王徳威『叙事詩の時代の叙情──江文也の音楽と詩作』
王徳威(三好章訳)『叙事詩の時代の叙情──江文也の音楽と詩作』(研文出版、2011年)
日本の植民地支配下にあった台湾に生まれ、日本に留学して音楽家としてデビュー、日中戦争の最中に日本軍占領下の北京へ渡って師範大学教授となり、戦後はそのまま北京に留まったものの、漢奸として指弾されて文化大革命で迫害を受ける──江文也(1910~1983年)がたどった波瀾に満ちた生涯の軌跡はそれ自体がドラマティックで関心がかき立てられるし、台湾、日本、中国と渡り歩いた越境的な道のりからはアイデンティティの相剋という現代的関心もまた呼び起こされる。実際、1980年代以降、台湾や中国で江文也が再び注目を集めたときにそうした問題関心が見られたが、彼は台湾人なのか、中国人なのかという不毛な議論がかわされたらしい。しかしながら、モダンな感性を持った芸術家であった彼にとって政治的帰属意識など問題にはならず、強いて帰属先を求めるならば音楽そのものだったとしか言いようがないだろう。そもそも彼が中国文化へ関心を寄せたきっかけは民族意識回帰とは無縁で、亡命ロシア貴族の音楽家アレクサンドル・チェレプニンの示唆により芸術的インスピレーションを得るためであった。
タイトルで端的に示された本書の問題意識は、チェコの中国学者ヤロスラフ・プルシェクが近代中国文学を考察するに当たり個の立場で情感を歌い上げる抒情と政治的集団意識を意味づける叙事詩との区別として行なった議論を踏まえている。すなわち、「抒情は個人の主体性の発見と解放への熱望であったのに対し、叙事詩は集団主義の構築と革命への意思を指していた。したがって、抒情と叙事詩は一般的な意味で異質なのではなく、むしろ様式(モード)や語り方のちがい、感情の起伏の度合いの差、そして最も重要なことは社会的政治的なイメージのちがいを意味している」「リアリストが、現実をありありと反映する道具として言葉を見ているのに対し、抒情の書き手は精緻な言葉の形式を用いながら、そうした擬似現実主義の試みにとどまらずに、言葉の音響効果から心象を表現する強大な可能性を実証する。言葉のオーケストレーションを通じて、抒情主義は歴史のカオスにひとつの明晰な形式を与えることで、生来備わっている人間の巨大さや、人間の不確実性の外にある、美学的倫理学的秩序を認めるものである」「江文也の音楽、詩作そして儒教音楽学の理論的考察は、1930年代から40年代中国における抒情のディスクールの一部をなすものと理解されるべきである」(70~80ページ)。
江文也の中国への関心にはむしろオリエンタリズムとも言うべき動機が潜んでいたかもしれない。しかし、彼が交響曲「孔廟大成楽章」や論文「上代支那正楽考」に取り組みながらつかもうとしていたのは、時代は違っても同じ音楽家として共鳴する孔子のイメージであり、そこにある種純粋で超越的な法悦を見出していた。本書の問題意識で言うなら抒情である。他方で、儒教的イメージは多様な立場からの読み込みが可能であり、例えば日本の儒学思想理解では王道→大東亜共栄圏と結びつける契機もまた同時にはらまれていた。彼が生きていたのは叙事詩の時代、政治的社会的大動乱の時代であった。彼自身の音楽への思いとは関係のない位相で、彼がまなざしを向けた抒情は叙事詩のロジックに絡め取られてしまった。
江文也は20世紀における東アジアの文化史を考える上で非常に興味深い人物だと思うのだが、日本語で読める一般的書籍は少ない。彼を取り上げた単行本としては井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』(白水社、1999年)があるが、遺族とトラブルになった経緯があって現在絶版となっている。そうした中、本書のように江文也を考察した単行本が刊行されたのは嬉しい。なお、彼の文章は『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)で読める。片山杜秀による解説論文は政治史的背景も踏まえて1945年までの江文也の足跡をたどっており、とりわけチェレプニンとの関係に注目しているところが興味深い。
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