コプト教のこと
ある一つのイメージを思い浮かべている。砂漠と荒々しい岩山、茶色っぽい色彩が地平線まで延々と広がり、過酷な熱暑がユラユラとかげろうを立ち上らせる中、黒いローブに身を包んだ隠修士がただ一人ゆったりとしたペースで歩を進めている。一切絶無の中、無限と直接対峙した厳しい求道の思索。キリスト教絵画のモチーフとしてよく取り上げられる聖アントニウスの誘惑、その幻視もまたこうした中での朦朧とした意識から現出したものであろうか。
三宅理一・平剛『異界の小都市2 エジプト・砂の楽園──コプトの僧院』(TOTO出版、1996年)はコプト僧院建築の写真集に解説を付した構成。建築史の観点からコプト教史が概説されており、写真からは色々とイマジネーションもかき立てられてとても面白い本だ。建築遺址からは当時の生活形態の一環としての宗教思想もうかがえるため、文献史料の裏付け、さらには欠如を補うという形で古代宗教史研究にとって重要な手掛かりとなる。
ディオクレティアヌス帝による迫害で多数の殉教者(シュハーダ)を出した西暦284年を以てコプト暦は始まる。313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって公の活動が認められ、4~5世紀にかけてそれまで個別に孤独な修行に勤しんでいた隠修士たちが一定のレベルまで組織化され、修道院が成立。有名な聖アントニウスはこの頃の人物であり、他にもパコミオス、シェヌーダといった名前も見られる。コプト典礼や音楽、建築にはファラオ時代のエジプト文化、ユダヤ教、ヘレニズムなど様々な要素の影響が見られるらしい。コプトの僧院建築は過酷な自然環境やベドウィンの襲撃から身を守るため高い防壁がめぐらされており、あたかも城郭都市のような外観も持つ。また、岩壁にうがたれた新王国時代の墓廟や古代神殿を利用したケースも見られる。アレクサンドリア総主教をトップとするコプト教会は単性説をとり(キリストの本性は神性にあると主張→451年のカルケドン公会議でコプト正教会、シリア正教会、アルメニア教会は分離)、ビザンティン帝国の政治的支配は受けつつも距離をおいていた。639年にアラブ軍が侵攻、エジプトを支配したが、当時のアレクサンドリア総主教バニヤミン1世はアラブ側とたくみに交渉してむしろビザンティン帝国支配時には抑圧されていたコプト教会の権利を回復、その後も微妙な政治的バランスを図りながら生き残った。中世コプト教会は10世紀後半から12世紀後半にかけてファーティマ朝の時代に繁栄する。なお、エルサレムの聖墳墓教会にもコプト教区域があってスルタン修道院と呼ばれている。また、6世紀にはユスティニアヌス帝時代ビザンティン帝国のテオドラ皇后の支援でヌビア(スーダン)まで布教が行われたが、その痕跡についてはまだ調査中でよく分かっていないらしい。
山形孝夫『砂漠の修道院』(平凡社ライブラリー、1998年)はコプト教の修道院を訪れたフィールドワークの記録を収めている。一人ひとり動機は違うかもしれないが、無一物となってナイル川を渡り、かなたの異界、無縁のクニ、砂漠の僧院へと引き寄せられていった人々。ひたすら祈りに日々を過ごす彼らの心象風景から、はるか初期キリスト教世界へと想いを馳せる。カイロで暮らすコプト教徒のインテリ青年の話からは、俗世のしがらみのせいで異界へのあこがれを断念せざるを得なかった憂鬱を見出す。時代を超えたはるかな想いを描き出しているところが魅力的である。
イスラム世界の中で少数派となったキリスト教の歴史をまとめた章もあったのでその関連でメモしておくと、レバノンのマロン派:単性説とネストリウス派との中間的立場として「単意説」(monothelitism)をとる。キリストには神性と人性の二つの本性があるが、神のただ一つの意志の体現者として捉える。680年のコンスタンティノープル公会議で異端とされたが、その後、十字軍を支援したので12世紀に西方教会との関係を改善、ローマ法王に帰順した。シリア語典礼を継承している。
村山盛忠『コプト社会に暮らす』(岩波新書、1974年)は1964年から68年まで宣教師としてエジプトの地方都市に派遣された日本人牧師の滞在記。ちょうどナセル大統領の時代、1967年の第三次中東戦争の緊張感も体験している。一つ興味深いのは、アジア・アフリカ連帯という進歩的意識を持っていた一方、エジプト社会とはどこか距離を感じ、むしろ西洋人と出会うと懐かしさを感じたと正直に記しているところ。「日本人」の中に根深く巣食った「西洋意識」を改めて自覚し、同時にエジプト社会における宗教性の厳しさも実感している。イスラム教が主流のエジプト社会におけるマイノリティーとしてのコプト教徒はファラオ時代からエジプト人であるという自覚、イスラム化以前からキリスト教徒であったという自覚を持ち、そうした伝統とプライドの重み。コプト教徒として生まれたらそのアイデンティティを持って一生を過ごさねばならず、例えば日本のように一つのコミュニティに属しつつ別の宗教を信仰することは感覚的にあり得ないという宗教生活の歴史的形成過程の相違を指摘。なお、1968年に開催された聖マルコ殉教1900年記念祭でコプト正教会のキュリロス6世、ナセル、サダト、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエが並ぶ面白い写真が収録されていた。この時ナセルは「アフリカ人」意識を強調した演説をしたらしい。
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