松長昭『在日タタール人──歴史に翻弄されたイスラーム教徒たち』
松長昭『在日タタール人──歴史に翻弄されたイスラーム教徒たち』(東洋書店、2009年)
近年、日本におけるイスラーム研究の蓄積は相当なものだと思われるが、その割にはかつて日本に居住していたムスリムの動向については意外と知られていない。すなわち、ロシア革命後に日本へとやって来たタタール人のことである。彼らは羅紗売りとして日本全国を歩き、農村での洋服普及に一役買ったらしい。また、在日外国人がまだ少なかった頃、映画の外国人エキストラとして出演した中にはタタール人が多かった。あるいは、井筒俊彦が最初にコーランの手ほどきを受けたのは在日タタール人からであったが、他方で戦前期の日本におけるイスラーム研究は大陸政策の一環として始められ、在日タタール人も陸軍によって政治利用された経緯がある。これがトラウマとなって戦後のイスラーム研究では目がそらされてきたとも言われている。こうした在日タタール人の歴史を本書はコンパクトに教えてくれる。
在日タタール人コミュニティのまとめ役としてクルバンガリーとイスハキーの二人があげられるが、両者の政治スタンスは異なる。クルバンガリーは陸軍や右翼のアジア主義者の支持を得ていた一方、イスハキーは亡命タタール人のトルコ国籍取得を目指して活動していた。両者の対立が激しくなる中、イスハキーは日本政府から反日分子とみなされて日本を去ることになる。クルバンガリーは代々木の東京モスク建設などに奔走していたが、在日タタール人のまとめ役としては不適格で大陸政策の邪魔だとされて大連へと追放された。かわって海外のイスラーム社会で名の通ったイブラヒムが後釜に据えられる。大連に追放されたクルバンガリーは日本の敗戦後、ソ連軍に逮捕されて監獄に入れられてしまう。
ソ連からの亡命者として無国籍状態にあった在日タタール人は戦後も不安定な立場にあったが、トルコ政府がようやく国籍取得を認めて1950~60年代にかけて大半が移住して行ったため、彼らの姿は日本では見られなくなった。朝鮮戦争にあたってトルコは国連軍として派兵、負傷して治療のため日本へ後送された将兵が在日タタール人と交流して彼らの要望がトルコ本国政府に伝えられたこと、トルコの朝鮮戦争参戦に対する懲罰としてソ連の指令によりブルガリア領内トルコ系民族の追放政策が行なわれ、トルコ政府が海外在住で無国籍のトルコ系住民の移住受け入れを進めたことなどの背景がある。
なお、戦前期日本において国策としてイスラーム研究が行なわれた問題については坂本勉編著『日中戦争とイスラーム──満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』(慶應義塾大学出版会、2008年→こちらで取り上げた)を参照のこと。来日したアブデュルレシト・イブラヒムについては、彼の旅行記のうち日本に関する部分が『ジャポンヤ──イスラム系ロシア人の見た明治日本』(小松香織・小松久男訳、第三書館、1991年→こちらで取り上げた)として紹介されている。
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