奥波一秀『フルトヴェングラー』、中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』、川口マーン恵美『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』
芸術表現として世俗の汚穢から超越した至高の価値が認められるべきはずの音楽、それが時に政治性をもはらんでしまうという緊張関係は、ドイツ第三帝国期における音楽家たちをめぐって問われ続けてきた問題である。例えば、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。彼は当時の政治状況の然らしむる中で第三帝国音楽局副総裁、枢密顧問官などの役職を引き受けざるを得なかった。だからと言ってナチス・シンパではなく、むしろユダヤ人音楽家やヒンデミットのようにナチスから睨まれた人々に対する迫害を何とか抑えようとしていた。綱渡りのように危ない駆け引きが必要であったわけで、世間知らずどころかそれなりの政治感覚があったこともうかがえる。では、音楽家ではないユダヤ人は無視しても良かったのか。そもそも機会はあったのになぜ亡命しなかったのか。彼はナチズム信奉者ではなかったにせよ、ドイツ音楽の至高性への確信は一種のナショナリズムとして共鳴する部分はなかったのか。いずれにせよ肯定・否定という単純な二分法では捉えることはできない。奥波一秀『フルトヴェングラー』(筑摩選書、2011年)はそうした彼をめぐって錯綜する複雑な機微をたどり返していく。
世界の頂点に立つオーケストラ、ベルリン・フィル──この常任指揮者の座をめぐってフルトヴェングラーとカラヤンとが火花を散らした確執は音楽史ではあまりに有名なトピックだろう。中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書、2007年)は、さらに戦後の非ナチ化政策で演奏活動のできなかった時期に二人にかわってベルリン・フィル再生に活躍したセルジュ・チェリビダッケを合わせた三人が三つ巴になって繰り広げた人間ドラマを描き出している。
フルトヴェングラーとカラヤン、どちらの音楽の方が優れていたのか? 川口マーン恵美『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』(新潮選書、2008年)は、双方のタクトで実際に演奏し、それぞれの迫力を実体験したベルリン・フィルの元楽団員を訪ねて聞き書きした記録である。人それぞれに言い方のニュアンスは異なるにしても、二人の演奏にはその演奏なりの素晴らしさがあるのであって、一律なことは言えない、比較すること自体がナンセンスだ、という趣旨の返答をする人が大半だ。カラヤンから排斥されて徹底して憎悪する人もいれば、家族ぐるみで親しかった人もいる。そうした立場的相違によるのか、各人それぞれに感性が違うからなのか、同じポイントを尋ねても答え方が多種多様なのが面白い。ある意味、藪の中。ただし、往時を回想しながら答える語り口にはその人なりの音楽観、組織観、人間観が自ずとにじみ出てきて、中には含蓄深い表現もある。フルトヴェングラーとカラヤン、どちらに軍配をあげるかと結論を出すのはどうでもいいことで、むしろインタビューのプロセス自体がとても面白い。
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