マックス・ホルクハイマー/テオドール・アドルノ『啓蒙の弁証法──哲学的断想』
マックス・ホルクハイマー/テオドール・アドルノ(徳永恂訳)『啓蒙の弁証法──哲学的断想』(岩波文庫、2007年)
・要するに、人間を呪縛してきた不合理な世界観が科学的知識や合理的思考方法(=「理性」)によって解体されてきたこと(=「啓蒙」)が近代の一つのプロセスだと言える。ところで、この合理的思考方法によると、この世のありとあらゆるものが平板化・画一化して把握され、理性的主体の働きかけによって操作可能なものへと位置付けられていく。それは他ならぬ人間自身も例外ではなく同様に客体化されていく過程でもあった。結果、質的相違が一切捨象された中で社会システムのみが自己目的的に作動し始め、人間はかえって自らの主体性を喪失していく。こうした「啓蒙」による進歩が同時に人間自身の精神的退歩を意味するという二律背反的な展開(=「弁証法」)を把握するのが趣旨。
・ナチズムの台頭を目の当たりにしている危機感の中から本書は書かれたわけだが、全体主義は単に野蛮だというにとどまらず、そもそも「理性」「啓蒙」の逆機能として現われた人間疎外が背景に伏在している、これは全体主義だけの問題ではなく近代社会全般にわたって再考すべき問題だという課題を提起。
・「啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放することであった。神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させることこそ、啓蒙の意図したことであった」(23ページ)。
・「市民社会は等価交換原理によって支配されている。市民社会は、同分母に通分できないものを、抽象的量に還元することによって、比較可能なものにする。啓蒙にとっては、数へ、結局は一へと帰着しないものは仮象とみなされる。」「事象が科学的に計算されるものになると、かつて神話のうちで思想が事象について与えていた説明は、無効を宣言される」(30ページ)。
・「神々は人間から恐怖をとり去ることはできない。神々は恐怖の硬直化した響きを、自らの名前として担っている。人間が恐怖から免れていると思えるのは、もはや未知のいかなるものも存在しないと思う時である。これが非神話化ないし啓蒙の進む道を規定している。こうして神話が生命なきものを生命あるものと同一視したように、啓蒙は生命ある者を生命なきものと同一視する。啓蒙はラディカルになった神話的不安である。その究極の産物である実証主義がとる純粋内在の立場は、[経験の外へ出ることを禁ずるという意味で]いわば普遍的タブーにほかならない。外部に何かがあるというたんなる表象が、不安の本来の源泉である以上、もはや外部にはそもそも何もあってはならないことになる」(43ページ)。
・「啓蒙にとっては、過程はあらかじめ決定されているということのうちに、啓蒙の非真理があるのである。数学的方法においては、未知のものは方程式の未知数になるとすれば、ある価値がまだ代入される前に、未知のものは、前から知られていたものという徴しづけを帯びていることになる。自然は量子力学の出現の前後を問わず、数学的に把握されなあければならないものである。わけのわからないもの、解答不能や非合理的なものさえ、数学的諸定理によって置き換えられる。…啓蒙は思考と数学とを同一視する。それによって数学は、いわば解放され、絶対的審級に祭り上げられる。」「思考は物象化されて、自発的に動きを続ける自動的過程になり、その過程自身がつくり出した機械を手本にして努力するために、ついには機械が、その自動的過程にとって代りうるようになる」(58~59ページ)。
・理性=「計算的思考は、自己保存という目的に合わせて世界を調整し、対象をたんなる感覚の素材から隷従の素材へとしつらえる以外にいかなる機能をも知らない。…存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのたんなる事例になる」(183ページ)。
・「理性は、目的を欠いた、それ故にまさしくあらゆる目的に結びつく合目的性になった」(191ページ)。
・「理性がいかなる内容的な目的をも設定しない以上、情念はすべて、ひとしなみに理性とはほとんど無縁同然のものとなる。…啓蒙にとって理性とは、事物の固有の実体を自らのうちに吸収し、理性そのものの純粋な自律のうちに揮発させる化学的動因である。」…(理性による神話からの解放→)「しかしその解放は、人道的だったその創始者たちが考えていたよりは、はるか先にまで到達した。鎖を解き放たれた商品経済は、理性の実現過程であると同時に、また理性を亡ぼす原因となる力でもあった」(192~193ページ)。
・「文化産業においては、批判と同じように尊敬も消失する。つまり批判は機械的な鑑定に、尊敬はたちまち忘れ去られる有名人への崇拝に、とって代わられる」(326ページ)。
・「唯々諾々とたゆむことなく現実に適応することの非合理性は、個々人にとっては理性よりも理性的なものになる」(416ページ)。
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