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2011年3月 1日 (火)

最近の井筒俊彦論

 岩波書店の学術誌『思想』第718号(1984年4月)の特集は「構造主義を超えて」、巻頭論文は井筒俊彦「「書く」──デリダのエクリチュール論に因んで」、その次に並ぶのはジャック・デリダが井筒宛に出した書簡を丸山圭三郎が翻訳した「〈解体構築〉DÉCONSTRUCTIONとは何か」である。前年の1983年、二人はパリで会って話し合い、そのときに語りつくせなかったテーマについてデリダは書いている。日本ではどうしてもイスラム研究の先駆者としての印象が強い井筒俊彦だが、言語以前の何かへと向けた根源的な探究という点で実はデリダと響きあうものを持っていたことは、井筒という碩学を知る上で一本の補助線となるかもしれない。

 井筒によるイスラム思想史の叙述を検討した池内恵「井筒俊彦の日本的イスラーム論」(『アステイオン』70号、2009年)は、井筒自身の関心事たる神秘主義的方向が強調される一方、法学における合理主義的方向は軽視されているバイアスを指摘する。井筒はイスラム哲学(とりわけイランのスーフィズム)を軸としながら古代ギリシアやキリスト教の神秘思想、ユダヤのカバラ思想、インドのヴェーダーンタ哲学、大乗仏教、老壮思想、さらには日本的禅まで広く「東洋哲学」を見渡せるメタ・ランゲージを作りたいという夢を語っていた(例えば、司馬遼太郎との対談)。神秘主義的直観の内奥に見出された「一如」の感覚、例えば安藤礼二「大東亜共栄圏の哲学──大川周明と井筒俊彦」(『アソシエ』17号、2006年→後出の『近代論』に所収)はその点で井筒と大川周明との類似を指摘し、それは存在論的に奥深いレベルでは非常に魅力的であるが、他方、政治レベルではこうした「一如」の観念がかつて大アジア主義などのイデオロギーに用いられた経緯はやはり無視することはできない(もちろん、井筒自身にそのような政治的意図はなかったにせよ)。いずれにせよこうした「一如」のモチーフによって安易にイスラムと日本とを結び付けるイスラム理解が繰り返し現われてきた問題を池内論文は指摘している。

 井筒の学問的蓄積を、学史的に位置付けるのか、それとも彼自身の思想的迫力そのものに関心を向けるのか、いずれのアプローチをとるかに応じて評価も変わってくるのだろう。池内論文を裏読みするなら、むしろ井筒をイスラム研究者という枠組みから解き放ったところで彼自身のテクストを読み込んでいく契機となり得る。彼はイスラムを客体として叙述したかったのではなく、むしろイスラム研究というプリズムを通して自らの哲学的直覚を語っていた。同様に、ユダヤ思想を通して、ギリシア神秘思想を通して、ロシア文学を通して、仏教哲学を通して、とにかく文明の枠を超えた様々な語法を通して彼自身が直観した存在の深みへと探究を敢行していった。そうしたスケールの大きさに私はただただ圧倒される思いがしている。

 言語以前の観照によってのみ感得される不可視な何か、詩人ならばヴィジョナリーなイメージとして捉えるであろう感覚、それが言語として顕現していくときの驚異、個人というレベルを超え、さらには文明の枠をも超えた深層意識へと向けられた井筒俊彦の根源的な探究そのものを追体験してみたいという誘惑は、非常に困難なことを承知の上で、それでもやみがたい。若松英輔による最近の一連の論考(「小林秀雄と井筒俊彦──神秘的人間とその系譜」[『三田文学』第三期2008年秋季号]。「井筒俊彦──東洋への道程」[『三田文学』第三期2009年冬季号]。「井筒俊彦──存在とコトバの神秘哲学(全6回)」『三田文学』第三期2009年春季号~2010年秋季号。「井筒俊彦と白川静 コトバ、あるいは文字」『月刊百科』574号、2010年8月)はそうした井筒の無限の思索そのものを対象とした評伝となっている。著者は文芸批評の人らしく、井筒の生い立ちや読書体験、交友関係、同時代における比較など主に日本における文学史・思想史的シーンの中で彼の思索へと目が凝らされている。それは視野が狭いということではない。むしろ、日本が舞台であってもある種の普遍を目指したこれほど豊饒な思想的ドラマが展開されていたことに改めて気付かされて驚く。井筒が師匠として仰いだ西脇順三郎と折口信夫、キリスト教哲学の吉満義彦、ヘブライ学者の小辻節三、イスラム研究では亡命タタール人のアブデュルレシト・イブラヒムとムーサ・ジャールッラー、そして大川周明、友人だった池田弥三郎、様々な人物が登場する。小林秀雄や白川静、天理教学の諸井慶徳などとの比較も興味深い。近々単行本として刊行される予定らしく、井筒を論じた一冊の論著というのはまだないので楽しみだ。なお、慶應義塾大学出版会のホームページでは著者による井筒俊彦特集サイトが開設されている(→こちら)。

 安藤礼二もまたこうした深層意識への探究者として井筒俊彦に注目している。「井筒俊彦の起源──西脇順三郎と折口信夫」(『三田文学』第三期、2009年冬季号)では、神的・超越的な言葉が直接的にふりかかってきてコンベンショナルな言葉の世界を打ち破っていく、そうしたイマージュの持ち主としてシュルレアリスム詩人の西脇順三郎、古代文学の折口信夫、井筒が学生時代に師事したこの二人との出会いについて論じてられており興味深い。『近代論──危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版)の第5章「戦争──井筒俊彦論」は、イラン・イスラム革命に際してテヘランに降り立ったミッシェル・フーコーが目の当たりにしたもの、これに井筒はどのように反応したのかという問いから説き起こされる。ムハンマドに体現された預言者性、シーア派的スーフィズムを基盤とした内的精神性、東洋哲学全体をメタレベルで統合していく翻訳可能性。イラン・イスラム革命と「大東亜戦争」という2つの危機を交錯させながら、ヨーロッパ的な主体性を脱してアジア的な主体性をポジティブに確立、同時に「日本」なる固定概念を解体させる、その根底における「無」の地点から内在と超越とを媒介させていく精神性として、西田幾多郎、大川周明、折口信夫などを絡めながら井筒の思想的展開を捉えようとしている。

 他には、新田義弘「知の自証性と世界の開現性──西田幾多郎と井筒俊彦」(『思惟の道としての現象学』以文社、2009年、所収)は西洋哲学と東洋哲学とをどのように結び付けるかという問題意識の中で西田と井筒とを論じている。『三田文学』第三期2009年冬季号では井筒俊彦特集が組まれている。『史學』第79巻第4号(三田史学会、2010年12月)にはイスラム研究の先駆者として井筒俊彦と前嶋信次の二人をテーマに開催されたシンポジウムの記録がある。

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