を徹底的にやらなければならない熱血漢であったこと、台湾民衆党の結成後は党の規律への絶対的忠誠を求めていたことなども指摘されている。

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