『村山知義とクルト・シュヴィッタース』
マルク・ダシー、松浦寿夫、白川昌生、塚原史、田中純『村山知義とクルト・シュヴィッタース』(水声社、2005年)
2005年に東京藝術大学陳列館で開催された「日本におけるダダ──マヴォ/メルツ/村山知義/クルト・シュヴィッタース」という展覧会のカタログとして作られた本らしい。1910年代後半から20年代にかけてヨーロッパと日本で同時並行的に展開したダダ的なものを、村山たちのマヴォ(MAVO)、シュヴィッタースたちのメルツ(MERZ)との対比によって見ていこうという趣旨。松浦「遅延の贈与:意識的構成主義とは何か」、白川「そして近代、さらに近代:横断する村山知義」、塚原「根源の両義性:〈ダダ〉から〈メルツ〉へ」、田中「喜ばしき機械:「メルツ」と資本主義の欲望」、ダシー「村山知義とクルト・シュヴィッタース:マヴォ/メルツ」、以上の論考で構成。
なお、シュヴィッタースは1887年生まれで1918年にダダと接触、ベルリンで抽象絵画を展示してデビュー。ただし、ヒュルゼンベックたちベルリン・ダダから排除された後、MERZという独自の表現活動を展開。DADAとはつまり、何ものをも意味しないことの記号として無作為に選ばれた言葉だが、MERZも同様に新聞広告から切り抜いて出てきた記号ということになる。
塚原論文はダダからメルツが登場してくる経緯を簡潔に解説。それから、ページの半分以上を占めて本書の本論とも言うべきダシー論文は日欧比較による本格的な村山知義論となっている。「村山とツァラの並行関係を、仏教を介して設定することは魅惑的なことではある」という一文があり興味を持ったが、それ以上詳しくは展開されていないのが残念。トリスタン・ツァラがたまに仏教へ言及しているのは確かで、それは私自身大いに関心がそそられているポイントではあるのだが、村山はどうだろうか。そういうにおいは村山からはあまり感じられないな。仏教を媒介にダダと結び付けるならむしろ辻潤だろうというのが私自身の感触だ。一応断っておくが、私はオリエンタルなもの、東洋思想的なものへと強引につなげたいということではないのであしからず。ダダというのは要するに「何も意味しない」何かのかりそめの表現。ところで、西洋思想の中には「何も意味しない」ことを表現する適切な語法がない。だからこそDADAとかMERZとか鬼面人を驚かす体のパフォーマンスへと彼らは突っ走っていったわけだが。代わりに何かないかなあ、と探してみたら、仏教ならいけそうだ、そんな感じと言ったらいいだろうか。
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