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2011年3月

2011年3月31日 (木)

白川静『字書を作る』

白川静『字書を作る』(平凡社ライブラリー、2011年)

 白川静が畢生の研究集大成として成し遂げた字書三部作『字統』『字訓』『字通』、それぞれで編集方針を明示するため序文として書かれた文章が本書に収録されている。凡例や字書の使い方を示すというレベルではない。辞典・字書には、それを編纂する上で確固たる思想がなければならないと白川は言っており、序文とは言ってもそれぞれが堂々たる論文になっている。

 漢字の形成過程には古代の象形文字以来豊かな精神史的ドラマが展開されており、『字統』では甲骨金文の研究を踏まえて古代文字に込められた精神世界の解明が意図されている。漢字は日本に移植されてはるか昔から使い続けている以上、日本人にとってもやはり国字、日本人自身の文字である。『字訓』ではそうした考え方から国語の問題として漢字を捉え、中国生まれの漢字と日本語とが切り結ぶ緊張感に日本文化を豊かにしてきた契機を見いだし、それを見つめなおす糸口を求めようとしている。『字統』『字訓』双方の研究を基に一般辞書として編纂された『字通』は、漢字の用法を広く見渡すことで中国の古典が日本文化の中で占めている意味を提起し、さらにはそうした漢字のあり方を通して“東洋”的なものを改めて見直していこうという白川自身の若い頃からの情熱が込められているのだという。

 白川の学問には古代以来の漢字形成過程からうかがえる精神史的探求を通して“東洋”なるものを見つめなおしてみようという問題意識が根底に伏流しており、それは言語学や古代研究の枠には収まらない。“東洋”への回帰と言っても、白川の緻密に実証的な研究姿勢からうかがわれるように決してファナティックなものではないわけで、私としてはそうした彼の動機の部分に思想史的な関心がかき立てられてくる。

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2011年3月30日 (水)

白川静『回思九十年』

白川静『回思九十年』(平凡社ライブラリー、2011年)

 本書は、日本経済新聞連載の「私の履歴書」でつづられた生い立ちにプラスして、いくつかの対談を通して自らの学問観を語る構成になっている。対談とはいっても、それぞれに問題意識を持つ対談相手が白川先生に質問するという形式。白川漢字学の格好な手引きとなるし、何よりも面白い。

 そもそも漢字研究に一生を捧げるに至った契機をたどると「東洋」なるものは一体何なのかという問いに行き着くところには大いに興味がそそられる。もちろん、中国語で言う「東洋」とは日本を指してしまうので表現的には問題がある。ただ、漢字を共有する文化圏の中でも一元化はされず、それぞれに独自の文化が花開いた。そうしたパースペクティブから中国との比較を通して日本をも捉え返していこうという発想、それは詩経と万葉集との比較によって「東洋」なるものの古代における生活意識を探っていこうという関心につながっている。他方で近代に入って日本が大陸を侵略したという不幸な経緯があり、この負い目を白川はかなり深刻に受け止めている。同じ漢字文化圏=「東洋」にある者同士がいがみ合う不幸。軍事ではなく、学問によって中国から尊敬をかち得なければならない、こうした気負いもまた白川の漢字研究への情熱の中に伏在していた。

 漢字ひとつひとつの形成過程からもそれぞれの思想的系譜がうかがわれてくる視点はやはり興味深い。対談者の一人、江藤淳は折口信夫を引き合いに出しているが、文学的・思想的感覚の原点を探求して古代へさかのぼっていく発想という点で白川と折口とを比較してみるのも面白そうだ。

 実は特に深い意図もなく書店で見かけて購入しただけだったのだが、いざ読み始めると最後までやめられない。白川という碩学の強烈な気迫にうたれると、何と言うかすがすがしい気分になってくる。改めて読み直してみたいと思い、本棚の奥から引っ張りだしてきたり、持っていない著作は新たに買い求めたり、白川静がしばらくマイブームになりそうな予感。

 私は必ずしも白川静の良い読者ではなかったが、それでも『孔子伝』(中公文庫)などは大好きな一冊である。孔子をしゃちほこばったリゴリスティックな道学者イメージから解き放ち、彼の思想的系譜をむしろ荘子に求めるところなど私が敏感に反応したポイントだった。独りよがりな話になってしまうが、荘子に共感を示すタイプの思想家が私の肌によく合う。例えば、井筒俊彦、辻潤など、それぞれタイプは全く違う思想家を私は贔屓にしているが、共通点は老荘思想。私にとって白川さんもそう。伝統思想を現代の我々が受け止めるとき、過去の頭のあまり宜しくない訓詁学者によって概念的枠組みを狭めてしまうような修飾がかけられているためどうしても古くさくて退屈だという印象を持ってしまうが、他方で思想に内在する生き生きとしたダイナミズムが途切れず、目を凝らせば汲み取れるのは、やはり荘子(だけではないが)のように概念の固定化を常に拒否する思想的流れが常に並行してそちらからの刺激を受け続けてきたからだと言っても良いだろう。

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2011年3月28日 (月)

菊地章太『義和団事件風雲録──ペリオの見た北京』

菊地章太『義和団事件風雲録──ペリオの見た北京』(大修館書店、2011年)

 むかし、チャールトン・へストン主演、柴五郎役で伊丹十三も出演していた「北京の55日」というオリエンタリズム丸出しのトンデモ映画があったが、あれは1900年、いわゆる義和団事件(北清事変)で北京城内東交民巷に篭城した各国公使館員の戦いを題材としていた。本書の話題はもちろんタイトル通りにこの義和団事件が中心だが、実はもう一つ別のテーマもある。敦煌文書発見をはじめとした東洋学である。どういうつながりがあるのか。接点は、フランスにおける東洋学の泰斗ポール・ペリオである。

 インドシナ考古学調査団の研究員となったぺリオはちょうど義和団事件がおこったとき、漢籍調査のため北京出張中であった。自身で目撃した事件の経過を克明に記した手帳が発見されており、本書は彼のメモを軸に、やはり事件に居合わせた服部宇之吉、柴五郎、守田利遠、ジョージ・モリソンなどの資料も活用、篭城生活の様子をドラマティックに描き出す。合わせて義和団、西太后について一般に流布されたイメージの修正も図られる。

 それにしても若き日のペリオ、敵方の軍旗を奪い取ったり、単身敵陣へとのこのこ入り込んで栄禄とお茶を飲んだり、度胸があるというのか、ワケが分からん奴というか…。実際、彼の行動は事態の収拾に役立つどころか、かえって敵方の憤激をかって猛反撃をくらってしまう結果にもなってしまったらしい。ペリオについてはもちろん文献でしか知らない。東洋学の大学者というイメージしかなかったのだが、意外と破天荒なところがあったのはちょっと驚いた。パーソナリティの一端がうかがえると、彼が残した巨大な学問的業績も、過去のひからびた化石ではなくもっとヴィヴィッドなものとして浮かび上がってくるような気すらしてきて、とても面白かった。

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松長昭『在日タタール人──歴史に翻弄されたイスラーム教徒たち』

松長昭『在日タタール人──歴史に翻弄されたイスラーム教徒たち』(東洋書店、2009年)

 近年、日本におけるイスラーム研究の蓄積は相当なものだと思われるが、その割にはかつて日本に居住していたムスリムの動向については意外と知られていない。すなわち、ロシア革命後に日本へとやって来たタタール人のことである。彼らは羅紗売りとして日本全国を歩き、農村での洋服普及に一役買ったらしい。また、在日外国人がまだ少なかった頃、映画の外国人エキストラとして出演した中にはタタール人が多かった。あるいは、井筒俊彦が最初にコーランの手ほどきを受けたのは在日タタール人からであったが、他方で戦前期の日本におけるイスラーム研究は大陸政策の一環として始められ、在日タタール人も陸軍によって政治利用された経緯がある。これがトラウマとなって戦後のイスラーム研究では目がそらされてきたとも言われている。こうした在日タタール人の歴史を本書はコンパクトに教えてくれる。

 在日タタール人コミュニティのまとめ役としてクルバンガリーとイスハキーの二人があげられるが、両者の政治スタンスは異なる。クルバンガリーは陸軍や右翼のアジア主義者の支持を得ていた一方、イスハキーは亡命タタール人のトルコ国籍取得を目指して活動していた。両者の対立が激しくなる中、イスハキーは日本政府から反日分子とみなされて日本を去ることになる。クルバンガリーは代々木の東京モスク建設などに奔走していたが、在日タタール人のまとめ役としては不適格で大陸政策の邪魔だとされて大連へと追放された。かわって海外のイスラーム社会で名の通ったイブラヒムが後釜に据えられる。大連に追放されたクルバンガリーは日本の敗戦後、ソ連軍に逮捕されて監獄に入れられてしまう。

 ソ連からの亡命者として無国籍状態にあった在日タタール人は戦後も不安定な立場にあったが、トルコ政府がようやく国籍取得を認めて1950~60年代にかけて大半が移住して行ったため、彼らの姿は日本では見られなくなった。朝鮮戦争にあたってトルコは国連軍として派兵、負傷して治療のため日本へ後送された将兵が在日タタール人と交流して彼らの要望がトルコ本国政府に伝えられたこと、トルコの朝鮮戦争参戦に対する懲罰としてソ連の指令によりブルガリア領内トルコ系民族の追放政策が行なわれ、トルコ政府が海外在住で無国籍のトルコ系住民の移住受け入れを進めたことなどの背景がある。

 なお、戦前期日本において国策としてイスラーム研究が行なわれた問題については坂本勉編著『日中戦争とイスラーム──満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』(慶應義塾大学出版会、2008年→こちらで取り上げた)を参照のこと。来日したアブデュルレシト・イブラヒムについては、彼の旅行記のうち日本に関する部分が『ジャポンヤ──イスラム系ロシア人の見た明治日本』(小松香織・小松久男訳、第三書館、1991年→こちらで取り上げた)として紹介されている。

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2011年3月27日 (日)

レベッカ・ソルニット『災害ユートピア──なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』

レベッカ・ソルニット(高月園子訳)『災害ユートピア──なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房、2010年)

 災害学の知見としては、災害に見舞われたとき人々は確かに恐怖を感じはするがパニックにはならない、むしろみんなが助かるように理性的・協力的な行動を取るケースが大半であって、社会秩序が崩壊することはないと指摘されている(例えば、広瀬弘忠『人はなぜ逃げおくれるのか──災害の心理学』集英社新書、2004年)。災害によってパニックに陥るという通俗的な印象は、あくまでも映画的イマジネーションに過ぎない。今回の東北関東大震災で被災者の取った秩序立った行動は、報道を見ると海外から驚異を以て称讃されているらしいが、それは必ずしも日本に特殊なこととばかりは言えない。本書『災害ユートピア』によると、世界中のどの災害であっても相互扶助的な協力行動は現れている。

 本書では、1906年のサンフランシスコ大地震、1917年にカナダのハリファクスで発生した弾薬大爆発事故、1985年のメキシコシティ大地震、2001年9月11日のWTC崩落、2005年にニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナ、以上の五つの事例を中心に災害という異常事態の中で人々がいかに相互扶助的な自発的共同体を形成したかを考察、それを“災害ユートピア”と呼ぶ。むしろ、行政当局の側で事実誤認からパニックに陥ってしまい、被災後の問題が悪化してしまったケースの方が深刻のようだ(エリート・パニック)。

 サンフランシスコ大地震でも災害ユートピアが現れていた一方、行政当局は被災市民は必ず暴徒化するに違いないという予断をもって鎮圧の意図から軍隊を送り込んだ。緊急行動としての物資取得と火事場泥棒との区別もしないで取締りにあたり、場合によっては銃殺許可も出されたという。これは単に百年前の出来事だったと言って済ますわけにはいかない。2005年のハリケーン・カトリーナでも同様に黒人貧困層に対する偏見から人名救助活動よりも治安行動を優先、メディアも根拠の乏しい風評を拡散させてしまった。また、ブッシュ政権は9・11を口実に恣意的な政策行動を次々と発動させたことも記憶に新しい。いずれにせよ、災害そのものよりも、為政者側がもともと抱いている憶測が災害をきっかけに増幅されて政治社会的な人災をもたらしてしまった問題点が指摘される。

 日常のルーティンが完全に断絶して各個人が孤立の不安に苛まれる災害状況は、人間というのが本質的にどのような存在であるのかをうかがう一つの機会ともなり得る。社会秩序の構成単位として人間本性をどのように捉えるかは政治哲学・政治思想史の根本命題となってくるが、本書も災害を切り口としてそうした政治的論争史としての性格を併せ持っている。例えば、災害後の人間について、ホッブズ的な性悪説やル・ボン『群集心理』で指摘された非合理的なマスとして捉えるのか、それともクロポトキン『相互扶助論』で示された性善説的な協力行動に注目するのか。本書では、パニックに陥ったエリートが前者、災害ユートピアが後者として把握される。もちろんこうした整理は単純化のきらいがあるにせよ、人間存在を捉える眼差しのあり方に応じて災害への対応も異なってくる点を具体的事例を通して浮かび上がらせているところは興味深い。

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【映画】「神々と男たち」

「神々と男たち」

 地中海性気候をうかがわせる乾燥しつつも穏やかそうな風景、ゆるやかな丘陵地帯にある貧しいが牧歌的な集落。村人たちの中にフランス語を話す修道士の姿が混じっている。彼らの存在はもちろんアルジェリアにおけるフランス植民地支配の名残りとも言えるが、他方で信仰と慈善活動に身を捧げる彼らはムスリムの隣人としてコーランの教えにも注意を払っており、村人たちにとっても生活の中の分かちがたい一部となっていた。ある日、近くでクロアチア人労働者が殺害される事件が起こった。無分別なイスラム過激派の仕業である。彼らは間違いなくカトリックの修道院も標的にするはずだ。アルジェリア政府から帰国命令が通達される一方、村人たちからは一緒にいて欲しいとせがまれる。逃げるか、それとも残るのか、修道士たちの気持ちは揺れる──。

 1996年、実際に起こったイスラム過激派によるカトリック修道士殺害事件を題材とした映画である。彼らは危険を知りながらもなぜ敢えて逃げなかったのか?という問いかけから製作されたのだという。

 1962年のアルジェリア独立以来、民族解放戦線(FLN)が一貫して政権を担ってきたが、長期政権は必ず腐敗するという法則に例外はなく、人々の不満は高まっていた。民政移行を約束して総選挙が実施されたものの、政権への不満はイスラム救国戦線(FIS)の圧勝という結果をもたらし、危機感を募らせた軍部が選挙無効のクーデターを断行した。軍事政権はFISを弾圧、政府とイスラム主義勢力との対立は事実上の内戦状態へと展開してしまう。もちろん、イスラム主義=過激派というわけではない。ただ、一部の貧困青年層が軍事的劣勢をはね返そうと政府関係者に対するテロ活動を行い、外国人もまた政府支持者とみなされて標的となった。事件はこうした情勢下で起こってしまった。ただし、イスラム過激派が修道士たちを誘拐したのは事実であるにしても、軍事政権が掃討作戦中に誤って殺害してしまった、あるいは過激派内にもぐりこんだ軍事政権のエージェントが彼らの評判を落とすために仕組んだことだ、などと諸説とびかっているらしく、事件の真相はいまだに判明していない。

 映画を素直に観れば分かるように、キリスト教とイスラム教との対立をテーマとしているわけではない。修道士たちはムスリムである村人たちの友人として一緒に暮らしていたし、修道院へ最初にやって来た過激派リーダーの態度には宗教的共存への配慮もうかがわれた。それにもかかわらず、宗教を口実としてある種の暴力が増幅されてしまった構造的連関は一体何であったのかという問いはまず第一に必要であろう。

 ただし、この映画がヒューマンドラマとして本意とするのはもうちょっと違うところにあるように思われる。修道士たちは殺されるかもしれないという脅威をひしひしと感じつつも敢えて逃げなかった。良心に照らして神から与えられた自分の持ち場を離れなかった。恐怖と良心との狭間で引き裂かれそうな動揺の中で、敢えて神の意志=自由な存在としての自分自身の意志を選び取ること。後悔しながらこれからの人生を生きるのではなく、過酷な運命が待ち受けていても自らの胸奥に問うた上で確信した正しさを信じる、そのひたむきな敬虔さ。折に触れて彼らが歌う聖歌は、まさに彼らの極限の心象風景を表しているからこそ荘厳に美しく響きわたる。もしこの映画のテーマを宗教だと考えるならば、宗教対立という表面的なレベルではなく、むしろこうした胸奥の発露としてのひたむきさ、敬虔さをいかに描き出すかという意図がうかがえるところにあると言えるだろう。

【データ】
原題:Des Hommes et des Dieux
監督:グザヴィエ・ボーヴォワ
2010年/フランス/123分
(2011年3月26日、シネスイッチ銀座にて)

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2011年3月23日 (水)

北原糸子『地震の社会史──安政大地震と民衆』

北原糸子『地震の社会史──安政大地震と民衆』(講談社学術文庫、2000年)

 1855年、世界でも有数の人口過密都市であった江戸を直撃した安政大地震。多数の圧死者、焼死者を出した惨禍である一方で、この頃のかわら版に描かれた地震鯰絵にみなぎる活気、このギャップは一体何であろうかという問題意識から本書は始まる。被害の実相、安政大地震を目撃した知識人たち、江戸期における情報流通手段としてのかわら版とその担い手たちの背景、幕府・富裕市民層による救済活動などについて史料を踏まえて分析、震災というインパクトを通して見えてくる当時の社会的様相が描かれる。

 この大地震を下級武士や知識人たちが凶兆と考えたのに対し、都市の一般民衆が吉兆ととみなして震災被害という非日常を通した世直りへの期待感を示したという相違が指摘される。当時の身分制社会における抑圧からの解放感を彼らは感じ取り、これまで凝縮されていた民衆的エネルギーがこの地震鯰絵への熱狂として表出したのだという。幕府や富裕層による施しもこうした社会的構造における一つの儀礼であったと捉えられる。

 当たり前の話ではあるが、地震はそれによってインパクトを受ける社会があってはじめて災害となるのであり、その社会関係は時代ごとに独特なロジックによって組み立てられている。安政大地震が起こった当時と現代との時代的相違や人間行動の共通点を比較しながら読み進めると面白いだろう。

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2011年3月21日 (月)

ツヴェタン・トドロフ『日常礼讃──フェルメールの時代のオランダ風俗画』

ツヴェタン・トドロフ(塚本昌則訳)『日常礼讃──フェルメールの時代のオランダ風俗画』(白水社、2002年)

 サブタイトルにフェルメールの名前が特筆されているが、原著にはない。日本での知名度を考慮してのことであり、あるいはフェルメール関連の展覧会に合わせて邦訳が刊行されたのだろうか。もちろんフェルメールが17世紀オランダにおいて卓越した画家であったことは言うまでもないが、当時のオランダ画家たちに共有された眼差しの解釈を問題意識とする本書にとってはあくまでも画家たちの一人であるにすぎない。

 キリスト教世界においては宗教画がしばらくの間主流をなしていた。人々の日常的な営みが描かれなかったわけではないが、あくまでも宗教的な寓意や警句、教訓に従属した意味づけがなされるのが常であり、風俗画、風景画、静物画などが宗教的モチーフから独立したジャンルとして確立し始めたのは16世紀以降と言われる。当時のオランダ絵画では市民の肖像画や日常生活の一瞬を切り取った室内画が多く、中には恋の駆け引きから賭け事、飲酒、売春宿など決して道徳的とは言えない題材も目立つ。プロテスタント国として独立したばかりの当時のオランダの市民は宗教的・道徳的には敬虔であり、道徳性はもちろん画家たちにも共有されていた。むしろ道徳的メッセージは自明なものとされていたのと同時に、たとえ道徳的とは言い難いものであっても人間の表情や仕草そのものがはらむ情感との緊張関係によって美的表現の奥深さが表われたのだと捉えられる。

「ヨーロッパの伝統(おそらくはヨーロッパだけに限らないと思われるが)は、二元論的世界観の影響を色濃く受けている。善と悪、精神と肉体、気高い行為と卑劣な行為といった、際立った対立を用いて世界を解釈し、その一方を称賛し、他方をこきおろすという世界観である。キリスト教そのものが、あのように異端と戦ってきたのであり、この二元論的世界観に毒されるがままになってきた。オランダ絵画は、この二元論的ビジョンが打撃を受けた、われわれの歴史上珍しい一時期を提示している。絵を描いていた個人の意識において二元論が克服されていたわけでは必ずしもないが、絵それ自体のうちでは二元論は乗り越えられていた。美は卑俗な事物の彼方や、その上にあるのではなく、卑俗な事物のまさしくそのただなかにあるのであり、事物から美を抽出し、すべての人にそれを明らかにするためには眼差しを向けるだけで充分なのだ。オランダの画家たちは、束の間、ある恩寵──少しも神からやってくるものではなく、少しも神秘的なところのない恩寵──に触れられたのであり、そのおかげで物質にのしかかる呪いを払いのけ、物が存在するという事実そのものを享受し、理想と現実を相互に浸透させ、したがって人生の意味を人生そのもののなかに見いだすことができたのである。彼らは、伝統的に美しいとされる生活のある一片を、その地位を占めてもよさそうな別の一片に置き換えたのではない。彼らは生活の隅々にまで美が浸透しえることを発見したのである。」(170~171ページ)

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【映画】「台北の朝、僕は恋をする」

「台北の朝、僕は恋をする」

 台北という街の魅力は夜になってこそよく分かる、というのがこの映画の趣旨なのだろうか。

 深夜の書店でいつもフランス語の語学書を座り読みしているカイ(ジャック・ヤオ/姚淳耀)。彼のことが気になっている書店員のスージー(アンバー・クォ/郭采潔)は声をかけてみたが、彼は恋人がパリに行ってしまって落ち込んでいる様子。あとを追おうにも飛行機代すらない。知り合いの不動産屋に代金を用立ててもらったが、代わりにある“ブツ”の受け取りに行って欲しいと頼まれた。“任務”の途中、コンビニでバイト中のカオを誘い、たまたま出会ったスージーも一緒に別れの晩餐とばかりに夜市に繰り出したところ、“ブツ”を狙う不動産屋の甥の一味や犯罪がらみかと勘違いした刑事に追われるはめに──。突如訪れた非日常、夜の台北を駆け回る。

 監督のアーヴィン・チェン(陳駿霖)は中国系アメリカ人でエドワード・ヤンに師事するため台北に来た人だという。海外へと出たがる台湾の若者が多いのに対して、台北という街もなかなかオシャレですてたものじゃないよ、というのがこの映画を製作した動機らしい。話の筋立てはゆるい感じのドタバタ・ラブコメディーだが、夜の台北の光景を写し撮るカメラアングルが見所だろう。モダンな高層ビルが乱立する一方、お寺や古びた路地裏、夜市の活気、ネオンが時に怪しさすら感じられる並びも共存する街。夜明けを背景としたショットはドタバタの後だけにひときわさわやかに美しく感じられる。悲喜こもごもそれぞれの恋愛模様が織り成す息遣いを、泥臭くならずに描き出しているところは悪くない。

 最近の台湾映画ではニュウ・チェンザー監督「モンガに散る」も話題となった。モンガ=萬華は日本でたとえると浅草に相当するような下町である。映画中では台湾語が頻繁にとびかい、1980年代という時代背景の中で台湾の濃厚な土着性を強調したストーリーになっていた。同様に台北という都市を舞台にした映画でも「台北の朝、僕は恋をする」とはテイストが異なり、好対照をなすのが面白い。この二作に絡めてもう少し話を進めると、「モンガ~」では大陸系マフィアの進出に地元ヤクザが立ち向かう。「台北の朝~」では若者が欧米に行きたがる風潮が背景となっている。いずれにせよ、この小さな島国が海外との関係でアイデンティティが揺らぐ姿が浮かび上がっているとも言える。それでも愛着を覚える都市、台北。外ばかり気にしていないで、足元を見ればなかなか悪くないじゃない、そうした自然な愛着を映像のパッチワークを通じてさらりと感じさせるのがこの「台北の朝、僕は恋をする」の良いところだろう。

 製作総指揮にヴィム・ヴェンダースの名前が出ていたが、彼が小津安二郎へのオマージュとして製作した「東京画」という映画も以前にDVDで観た。笠智衆へのインタビューが印象的だったが、私自身もまだ幼くて見覚えのない1980年代の東京が映し出されていたのがちょっと面白かった覚えがある。都市の風景が醸し出す独特な情感は私が映画を観るときにいつも念頭に置くポイントだ。

 カイとスージーが出会ったのは夜中の書店。台北で24時間営業の書店といったら誠品書店敦南本店だと思うが、見た感じでは店内のレイアウトがちょっと違うような気がした。エンドクレジットには誠品書店西湖店と信義店の名前が出ていたから、二人が出会ったのが西湖店、書店内でみんなが踊っているラストシーンは信義旗艦店だろうか。なお、向こうでは立ち読みならぬ座り読みは当たり前、早朝に誠品書店敦南本店に行くと寝転がっている人を見かけることもある。

【データ】
原題:一頁台北/Au Revoir Taipei
監督・脚本:アーヴィン・チェン
製作総指揮:ヴィム・ヴェンダース
台湾・アメリカ/85分/2010年
(2011年3月20日、新宿・武蔵野館にて)

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2011年3月20日 (日)

武村雅之『地震と防災──“揺れ”の解明から耐震設計まで』

武村雅之『地震と防災──“揺れ”の解明から耐震設計まで』(中公新書、2008年)

 タイトルには防災とあるが、地震後の火災にしても津波にしても、家屋が倒壊してしまっては逃げるに逃げられない、従って災害軽減のため潰れない住家の建設が不可欠という問題意識から耐震設計の話題が中心となる。耐震設計で万全を期すには、どのような地震が発生してそれがどのようなメカニズムで作用しているのか、想定されるモデルを構築しながら数値計算によって強震度を予測することが前提となる。そのため、明治以来の地震研究の経緯にも触れながら、現時点でどこまで判明しているのかが解説される。

 地震は大まかに言って内陸型地震と海溝型地震に分けられる。前者は断層破壊→伝播性震源という形をとるが、どの活断層がすべって地震が発生するのかを事前に予測するのは難しい。対して後者はプレート境界で発生する地震である。昭和40年代以降プレートテクトニクス理論が知られるようになったが、とりわけ近年プレートすべり込みに際して固着性の強い領域(アスペリティ)とゆっくりすべり込んでいる領域とのズレがあってこのアスペリティが急激にすべり込んだ際に大きな地震が発生することが分かっている。このアスペリティ・モデルによってだいたいの震源予測はできるようになっているらしい。こちらは発生周期がおおよそ把握されており、今回の東北・関東大震災も発生周期に合致している。なお、アスペリティ・モデルについては昨年放映されたNHKスペシャル「MEGAQUAKE 巨大地震」シリーズでも取り上げられており、『MEGAQUAKE巨大地震──あなたの大切な人を守り抜くために!』(主婦と生活社、2010年)という書籍にもなっている。

 日本は地震国だからかつて木造家屋が中心だったという俗説があるが、むしろ樹木が多い風土なので単に身近な材料を使っただけと考える方が正しいらしい。日本の昔の住家は夏の蒸し暑さをしのぐため壁が少なく開放的な構造となっており、耐震設計上の工夫は見られないという。むしろエアコンの普及によって壁でしっかり区切る構造が広まり、それが耐震化を後押ししたという指摘があったのでメモしておく。

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2011年3月19日 (土)

NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命──被曝治療83日間の記録』

NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命──被曝治療83日間の記録』(新潮文庫、2006年)

 1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工施設JCO東海事業所、作業員がバケツを使ってウラン溶液の濾過作業を行なっていた最中に発生した臨界事故。煩瑣な作業を効率化するため現場で慣例化していた違法行為を会社側も承認して裏マニュアルまで作成されていた。核燃料加工作業に関わる危険が作業員に周知されないまま行なわれていた日常業務が核分裂反応を引き起こしてしまった。

 本書は、この臨界事故で被曝した作業員が亡くなるまで治療に取り組んだ医療チームのまさに絶望的としか言いようのなかった83日間にわたる苦闘を描き出したノンフィクションである。中性子線を浴びた患者は遺伝情報のある染色体が破壊されてしまい、細胞の再生機能が失われる。医師たちは最先端の移植技術を活用して最大限の努力をつくしたが、前例のない症状を前にしてただただ自分たちの無力さをかみしめるばかり。患者が急激に衰弱していく姿は、自分が一番苦しいはずなのに周囲への気遣いすら見せる快活な人であっただけに、言語に絶するほど痛ましい。

 現在進行中の福島第一原発の事故で放射性物質の拡散が心配されているが、中性子線をじかに浴びた東海村臨界事故とはもちろんケースは異なる。ただし、原子力安全神話が一人歩きしていた中、万一事故が起こってしまった場合に医療対策はどうするのかという視点が最初から欠如していた問題点はやはりどうしても問わざるを得ない。

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2011年3月18日 (金)

寒川旭『地震考古学──遺跡が語る地震の歴史』『地震の日本史──大地は何を語るのか』『秀吉を襲った大地震──地震考古学で戦国史を読む』

 専門の研究者でも地下のメカニズムにはいまだによく分かっていないことが多いと言われる。地震にしても、あるいは地震によって引起される津波にしても、経験則によって一定の発生周期や想定される最大限の規模がつかみ取れれば良いが、なかなか難しい。自然科学は基本的にデータ検証によって一定の法則性を導き出すという手法をとるが、我々の経験的実感レベルと地球活動レベルのタイムスパンとの間には極めて大きなギャップがあり、経験レベルの想定を超えた事態が必ず起こってしまう。日本で明治期に本格的な地震観測が始まってからまだ150年程度しか経っていない。しかしながら、例えば三陸沿岸部や仙台平野にはかつて海岸から数キロメートル離れたところまで津波が押し寄せた痕跡があるという。せめて近代以前の歴史時代、先史時代までさかのぼってデータ検証の幅を広げることはできる。その点で地震考古学というのは注目すべき分野であろう。

 寒川旭(さんがわ あきら)『地震考古学──遺跡が語る地震の歴史』(中公新書、1992年)は地震学と考古学とを結び付けて新分野を開拓した経緯を示す。古墳に見られる崩壊による変形について活断層の知見を動員することで説明できることに気付いたのがきっかけだという。液状化現象、地割れ、地すべりなど地盤災害の痕跡に着目すれば、その遺跡の層位的前後関係から地震の起こった年代を判定できるし、文献記録のある時代であれば具体的な日時まで特定できる。逆に、その地震の痕跡を基に他の遺跡の年代特定も可能である。そうしたデータを集積すれば遺跡もまたいわば考古学的な地震計としての役割を果たしてくれるわけで、大地震の発生周期もある程度まで把握することができる。

 『地震の日本史──大地は何を語るのか』(中公新書、2007年)、『秀吉を襲った大地震──地震考古学で戦国史を読む』(平凡社新書、2010年)ではこうした地震史料と文献史料とをつき合わせながら日本史が描き出される。地震という着眼点を通すと歴史的エピソードも独特なリアリティーをもって見えてくるところが興味深い。

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2011年3月17日 (木)

岸田一隆『科学コミュニケーション──理科の〈考え方〉をひらく』

岸田一隆『科学コミュニケーション──理科の〈考え方〉をひらく』(平凡社新書、2011年)

 科学で要求される抽象的な論旨思考、つきつめて言えば数式を見て納得感があるかどうか。分かる人は分かるし、分からない人は皆目分からない。端的なこのギャップをどのように埋めたらいいのか。科学のおもしろさ、素晴らしさを伝えたい、という啓蒙的イベントはよく行なわれてはいる。しかし、そうしたイベントにわざわざ足を運ぶ人はもともと科学が好きな人であって、拒否感のある人は最初から聞きになど来ないのではないか。

 別に科学を好きになってもらう必要はない。ただし、持続可能な社会をこれから作り上げていく上で科学知識は不可欠なのだから社会全体で共有していく必要があるというのが本書の出発点である。

 抽象的な数式であってもデータ検証という具体性によって裏付けられた納得感がある。しかし、そうした科学的専門知の手順を習得するには一定の訓練が必要であり、そのジャンルに関心のない人々にとっては数式で示された世界観からリアリティーを感じ取るのは難しい。そこで、情感の伴ったエピソード記憶によるヴィヴィッドなイメージがコミュニケーションの基盤となることに本書は注目、具体性をもったインプレッションによって抽象思考の苦手な人とも科学的世界観を共有できないかというところに焦点が合わされる。みんなで科学知識の必要性を認識し、それを感情レベルの共感に働きかけることで共有していこうという発想は、たとえて言うと科学知識共有の知的コミュニタリアニズムということになるだろうか。

 科学のプリズムを通した大づかみの世界観をタレント的科学者に語ってもらうのも一つの方法だと指摘される。しかし、理屈ではなく情感的共感がポイントだとするなら、そんな悠長なやり方よりも、むしろ大震災に見舞われ、想定されていなかった原発災害を目の当たりにし、ひょっとしたら放射能汚染被害が深刻になるかもしれないと現在ひしひしと感じているこの切迫感こそ、科学コミュニケーションの感情的基盤となり得るように思われてくるのが皮肉なところだ。

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2011年3月15日 (火)

吉村昭『三陸海岸大津波』

 昨年、出張で石巻へ行く機会があった。仙石線の車輌にゆっくり揺られて松島を過ぎ、海がすぐそばまで迫る光景を眺めながら、穏やかできれいな海だなあ、と思っていたまさにその海がかくも甚大な災害を及ぼすことになろうとは、ただただ茫然とするばかりだ。

 吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫、2006年)は当初、『海の壁』というタイトルで1970年に中公新書から刊行されたが、版元を変えながら版が重ねられている。これまでも明治二十九年の大津波、昭和八年の大津波、昭和三十五年のチリ地震津波、三度の大津波で膨大な人命が奪われてきた三陸海岸一帯。吉村は青森、岩手、宮城にかけて複雑に織り成されたリアス式海岸の美しい眺望にひかれてたびたび訪れ、小説の舞台にも使うほど思い入れを抱いていた。三陸海岸を歩きながら、大津波を生き残った古老から話を聞き取り、当時を記録した文書の調査をして、とにかく足で稼いでまとめられた作品である。吉村らしい堅実な筆致に説得力がある記録文学だ。存命であれば第4章を加筆せねばならなかったところであろうか。

 田老の堅牢な堤防を見てその殺伐とした姿に驚きながらも、これだけの備えをしなければいけない苦労をしのぶシーンがある。十メートルで万全とされていたが、今回の大津波ではこの大堤防も軽々と乗り越えられてしまった。場所によっては十メートルをはるかに越える高さまで波が押し寄せた可能性を記しており、波高把握の難しさの指摘が目を引く。

 当時を生き残った人々の証言は時代こそ違えども、今回の被災者の体験とまさにリアルタイムで重なり、読み進めるのは少々つらい。係累を失って呆然とし、中には発狂してしまった人の姿も描かれている。今回の大災害にあたってもPTSDへのケアがこれから重要になってくるはずだ。明治、昭和の大津波はその当時にあって前例にない規模であり、普段の経験則が通用しなかったからこそ避難が遅れ、多くの人命を失ってしまった。そうした教訓は三陸海岸の各町では十分に意識されて対策に怠りはなかった。それでも想定を超える大地震・大津波に直面してしまったが、むしろ対策があったからこそ助かった人命もあったと考えるべきであろうか。想定を超えたのは自然災害の規模だけではない。原発事故という人間自身が生み出した災害にも翻弄されているところに、過去三度の大津波とは異なったテーマが見出されてくる。

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2011年3月11日 (金)

山形孝夫『レバノンの白い山──古代地中海の神々』

山形孝夫『レバノンの白い山──古代地中海の神々』(未来社、1976年)

 古代地中海・ヘレニズム世界に登場したキリスト教、その背景をなす古代以来の「異教」的世界の痕跡を聖書説話の中に見出しながらキリスト教成立の背景を探る論考。福音書にはイエスが人々の病気を治すエピソードが多く見られる。当時、エシュムン神、アスクレピオスなどの治癒神信仰がヘレニズム世界に広まっており、これらの信仰を駆逐しながらキリスト教は拡大・浸透、その競合過程を通して治癒神、再生の神としてのイメージがイエス像にも反映されたのではないかという。著者の名著『聖書の起源』(講談社現代新書、1976年/ちくま学芸文庫、2010年)で示された議論の1つである。

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仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書、2009年)

 ハンナ・アーレントの主要著作を参照しながら議論が進められるので彼女の思想の入門書として読めるが、むしろアーレントを踏み台にしながらいま我々が生きている社会における「公共性」を問い直していこうという趣旨。何気なく手に取ったのだが、著者の問題意識がアーレントの提示した論点とうまくかみ合っていてなかなか良い本だと思う。

 孤独・アトム化した不安に耐え切れない人々を単一の世界観にまとめ上げ、それとは異なる立場もあり得ること(複数性)をつぶしていく動きとして全体主義は捉えられる。これはアーレントが目の当たりにした20世紀前半の出来事ばかりではなく、現代でもあり得ることなのではないか。右派であれ、左派であれ、ある種のこわばった政治的言説が自らの立場を正当化するため、どこかに陰謀論的に「敵」を設定、そいつのせいだ!と言って世論を一つにまとめ上げようとする。こうした「敵」イメージの見えやすさが、著者の言う「分かりやすさ」である。いわゆる「理由なき殺人事件」を目にした識者が「若者の閉塞感」「心の闇」といったコメントをしたが、これに対して「公的領域」を成り立たせる「人格=仮面」の議論を踏まえながら、「心の闇」なんてのは誰にだってある、むしろ「自分にもそうした心の闇があるかもしれない」「共感する」「理解できる」と安易に公言する人々が現れたことを、公/私の揺らぎ、公共圏の不全として捉える観点に興味を持った。

 声高に政治的主張をすることが「政治」なのではなく、自分とは異なる立場もあり得ることを常に留意しながら互いにコミュニケーションしていくところに「政治」の本質を見出そうとするのが基本的なポイントだろう。アーレントに多少なりとも関心を持つ人にとっては当たり前のことで、むしろこうした考え方に触れて欲しい人は最初から本書を手に取らないであろうことが難しいところだ。

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2011年3月 9日 (水)

白石仁章『諜報の天才 杉原千畝』

白石仁章『諜報の天才 杉原千畝』(新潮選書、2011年)

 ナチスによる迫害を逃れてきたユダヤ人難民たち、行き場のない彼らに対して当時リトアニアのカウナス領事館に在勤中だった杉原千畝が本省の意向に反してまでヴィザを発行し続けたことは、あの狂気の時代に輝くヒューマニスティックなエピソードとしてよく語られる。だが、本書が注目するのはむしろインテリジェンス・オフィサーとしての杉原の活躍ぶりだ。

 ハルピン学院でロシア語を学び、旧満洲国で外交官としてのキャリアを本格的に始めた彼はもともと対ソ連諜報活動の専門家として養成されていたが、ソ連赴任に際してペルソナ・ノングラータとして拒絶されてしまった。1939年、対ソ諜報活動の拠点として重視されたバルト三国の1つ、リトアニアのカウナスへ副領事として赴任。当初は二軍的な立場だったらしいが、やがて最も困難な役回りを果すことになる。

 杉原のカウナス着任とほぼ時を同じくして独ソ不可侵条約が結ばれ、間もなく第二次世界大戦が勃発。ヒトラーと秘密協定を結んでいたスターリンは1940年6月、リトアニアへソ連軍を進駐させた。7月には弾圧が厳しくなって日本領事館に難民が押し寄せ、8月に併合、カウナスの日本領事館は対ソ諜報活動の拠点であったことは明白なので存続は許されず、9月に杉原は退去せざるを得なくなる。いわゆる「命のヴィザ」が発給されたのはこの時である。彼はナチス・ドイツの脅威を意識したよりも、むしろ間近に迫ったソ連のバルト三国併合を見越してヴィザを出したのではないかと指摘される。本省は現場の情勢に疎いので簡単に許可するわけがない。しかし、彼らを見捨てることは日本の将来の国益にならないと杉原は判断する。大量のヴィザ発給にあたって本省からの嫌疑を避けるため色々とアリバイ工作をやっていたあたり、彼のインテリジェンス・オフィサーとしての面目躍如たるものがうかがわれる。

 なお、リトアニアの首都というとヴィリニュスが思い浮かぶが、ここは当時国境紛争でポーランド支配下にあり、カウナスが臨時首都とされていた。1939年のポーランド分割の際にソ連がヴィリニュスをリトアニアへ返還するが、翌年にリトアニアを併合する意図をもってのことであったことは言うまでもない。ヴィリニュスがポーランド領からリトアニア領へと帰属変更されるわずかの期間にポーランドにいたユダヤ人難民が国境線変更を見越して殺到、リトアニア領になった後、杉原のヴィザを受け取った者も少なくないらしい。

 杉原はカウナスを退去した後、プラハやケーニヒスベルクへ着任し、ポーランド情報組織とも連携しながら情報収集に従事。独ソ開戦の可能性を逸早く察知して情報を本省に上げたが、活用されることはなかった。それどころか、ドイツ側から警戒されたためルーマニアへとばされてしまった。

 「命のヴィザ」のエピソードはもちろん美談ではあるが、それは単に主観的なヒューマニズムだけでなし得たことではない。この背景をなしている、1930~40年代というキナ臭い時期における諜報戦の一端が杉原という具体的な個人を通して描き出されているところが興味深い。

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アンドレイ・ランコフ『スターリンから金日成へ──北朝鮮国家の形成 1945~1960年』

アンドレイ・ランコフ(下斗米伸夫・石井知章訳)『スターリンから金日成へ──北朝鮮国家の形成 1945~1960年』(法政大学出版局、2011年)

 金日成はソ連によってピックアップされて北朝鮮へ送り込まれ、権力者の地位に据えられたことはよく知られている。北朝鮮政治体制の基本要素はソ連型スターリニズムの輸入であり、1950年代は完全な衛星国家であったと本書は捉えている。建国当初、国内(南朝鮮)派、ソ連派、延安派、そして金日成のゲリラ派という4つの分派があったが、金日成は熾烈な権力闘争を勝ち抜いて1960年代までに権力を完全掌握、中ソ対立、ソ連における非スターリン化といった動向の中でソ連とは距離を置き始め、主体思想が本格化、以降、独特な民族的スターリニズム体制が確立したと指摘される。なお、金日成個人崇拝に対して反対派も巻き返しを図ったが、つぶされた(1956年の八月事件)。このときに反対派はソ連・中国の大使館と連絡を取っていたらしいが史料は未公開だという。他方、金日成体制は経済運営には失敗、1980年までには実質的に停滞し、情報封鎖とイデオロギー統制によって強引な国内支配を進めることになる。

 ソ連系朝鮮人の動向に注目しているのが本書の特色である。朝鮮半島からソ連領へ逃げ込んだ人々は「日本帝国主義のスパイ」と疑われて粛清されたため、いわゆるソ連派は朝鮮半島に足を踏み入れたことのなかったソ連生まれが中心だったという。他の3派とは異なり、彼らはソ連で行政的な実務経験を持つ唯一のグループであったため、北朝鮮の党・国家機構の整備に当たり大きな役割を果たした。

 とりわけ注目されるのが許哥誼(ホガイ、アレクセイ・イワノヴィッチ・ヘガイ)である。彼は1908年、ハバロフスク生まれ。朝鮮名はなく、許哥誼というのは当て字である。当時、ロシア領内朝鮮人の多くはボルシェヴィキ支持で、彼も1924年にコムソモールに参加、さらに共産党幹部となった。中央アジアへ強制移住させられたが、1937年に名誉回復、党務に復帰。1945年に北朝鮮に送り込まれて共産党組織の立ち上げに従事、南北労働党合併後は第一書記として事実上のナンバー・ツーになる。南労党系の朴憲永とも関係は良好だった。当然ながら金日成の猜疑心を招き、告発されて1953年に「自殺」したとされる。真相は分かっておらず、殺害された可能性が高い。

 著者のアンドレイ・ランコフは1984年にソ連から交換留学生として金日成総合大学に留学、その後はレニングラード大学、オーストラリア国立大学、韓国の国民大学で教鞭をとっており、北朝鮮・韓国双方の国内事情を知悉した上で北朝鮮事情を分析できるというポジションの研究者である。邦訳されている『民衆の北朝鮮──知られざる日常生活』(鳥居英晴訳、花伝社、2009年)は留学時の見聞も踏まえながら日常生活から政治・経済システムまで網羅した現代北朝鮮概論となっている。北朝鮮の現体制が経済自由化を進めたらその時点で体制崩壊が起こるだろう、従ってそのことに気づいている現体制トップは一般庶民の苦しみを無視するからこそ支配体制は安定しているという逆説を指摘、今後の見通しについては悲観的である。

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2011年3月 8日 (火)

曽野綾子編著『聖パウロの世界をゆく』

曽野綾子編著『聖パウロの世界をゆく』(講談社、1985年)

 古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(現在はトルコのタルスス)に生まれたユダヤ人パウロは当初キリスト教を迫害していたが、いわゆるダマスコの回心以降、熱心なキリスト教徒として布教に専心、キリスト教拡大の一番の立役者となった。本書は、彼が伝道の旅路で歩んだ地中海沿岸の遺跡を訪ねて回る紀行である。カトリック信徒たる曽野綾子が中心となり、新約聖書学の堀田雄康、旧約聖書学の石田友雄、オリエント考古学の小川英雄、エジプト考古学の吉村作治の討論によってパウロが見たであろう光景とその時代背景とを浮かび上がらせていく。

 団長たる曽野綾子の文章には信仰告白的な色彩が濃いが、続く討論記録では信徒ではない立場からのアカデミックな指摘がぶつけられる。例えば、曽野は古代ローマ時代における都市遺構からうかがえる繁栄ぶりについて都市文化は立派であっても精神的虚しさをパウロは見ていたのではないかと言う。これに対して小川は歴史学・考古学の立場から異議を唱え、信徒である古代キリスト教史学者がキリスト教の正しさを立証するという観点から古代文明の豊かさを後代の後智恵でことさらにくさす傾向があるが学問的にはあまり良くないと指摘する。両者の立場の相違が建設的な議論となっているところが面白い。

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岡田温司『マグダラのマリア──エロスとアガペーの聖女』『処女懐胎──描かれた「奇跡」と「聖家族」』『キリストの身体──血と肉と愛の傷』

 キリスト教でいう“受肉”とは、見えざる宗教的真実がキリストという人間の形を取ってこの世で可視化されたものだとされている。しかしながら、形を持つとは無限なものを有限へと狭めることであって、聖なるもの、究極的に至高な神的存在を、絵画なり、彫刻なり、明瞭な形を持つ造型によって果たして表現し得るものなのだろうか。ここには本来的に矛盾があるわけだが、むしろ矛盾であるがゆえに何がしかの納得を求めて様々にヴァリエーションを伴った宗教芸術がたゆまず作られ続けてきたと言えるのだろうか。

 岡田温司『マグダラのマリア──エロスとアガペーの聖女』(中公新書、2005年)、『処女懐胎──描かれた「奇跡」と「聖家族」』(中公新書、2007年)、『キリストの身体──血と肉と愛の傷』(中公新書、2009年)の「キリスト教図像学三部作」は、西欧キリスト教絵画における図像学的系譜を一つ一つ解析しながら、それらの背景に込められた意味合いを検証していく。

 悔い改めた聖なる娼婦、マグダラのマリア。聖母マリアの処女懐胎とは素朴に生物学的な意味で不可思議であるが、であるがゆえに「無原罪」、「~がない」という形には取りえないものの定式化。そして磔刑像、聖遺物、何らかの手掛かりによってイエスとの共感を求めようとしてきた数々のイメージ。様々な聖画像の中にはもともと新約聖書に記述がなく、後の歴史的解釈によってふくらまされたものもあるらしい。こうした芸術的造型は単に教義上の要請から作られたのではなく、社会的現実における葛藤の中からそれぞれの時代における人々の思いが反映されており、それはさらに後代には芸術的イマジネーションの源泉として受け継がれていった。こうした流れを大きく捉え返していくと、造型イメージを通したヨーロッパ精神史の一つのスケッチとして浮かび上がってくるところが興味深い。

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【映画】「ブンミおじさんの森」

「ブンミおじさんの森」

 タイ北東部で農場を営むブンミは腎臓を患っており、毎日人工透析を受けなければ生きていけない。死期もいずれ近づいていると自覚していたある日、彼のもとに訪れた異形の者たち──19年前に亡くなったはずの妻の幽霊と、行方不明となっていたが猿の精霊に姿を変えた息子。驚くブンミたち、しかしすぐに彼らの存在を自然なものとして受け容れるところにこの映画に通底する価値観が表われている。

 唐突かもしれないが、私はこの映画を観ながら、中学生のころ初めて柳田國男『遠野物語』を読んだときの不思議なドキドキ感を何となく思い出していた。近代に入って灯りが暗闇を生活世界から駆逐してしまう前、まだ異界が身近なところに感じられていた時代、暗闇の向こうにあるであろう未知なる何かへの畏敬の念があった。そこには恐ろしいものが棲息すると同時に、亡くなった人も未知なるどこかにいるのではないかという安心感もあった。同じ地平にいるのだからいつかまた会えるだろうという安らぎの気持ち。この世と異界とに境界線がない、さらに言えば、一木一草、生きとし生けるものすべてが一如につながっている感覚。幽霊も精霊も、この映画に登場するすべてが、ひょっとしたら自分がそうであったかもしれない可能性を示している。それはアニミズムとも言えるし、この映画では仏教的な輪廻転生として描かれている。死に対して若干の不安も感じていたブンミは亡き妻との語らいの後、親しい者たちと共に森の中の洞窟へと向かって穏やかに死を受け容れていく。

 タイ映画として初めてカンヌのパルムドールを受賞した作品である。ブンミおじさんの話は、監督が故郷であるタイ東北部の寺院を訪れた際に教えてもらった実話に基づいてアレンジしているらしい。それだけでなく、ラオスから国境を越えて出稼ぎに来た労働者の存在、かつてタイ国軍による共産主義者狩りに従事して人を殺した体験の告白など、社会的背景も織り込まれている。どこに着眼点を置くかによって各自なりの解釈をしていく余地があるだろう。

【データ】
監督・脚本:アビチャッポン・ウィーラセタクン
2010年/タイ、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン/114分
(2011年3月6日、渋谷、シネマライズにて)

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2011年3月 7日 (月)

【映画】「再生の朝に──ある裁判官の選択」

「再生の朝に──ある裁判官の選択」

 裁判官のティエンは交通事故で娘を失った。犯人は捕まっておらず、彼の判決に恨みを抱いた者による仕業ではないかとささやかれている。事故以来妻とはほとんど口をきいておらず、気力をなくして機械的に淡々と事務をこなすだけの毎日。娘が通っていた中学校を見に行くと慶祝香港復帰の垂れ幕があるので、1997年を時代背景としたストーリーであることが分かる。

 ティエンが担当した裁判で問題が持ち上がった。自動車2台の窃盗は旧刑法では死刑となる。ところが、これは貨幣価値が格段に低かった時代の基準であって現状での適用には無理があるし、間もなく施行される新刑法の基準では死刑はあり得ない。ちょうど司法制度の転換期の最中、微妙な判断が求められている。官僚組織の一員として一番無難な答えは、これまでのしきたりに従うこと。ことなかれ主義のティエンは旧刑法の基準を機械的に適用して死刑の判決を下すことによって難しい判断を回避しようとした。しかし、家庭の問題で懊悩する中、自身の判断が果して正しかったのか、考え直し始める。

 法と現状との乖離、司法判断の硬直化、ワイロ・人脈などで裁判所に圧力がかかる可能性、死刑の多さ、死刑囚の臓器売買──現代中国における司法をめぐる非常にナーバスな問題の様々なポイントに目配りされている。裁判官個人の良心に期待するなど微温的な描き方という気もするが、中国国内で合法的に製作した映画としてはこれがギリギリのラインだったのだろうという苦労はうかがえる。死刑判決を受けた者の獄中生活は描かれるものの、彼がなぜ窃盗をするに至ったのかという背景には触れられていない。そこを描き始めると芋づる式に様々な社会問題がさらに現われてくるはずだ。彼の生活史的背景が全く描かれていないことを裏返すと、そこは観客自身の考えで読み込んで欲しいということであろうか。

【データ】
原題:透析JUDGE
監督:劉杰
2009年/中国/98分
(2011年3月6日、渋谷、シアター・イメージフォーラムにて)

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2011年3月 6日 (日)

【展覧会】「シュテーデル美術館所蔵 フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展」

「シュテーデル美術館所蔵 フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展」

 ドイツ・フランクフルトにあるシュテーデル美術館が改築工事に入り、その間ならばという条件で日本での作品展示が認められたという経緯があるらしい。展覧会タイトルにあるように目玉作品はフェルメールの《地理学者》だが、これ一作のみ。フェルメール来日!と銘打った美術展では必ず同時代オランダ、フランドルの画家たちの作品を並べて水増し(なんて言うと言葉が悪いが…)されるが、今回も同様。無論、フェルメール作品は稀少である上に各地の美術館に散在しているから一括展示なんて極めて困難だから仕方がないし、それに他の展示作品だってなかなか悪くないし。

 一点豪華主義の《地理学者》だが、そのモチーフ解説には工夫が凝らされている。同じ頃に製作された地球儀、地図、コンパス、定規なども合わせて展示、具体的なイメージが湧く。作中人物が身にまとっている青いローブは日本風の着物であることは初めて知った。いずれにせよ、海洋交易国家として世界進出を目指していた当時のオランダならではの世界認識のあり方がこの作品から浮かび上がってくる。このように《地理学者》で示された対外志向を念頭に置きながら他の同時代の画家たちの描いた都市や田園風景などでの人々のたたずまいも見ていくと、当時におけるオランダという国における市民生活のイメージを一体のものとして髣髴とさせて私には面白かった。

 もともとキリスト教絵画では人物画が中心で風景はその背景に過ぎなかったが、風景画そのものが一つのジャンルとして確立されているのはネーデルラント絵画の特色でもあるらしい。アールト・ファン・デル・ネール「漁船のある夜の運河」「月明かりに照らされた船のある川」などに見られる月が放つ淡い光、それからアールベルト・カイプ「牧草地の羊の群れ」に見られる奥行きのある草原の上方にたなびく雲が好きだな。光の淡い描写が空間と静けさとを調和させていると言ったらいいだろうか、印象的に感じた。都市文化の発展に伴って室内画というジャンルが確立したことの社会史的背景は、フェルメール関連の展覧会を見るたびにいつも気になっているところだ。
(渋谷、Bunkamuraザ・ミュージアム、2011年5月22日まで開催)

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2011年3月 5日 (土)

【映画】「サラエボ、希望の街角」

「サラエボ、希望の街角」

 かつて内戦で激しい憎悪の渦に巻き込まれ、引き裂かれたボスニア・ヘルツェゴビナ。首都サラエボの街並はそうした過去をかき消したかのように穏やかで美しいが、癒しがたいトラウマはその中にも根深く疼いている。

 同棲中のカップル、ルナとアマルはモスレム人、宗教上はイスラムであるが、クラブで酒を飲んで激しいビートに身をゆだねたり、愛をささやきあったり、消費生活を楽しむ姿はヨーロッパのどこでもよく見られるような普通の若者だ。ある日、アマルは勤務中に酒を飲んで職を失った。たまたま再会したかつての戦友に誘われてイスラム原理主義的な修養キャンプに参加、徐々に信仰に目覚め、リゴリスティックな戒律解釈を口にし始めた彼に対してルナは違和感と不安を感じ始める。

 ヤスミラ・ジュバニッチ監督の前作「サラエボの花」は、内戦中にレイプされて望まれずに生まれた息子と向き合う母親の姿を描いていたが、今作ではボスニアにおける宗教回帰現象に焦点を合わせているのが特色である。内戦中にサウジアラビアのワッハーブ派を中心に義勇軍が派遣されていたが、この映画に出てくる宗教教育キャンプも同様の流れの中で現れたものであろう。

 徐々に険しくなっていくアマルの表情、それを何か異様なものであるかのように不安げに見やるルナの視点は西欧的近代を基準とした偏見だと捉えることも、あるいはできるかもしれない。しかしながら、この映画はことさらにイスラムを否定しているわけではない。その土地なりの歴史に根ざした皮膚感覚に自然に馴染んだ宗教解釈というのもあり得るわけで、それを教義上の厳格性からことさらに批判するアマルの態度の不自然さがむしろ際立つ。この批判という行為そのものに、彼がこの世界に対して抱いているやり切れない絶望感が込められていると言えるだろうか。プログラムに監督インタビューがあり、ボスニアに昔からあった小さなモスクの詩的な暖かさと、近年サウジ資本の援助で建設された大きなモスクの冷たさとを対比する指摘が目を引いた。アマルが示すリゴリスティックな不自然さは、内戦で家族を失い、精神的不安定から職を失い、自身のおかれた不条理なみじめさに何とか意味づけをしたい、そうしたもがきがますます空回りしてしまうという意味でトラウマの呪縛からなかなか離れることのできない厳しい葛藤をうかがうことができる。

【データ】
原題:Na Putu/On the Path
監督・脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア、ドイツ、クロアチア/2010年/104分
(2011年3月5日、神保町・岩波ホールにて)

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【映画】「英国王のスピーチ」

「英国王のスピーチ」

 ラジオの普及は王室のあり方をも変えてしまった。父王ジョージ5世は言う、「王が甲冑を身に着けて馬にまたがっておればいい時代はもう終わった、これからは国民の心をつかむよう直接語りかけねばならない」。ところが吃音症に悩む次男アルバートにとって、公衆の面前でスピーチするなんてもってのほか。わらをもすがる思いで訪ねた言語聴覚士のローグは診療の条件として対等な立場を要求。問題は心因性のものだと見抜いたローグはアルバートから本音を引き出すため次々と挑発、最初は反発していた彼も徐々に心を開き、やがて友情すら芽生えていく。

 王位は兄が継ぐものと安心していたら、離婚歴のあるアメリカ人女性シンプソン夫人との結婚を決意した兄王エドワード8世は退位を決意、アルバートはジョージ6世として即位せざるを得なくなってしまった。たまたま目にしたニュース映画で、国民を熱狂させている男を見て王はポツリとつぶやく、「何を言っているのか分からないけど、演説はうまいな…」。その男、アドルフ・ヒトラーが巻き起こした戦争に直面して、王は国民を奮い立たせるべく宣戦のスピーチをしなければならない──。

 大衆社会化状況において揺らぐ王室の役割、最高権威者として心を開ける友人のいない王の孤独、こうしたテーマを背景としたヒューマン・ドラマ。会話にはウィットが富んでいるし、テンポもいい。なかなかよく出来ていて面白い映画だ。

【データ】
原題:The King’s Speech
監督:トム・フーパー
出演:コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム=カーター、ほか
イギリス・オーストラリア/2010年/118分
(2011年3月4日レイトショー、新宿・武蔵野館にて)

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2011年3月 4日 (金)

ミカエル・ロストフツェフ『隊商都市』、グランヴィル・ダウニー『地中海都市の興亡──アンティオキア千年の歴史』

 メソポタミア、エジプト、ギリシア、地中海、文明揺籃の地に囲まれて通商交易で繁栄した都市国家であるぺトラ、ジェラシュ、パルミュラ、ドゥラ。ミカエル・ロストフツェフ(青柳正規訳)『隊商都市』(新潮選書、1978年)はこれら古代オリエント都市の遺跡に立って当時の光景に思いを馳せる。著者のロストフツェフはロシア出身、ロシア革命で亡命した後、イェール大学教授となったギリシア・ローマ史の大家である。本書は1920年代後半にこれらの遺跡を回った紀行文である、と言っても学術的な考察がしっかりしているからむしろリーダブルな歴史書という感じだ。イギリス委任統治下でトランスヨルダン王国が成立したばかりの時期、政府の要所にイギリス人が配されているのを見てローマ帝国を彷彿とさせるという趣旨のコメントもあった。原書刊行は1932年、それからすでに80年近く経過しているわけで、もちろん個々の細部に関しての研究ははるかに進展しているのだろう。しかしながら、考古資料に基づいて往時の光景を再現させる筆致はいま読んでも興味がそそられる。

 グランヴィル・ダウニー(小川英雄訳)『地中海都市の興亡──アンティオキア千年の歴史』(新潮選書、1986年)は地中海東岸諸都市の中でもアンティオキアに焦点をしぼった通史である。アンティオキアはヘレニズム文明をイスラム文明へと継受させた要であり、また古代キリスト教五大主教座の一つとして古代オリエント史では非常に目立つ存在感があった。ところが邦題で「地中海都市」となっているのは、(新約聖書の読者をのぞくと)日本では馴染みがないからであろうか。セレウコス朝の首都として造営され、ローマ帝国時代、とりわけキリスト教の普及と宗教対立、ペルシアとの抗争、帝国内部の動揺、東ローマ帝国を経てイスラム勢力に呑み込まれるまでにこの都市を舞台として繰り広げられた数々のドラマを描き出してくれる。上掲『隊商都市』が考古資料に基づいて往時の古代都市の光景を再現させるのに対して、こちらの『地中海都市の興亡』では遠大なタイムスパンの中で様々な文明が交錯している姿が見えてくるのが面白い。

 こういう古代史ものはもともと好きだったから読んでいて楽しい。素直にこっち方面の研究者になっていればよかった、などと思っても後悔先に立たず、と言うか、現実逃避心理の表われに過ぎないな。

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2011年3月 2日 (水)

アリー・シャリーアティー『イスラーム再構築の思想──新たな社会へのまなざし』

アリー・シャリーアティー(櫻井秀子訳)『イスラーム再構築の思想──新たな社会へのまなざし』(大村書店、1997年)

・イラン・イスラーム革命で「赤いシーア派」(Red Shia)とか「イスラーム的マルクス主義」(Islamic Marxism)と言われる勢力が大きな役割を果たし、とりわけその理論的指導者となったアリー・シャリーアティー(Ali Shariati)による著作である。最近、Vali Nasr, The Shia Revival: How Conflicts within Islam Will Shape the Future(Norton, 2007→こちら)という本を読んだときにこの人物に関心を持ったのだが、日本語の関連文献などないだろうと半ばあきらめていたところ、先日、近所の図書館でこの日本語訳を偶然見つけたので早速目を通した。以下、メモ書き。

・シャリーアティーは1933年、イスラーム学者の家庭に生まれ、1958年にマシュハド大学文学部を卒業、その後フランスへ渡り、1964年にソルボンヌ大学で博士号を取得、専攻は宗教社会学。父親の影響でモサデク支持サークルのメンバーとなったほか、アルジェリア問題の支援活動を通してフランツ・ファノンと知り合い、彼の『知に呪われたる者』のペルシア語訳をしている。また、サルトルをはじめとした知識人とも交流があった。1964年に帰国後、反体制運動に関わった容疑で投獄されたが、1967年からマシュハド大学でイスラーム史の講義を担当する。1971年に大学を追われて再び投獄されたが、知己であったアルジェリア外相の働きかけで釈放。1977年に国外脱出したが、イギリスに到着して間もなく謎の死を遂げる。秘密警察SAVAKが関与したと言われている。彼の死から2年後、1979年のイラン・イスラーム革命においてシャリーアティーの思想は大きな影響力があった。なお、黒田壽郎による序論では現代イスラーム世界で特筆すべき思想家としてシャリーアティーとイラクのバーキルッ・サドルの二人を挙げ、サドルがイスラームの伝統的価値を肯定的に再評価したのに対し、シャリーアティーは現代的な再解釈をしたところに特色があると指摘している。

・宗教学者層の出現によって宗教的な思想や行為を統一させたプラス面がある一方、他方で、硬直化・停滞化、新しいものを拒む障壁となってしまった。人間と神との直接的な関係を説くのがイスラームであり、公式には聖職者などいない。
・階層、人種などの差別は多神教的な世界観であり、タウヒードはこうした矛盾を受け容れない。
・クルアーンは現世と来世、精神世界と物質世界、自然世界と抽象世界といった区別は立てない。すべてが調和的に一体となった世界なのである。
・不可視なもの→知性、霊感、啓示、哲学、感受性などの向上によって認知可能、明示的となる。不可視な本源的存在→アーヤ(徴)を通してうかがい知る。個々の存在者は一義的な存在の顕現。モッラー・サドラーの〈存在の本源的実在性〉の思想に立脚(※モッラー・サドラー『存在認識の道』を井筒俊彦が翻訳しているが私は未読)。

・タウヒード、統合的な世界観:「存在を認識するということは、一つの生きたメカニズム、つまり創造世界を理解と自覚を備えた一つの存在として感得することである。それは、〈目的と意図〉という理性的秩序をともなって回転する、正確なメカニズムのようである。この世界を認識するとは、それを究極的な目的を備える体系に従って思考、観察、実感することである。この存在世界のすべての物事は、そのような正確、かつ論理的な計算に基づいており、無為、無駄、偶然とは無縁である。人間とは、このように意味深長で、正確に計算し尽した存在の一部であり、進歩を目指し、それに照準を合わせるような意志、理解力、自覚をともなっており、決して自らを見失うことはない。そして美醜、善悪に対して正確で、論理的な対応を行うのである。人間は、そのような調和のとれたメカニズムによって自らの生活、思考、感情、行為を組立て、このような観点から自らを厳格に統制し、おのおのの叡智が獲得した、確定的な法と確実な諸規律を踏みはずさぬよう努めるのである。」(180ページ)

・西欧のユートピア思想を引き合いに出しながら空理空論ではダメと指摘。社会、経済、慣習、時代状況など、これらの現実にも神の意志としての法則が一貫しているのだから、そこを踏まえながら現実を観察する必要。保守主義と理想主義の中間にイスラームがある。

・人間の自由意志=責任:「クルアーンにおける人間は、矛盾から成り立っている。二つの対立する力が、人間を二つの相反する世界へと招き寄せるのである。その一つは悪臭を放つ腐土でいっぱいの巷に向かい、他方は天使が絶えず人間に平伏している頂上を目指している。ここで重要なのは、絶えず対立するこの二つの力に身をさらしながら、この二股の分かれ道に立たされている人間が、いずれか一方を選択することである。責任の起源は、まさにこのような状況下にある。」「これが〈人間の二元性〉であり、イスラームのいう二元性の意味である。イスラームが人間世界、すなわち人間の霊魂と創造にのみ限定的に認める二元性は、そこにのみ存在と現実をもつ二元性である。」(217ページ)
・「タウヒード的世界観は、人間がいかなる社会的権力にも依存せず、彼があらゆる次元で〈存在を支配する意識と意志〉に専ら依拠することを要請する。」「タウヒードは、人間に自立と尊厳を授け、あらゆる存在の法規範である神のみへの〈服従〉が、偽りの権力、恐怖や貪欲という卑しい桎梏に対して人間を〈反抗〉させるのである。」(225~226ページ)
・「人間は二つの対立を内に含む弁証法的存在、神のもたらした二元的奇跡であり、神は人間の本質と運命における、唯一、〈無限の方向〉である。」「二元的で、矛盾した組成のゆえに弁証法的現象であるといえる人間は、つねに変動の中に身をおかねばならない。彼自身がまさしく、対立と闘争の場であり、そこでは二つの力が完成へ向かう不断の運動を惹起させる。」(230~231ページ)

・「イスラームとは〈宗教的、社会的な闘争、知的、精神的な努力〉そのものであり、〈盲従、党派精神、従属〉を甘受するものではない。われわれは〈クルアーン〉のイスラームに遵い、〈天国への鍵〉といったイスラームは斥けるべきである。」(258ページ)

・民衆自身が〈神の代理人〉であるはずだが、現実には一部の特権集団と民衆との対立関係が生じている。カインによるアベル殺害→収奪、独占、抑圧、殺害といったカイン的な悪の極/分配、公平、相互扶助といったアベル的な極→両者の弁証法的運動として歴史を把握する。前者から後者へと向かう運動の担い手としてナース(民衆)を捉え、こうした人々が連帯した動的側面を表現したのがウンマ(共同体)であるとされる。

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山形孝夫『聖母マリア崇拝の謎──「見えない宗教」の人類学』『聖書の起源』

 プロテスタントはもちろんのこと、カトリック教会において聖母マリア崇拝・信仰というのは厳密には存在しないのだという。一神教的な教義体系からすればたとえ「神の母」ではあっても崇拝対象とは認めがたいからだ。しかしながら、民衆レベルでは聖母マリアは篤い崇敬対象となっており、エチオピア正教会などはむしろ聖母マリア信仰の方が中心となっているとも言われる。山形孝夫『聖母マリア崇拝の謎──「見えない宗教」の人類学』(河出書房新社、2010年)は、はるか古代の大地母神からルルドの奇跡などマリア出現現象まで、キリスト教の表の顔とは異なる「見えない宗教」というレベルにおける精神史的流れを検討し、一神教的な父性原理と対比されるアニミスティックでスピリチュアルな母なるものへの崇拝の反復的な表われと指摘、さらには父なる神の男性優位という不動の社会秩序を維持するため張り巡らされた数々の文化装置としてカトリック教会のあり方をうかがう視点が示される。

 山形孝夫『聖書の起源』(ちくま学芸文庫、2010年)はすでに定評のある聖書論であろう。伝承文学としての性格を持つ聖書の背景に古代神話の系譜を見出し、新約の福音書については共同体における信仰告白の結晶として把握される。イエスはどのような人物であったのかを解明するのは極めて困難であり、かつての聖書学は聖書説話に見られる非合理的要素をすべて排除することで「客観的」な史的事実を確定しようと試みたが、そうした努力はことごとく失敗したと言っていい。本書はむしろ聖書伝説を形成してきた人々の動機の方に着目、いったん解体された聖書伝説にもう一度息を吹き込んで聖書の成立過程をヴィヴィッドに提示してくれる。

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2011年3月 1日 (火)

最近の井筒俊彦論

 岩波書店の学術誌『思想』第718号(1984年4月)の特集は「構造主義を超えて」、巻頭論文は井筒俊彦「「書く」──デリダのエクリチュール論に因んで」、その次に並ぶのはジャック・デリダが井筒宛に出した書簡を丸山圭三郎が翻訳した「〈解体構築〉DÉCONSTRUCTIONとは何か」である。前年の1983年、二人はパリで会って話し合い、そのときに語りつくせなかったテーマについてデリダは書いている。日本ではどうしてもイスラム研究の先駆者としての印象が強い井筒俊彦だが、言語以前の何かへと向けた根源的な探究という点で実はデリダと響きあうものを持っていたことは、井筒という碩学を知る上で一本の補助線となるかもしれない。

 井筒によるイスラム思想史の叙述を検討した池内恵「井筒俊彦の日本的イスラーム論」(『アステイオン』70号、2009年)は、井筒自身の関心事たる神秘主義的方向が強調される一方、法学における合理主義的方向は軽視されているバイアスを指摘する。井筒はイスラム哲学(とりわけイランのスーフィズム)を軸としながら古代ギリシアやキリスト教の神秘思想、ユダヤのカバラ思想、インドのヴェーダーンタ哲学、大乗仏教、老壮思想、さらには日本的禅まで広く「東洋哲学」を見渡せるメタ・ランゲージを作りたいという夢を語っていた(例えば、司馬遼太郎との対談)。神秘主義的直観の内奥に見出された「一如」の感覚、例えば安藤礼二「大東亜共栄圏の哲学──大川周明と井筒俊彦」(『アソシエ』17号、2006年→後出の『近代論』に所収)はその点で井筒と大川周明との類似を指摘し、それは存在論的に奥深いレベルでは非常に魅力的であるが、他方、政治レベルではこうした「一如」の観念がかつて大アジア主義などのイデオロギーに用いられた経緯はやはり無視することはできない(もちろん、井筒自身にそのような政治的意図はなかったにせよ)。いずれにせよこうした「一如」のモチーフによって安易にイスラムと日本とを結び付けるイスラム理解が繰り返し現われてきた問題を池内論文は指摘している。

 井筒の学問的蓄積を、学史的に位置付けるのか、それとも彼自身の思想的迫力そのものに関心を向けるのか、いずれのアプローチをとるかに応じて評価も変わってくるのだろう。池内論文を裏読みするなら、むしろ井筒をイスラム研究者という枠組みから解き放ったところで彼自身のテクストを読み込んでいく契機となり得る。彼はイスラムを客体として叙述したかったのではなく、むしろイスラム研究というプリズムを通して自らの哲学的直覚を語っていた。同様に、ユダヤ思想を通して、ギリシア神秘思想を通して、ロシア文学を通して、仏教哲学を通して、とにかく文明の枠を超えた様々な語法を通して彼自身が直観した存在の深みへと探究を敢行していった。そうしたスケールの大きさに私はただただ圧倒される思いがしている。

 言語以前の観照によってのみ感得される不可視な何か、詩人ならばヴィジョナリーなイメージとして捉えるであろう感覚、それが言語として顕現していくときの驚異、個人というレベルを超え、さらには文明の枠をも超えた深層意識へと向けられた井筒俊彦の根源的な探究そのものを追体験してみたいという誘惑は、非常に困難なことを承知の上で、それでもやみがたい。若松英輔による最近の一連の論考(「小林秀雄と井筒俊彦──神秘的人間とその系譜」[『三田文学』第三期2008年秋季号]。「井筒俊彦──東洋への道程」[『三田文学』第三期2009年冬季号]。「井筒俊彦──存在とコトバの神秘哲学(全6回)」『三田文学』第三期2009年春季号~2010年秋季号。「井筒俊彦と白川静 コトバ、あるいは文字」『月刊百科』574号、2010年8月)はそうした井筒の無限の思索そのものを対象とした評伝となっている。著者は文芸批評の人らしく、井筒の生い立ちや読書体験、交友関係、同時代における比較など主に日本における文学史・思想史的シーンの中で彼の思索へと目が凝らされている。それは視野が狭いということではない。むしろ、日本が舞台であってもある種の普遍を目指したこれほど豊饒な思想的ドラマが展開されていたことに改めて気付かされて驚く。井筒が師匠として仰いだ西脇順三郎と折口信夫、キリスト教哲学の吉満義彦、ヘブライ学者の小辻節三、イスラム研究では亡命タタール人のアブデュルレシト・イブラヒムとムーサ・ジャールッラー、そして大川周明、友人だった池田弥三郎、様々な人物が登場する。小林秀雄や白川静、天理教学の諸井慶徳などとの比較も興味深い。近々単行本として刊行される予定らしく、井筒を論じた一冊の論著というのはまだないので楽しみだ。なお、慶應義塾大学出版会のホームページでは著者による井筒俊彦特集サイトが開設されている(→こちら)。

 安藤礼二もまたこうした深層意識への探究者として井筒俊彦に注目している。「井筒俊彦の起源──西脇順三郎と折口信夫」(『三田文学』第三期、2009年冬季号)では、神的・超越的な言葉が直接的にふりかかってきてコンベンショナルな言葉の世界を打ち破っていく、そうしたイマージュの持ち主としてシュルレアリスム詩人の西脇順三郎、古代文学の折口信夫、井筒が学生時代に師事したこの二人との出会いについて論じてられており興味深い。『近代論──危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版)の第5章「戦争──井筒俊彦論」は、イラン・イスラム革命に際してテヘランに降り立ったミッシェル・フーコーが目の当たりにしたもの、これに井筒はどのように反応したのかという問いから説き起こされる。ムハンマドに体現された預言者性、シーア派的スーフィズムを基盤とした内的精神性、東洋哲学全体をメタレベルで統合していく翻訳可能性。イラン・イスラム革命と「大東亜戦争」という2つの危機を交錯させながら、ヨーロッパ的な主体性を脱してアジア的な主体性をポジティブに確立、同時に「日本」なる固定概念を解体させる、その根底における「無」の地点から内在と超越とを媒介させていく精神性として、西田幾多郎、大川周明、折口信夫などを絡めながら井筒の思想的展開を捉えようとしている。

 他には、新田義弘「知の自証性と世界の開現性──西田幾多郎と井筒俊彦」(『思惟の道としての現象学』以文社、2009年、所収)は西洋哲学と東洋哲学とをどのように結び付けるかという問題意識の中で西田と井筒とを論じている。『三田文学』第三期2009年冬季号では井筒俊彦特集が組まれている。『史學』第79巻第4号(三田史学会、2010年12月)にはイスラム研究の先駆者として井筒俊彦と前嶋信次の二人をテーマに開催されたシンポジウムの記録がある。

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