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2011年4月18日 (月)

マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

マックス・ヴェーバー(富永祐治・立野保雄訳、折原浩補訳)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(岩波文庫、1998年)

・とりあえず以下のポイントを抑えておけばいいか。この世の諸々の事象をすべて説明しつくすことはもちろんできない。研究者自身の問題関心に従って対象を選ぶ、この対象選択の時点で一定の価値観的バイアスがかかっているわけだが、第一にそうした選択のあり方自体に彼の生きている中の時代的要請があること、言いかえると時代が変われば関心対象の選択も変化し得る。第二に、自らのバイアスを通して対象へとコミットしていることについて常に自覚しながら議論を進めていくこと→価値自由。同様に、この世の諸々をすべて確実に描きつくすことはできないのだから、事象それぞれの関連している有様を明らかにするために一定の見取り図を提示→因果連関を論理整合的に説明するためのフィクショナルな手段的描画として理念型→これはあくまでも複雑に絡まり合った生々しい事象を整理して観察するために引いた補助線なのであって、理念型と具体的実態とを混同しないように注意、むしろこの偏差から対象とする具体的実態を把握することもできる。また、因果連関の把握と「普遍的」な法則とを混同しないようにも注意すること(マルクス主義は、法則導出→プロクルステスのベッドのように現実を法則へと押し込めようとして失敗したと批判)。

・「われわれが追求するのは、歴史的な、ということはつまり、その特性において意義のある、現象の認識にほかならない。そのさい決定的なのは、かぎりなく豊かな現象のかぎりある部分だけに意義がある、という前提に立って初めて、個性的な現象の認識という思想が、およそ論理的に意味をもつということである。…なんらかの出来事を規定している原因の数と種類は、じっさいつねに無限にあり、そのうちの一部分を、それだけが考慮に値するとして選び出すための標識〔メルクマール〕は、事物そのものに内在しているわけではない。…こうした混沌に秩序をもたらすのは、いかなるばあいにももっぱら、個性的実在の一部分のみが、われわれが当の実在に接近するさいの文化価値理念に関係しているがゆえに、われわれの関心を引き、われわれにたいして意義をもつ、という事情である。それゆえ、つねに無限に多様な個別現象の特定の側面、すなわち、われわれが一般的な文化意義を認める側面のみが、知るに値し、それのみが因果的説明の対象となるのである。…ある現象の個性が問題とされるばあい、因果問題とは、法則を探究することではなく、具体的な因果連関を求めることである。当の現象を、いかなる定式に、その一範例として下属させるか、という問題ではなく、当の現象が、結果として、いかなる個性的布置連関に帰属されるべきか、という問題である。つまり、それは、帰属の問題である。ある「文化現象」──われわれの学科の方法論においてすでにときとして用いられ、いまや論理学において正確に定式化され、普通に使われるようになっている術後を適用すれば「歴史的個体」──の因果的説明が問題となるばあいにはいつでも、因果の法則にかんする知識は、研究の目的ではなく、たんに手段にすぎない。そうした法則にかんする知識は、ある現象の、個性において意義のある構成部分を、具体的原因に因果的に帰属するさい、そうした因果帰属を可能にし、容易にしてくれる。そうした効用があるばあい、またそのばあいにかぎって、法則にかんする知識は、個性的な連関の認識にとって価値がある。そして、当の法則が「一般的」すなわち抽象的になればなるほど、そうした法則にかんする知識は、個性的現象の因果帰属への欲求にとって、また、同時に、文化事象の意義の理解にとって、それだけ効用が少なくなるのである。」(86~89ページ)

・「…実在がなんらかの意味で最終的に編入され、総括されるような、ひとつの完結した概念体系を構築して、その上で、そこから実在をふたたび演繹できるようにする、というのが、いかに遠い将来のことであれ、文化科学の目標である、とする考えがあって、これが、われわれの専門学科に属する歴史家をさえ、いまだにときとして捕らえているのであるが、そうした思想には、まったく意味がないということ、これである。計りがたい生起の流れは、永遠に、かぎりなく転変を遂げていく。人間を動かす文化問題は、つねに新たに、異なった色彩を帯びて構成される。したがって、個性的なものの、つねに変わりなく無限な流れのなかから、われわれにとって意味と意義とを獲得するもの、すなわち「歴史的個体」となるもの、の範囲は、永遠に流動的である。歴史的個体が考察され、科学的に把握されるさいの思想連関が、変化するのである。したがって、人類が、つねに変わることなく汲み尽くしえない生活について、精神生活のシナ人流の化石化により、新しい問題を提起することを止めないかぎりは、文化科学の出発点は、はてしない未来にまで転変を遂げていくのである。諸文化科学についてひとつの体系を構想することは、それが、取り扱うべき問題と領域とを、確定的な、客観的に打倒する一体系に固定化する、という意味のものにすぎないとしても、それ自体、無意味な企てであろう。そうしたことを企てても、そこからはつねに、互いに異質で、ひとつの体系には統合されようもない、数多の特殊な諸観点が、つぎつぎに取り出されてくるだけであろう。」(100~101ページ)

・「…理念型は、ひとつの思想像であって、この思想像は、そのまま歴史的実在であるのでもなければ、まして「本来の」実在であるわけでもなく、いわんや実在が類例として編入されるべき、ひとつの図式として役立つものでもない。理念型はむしろ、純然たる理想上の極限概念であることに意義のあるものであり、われわれは、この極限概念を規準として、実在を測定し、比較し、よってもって、実在の経験的内容のうち、特定の意義ある構成部分を、明瞭に浮き彫りにするのである。」(119ページ)

・「…自然主義的な先入観にもとづく理論と歴史との混同ほど、危険なものはない。この混同が、上記の理論的概念構成のなかに、歴史的実在の「本来の」内容や「本質」を固定したと信ずるとか、あるいは、歴史を無理やり押し込めるプロクルーステースの寝床に、そうした概念構成を利用するとか、あるいはまた、当の「理念」を実体化して、現象の洪水の背後にある「本来の」実在、ないしは歴史において実現される実在的「諸力」と考えるとか、いかなる形態をとって現れるにせよ、それが危険な混同であることに変わりはない。」(122ページ)

・「歴史的概念の「本来の」「真の」意味を確定しようとする試みは、つねに繰り返されているが、けっして完結しない。その結果、歴史研究において不断に使用されている総合が、たんに相対的に規定された概念にとどまるか、あるいは、概念内容の一義性をぜひとも手に入れようとすれば、当の概念は抽象的な理念型となり、したがってひとつの理論的、それゆえ「一面的」観点であることが明白となってくる。実在は、この観点のもとに光を当てられ、この観点に関係づけられるが、当の観点はしかし、実在が余すところなく組み入れられるような図式には、もとより適していない。というのも、われわれがそのときどきに意義をもつ実在の構成部分を把握するために欠くことのできない思想体系は、いずれも、実在の無限の豊かさを汲み尽くすことはできないからである。これらの思想体系はいずれも、そのときどきのわれわれの知識の状態と、そのときどきにわれわれが使用できる概念形象とにもとづいて、そのときどきにわれわれの関心の範囲内に引き入れられる事実の混沌のなかに、秩序をもたらそうとする試み以外のなにものでもない。過去の人々が、直接に与えられた実在を、思考によって加工し、ということはしかし、じつは思考によって変形し、また、かれらの認識の状態と、かれらの関心の向かう方向とに応じた概念のなかに組み入れることによって発展させてきた思想装置は、われわれが新たな認識によって実在から獲得することができ、また、獲得しようとするところのものと、つねに抗争する。この闘争のなかで、文化科学的研究の進歩が達成されていくのである。その結果は、われわれが実在を把握しようとする概念の、たえざる変形の過程である。それゆえ、社会生活にかんする科学の歴史は、概念構成によって事実を思想的に秩序づけようとする試みと、──そのようにして獲得された思想像の、科学的地平の拡大ならびに推移による解体をへて──そのようにして変更された基礎の上に立つ、新たな概念構成という、この両者のたえざる交替をともなう変遷である。…むしろ、上記の命題によっていわんとすることは、人間の文化を取り扱う科学においては、概念の構成が、問題の設定に依存し、この問題設定が、文化そのものの内容とともに変遷を遂げるというこの事情にほかならない。文化科学においては、概念と、概念によって把握されるものとの関係からして、こうした〔概念〕総合のいかなるものも、暫定性をともなわざるをえない。」(145~147ページ)

・「あらゆる経験的知識の客観的妥当性は、与えられた実在が、ある特定の意味で主観的な、ということはつまり、われわれの認識の前提をなし、経験的知識のみがわれわれに与えることのできる真理の価値〔への信仰〕と結びついた諸範疇〔カテゴリー〕に準拠して、秩序づけられるということ、また、もっぱらこのことのみを、基礎としている。…科学のみが寄与できる事柄とは、経験的実在〔そのもの〕でもなければ、経験的実在の模写でもなく、ただ経験的実在を思考により妥当な仕方で秩序づける、概念と判断である。」(157~158ページ)

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