王育徳『「昭和」を生きた台湾青年──日本に亡命した台湾独立運動者の回想 1924─1949』
王育徳『「昭和」を生きた台湾青年──日本に亡命した台湾独立運動者の回想 1924─1949』(草思社、2011年)
台湾語研究で名高い言語学者であり、かつ亡命先の日本で台湾独立運動に生涯を捧げた王育徳(1924~1985年)。彼の死後、蔵書の整理中に見つかった遺稿をもとにまとめられた回想記である。彼が生まれた時点で日本による植民地統治はすでに30年ほど経っていたが、生家にはまだ清朝期の遺風や台湾土着の習俗が色濃く残っていた。植民地的近代化過程で変容しつつある台湾社会の世相を見る彼の観察が興味深いだけでなく、1937年以降の皇民化運動、1945年の日本敗戦、続く国民党による台湾接収、こうした時代的転換に翻弄される彼自身の運命はまたドラマティックですらある。
王育徳は古都・台南で生まれた。商売で成功した裕福な家だったようだが封建的遺風もまた強く、三人の夫人たちやそれぞれの子供たちの間でのいさかいには家庭内の複雑な人間関係がうかがえる。進学熱が強いが、公学校の小学校に対するコンプレックス、体罰は当たり前のスパルタ教育などが目を引く。台湾社会ではもともと台湾人自身の言葉や習俗も許容されていたが、皇民化運動が始まってから台湾人と日本人との関係がギクシャクし始め、台湾人意識が強まったという指摘もあった。後にアラビア学の泰斗として著名になる前嶋信次が若い頃に台南一中で教師をしていたことは知っていたが、王育徳も彼の授業を受けている。また、同級生に葉盛吉の名前もあった。邱永漢も台南の出身だが学校は異なり、台北高校尋常科受験で台北へ出たときに兄・育霖の紹介で初めて知ったらしい。
日本の敗戦により、ようやく自分たちの台湾語で自由におしゃべりできると思ったが、やって来た国民党政権によって事実上禁止されてしまう。二・二八事件では公開銃殺された湯徳章の遺体を目の当たりにし、さらには慕っていた兄・育霖もまた殺害されてしまった。このとき台南の学校で教壇に立っていた彼の身辺でも一人また一人と連行されていき、身の危険を感じた彼は先に香港に移住していた邱永漢を頼って亡命する。以後、故郷の土を踏むことは二度と出来なかった。
なお、まだ新来の中華民国に期待を抱いていた頃、光復記念の演劇をやろうという企画が持ち上がり、頼まれて彼は脚本を書いた。台湾語で書いたのだが、台湾語には漢字起源意外の語彙も多く、漢字では表記しきれないことを実感、これが後に彼独自の台湾語表記方法を考案するきっかけになったという。いずれにせよ、若き日の苦難をたどりかえすと、篤実な言語学徒と情熱的な独立運動家という一見相反するような彼の二つの顔がしっかり結び付いて見えてきて興味深い。
日本亡命後の王育徳については、次女で本書の編集に当たった近藤明理による「おわりに」で紹介されており、亡命の経緯(東大の中国文学者・倉石武四郎が世話している)、台湾独立運動、台湾人元日本兵補償問題などに触れられている。また、日本への亡命後、一時期中河與一のもとで小説の勉強をしていたこと、1961年に李登輝(当時は台湾大学助教授、農業経済学専攻)が密かに訪ねてきて話がはずんだことなどは初めて知った。
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