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2011年4月13日 (水)

プロチノス『善なるもの一なるもの』

プロチノス(田中美知太郎訳)『善なるもの一なるもの』(岩波文庫、1961年)

・プロチノス(Plotinos、3世紀)は、プラトン哲学におけるイデア論を彼岸と此岸とに分断して捉えるような二元論には陥らせず、世界を根源的に一つのものとして解釈しなおしたところから新プラトン主義と呼ばれる。彼が主張していたイデアをも成り立たせる究極的に一なるもの(仮に「一者」と呼ぶ)が後に「神」と比定されることで、結果として古代ギリシア哲学をキリスト教神学へと媒介したとも位置付けられる。
・存在そのものとしか言いようのない、言語的表現を絶する究極的な何か、そこから流出した知性の働きによって我々はこの現世界を見ようとしている存在であるとして解釈する。ただし、本源的に「私」も含めてすべてが世界そのもの、すなわち一つのものなのだから、「私」が対他的に対象としての「一者」を見るという関係にあるのではない。論理整合的に理解するというのではなく、感覚を研ぎ澄まして直接的につかみとるしかないという意味で神秘主義とされる。
・井筒俊彦が人間の思惟構造の共時的把握という試みの中でしばしばプロチノスに言及している。つまり、人間の意識の深みにある存在の普遍性としか言いようのないレベルへと向けてギリギリまで推し進められる思索の中で、例えばスーフィズム、古代ユダヤ思想、古代インド哲学、老荘思想、禅の思想などと共にプロチノスの哲学も並べられている。「一者」とその反映としてのこの世との両方を捉える眼差しのとり方は、意識のゼロポイントと現世とを往還する思索のあり方と共鳴していると言ったらいいのだろうか。

・「すべての存在は、一つであることによって存在なのである。」(11ページ)
・…「われわれの求めているものは一なるものであって、われわれが考察しているのは、万物の始めをなすところの善であり、第一者なのであるから、万物の末梢に堕して、その根源にあるものから遠ざかるようなことがあってはならない。むしろ努めて第一者の方へと自己を向上復帰させ、末梢に過ぎない感覚物からは遠ざかり、いっさいの劣悪から解放されていなければならない。なぜなら、懸命な努力の目標は善にあるからである。そして自己自身のうちにある始元にまで上りつめて、多から一となるようにしなければならない。ひとはそれによってやがて始元の一者を観るであろう。すなわち知性になりきって、自己の精神をこれにまかせて、その下におき、知性の見るところのものを正覚の精神が受け容れるようになし、一者をこの知性によって観るようにしなければならない。」(19ページ)
・「それはちょうど昼間の光明がいずれも太陽から発しているようなものである。そしてこの故に「語られもせず、記されもせず」というようなことが言われるのである。これをしかし我々が語ったり、書いたりするのは、ただかのものの方へと送りつけて、語ることから観ることへと目ざめさせるだけなのであって、それはちょうど何かを観ようと意う人のために道を指し示すようなものである。すなわち道や行程は教えられるけれども、実地を観ることは、すでに見ようと意った者の仕事なのである。」(23ページ)
・「本当をいえば、一者には合う名前が一つもないのである。しかし何らかの名前で呼ばなければならないとすれば、これを共通に一者というのが適当であろう。…またそれは知性を存在性へと導くものであって、それの本性はおよそ最善なるものの源泉となるがごときものであり、存在を生む力として、自己自身のうちにそのまま止まって、減少することのないようなものであり、またそれによって生ぜしめられるもののうちに存在するということもないものなのである。なぜなら、それはそれらが生ぜしめられるより先のものだからである。われわれがこれを一者と名づけるのは、互いにこのものを表示するための必要に出ずるのであって、われわれはこの名称によって、不可分なるものの思念に導き、精神の統一を計ろうとするのである。」(27~28ページ)
・…「かくて、もし本当に何か自足的なものがなければならないとすれば、一者こそそれでなければならぬ。なぜなら、ひとり一者のみが自己自身に対しても、また他に対しても不足を訴えたり、求めたりするようなことのないものだからである。すなわちそれは、自分がただあるためにも、またよくあるためにも、何ら他に求めるところのないものであって、自分がそこに座を与えられるために何かを必要とするようなことも決してないものなのである。なぜならば、自分以外のものに対して、それらの存在因となっているものが、自己の正にあるところのものを他から授けられてもつということはないし、またそのよくあるということにしたところで、一者にとって一者以外の何がそれであり得ようか。すなわち一者にとっては、よきということは外から附加されるようなものではないのである。それはつまり自己自身がまさにそれだからである。」…「かくて一者にとっては、それが求めなければならない善というものは一つもないのである。また従ってそれは何ものも欲しないのである。むしろそれは善を超越したものであって、他のものに対しては、それらのものが何かそれの一分を共有することが出来る場合においては、善となるけれども、自分が自己自身に対して善であるということはないのである。」(30~32ページ)
・…「われわれの存在は、われわれがかのものの方に傾きさえすれば、それだけ存在度が多くなるのであって、その存在をよき存在たらしめるものもまたかしこにあるのである。そして存在がかのものから遠ざかれば、それだけで存在度は少くなるのである。かしここそ精神のいこい場なにであって、いっさいの邪悪から清められたその場所へ馳けのぼることによって、精神は邪悪を脱するからである。精神が知性にめざめるのもそこにおいてであり、もろもろの悩みを受けずにすむのもそこにおいてなのである。否、真実の生というものもそこにおいてこそ生きられるのである。なぜなら、現在の生、神なき生というものは、実は生命の影に過ぎないのであって、かしこの生を模したものなのである。これに対して、かしこの生はすなわち知性の活動なのであって、この活動あることによって、それは神々を生むのであるが、これはまたかのものへの静かなる接触によるのである。そして美を生み、正を生み、徳を生むのである。つまりこれらは、精神が神にみたされることによって、うちに孕むところのものだからである。そしてこれが精神の終始するところのものなのである。始めというのは、精神はかしこから出て来たものだからであり、終りというのは、究極において求められる善がかしこにあるからであって、精神はかしこに生ずることによって、自分自身が本来あったところのものになるからである。というのは、この世にあって、この世のものによって生きるというのは、脱落の結果であり、追放のためであり、天かける翅を失ったからなのである。」(41~42ページ)
・…「見るはたらきも、またそのはたらきによってすでに見るところのものも、もはや論理ではない。むしろそれは論理以上に大いなるものであり、論理に先立ち、論理の上に君臨するものなのであって、そのことは見られる側のものについても同様である。」(45ページ)
・「…見る者は見られたものと相対して二つになっていたのではなくて、見られたものと自分で直接に一つになっていたのであるから、相手は見られたものというよりは、むしろ自分と一つになっているものというべきであったろう。」(47ページ)
・「すなわちそれは没我(エクスタシス)であり、一体化であり、自己放棄であり、接触への努力であって、また静止であり、思念を凝らしてかれへの順応をはかることなのであって、いやしくもひとが玄宮内部のものを観ようとするならば、このようにするより外はないのである。」(48ページ)
・「すなわち精神というものは、元来全くの非存在にいたるというようなことはむろんないのであって、それは下降によって劣悪なものにいたり、またその意味において非存在にいたることはあるにしても、全然の非存在にいたることはないはずなのである。また急いで逆の方途に引き返すにしても、精神は自分と違ったものの中へ入りこむことになるのではなく、自分自身のうちにかえることとなるのである。」(49ページ)

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