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2011年3月 9日 (水)

白石仁章『諜報の天才 杉原千畝』

白石仁章『諜報の天才 杉原千畝』(新潮選書、2011年)

 ナチスによる迫害を逃れてきたユダヤ人難民たち、行き場のない彼らに対して当時リトアニアのカウナス領事館に在勤中だった杉原千畝が本省の意向に反してまでヴィザを発行し続けたことは、あの狂気の時代に輝くヒューマニスティックなエピソードとしてよく語られる。だが、本書が注目するのはむしろインテリジェンス・オフィサーとしての杉原の活躍ぶりだ。

 ハルピン学院でロシア語を学び、旧満洲国で外交官としてのキャリアを本格的に始めた彼はもともと対ソ連諜報活動の専門家として養成されていたが、ソ連赴任に際してペルソナ・ノングラータとして拒絶されてしまった。1939年、対ソ諜報活動の拠点として重視されたバルト三国の1つ、リトアニアのカウナスへ副領事として赴任。当初は二軍的な立場だったらしいが、やがて最も困難な役回りを果すことになる。

 杉原のカウナス着任とほぼ時を同じくして独ソ不可侵条約が結ばれ、間もなく第二次世界大戦が勃発。ヒトラーと秘密協定を結んでいたスターリンは1940年6月、リトアニアへソ連軍を進駐させた。7月には弾圧が厳しくなって日本領事館に難民が押し寄せ、8月に併合、カウナスの日本領事館は対ソ諜報活動の拠点であったことは明白なので存続は許されず、9月に杉原は退去せざるを得なくなる。いわゆる「命のヴィザ」が発給されたのはこの時である。彼はナチス・ドイツの脅威を意識したよりも、むしろ間近に迫ったソ連のバルト三国併合を見越してヴィザを出したのではないかと指摘される。本省は現場の情勢に疎いので簡単に許可するわけがない。しかし、彼らを見捨てることは日本の将来の国益にならないと杉原は判断する。大量のヴィザ発給にあたって本省からの嫌疑を避けるため色々とアリバイ工作をやっていたあたり、彼のインテリジェンス・オフィサーとしての面目躍如たるものがうかがわれる。

 なお、リトアニアの首都というとヴィリニュスが思い浮かぶが、ここは当時国境紛争でポーランド支配下にあり、カウナスが臨時首都とされていた。1939年のポーランド分割の際にソ連がヴィリニュスをリトアニアへ返還するが、翌年にリトアニアを併合する意図をもってのことであったことは言うまでもない。ヴィリニュスがポーランド領からリトアニア領へと帰属変更されるわずかの期間にポーランドにいたユダヤ人難民が国境線変更を見越して殺到、リトアニア領になった後、杉原のヴィザを受け取った者も少なくないらしい。

 杉原はカウナスを退去した後、プラハやケーニヒスベルクへ着任し、ポーランド情報組織とも連携しながら情報収集に従事。独ソ開戦の可能性を逸早く察知して情報を本省に上げたが、活用されることはなかった。それどころか、ドイツ側から警戒されたためルーマニアへとばされてしまった。

 「命のヴィザ」のエピソードはもちろん美談ではあるが、それは単に主観的なヒューマニズムだけでなし得たことではない。この背景をなしている、1930~40年代というキナ臭い時期における諜報戦の一端が杉原という具体的な個人を通して描き出されているところが興味深い。

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