レベッカ・ソルニット『災害ユートピア──なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』
レベッカ・ソルニット(高月園子訳)『災害ユートピア──なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房、2010年)
災害学の知見としては、災害に見舞われたとき人々は確かに恐怖を感じはするがパニックにはならない、むしろみんなが助かるように理性的・協力的な行動を取るケースが大半であって、社会秩序が崩壊することはないと指摘されている(例えば、広瀬弘忠『人はなぜ逃げおくれるのか──災害の心理学』集英社新書、2004年)。災害によってパニックに陥るという通俗的な印象は、あくまでも映画的イマジネーションに過ぎない。今回の東北関東大震災で被災者の取った秩序立った行動は、報道を見ると海外から驚異を以て称讃されているらしいが、それは必ずしも日本に特殊なこととばかりは言えない。本書『災害ユートピア』によると、世界中のどの災害であっても相互扶助的な協力行動は現れている。
本書では、1906年のサンフランシスコ大地震、1917年にカナダのハリファクスで発生した弾薬大爆発事故、1985年のメキシコシティ大地震、2001年9月11日のWTC崩落、2005年にニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナ、以上の五つの事例を中心に災害という異常事態の中で人々がいかに相互扶助的な自発的共同体を形成したかを考察、それを“災害ユートピア”と呼ぶ。むしろ、行政当局の側で事実誤認からパニックに陥ってしまい、被災後の問題が悪化してしまったケースの方が深刻のようだ(エリート・パニック)。
サンフランシスコ大地震でも災害ユートピアが現れていた一方、行政当局は被災市民は必ず暴徒化するに違いないという予断をもって鎮圧の意図から軍隊を送り込んだ。緊急行動としての物資取得と火事場泥棒との区別もしないで取締りにあたり、場合によっては銃殺許可も出されたという。これは単に百年前の出来事だったと言って済ますわけにはいかない。2005年のハリケーン・カトリーナでも同様に黒人貧困層に対する偏見から人名救助活動よりも治安行動を優先、メディアも根拠の乏しい風評を拡散させてしまった。また、ブッシュ政権は9・11を口実に恣意的な政策行動を次々と発動させたことも記憶に新しい。いずれにせよ、災害そのものよりも、為政者側がもともと抱いている憶測が災害をきっかけに増幅されて政治社会的な人災をもたらしてしまった問題点が指摘される。
日常のルーティンが完全に断絶して各個人が孤立の不安に苛まれる災害状況は、人間というのが本質的にどのような存在であるのかをうかがう一つの機会ともなり得る。社会秩序の構成単位として人間本性をどのように捉えるかは政治哲学・政治思想史の根本命題となってくるが、本書も災害を切り口としてそうした政治的論争史としての性格を併せ持っている。例えば、災害後の人間について、ホッブズ的な性悪説やル・ボン『群集心理』で指摘された非合理的なマスとして捉えるのか、それともクロポトキン『相互扶助論』で示された性善説的な協力行動に注目するのか。本書では、パニックに陥ったエリートが前者、災害ユートピアが後者として把握される。もちろんこうした整理は単純化のきらいがあるにせよ、人間存在を捉える眼差しのあり方に応じて災害への対応も異なってくる点を具体的事例を通して浮かび上がらせているところは興味深い。
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