« 適当に読んだウェーバー関連書 | トップページ | マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』 »

2011年4月17日 (日)

【映画】「名前のない少年、脚のない少女」

「名前のない少年、脚のない少女」

 舞台はブラジル、ドイツ系住民が集まって農園を経営している田園地帯の中の小さな町。祭りが近く華やいだ気分も見られる中、少年の表情はどこか鬱屈したように暗い。彼は毎日インターネット上に自作の詩を投稿している。そして、いつも見ているサイトにあるのは、ある少女がアップしていた写真や動画。彼女は自殺したのだが、ネット上ではあたかもまだ生きているかのようだ。ある日、少年は、彼女と一緒に飛び降り自殺を図ったものの自分一人だけ生き残った男が町に戻ってきているのに出会った。一緒に車に乗り、自殺現場となった鉄橋を通りかかる。少年はこの橋を渡って向こうの世界へ行けるのか──。

 ネット上の動画で、ボブ・ディランのコンサートへ行こうよ、と誘われたことが、少年が町を出たいと考え始める直接のきっかけになる。ボブ・ディランの曲が一つのモチーフになっているのだが、私は世代的に知らないので、この映画の中でどんな位置付けになるのはよく分からない。

 ネット上で今も生き続けているかのような美少女のどこかはかなく寂しげな表情は、永遠にたどり着くことのない少年の憧れか。生還した男には、こちらの現世で生き続けなければならないもう一つの自分自身の姿を見出しているのだろうか。ねっとりと包み込むような霧の中に立ち上る町の光景や少女の映った映像、これらの白みがかった淡い色彩が幻想的に美しい。対して、自殺現場となった鉄橋がかかる峡谷に降り注ぐ穏やかな陽光も、その明るさゆえにいっそう際立った印象を残す。緑の麦穂が青々と広がる中のあぜ道、ヘッドホンを耳にした少年がただ一人歩いているシーンを見て、ふと、これは何かで見たような既視感にとらわれた。岩井俊二監督「リリィ・シュシュのすべて」だ。

 この映画はストーリーとして明瞭な筋立てが見えてくるわけではないし、ましてや先入観としてのブラジルらしさを思い起こさせる要素は何もない。むしろ、少年の心象風景をリリカルな映像詩として映し出したという感じだ。思春期特有の出口が見えない息苦しさ。それは国籍には関係なく、観る人それぞれが自らの思いをこの詩的な映像に投影しながら何かをかみしめていく、そんなタイプの映画だろう。

【データ】
監督・脚本:エズミール・フィーリョ
脚本・出演:イズマエル・カネッペレ
ブラジル・フランス/101分/2009年
(2011年4月16日、渋谷、シアター・イメージフォーラムにて)

|

« 適当に読んだウェーバー関連書 | トップページ | マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』 »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/51421781

この記事へのトラックバック一覧です: 【映画】「名前のない少年、脚のない少女」:

« 適当に読んだウェーバー関連書 | トップページ | マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』 »