ツヴェタン・トドロフ『日常礼讃──フェルメールの時代のオランダ風俗画』
ツヴェタン・トドロフ(塚本昌則訳)『日常礼讃──フェルメールの時代のオランダ風俗画』(白水社、2002年)
サブタイトルにフェルメールの名前が特筆されているが、原著にはない。日本での知名度を考慮してのことであり、あるいはフェルメール関連の展覧会に合わせて邦訳が刊行されたのだろうか。もちろんフェルメールが17世紀オランダにおいて卓越した画家であったことは言うまでもないが、当時のオランダ画家たちに共有された眼差しの解釈を問題意識とする本書にとってはあくまでも画家たちの一人であるにすぎない。
キリスト教世界においては宗教画がしばらくの間主流をなしていた。人々の日常的な営みが描かれなかったわけではないが、あくまでも宗教的な寓意や警句、教訓に従属した意味づけがなされるのが常であり、風俗画、風景画、静物画などが宗教的モチーフから独立したジャンルとして確立し始めたのは16世紀以降と言われる。当時のオランダ絵画では市民の肖像画や日常生活の一瞬を切り取った室内画が多く、中には恋の駆け引きから賭け事、飲酒、売春宿など決して道徳的とは言えない題材も目立つ。プロテスタント国として独立したばかりの当時のオランダの市民は宗教的・道徳的には敬虔であり、道徳性はもちろん画家たちにも共有されていた。むしろ道徳的メッセージは自明なものとされていたのと同時に、たとえ道徳的とは言い難いものであっても人間の表情や仕草そのものがはらむ情感との緊張関係によって美的表現の奥深さが表われたのだと捉えられる。
「ヨーロッパの伝統(おそらくはヨーロッパだけに限らないと思われるが)は、二元論的世界観の影響を色濃く受けている。善と悪、精神と肉体、気高い行為と卑劣な行為といった、際立った対立を用いて世界を解釈し、その一方を称賛し、他方をこきおろすという世界観である。キリスト教そのものが、あのように異端と戦ってきたのであり、この二元論的世界観に毒されるがままになってきた。オランダ絵画は、この二元論的ビジョンが打撃を受けた、われわれの歴史上珍しい一時期を提示している。絵を描いていた個人の意識において二元論が克服されていたわけでは必ずしもないが、絵それ自体のうちでは二元論は乗り越えられていた。美は卑俗な事物の彼方や、その上にあるのではなく、卑俗な事物のまさしくそのただなかにあるのであり、事物から美を抽出し、すべての人にそれを明らかにするためには眼差しを向けるだけで充分なのだ。オランダの画家たちは、束の間、ある恩寵──少しも神からやってくるものではなく、少しも神秘的なところのない恩寵──に触れられたのであり、そのおかげで物質にのしかかる呪いを払いのけ、物が存在するという事実そのものを享受し、理想と現実を相互に浸透させ、したがって人生の意味を人生そのもののなかに見いだすことができたのである。彼らは、伝統的に美しいとされる生活のある一片を、その地位を占めてもよさそうな別の一片に置き換えたのではない。彼らは生活の隅々にまで美が浸透しえることを発見したのである。」(170~171ページ)
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