【映画】「サラエボ、希望の街角」
「サラエボ、希望の街角」
かつて内戦で激しい憎悪の渦に巻き込まれ、引き裂かれたボスニア・ヘルツェゴビナ。首都サラエボの街並はそうした過去をかき消したかのように穏やかで美しいが、癒しがたいトラウマはその中にも根深く疼いている。
同棲中のカップル、ルナとアマルはモスレム人、宗教上はイスラムであるが、クラブで酒を飲んで激しいビートに身をゆだねたり、愛をささやきあったり、消費生活を楽しむ姿はヨーロッパのどこでもよく見られるような普通の若者だ。ある日、アマルは勤務中に酒を飲んで職を失った。たまたま再会したかつての戦友に誘われてイスラム原理主義的な修養キャンプに参加、徐々に信仰に目覚め、リゴリスティックな戒律解釈を口にし始めた彼に対してルナは違和感と不安を感じ始める。
ヤスミラ・ジュバニッチ監督の前作「サラエボの花」は、内戦中にレイプされて望まれずに生まれた息子と向き合う母親の姿を描いていたが、今作ではボスニアにおける宗教回帰現象に焦点を合わせているのが特色である。内戦中にサウジアラビアのワッハーブ派を中心に義勇軍が派遣されていたが、この映画に出てくる宗教教育キャンプも同様の流れの中で現れたものであろう。
徐々に険しくなっていくアマルの表情、それを何か異様なものであるかのように不安げに見やるルナの視点は西欧的近代を基準とした偏見だと捉えることも、あるいはできるかもしれない。しかしながら、この映画はことさらにイスラムを否定しているわけではない。その土地なりの歴史に根ざした皮膚感覚に自然に馴染んだ宗教解釈というのもあり得るわけで、それを教義上の厳格性からことさらに批判するアマルの態度の不自然さがむしろ際立つ。この批判という行為そのものに、彼がこの世界に対して抱いているやり切れない絶望感が込められていると言えるだろうか。プログラムに監督インタビューがあり、ボスニアに昔からあった小さなモスクの詩的な暖かさと、近年サウジ資本の援助で建設された大きなモスクの冷たさとを対比する指摘が目を引いた。アマルが示すリゴリスティックな不自然さは、内戦で家族を失い、精神的不安定から職を失い、自身のおかれた不条理なみじめさに何とか意味づけをしたい、そうしたもがきがますます空回りしてしまうという意味でトラウマの呪縛からなかなか離れることのできない厳しい葛藤をうかがうことができる。
【データ】
原題:Na Putu/On the Path
監督・脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア、ドイツ、クロアチア/2010年/104分
(2011年3月5日、神保町・岩波ホールにて)
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