白川静『回思九十年』
白川静『回思九十年』(平凡社ライブラリー、2011年)
本書は、日本経済新聞連載の「私の履歴書」でつづられた生い立ちにプラスして、いくつかの対談を通して自らの学問観を語る構成になっている。対談とはいっても、それぞれに問題意識を持つ対談相手が白川先生に質問するという形式。白川漢字学の格好な手引きとなるし、何よりも面白い。
そもそも漢字研究に一生を捧げるに至った契機をたどると「東洋」なるものは一体何なのかという問いに行き着くところには大いに興味がそそられる。もちろん、中国語で言う「東洋」とは日本を指してしまうので表現的には問題がある。ただ、漢字を共有する文化圏の中でも一元化はされず、それぞれに独自の文化が花開いた。そうしたパースペクティブから中国との比較を通して日本をも捉え返していこうという発想、それは詩経と万葉集との比較によって「東洋」なるものの古代における生活意識を探っていこうという関心につながっている。他方で近代に入って日本が大陸を侵略したという不幸な経緯があり、この負い目を白川はかなり深刻に受け止めている。同じ漢字文化圏=「東洋」にある者同士がいがみ合う不幸。軍事ではなく、学問によって中国から尊敬をかち得なければならない、こうした気負いもまた白川の漢字研究への情熱の中に伏在していた。
漢字ひとつひとつの形成過程からもそれぞれの思想的系譜がうかがわれてくる視点はやはり興味深い。対談者の一人、江藤淳は折口信夫を引き合いに出しているが、文学的・思想的感覚の原点を探求して古代へさかのぼっていく発想という点で白川と折口とを比較してみるのも面白そうだ。
実は特に深い意図もなく書店で見かけて購入しただけだったのだが、いざ読み始めると最後までやめられない。白川という碩学の強烈な気迫にうたれると、何と言うかすがすがしい気分になってくる。改めて読み直してみたいと思い、本棚の奥から引っ張りだしてきたり、持っていない著作は新たに買い求めたり、白川静がしばらくマイブームになりそうな予感。
私は必ずしも白川静の良い読者ではなかったが、それでも『孔子伝』(中公文庫)などは大好きな一冊である。孔子をしゃちほこばったリゴリスティックな道学者イメージから解き放ち、彼の思想的系譜をむしろ荘子に求めるところなど私が敏感に反応したポイントだった。独りよがりな話になってしまうが、荘子に共感を示すタイプの思想家が私の肌によく合う。例えば、井筒俊彦、辻潤など、それぞれタイプは全く違う思想家を私は贔屓にしているが、共通点は老荘思想。私にとって白川さんもそう。伝統思想を現代の我々が受け止めるとき、過去の頭のあまり宜しくない訓詁学者によって概念的枠組みを狭めてしまうような修飾がかけられているためどうしても古くさくて退屈だという印象を持ってしまうが、他方で思想に内在する生き生きとしたダイナミズムが途切れず、目を凝らせば汲み取れるのは、やはり荘子(だけではないが)のように概念の固定化を常に拒否する思想的流れが常に並行してそちらからの刺激を受け続けてきたからだと言っても良いだろう。
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