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2011年2月

2011年2月28日 (月)

川又一英『エチオピアのキリスト教 思索の旅』、蔀勇造『シェバの女王──伝説の変容と歴史との交錯』

 三千年以上にわたる悠久の歴史を持つエチオピア。1974年の革命で皇帝ハイレ・セラシエが廃位されるまで連綿たる伝統を誇った王家は、伝説によるとシバの女王とソロモン王の息子メネリク1世まで遡る。父に会いに行ったメネリクは故郷エチオピアへ戻る際、モーセの十戒を収めたといわれる聖櫃をひそかに持ち帰ったといわれ、これがエチオピア王家の由緒を示す証拠とされた。いわゆる「失われた聖櫃」伝説は伝奇ファンタジーの格好の題材で、例えば映画「インディ・ジョーンズ」が有名だろう。なお、エチオピアのアクスム王国は4世紀にキリスト教を受容、アレクサンドリア総主教の下にいたため単性説をとり、451年のカルケドン公会議で異端とされた。

 川又一英『エチオピアのキリスト教 思索の旅』(山川出版社、2005年)は、この独自なキリスト教文化を持つエチオピアを歩いた歴史紀行。きっかけはエルサレムの聖墳墓教会、荘厳な雰囲気の中に突如聞こえてきた御詠歌のような単調な聖歌、それがエチオピア正教に関心をそそられたきっかけだった。シバの女王、失われた聖櫃などの伝承に好奇心をかき立てられ、この見知らぬ国へと一人旅立つ。不思議な音楽を耳にしたのを皮切りに、現地では地酒を飲み、疲労困憊した旅路を記録、そして聖櫃を求めて潜り込んだエチオピア北部の古都アクスム、そこの「シオンの聖マリア教会」で目の当たりにした祝祭。体感的な情景描写の中から歴史を具体的にイメージさせる筆致が面白い。

 エチオピア正教の典礼には旧約聖書に由来するユダヤ教的要素が色濃く見られ、かなり早い段階でキリスト教化したことは確からしい。黒いユダヤ人といわれるファラシャ族(ベータ・イスラエル)の村を訪れるシーンもあったが、ほとんどもぬけの殻。イスラエル政府の支援でほとんどが移住したということは別のイスラエル史の本でも読んだ覚えがある。エチオピアにはパスタを食べる習慣が広く見られるというのは初めて知った。20世紀初頭、ムッソリーニのイタリアによって短期間侵略された時の置き土産らしい。

 蔀勇造『シェバの女王──伝説の変容と歴史との交錯』(山川出版社、2006年)はシェバ(シバ)の女王伝説がユダヤ教世界、キリスト教世界、イスラム教世界、そしてエチオピアなど世界各地でどのように受容されたのかをたどる。エチオピア関連で関心を持ったのは第一に、北方のビザンツ帝国やイスラム勢力に対抗する形で王家の正統性を示すため聖櫃伝説が用いられたのではないかという指摘。第二に、ジャマイカで展開したラスタファリ運動。ラスタファリというのはハイレ・セラシエの即位前の名前である。奴隷とされた黒人の子孫にとって、アフリカで独立を維持し、かつ聖書にも記述のある古い王朝としてのエチオピアは特別な意味を持ち、それがユダヤ人にとってのシオンと同様にやがて自分たちが帰るべきアフリカとして理想化されたのだという。

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2011年2月27日 (日)

コプト教のこと

 ある一つのイメージを思い浮かべている。砂漠と荒々しい岩山、茶色っぽい色彩が地平線まで延々と広がり、過酷な熱暑がユラユラとかげろうを立ち上らせる中、黒いローブに身を包んだ隠修士がただ一人ゆったりとしたペースで歩を進めている。一切絶無の中、無限と直接対峙した厳しい求道の思索。キリスト教絵画のモチーフとしてよく取り上げられる聖アントニウスの誘惑、その幻視もまたこうした中での朦朧とした意識から現出したものであろうか。

 三宅理一・平剛『異界の小都市2 エジプト・砂の楽園──コプトの僧院』(TOTO出版、1996年)はコプト僧院建築の写真集に解説を付した構成。建築史の観点からコプト教史が概説されており、写真からは色々とイマジネーションもかき立てられてとても面白い本だ。建築遺址からは当時の生活形態の一環としての宗教思想もうかがえるため、文献史料の裏付け、さらには欠如を補うという形で古代宗教史研究にとって重要な手掛かりとなる。

 ディオクレティアヌス帝による迫害で多数の殉教者(シュハーダ)を出した西暦284年を以てコプト暦は始まる。313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって公の活動が認められ、4~5世紀にかけてそれまで個別に孤独な修行に勤しんでいた隠修士たちが一定のレベルまで組織化され、修道院が成立。有名な聖アントニウスはこの頃の人物であり、他にもパコミオス、シェヌーダといった名前も見られる。コプト典礼や音楽、建築にはファラオ時代のエジプト文化、ユダヤ教、ヘレニズムなど様々な要素の影響が見られるらしい。コプトの僧院建築は過酷な自然環境やベドウィンの襲撃から身を守るため高い防壁がめぐらされており、あたかも城郭都市のような外観も持つ。また、岩壁にうがたれた新王国時代の墓廟や古代神殿を利用したケースも見られる。アレクサンドリア総主教をトップとするコプト教会は単性説をとり(キリストの本性は神性にあると主張→451年のカルケドン公会議でコプト正教会、シリア正教会、アルメニア教会は分離)、ビザンティン帝国の政治的支配は受けつつも距離をおいていた。639年にアラブ軍が侵攻、エジプトを支配したが、当時のアレクサンドリア総主教バニヤミン1世はアラブ側とたくみに交渉してむしろビザンティン帝国支配時には抑圧されていたコプト教会の権利を回復、その後も微妙な政治的バランスを図りながら生き残った。中世コプト教会は10世紀後半から12世紀後半にかけてファーティマ朝の時代に繁栄する。なお、エルサレムの聖墳墓教会にもコプト教区域があってスルタン修道院と呼ばれている。また、6世紀にはユスティニアヌス帝時代ビザンティン帝国のテオドラ皇后の支援でヌビア(スーダン)まで布教が行われたが、その痕跡についてはまだ調査中でよく分かっていないらしい。

 山形孝夫『砂漠の修道院』(平凡社ライブラリー、1998年)はコプト教の修道院を訪れたフィールドワークの記録を収めている。一人ひとり動機は違うかもしれないが、無一物となってナイル川を渡り、かなたの異界、無縁のクニ、砂漠の僧院へと引き寄せられていった人々。ひたすら祈りに日々を過ごす彼らの心象風景から、はるか初期キリスト教世界へと想いを馳せる。カイロで暮らすコプト教徒のインテリ青年の話からは、俗世のしがらみのせいで異界へのあこがれを断念せざるを得なかった憂鬱を見出す。時代を超えたはるかな想いを描き出しているところが魅力的である。

 イスラム世界の中で少数派となったキリスト教の歴史をまとめた章もあったのでその関連でメモしておくと、レバノンのマロン派:単性説とネストリウス派との中間的立場として「単意説」(monothelitism)をとる。キリストには神性と人性の二つの本性があるが、神のただ一つの意志の体現者として捉える。680年のコンスタンティノープル公会議で異端とされたが、その後、十字軍を支援したので12世紀に西方教会との関係を改善、ローマ法王に帰順した。シリア語典礼を継承している。

 村山盛忠『コプト社会に暮らす』(岩波新書、1974年)は1964年から68年まで宣教師としてエジプトの地方都市に派遣された日本人牧師の滞在記。ちょうどナセル大統領の時代、1967年の第三次中東戦争の緊張感も体験している。一つ興味深いのは、アジア・アフリカ連帯という進歩的意識を持っていた一方、エジプト社会とはどこか距離を感じ、むしろ西洋人と出会うと懐かしさを感じたと正直に記しているところ。「日本人」の中に根深く巣食った「西洋意識」を改めて自覚し、同時にエジプト社会における宗教性の厳しさも実感している。イスラム教が主流のエジプト社会におけるマイノリティーとしてのコプト教徒はファラオ時代からエジプト人であるという自覚、イスラム化以前からキリスト教徒であったという自覚を持ち、そうした伝統とプライドの重み。コプト教徒として生まれたらそのアイデンティティを持って一生を過ごさねばならず、例えば日本のように一つのコミュニティに属しつつ別の宗教を信仰することは感覚的にあり得ないという宗教生活の歴史的形成過程の相違を指摘。なお、1968年に開催された聖マルコ殉教1900年記念祭でコプト正教会のキュリロス6世、ナセル、サダト、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエが並ぶ面白い写真が収録されていた。この時ナセルは「アフリカ人」意識を強調した演説をしたらしい。

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2011年2月26日 (土)

「ひきこもり」について何冊か

 「ひきこもり」といったとき、一般にどのようなイメージが抱かれるだろうか。オタク? インターネット依存? 犯罪予備軍? 親が甘やかしたのが悪い? 働かないで贅沢だ? 「ひきこもり」は、本人自身の内面や家族といった閉ざされた人間関係の中で問題化するため、それがどんなにつらいものであっても、当事者以外の人間からすると社会的問題としては認知しづらい、従って実態とは異なった誤解や偏見もまた増幅されやすい傾向がある。社会的な偏見がいったん出来上がってしまうと、当事者も生真面目であればあるほどそれを受け入れ、その解釈枠組みで自身の置かれた立場を捉えて自罰感を強め、自縄自縛の悪循環にも陥りかねない。「怠惰」という印象論は切り捨ての論理にも用いられやすい。

 「ひきこもり」問題を最初に本格的に取り上げたのは斎藤環『社会的ひきこもり──終わらない思春期』(PHP新書、1998年)、『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店、2003年)だろうか。斎藤は個人、家族、社会という3つのシステムを想定し、通常ならばそれらがうまくコミュニケートして有機的に接点を持つところを、「ひきこもり」の場合にはコミュニケーションがうまくいかず、3つのシステムが乖離した状態として捉える。「ひきこもり」の原因は人それぞれに多様で、一元的に説明できるような要因はよく分からないらしい。従って、原因探しよりも、精神科医として臨床の必要から、状態のあり方を把握するための描写となっている。精神障害、発達障害を伴うこともあるが、必ずしもそれだけが原因とは限らない。当人も怠けたくてひきこもっているわけではない。むしろ社会復帰への思いが強いからこそ、その焦りや不安が悪循環を昂進させ、時に暴力的に爆発してしまうこともある(「ひきこもり」=家庭内暴力というのではなく、精神的に行き詰った末の暴発)。社会への不適応からドロップアウトした点では、家の内に閉じこもったケースを「ひきこもり」、路上に放り出されたケースがホームレスとして把握される。当人や家族では支えきれる問題ではないし、社会的背景を有する問題でもあるのだから外部からの社会的支援が必要である。

 池上正樹『ドキュメントひきこもり 「長期化」と「高年齢化」の実態』(宝島社新書、2010年)はジャーナリストの視点から個々の具体的なケースを取材。就労経験のある社会人が仕事上のストレスからひきこもってしまったケースも取り上げられている。セーフティネットの枠外に置かれた人々としてどのように向き合っていくかという問題意識が示されている。

 井出草平『ひきこもりの社会学』(世界思想社、2007年)は当事者への聞き取り調査を踏まえて社会学の観点から考察する。分析上、高卒で一つの区切りをつけ、高校という規範的拘束の強い環境でドロップアウトしたケース、逆にその規範的拘束下では適応したからこそ大学進学後の開放的環境の中で自分を見失ってドロップアウトしたケースとが見出される。

 斎藤環『ひきこもりから見た未来』(毎日新聞社、2010年)は時評的な論集で「ひきこもり」問題ばかりが取り上げられているわけではないが、現状では親に扶養されることで表面化してこなかった「ひきこもり」が親の高齢化・死去によって放り出される「2030年問題」を指摘。この問題については井出草平「ひきこもりの2030年問題 「孤族の国」を考える(5)」SYNODOS JOURNALを参照)が解説をしている。

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2011年2月23日 (水)

『村山知義とクルト・シュヴィッタース』

マルク・ダシー、松浦寿夫、白川昌生、塚原史、田中純『村山知義とクルト・シュヴィッタース』(水声社、2005年)

 2005年に東京藝術大学陳列館で開催された「日本におけるダダ──マヴォ/メルツ/村山知義/クルト・シュヴィッタース」という展覧会のカタログとして作られた本らしい。1910年代後半から20年代にかけてヨーロッパと日本で同時並行的に展開したダダ的なものを、村山たちのマヴォ(MAVO)、シュヴィッタースたちのメルツ(MERZ)との対比によって見ていこうという趣旨。松浦「遅延の贈与:意識的構成主義とは何か」、白川「そして近代、さらに近代:横断する村山知義」、塚原「根源の両義性:〈ダダ〉から〈メルツ〉へ」、田中「喜ばしき機械:「メルツ」と資本主義の欲望」、ダシー「村山知義とクルト・シュヴィッタース:マヴォ/メルツ」、以上の論考で構成。

 なお、シュヴィッタースは1887年生まれで1918年にダダと接触、ベルリンで抽象絵画を展示してデビュー。ただし、ヒュルゼンベックたちベルリン・ダダから排除された後、MERZという独自の表現活動を展開。DADAとはつまり、何ものをも意味しないことの記号として無作為に選ばれた言葉だが、MERZも同様に新聞広告から切り抜いて出てきた記号ということになる。

 塚原論文はダダからメルツが登場してくる経緯を簡潔に解説。それから、ページの半分以上を占めて本書の本論とも言うべきダシー論文は日欧比較による本格的な村山知義論となっている。「村山とツァラの並行関係を、仏教を介して設定することは魅惑的なことではある」という一文があり興味を持ったが、それ以上詳しくは展開されていないのが残念。トリスタン・ツァラがたまに仏教へ言及しているのは確かで、それは私自身大いに関心がそそられているポイントではあるのだが、村山はどうだろうか。そういうにおいは村山からはあまり感じられないな。仏教を媒介にダダと結び付けるならむしろ辻潤だろうというのが私自身の感触だ。一応断っておくが、私はオリエンタルなもの、東洋思想的なものへと強引につなげたいということではないのであしからず。ダダというのは要するに「何も意味しない」何かのかりそめの表現。ところで、西洋思想の中には「何も意味しない」ことを表現する適切な語法がない。だからこそDADAとかMERZとか鬼面人を驚かす体のパフォーマンスへと彼らは突っ走っていったわけだが。代わりに何かないかなあ、と探してみたら、仏教ならいけそうだ、そんな感じと言ったらいいだろうか。

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2011年2月22日 (火)

藤森照信『天下無双の建築学入門』『建築史的モンダイ』『人類と建築の歴史』

 藤森照信『天下無双の建築学入門』(ちくま新書、2001年)、『建築史的モンダイ』(ちくま新書、2008年)は雑誌連載の建築史エッセイをまとめて入門書的に仕立て上げられている。軽妙な語り口が読みやすいというだけでない。建築の起源から日本の建築の特徴、和洋の相違、住宅建築の特徴など建築史にまつわる様々なテーマについて該博な知見を噛み砕いてさり気なく散りばめていき、内容的にもかなり高度なレベルを持っている。時に奔放に空想をふくらませていくところは脳裡に情景をありありと浮かべさせ、面白くて立て続けに読み進めてしまった。藤森さんはやっぱりすごいなあ。

 エピソードを紹介し始めたらきりがないが、私が興味を持った論点を一つあげると、明治初期、和洋併置のお屋敷が建てられたのはなぜか? 西洋風と自国風とを共存させた建築というのは実は世界的にも珍しいらしい。西洋の建築史ではゴシック様式、ロマネスク様式といった感じに時代区分と建築様式とを結び付けてスタイルの変遷を叙述することができるが、日本では一度成立したスタイルがそのままずっと生き残ったため時代区分による叙述が難しいのだという。例えば、神社建築や茶室など、時代よりもむしろ用途に応じてスタイルが使い分けられていた。従って、明治になって和洋併置の邸宅が建てられたのも、プライベートでは使い慣れた和風、来客等パブリックな場面では洋風という形で使い分けを意識していたからではないかと指摘される。

 『人類と建築の歴史』(ちくまプリマー新書、2005年)は初学者向けに建築の起源から説き起こした建築史概説で考古学的話題が大半を占める。上掲の二冊で紹介されたエピソードを通史的にまとめ直した感じで、合わせて読めば頭の整理にうってつけだ。

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2011年2月21日 (月)

隈研吾『反オブジェクト』『自然な建築』

 建築家として二十世紀はどんな時代だったかと問われたら、著者の隈研吾はコンクリートの時代と答えることにしているという。場所を選ばず可塑性があってデザインの自由がきき、お化粧すればコンクリートの塊でもどんな姿にも化けられる。すなわち、存在と表象との分裂が特徴だったと言える。近代の特徴を、物質と意識、世界と主観、それぞれ後者が前者の統制を図ろうとする発想を持った時代であると捉えるならば、この二項対立的な両者を架橋するオブジェクト=建築にとって最も適合的であったのがコンクリートなのである。そして、地表から浮いたように見える立体として設計された、言い換えるなら世界から切り離された自由なるオブジェクトという形でこうした時代を体現していたのがル・コルビュジエであった。

 しかしながら、コルビュジエの造型したオブジェクトはあまりにも自己主張が強すぎる。この自己中心的な威圧感から逃れたい、人間と自然とをもっとゆるやかにつないでいくことはできないか、これが著者の設計を進めていく際の思いである。建築とは人間の意識とその周囲を取り巻く物質との関係の取り方の表現であり、建築について考えるとはすなわち自分たちの置かれた環境との接続の仕方を再定義することに他ならない。こうした感覚について自身がこれまで仕事をしてきたケースを踏まえながら、『反オブジェクト──建築を溶かし、砕く』(ちくま学芸文庫、2009年)では現代建築論・思想論として展開、『自然な建築』(岩波新書、2008年)では様々な制約がある中で空間、地形、素材などを選んでいく試行錯誤のプロセスを通して考えていく。

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2011年2月20日 (日)

「NHKスペシャル」取材班『アフリカ──資本主義最後のフロンティア』

「NHKスペシャル」取材班『アフリカ──資本主義最後のフロンティア』(新潮新書、2011年)

 アフリカ経済をめぐる書籍が日本の書店でもよく見かけるようになったのはここ四、五年くらいのことであろうか。経済開発の非対称性をどのように考えるかという問題意識からジェフリー・サックス、ウィリアム・イースタリー、ポール・コリアーなどの訳書がまず目につき、中国のアフリカ進出を新たな資源搾取と捉えるものもセンセーショナルなタイトルで見かけた。日本から最も縁遠い地域であるがゆえに情報量が限られており、隔靴掻痒の感もあったが、そうした中で昨年NHKスペシャルで放映された「アフリカン・ドリーム」シリーズは興味を持って欠かさず見ていた。

 民族対立、資源流出、貧富の格差の拡大、様々な問題がある。本書でも触れられるが、凄絶な民族虐殺の瓦礫の山から再起しつつあるルワンダでは、帰国したディアスポラが海外で身に付けた能力を生かして経済復興が進められる一方(ポール・カガメ大統領は「CEO大統領」「ルワンダのリー・クアンユー」と呼ばれているらしい)、首都キガリ中心の発展から取り残された人々には不満が鬱積、情勢不安はいまだに消えてはいない。いびつな独裁体制で財政破綻したジンバブエから隣国南アフリカへと逃れた人々は安い労働力として南アフリカの経済成長に使われているという複雑さも難しい問題である。

 しかしながら、本書が焦点を合わせようとするのは、そうした様々な困難の中でも経済復興、国家再建に向けた主体的な取り組みである。ルワンダではコーヒー農園・工場の設立によってツチ族・フツ族の対立も和解させようとする試みが紹介される。携帯電話を駆使するマサイ族のエピソードはIT技術による様々な可能性をうかがわせる。エチオピアの通信ネットワーク網やザンビアの資源開発などで進出する中国企業も、中国によるアフリカ搾取というコンテクストで語られがちだが、これによってインフラ整備が進められているというプラス面にも目を向けるべきなのだろう。ダイヤモンドの大企業デビアスと粘り強く交渉して財政基盤を整え、政情も安定したボツワナについてはもっと詳しく知りたいところだ。

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【展覧会】国立新美術館「シュルレアリスム展」

国立新美術館「シュルレアリスム展」

 パリのポンピドゥー・センター所蔵のシュルレアリスム関連作品を展示。のっけから否定的な言い方になってしまうが、シュルレアリスムというのは、当時の芸術家たちが思索したり活動したり作品をつくったりする試行錯誤のプロセス、その時の精神状態そのものにあるのであって、後世の美術館に残っている作品はそうした活動から排泄されたカスに過ぎない。カスをわざわざ美術館の中に整然と並べてかしこまって拝観するという光景そのものが実にシュールなことであるのだが、そんなことを言い始めたらキリがないから、各自が見たいように素直に見ればそれでいいのだと思う。

 文学史的・思想史的に彼ら芸術家たちの活動に関心があるなら、当時の雰囲気をうかがい知る資料として興味深いだろう。そうでない人はシュルレアリスムという脈絡はいったん忘れて、奇抜なイメージを面白がったり、時に美を感じたりすることがあれば、そうした自分自身の中に芽生えた感覚を素直に出していけばいい。難しく考えちゃダメだ。作者たちの内的意味など無視しても、とにかく自分なりの見方をすれば実は結構面白いのだ。たまさかの出会いをきっかけに自身の心中に偶然に沸き起こった感興、それを大切にするのがシュルレアリスムである。

 私はマグリット、デルヴォーなどベルギー・シュルレアリスムやキリコ、ダリなどの絵画的イメージそのものがファンタジックで好きだ。ミロも抽象画などと考えず、一つのデザインとして見れば面白い。いくつか映像作品も上映されていて、ブニュエルとダリがつくった「アンダルシアの犬」、断片的に写真で見たことはあったが映像で通して観たのは初めてだった。眼球を切り裂くグロテスクなシーン、モンタージュ、脈絡を無視した場面転換など今では技法的に当たり前となっているが、当時としては革命的にショッキングだったのだろう。
(2011年5月9日まで)

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酒井健『シュルレアリスム──終わりなき革命』

酒井健『シュルレアリスム──終わりなき革命』(中公新書、2011年)

 第一次世界大戦が引き起こしたカタストロフィは、それが高度な産業化・機械化によって増幅された惨禍であったがゆえに近代文明に対する懐疑をもたらし、この精神史的動揺の中から様々な思想潮流が生まれる。シュルレアリスムもそうした中にあった。精神科医としてキャリアを始めたアンドレ・ブルトンも野戦病院へ駆り出され、そこで兵士たちが苛まされる狂気を目のあたりにし、フロイトの研究からの示唆もあってとりわけ自動記述という現象に関心を持つ。つまり、人間の無意識の領野を抑圧してきた「理性」に基づく書き言葉中心の世界=近代に対して亀裂を入れ、「超現実」における極限的な「未知なるもの」を、矛盾していてもその矛盾のあるがままに表現のレベルへと引き出していこうとした。そうした点でシュルレアリスムは脱近代を志向した芸術運動であった。

 本書では、シュルレアリスムと関わりを持ちながらもややスタンスを異にした人々、例えばエルンスト・ユンガー、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・バタイユ、ヴァルター・ベンヤミンなどとの対比によってシュルレアリスム本流(という言い方を著者はしないが)のブルトンやアラゴンたちが逆照射される。巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫、2002年)もイメージを前面に押し出す形で面白い本だが、本書はもっと良い意味で思想史的に堅実な書き方で説得力を持つ。

 実は私はブルトンという人があまり好きではない。シュルレアリスムをスローガンとして掲げながらも、実際生活では党派を組んで組織化を図り、自分についてこない人々への非難攻撃を行なったところに偽善的な嫌味を感じるからだが、さらに大きな問題がある。せっかく非理性的な何かを意識下から引きずり出しても、言語表現というレベルではそれをフランス語ならフランス語らしくきちんとした文章に修正しようとする契機が出てきてしまう。未開社会で見られるような矛盾を矛盾のあるがままに放っておくということは理念として語ることはできても実際には難しい。つまり、イメージそのものは荒唐無稽でも構文的には整合的にしてしまう。矛盾したものを整合的なものへと仕立て直さねば気がすまない習性、この点で脱近代を志向したブルトンも近代の傾向から逃れられなかった。そうした葛藤からブルトンを否定してしまうのではなく、むしろ「近代」なるものの強烈な呪縛を見出すという本書の着眼点に興味を持った。

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2011年2月19日 (土)

【映画】「洋菓子店コアンドル」

「洋菓子店コアンドル」

 恋人を追って田舎から出てきたナツメが転がり込んだのは、最高の洋菓子を安くお客様に提供しようというこだわりの洋菓子店コアンドル。実家のケーキ屋で手伝いをしてきた自信も、ここでケーキを作ってみんなに食べさせた途端粉々に崩されてしまった。彼氏にもふられ、ようやく本腰を入れてパティシエを目指そうとした矢先、コアンドルの女シェフが怪我して再起不能。予定されていた晩餐会はダメになりそうな雲行き。そこでナツメは事情があって菓子作りを断念していた伝説のパティシエを説得、みんなで晩餐会の準備に挑む。

 パティシエ修行というモチーフはオシャレな印象を与えるかもしれないが、個性的な少女が周囲とぶつかりながら人情の機微に触れ成長していくというストーリーはオーソドックスというか、ある意味古典的。だからこそ、なかなか悪くないと思った。蒼井優めあてで観に行ったのだが、こういう強情でふてくされながらも素直さのあるキャラクターにはぴったりだ。

【データ】
監督:深川栄洋
出演:蒼井優、江口洋介、戸田恵子、江口のりこ、佐々木すみえ、加賀まりこ、鈴木瑞穂、ほか
2010年/115分
(2011年2月19日、ヒューマントラストシネマ有楽町にて)

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【映画】「ポンヌフの恋人」

「ポンヌフの恋人」

 パリ市内の川にかかる橋、ポンヌフは改修工事中。ここで寝泊りしていたホームレスのアレックスが事故で怪我して収容された警察から帰ってきたら、自分の寝床には見知らぬ者がいた。失明寸前で家出した絵描きの女性ミシェル。アレックスは彼女が自分を描いた絵に興味を持ち、徐々に愛する気持ちが芽生えていくのだが…。

 失明の恐怖から絵描きとしての将来を悲観しているミシェル、ホームレスとしてまともな愛情を得ることのかなわないアレックス、境遇の異なる二人がそれぞれに先の見えない絶望感の中で出会った純愛物語と言えるだろうか。私が興味を持ったのは、この二人の目線を通すと華麗な印象の強いこのパリという都市がまた違った相貌で浮かび上がってくること。夜空に花火が激しく打ち鳴らされる中、橋の上で狂ったように踊りまくるミシェル。地下鉄構内のポスターに火をつけて回るアレックス。悲観と絶望をかき消そうとするかのようにこの一瞬をパセティックに燃え上がらせようとする姿、それが街並と呼応したときの独特な光景が実に美しく、印象に強い。

 なお、外国人監督に東京を撮らせようという趣旨のオムニバス映画「TOKYO!」でレオス・カラックス監督が「メルド」という短編を撮っており、観たことがあった。おそらく、この「ポンヌフの恋人」でパリを異界のように描いたところが関心を持たれてのオファーだったのだろう。東京に現れた怪人(アレックス役のドニ・ラヴァンが演じていた)が手榴弾を投げまくって街を破壊するという筋立てだが、最後の文明批判的な裁判シーンが何だかいけてなくて、こちらの方はつまらなかった覚えがある。

【データ】
原題:Les Amants du Pont-Neuf
監督・脚本:レオス・カラックス
出演:ドニ・ラヴァン、ジュリエット・ビノシュ
1991年/フランス/125分
(2011年2月18日、新宿・武蔵野館レイトショーにて)

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2011年2月18日 (金)

藤森照信『看板建築』

藤森照信『看板建築』(写真:増田彰久、三省堂、1994年)

 中央区、千代田区あたりの下町商店街を歩いていると、道路に面した二階壁面の銅版が緑青をふいた、いい感じに古いたたずまいを見せる建物を今でも時折見かけることがある(もはや絶滅危惧種ではあるが)。よくよく目を凝らしてみれば独特なデザインが面白い。看板建築である。

 「看板建築」の名付け親である著者がフィールドワークで昔を知る人に聞いて回ったところ、たいていは昭和3,4年頃に建てられたのだという。震災復興期である。銀座・日本橋などのメイン・ストリートではアール・デコ調のビルディングが建てられたのに対し、周辺商店街にはこの看板建築が広がった。骨組みは木造だが、道路に面して人目につく平坦なファサードには銅版やタイル貼り。平べったいので素人でもデザインしやすく、このファサードをカンバスとみなす遊び心をくすぐられたようだ。商店だから人を呼び込むためできるだけ目立つ必要もあった。建築を自分たちの表現=作品とみなす考え方は明治より前の時代の伝統的建築にはあまりなかったが、こうした発想がこの震災復興期には町場の商店街にもすでに及んでいた。他方、モダンな中にも自分たちの愛着がある江戸趣味のデザインが描きこまれているのもなかなか風流である。
 
 写真や平面図がふんだんに収録されている。特に建物写真と一緒に当時の人々の生活光景も映し出されているのは、眺めているだけでも面白い。著者が調査を始めたのは1970年代、それから20年を閲した本書刊行時点でもこうした建物はすでに消えつつあった。いくつかは江戸東京たてもの園に移築されたものの、やはり街中に息づいている姿をじかに見るには今がそろそろ最後のタイミングであろうか。

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2011年2月16日 (水)

ダナ・H・アリン、スティーヴン・サイモン『第六の危機:イラン、イスラエル、アメリカ、そして戦争の噂』

Dana H. Allin and Steven Simon, The Sixth Crisis: Iran, Israel, America and the Rumors of War, Oxford University Press, 2010

 第二次世界大戦後、中東においてアメリカが何らかの形で関与した紛争が五つある。すなわち、スエズ危機、イスラエルと周辺諸国との武力紛争(第三次及び第四次中東戦争)、イラン・イスラム革命、湾岸戦争、ブッシュ政権のイラク戦争。そして続く第六の危機が仮にあるとしたら核開発疑惑のあるイランに対してイスラエルが攻撃を仕掛けたときで、その時にはアメリカも否応なく巻き込まれることになるだろう、そうした事態は何としても防がねばならないというのが本書の問題意識。これを踏まえて、中東情勢が潜在的にはらむ危機の複雑な背景、具体的にはイランの核開発問題、パレスチナ問題、イラン革命に脅威を感じたアラブ諸国の権威主義体制や王政とアメリカとの結び付き、アメリカ自身の問題(例えば、イスラエル・ロビーと結び付いたキリスト教右派の存在)などが検証される。分析というよりも政論的な筆致。要するに、駄々をこねるイスラエルを抑えながら、つっかかってくるイランとどのように向き合うのかがアメリカの対中東政策の中心というわけか。

 アメリカのオバマ大統領はイスラム世界との関係改善を図りたいという意図によるスピーチをした。しかしながら、ブッシュ前大統領のイラク攻撃ばかりでなく、長年行なわれた対中東政策の積み重ねによって反米のナラティヴがすでに出来上がってしまっており、それを解きほぐすのは至難の業だ。とりわけイランとの交渉が重要であるが、アメリカはハタミ政権のときに関係改善のチャンスをみすみす逃がしてしまったし、現在のアフマディネジャド政権は聞く耳など持たないだろう。情勢を見れば見るほど解決策の見当たらないジレンマにぶつかってしまうが、本書はむしろ時間稼ぎをしながら情勢の変化を見極めることが必要だとして、それを目的としたイランに対する封じ込め政策を提起、旧ソ連に対する政策が参照できると指摘する。アフマディネジャドのアジテーションは強烈ではあるが、他方でイラン政治は多元的な性質を持ち、2009年の大統領選挙での不正をきっかけに改革派の勢いがあることに本書は注意を促す。下手に刺激して情勢を悪化させるよりは、時間稼ぎをしながら潮目が変わるのを待つのも、自覚的に戦略として採用するなら一つの考え方ではあるのだろう。

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2011年2月13日 (日)

たまには植草甚一でも読んでみようか

 先日読んでいた川本三郎のエッセイ集『それぞれの東京──昭和の町に生きた作家たち』(淡交社、2011年)に植草甚一が出てきて、今さらながらの感もあるが、ふと思い立って読んでみた。植草をほめそやす人たちのある種の傾向性があまり好きではなかったこと、植草というとジャズとセットになって名前をよく見かけたが私はジャズには興味ないなどの理由もあって、今まで読まず嫌いというか、読む機会がなかった。で、いざ読み始めてみると、これがまた結構はまるな。

 図書館で借りてきて今日一日で何冊か読んでみた。『ぼくの東京案内』(晶文社、1977年)は植草自身の思い出を絡めた街歩き的なエッセイを集めているが、歩くのは繁華街だけ、求めるのは喫茶店、ジャズ、色々な小物、そして古書。特に気の利いた場所を回っているわけでもない。『映画だけしか頭になかった』(晶文社、1973年)。映画についてもっともらしいことを語るよりも、個々の印象的なシーンを細かく語るところが多いのが目についた。1950~60年代の洋画に私はあまり馴染みはないのだが。『ぼくは散歩と雑学が好き』(晶文社、1970年)には原書で読んだ欧米の小説の紹介が多い。それぞれ文字は小さく分量は膨大なもので、こういう本は最近見かけないな。映画にしても小説にしても、年代からして私には馴染みのないものが多いので、パラパラめくりながら拾い読み。雑文的なものでこれを読んだからといって何か得るものがあるというわけでもないが、それなりのリズムがあって、何となく植草の語り口に入り込んでしまう。それにしてもこれだけの博識はやはり並大抵ではない。自由で気ままな仙人のような人間という印象が強かったが、もちろん自身が好きでやっていることとはいえ、勉強量はかなりのものだ。

 私が関心を持つのは、彼が何を書いたかよりも、彼がどんな人間なのかというところ。『植草甚一自伝』(新装版、晶文社、2005年)というのがあるが、自伝とはいうものの脱線ばかりで、むかしを回想してくれという注文に応じて自由気ままに連想を働かせて書いたという感じ。興の向くものは書く、それはきっかけに応じて自然と沸き起こるものであって、強迫的になると書けないということだろう。人物像の一端をうかがい知る上で、津野海太郎『したくないことはしない──植草甚一の青春』(新潮社、2009年)が面白かった。世間から注目されるまでの植草の生い立ちをたどっている。彼の人気は1970年代頃から急上昇して本人も驚いていたようだが、植草という人間そのものは基本的には変わらず、彼を見つめる社会の雰囲気が変わったからのようだ。気ままな人間という印象を持たれがちだが、そんな彼にも表面には出てこないところで、これまでの屈折した人生の中で引きずっているものがあったのではないか、ともほのめかされる。

 まあ、ダラダラ書いても仕方がない。植草は東京下町、日本橋の生まれ。知的能力は極めて高いが、世間様から見ればその能力の使い方を間違えたというか、身を持ち崩しただらしない男ということになってしまうのだろう。だけど、自分は自分なりのものを追求しながら生きていくしかないと腹をくくっている。こうした点で、それぞれ趣味の方向性はやや異なるにしても、永井荷風、辻潤、植草甚一とどこか共通したにおいを感じる。山本夏彦の表現を借りれば「ダメの人」といったところか。私が言いたかったのはこれだけ。価値観的にマイナスという意味での「ダメ」とは違うので、念のため。これを理屈で説明するのは難しいので省略。

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2011年2月12日 (土)

星新一『人民は弱し 官吏は強し』

星新一『人民は弱し 官吏は強し』(新潮文庫、1978年)

 先日、劉明修(=伊藤潔)『台湾統治と阿片問題』(山川出版社、1983年)を読んでいたら、著者が阿片問題に関心を寄せたきっかけの一つとしてこの本を挙げていた。ショートショートの名手には珍しい評伝だが、主人公は星新一自身の父親、星製薬を興した星一である。台湾総督府の阿片払い下げ汚職疑惑で星製薬の名前が出てきた。と言うと、後ろ暗い人物であるかのように思われるかもしれないが、そうではない。最近の表現で言うならいわゆる「国策捜査」であった。

 星一はアメリカで苦学、アイデアマンだが努力は惜しまないタイプで、そうした勤倹力行のパーソナリティはアメリカ仕込みである。率直にアイデアをまくし立てる彼の才覚は後藤新平からかわいがられたという(なお、星新一は後藤の評伝も書いている。『後藤新平の「仕事」』[藤原書店、2007年]に収録されているのを読んだことがあった)。だが、彼の自信にあふれてあけすけに意見を言う態度はお役所からいたく嫌われ、とりわけ厚生行政を管轄する内務省との関係悪化は彼の仕事に様々な面倒を起こすばかりか、その後の運命をも左右してしまう。

 星一は薬を海外輸入に依存している状況を憂え、日本国内で製造すればもっと安く提供できるという発想から製薬会社を立ち上げた。モルヒネ生産を思い立った際には、原材料となる阿片を台湾から仕入れる計画を立て、実行に移す。ところが、民政党の加藤高明内閣の時代、民政党と政友会との権力闘争の余波で、台湾総督府内で政友会系・後藤新平系の勢力そぎ落としを狙って汚職疑惑がでっち上げられ、もともと根拠薄弱な疑惑だったので総督府の役人は結局起訴されなかったが、一度動き出した検察は面子から振り上げた拳を下げるわけにはいかず、そのとばっちりが星一に降りかかってしまった。しかも、関係の悪かった内務省も積極的で、官僚機構による意図的な星製薬つぶしという成り行きになる。

 法治体制がまだ確立されていない社会において個人の創意工夫が法の保護を受けられないまま国家権力の気まぐれでつぶされていく。そのようにジリジリと追いつめられていく星一の姿は、過去の日本における一挿話という以上に、世界を見渡せば現在でも普通に観察し得ることである。その点で、市場と国家との緊張関係が一人の人物に仮託して描かれていると読むことができるだろう。

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中尾友則『梁漱溟の中国再生構想──新たな仁愛共同体への模索』

中尾友則『梁漱溟の中国再生構想──新たな仁愛共同体への模索』(研文出版、2000年)

・梁漱溟の名前は以前から気になっていて、検索したら本書を見つけたので目を通した。
・従来の梁漱溟研究:欧米では、西洋科学主義導入による「意味喪失の危機」→克服のため儒教精神を協調という捉え方。在外中国人は、儒教資本主義の基礎としての精神の優越性を強調。中国では、改革開放路線の中で生ずる矛盾を調整・円滑化する精神として見直す、といった傾向→梁漱溟が西洋近代の長所の摂取を主張する一方で儒教的価値を強調したこの二面性をどのように統一的に捉えるか?という問題意識。
・中国社会の現実は西洋とは異なるというリアルな認識、その中で西欧的な自由社会を導入するとただの対立競争になってしまうのではないかという懸念→儒教精神の中に仁的世界、つまり調和的共同的な愛の秩序世界という中国再生のための独自の理念を見出す。
・郷村建設論を主張。共産党とは一面において共通するが、彼らは階級闘争の視点により地主制度打倒という目的に向けて農民を組織→農民の自覚化・組織化を促す点では評価しつつも、闘争は郷村を破壊してしまうと批判。梁漱溟の考えでは、社会構造の立て直し→新秩序の創出→中国の再生をめざすという構想の中で郷村建設論。国家目的に従属させる政治権力ではなく、農民の主体性によって共同組織化、相互扶助。政権とつながると郷村の内部は不安定化・分裂してしまう→在野の社会運動として政治権力とは一線を画したい。
・こうした組織化によって合理的生産的な経営主体を農民の中に創出、その上で工業も振興。そのための手段として生産請負制など「資本主義の補充」。一部の者が先に発展しても、それが共同社会内の他の者にも波及して各自が自律的な経営主体となれる。
・共産党のイニシアティブで中華人民共和国が成立した後も梁漱溟は亡命せず中国に残り、自己批判。
・「思想の革命性」「無産階級精神」などを強く押し出しつつも、個の伸張を重視する視点を内包した共同的関係という基本的な視座は一貫していると指摘される。
・梁漱溟の思想とコミュニタリアニズムとの親近性を指摘。

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【映画】「再会の食卓」

「再会の食卓」

 1949年に国民党軍兵士として台湾へと退却した夫から上海の元妻のもとへ届いた一通の手紙。台湾政府の方針転換により大陸訪問が可能となり、帰郷訪問団の一員として上海へ行くので是非会いたいという。困惑した表情の家族。やって来た元夫は妻を台湾へつれて帰りたいと言い出す。歴史の傷痕がいまだに残る家族に巻き起こった一波瀾をユーモラスな味わいで描き出す。

 二人とも別れ別れとなった後、台湾、上海それぞれで新しい家族を築いていた。元妻の現在の夫である陸は善意の人間で、彼女の幸せのためならばと同意するのだが、文化大革命の苦難を一緒に生き抜いたことはやはり忘れがたい。長年苦難を共にした現在の夫よりも、一年ちょっとの青春期だけしか思い出のない元夫についていきたいという彼女の心境は少々不可解な感じもする。だが、これまでのつらい日々をリセットして、別の人生もあり得たかもしれないという夢のようなものにすがりたい気持ちをずっと抱えていたということなのだろう。老人たちの一風変わった三角関係も、結論としては落ち着くところに落ち着く。やはり積み重ねられた時間の重みを崩すことはできない。

 映画の随所で上海の街並が大きく変貌しつつあることが描き出される。その中で家族のあり方も変わりつつあることがほのめかされていることの方に描写の重きが置かれているような印象を受けた。中台関係に関わる設定のストーリーなので観る前は少々身構えていたのだが、むしろ家族・夫婦にとっての時間の重みがテーマである。ユーモアとときにペーソスの交えられた描き方なので引き込まれる。とくに食事のもてなしで三人三様に気遣い合う姿はなかなか感慨深い。

【データ】
原題:團圓
監督:王全安(ワン・チュエンアン)
2010年/中国/96分
(2011年2月11日、渋谷文化村ル・シネマにて)

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【映画】「心中天使」

「心中天使」

 秘密だから言えないというのではなく、自分でも表現しがたいモヤモヤとした鬱屈や苛立ち。分かってもらえないだろうという孤独感はいっそう態度を頑なにし、家族や恋人など周りの人々は心配そうに気遣いながらもどうしたらいいのか分からず戸惑うしかない。この映画で焦点が当てられる三人、ピアノが弾けなくなったピアニスト、なぜか恋人につらくあたるバツイチ男性、新しい恋人を連れてきた母親を冷静に見つめる女子高生、彼ら彼女らもそうした感じであろう。

 青一色の写真を澄み渡った青空に重ね合わせるシーンがあった。一人ひとりそれぞれ何かを抱えている。日常もひっくるめた意味でのこの広い世界へと、自分が抱えているこの漠然とした何かも溶け込ませていけばいいということか。ラスト、役割が微妙に変わる。代替可能な人間関係かもしれないが、その中でも日常を引き受けて生きていける。

 面白いかどうかと言えばちょっと微妙な感じもする。ただ、普段の街並や人の息遣いのある空間をさり気なく切り取った映像が私は好きで、その中で俳優さんたちの表情がどのようにかみ合っているのかを見るのが楽しみ。そうした点で私としては必ずしも嫌いではない。尾野真千子の父親役は國村隼で、尾野のデビュー作「萌の朱雀」と同じ組み合わせだな。

【データ】
監督・脚本:一尾直樹
出演:尾野真千子、郭智博、菊里ひかり、國村隼、萬田久子、麻生祐実、内山理名、ほか
2010年/92分
(2011年2月11日、渋谷・ユーロスペースにて)

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2011年2月10日 (木)

山室新一『法制官僚の時代──国家の設計と知の歴程』

山室新一『法制官僚の時代──国家の設計と知の歴程』(木鐸社、1984年)

・言い訳めくが、頭が疲れてぼんやりした状態で読んだのでまともなメモをとっていないが、とりあえず。やはり読んどかなくちゃいけない思ってた本なので無理して読んだ。
・明治初期において新たに国民国家を形成するにあたり、国民を啓発し、国家を隆盛へと導くには舶来の「知」を導入しなくてはならないという問題意識→では、どこから? 模範国と準拠理論はどこに求めるのか?→法政思想をめぐる議論におけるフランス学、イギリス学、ドイツ学のせめぎ合いを詳細に描写。
・自由民権思想のシンボルたる中江兆民が、明治憲法体制の起草者にして民権運動に対しては弾圧者の役割を果たした井上毅の死に愛惜の気持ちを示したことをどのように考えるか?という問題提起に興味を持った。
・本来ならばみんな同じ土俵の上で国家構想を論ずるべきで、明治初年にはそうした熱気があった。ところが、自らが模範国とみなした国家を日本で実現させようと様々に構想を練り、運動する→模範国が同一ではない以上、その理念をもとに一つの勢力として集まると他勢力との争いが生ずる(もちろん、イギリス学、フランス学、ドイツ学とも共通する要素もあるし、立憲制の実現という勘所は同じと言ってもいいくらいではあるのだが)→政治への領域へと踏み込み、「旨義の争い」が「嫉妬的争い」に変質。
・世界の中の日本、その日本の中での自分たちの立場という二つの基準→自分たちの理念をもとにいかなる国家構想を目指して理論化・正当化するかという発想→「知」の推進が同時に政治勢力拡大の論理と結び付いた。

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2011年2月 9日 (水)

リチャード・オヴリ『1939年:戦争へのカウントダウン』

Richard Overy, 1939: Countdown to War, Penguin Books, 2010

 第二次世界大戦を描こうとすると膨大なものにならざるを得ないが、本書はその勃発直前の時期、すなわち、独ソ不可侵条約が結ばれた翌日の1939年8月24日から9月1日にドイツ軍がポーランド侵攻、3日に英仏両国が対独宣戦布告するまでの約十日間に焦点を絞り、主に英独間の交渉を検討しながら開戦の直接的原因を探る。

 ヒトラーはポーランド領内のドイツ系住民多数派地域であるダンツィヒを要求、英仏がそれを何とか宥めようとしていた構図はズデーテン問題と同じである。結論から言うと、ヒトラーは強硬姿勢を示せばイギリスは折れると考え、ポーランドに対してはあくまでも局地戦のつもりで、英仏との戦争までは望んでいなかった。そこに交渉の余地もあったのではないかという可能性もほのめかされる。

 ドイツ側にはポーランド問題でこじれるとヨーロッパ規模の戦争に突入することを危惧する勢力もあった。反ヒトラー派には交渉の成り行きによってはヒトラーの失脚につながることを期待する向きもあり、彼らは独自のチャネルを通して強硬姿勢を崩さないようにイギリス側と連絡を取った。さらにゲーリングを通じて妥協の打診もあり、このようにドイツ側でも意見が一致していない状況はイギリス側に楽観の雰囲気を生じさせる。ところが、ヒトラーは自らの意見で押し切り、複数のチャネルを通したドイツ側の別の見解はむしろイギリス側を混乱させるのに利するだけの結果となってしまった。また、途中でイタリアのムッソリーニが仲介役を買って出る場面もあり、これもさらに英仏側の混乱に拍車をかける。交渉の行方を見守っていたポーランド軍は防備体制を固めるのに遅れ、他方、ドイツ軍は極秘に攻撃準備を進めていた。

 ドイツ軍のポーランド侵攻後、英仏側も最終的には対独宣戦布告を出し、これはヒトラーにとって意外なことであったが、英仏側には宥和政策的なためらいもあってタイムラグができる。ポーランド国民は狂喜して助けを期待したが、英仏はただちに軍事援助ができるわけでもなく、あくまでも自国の権益維持が最優先であって、ポーランドはチェコスロヴァキアと同様の犠牲となる。

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2011年2月 7日 (月)

劉明修『台湾統治と阿片問題』

劉明修『台湾統治と阿片問題』(山川出版社、1983年)

 図書館でたまたま見かけたので借り出した。著者の名前に見覚えがないと思って検索したら、伊藤潔が日本に帰化する前の本名のようだ。

 アヘン問題を切り口として台湾における日本の植民地支配を考察した研究である。日本は後進帝国主義としての体面にかけて台湾のアヘン問題に取り組まざるを得なかった。日本本国にはアヘン問題はないのだから道義的観点から厳禁すべきという議論もあったが、それでは実質的な効果は上がらないという考え方から民政長官となった後藤新平は漸禁主義をとる。つまり、アヘン吸引者に特別許可を与えて総督府が製造・販売したアヘンを売る専売制度を実施、収入は衛生制度の拡充に充てながら少しずつ中毒者を減らしていくという方針である。その結果、台湾財政の本国からの独立(当初はアヘン収入が地租上回った)、アヘン販売業者が御用紳士として総督府に協力する形となった。その後は専売制度の財政上の利点が優先されて本来の漸禁という考え方は脇に置かれ、さらに台湾製造の余剰アヘンの大陸に対する密貿易が行われ、日本は国際世論の批判にさらされることになる。

 一方、台湾民族運動はアヘン吸引禁止の主張も掲げていた。とりわけ台湾人初の医学博士である杜聡明がアヘン中毒問題に取り組み、成果を挙げていく。戦時期になって杜聡明によるアヘン断禁の意見書は総督府に受け入れられたが、その背景としては、皇民化政策によって台湾も内地化されつつあったこと、台湾経済の工業化、戦時下にあってアヘンが不足していたことなどが挙げられる。

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2011年2月 6日 (日)

池内紀『ことばの哲学──関口存男のこと』

池内紀『ことばの哲学──関口存男のこと』(青土社、2010年)

 学生のとき独習でドイツ語もやろうとしたことがあった。そのとき人からすすめられて使ったのが関口存男(つぎお)の『初等ドイツ語講座』(三修社)全三巻。緑色のカバーだった。中巻までは仕上げたような気もするが、結局ものにはならなかったのだからどうにもならない。文体がなかなか軽妙で、いわゆる語学書とは雰囲気がだいぶ違うなあ、という印象だけは残っている。
 
 ドイツ文学者にしてエッセイの名手によるドイツ語学者についての評伝である。関口存男は陸軍士官学校出の、キャリアも人柄もちょっと変わった人だということは知っていた。ただし、エピソード的に過激なことは意外と少ない。文法の不可思議、とりわけ冠詞の使い分けの分からなさに困惑して文例蒐集に没頭し、自分なりの文法書を書くにはあまりにも時間が足りない、そういう努力の学究であった。

 さり気なく使っている「言葉」、しかしその「言葉」の構造を、言葉によって説明することの困難。「言葉」は「意味」を指しているようにも見えるが、逆に「意味」が「言葉」によって規定されることもあり、見つめれば見つめるほど「言葉」の機能の叙述は混迷を極める。たしかに「言葉」はある、しかし概念の枠におさめて把握できない困難を、著者はヴィトゲンシュタインの言語哲学と比べる。関口存男もこの語りえぬ何かへ文法という切り口からしぶとく取り組んだ。だから、タイトルは『ことばの哲学』である。

 関口文法を言語哲学の観点から捉え直す必要があるというのが本書を通じた問題提起だが、文学と語学とでは畑がだいぶ違うとのことで、筆致に少々遠慮も見られる。せめて専門家に注意を促す呼び水にしたいということらしい。ただ、言語哲学として正面から取り組むと、だいぶややこしいことになるだろう。池内さんの軽やかな筆先の中でさり気なく問題の核心をほのめかすというやり方も印象深くて良いと思った。

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藤森照信『明治の東京計画』、御厨貴『首都計画の政治──形成期明治国家の実像』、越澤明『東京都市計画物語』

 藤森照信『明治の東京計画』(岩波現代文庫、2004年)は、近代国家草創期における首都・東京の都市計画をめぐって交わされた論争を描き出す。明治5年の大火で消失したのを機に文明開化の象徴となる表玄関に仕立て上げようと井上馨、イギリス人建築家ウォートルスらによって着手された銀座煉瓦街計画から近代日本における都市計画の歴史は始まる。ただし、当時の人々の使い勝手にはなじまず評判は悪かったらしい。明治10年代からは江戸以来悩まされてきた火事に対処するため防火計画が進められた。そして本格化する市区改正計画。都市の開放性という問題意識から、田口卯吉・渋沢栄一・松田道之(府知事)は築港論を提唱。次の府知事・芳川顕正は全国規模の交通ネットワークの収束点として東京を位置付ける考え方から道路面積の拡幅を目指す。帝都志向の内務省と商都志向の新興企業家(渋沢、益田孝)。結果としてどれが実現するでもなく、アイデアをまんべんなく取り入れる形で市区改正計画は策定された。他方、一度失脚していた井上馨が三島通庸と共に官庁集中計画を立て、外国人建築家を招聘。内務省主導の市区改正計画と外務省主導の官庁集中計画との対立、結局前者が勝ったが、こうした議論からは江戸以来の歴史を踏まえた変革か、それとも欧化主義かという近代日本の葛藤も浮彫りにされてくる。

 御厨貴『首都計画の政治──形成期明治国家の実像』(山川出版社、1984年)は、1880年代の首都計画をめぐる政治過程を分析。政府に対する批判勢力たる改進党を取り込むことで改進党‐東京市会と内務省‐東京府とが一致して首都計画を推進する体制が成立、これは後に帝国議会が開設されてから地方議会を媒介としながら政府と野党・自由党とが提携していく政治モデルの先取りであったと言える。こうして「行政の論理」が成立していくのに対してかみついたのが、発言力を失いつつあった元老院のうるさ型であり、旧明六社系、国粋保守派(欧化主義を批判)、旧官僚系(地方官僚として中央集権化を批判)それぞれ論点は異なるにしても「行政の論理」の押し付けに対して一致して批判の論陣を張った。つまり、首都計画を焦点として政治運営の論理と政治批判の論理とが正面衝突した場面が表れたところに政治史的意義が見出されるが、政府は計画を断行する。このような政治の外在的議論とはまた異なり、森鴎外が自然科学的観点から首都計画に対する内在的批判を行なったことも最後に指摘される。

 越澤明『東京都市計画物語』(ちくま学芸文庫、2001年)は、現在の東京で見られる街並や景観を作り上げた大正期以降の都市計画にまつわる経緯を紹介してくれる。水辺のプロムナード、街並木、住宅地のアーバンデザインや区画整理の背景、緑地、戦時下の防空体制、幻の環状三号線、東京オリンピックなどなど。東京を歩いていてふと気になる景観の変化や違和感を覚える謎のスポットなども、実は都市計画がうまくいかず取り残された場所だったという経緯があり、そうした背景を逐一解説してくれているのが面白い。関東大震災後に後藤新平が主導した帝都復興計画や日本敗戦後の戦災復興計画、予算上の問題からいずれも中途半端に終わってしまったことは周知の通り。本書の随所で著者は悔しさをにじませる。私も半ば同感だが、他方でそういう失敗も含めて意図せざる形で織り成されてきたのも都市の歴史なのだろう、中途半端が醸し出すキッチュもまた面白いかなと、私自身としては思っている。

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ヴァーリ・ナスル『富の力:新しいムスリム・ミドルクラスの台頭は我々の世界にとってどのような意味を持つのか』

Vali Nasr, Forces of Fortune: The Rise of the New Muslim Middle Class and What It Will Mean for Our World, Free Press, 2009

 イスラム主義の台頭というと、イラン・イスラム共和国体制やアルカイダのテロリズムとすぐ結び付けられ、一般に評判が悪い。しかしながら、イスラム主義をイスラムの価値観を大切にする生活態度と考えればその立場は多様であり、一括りにはできない。

 本書の要点は、経済活動の活発化によってミドルクラスが成立・安定化すれば、イスラム世界においても民主主義や資本主義は適合的なシステムになるという主張にある。ただし、それは欧米の近代化論者が考えがちな宗教色を薄めたモデルではない。むしろ、資本主義の進展と共に、イスラム圏の人びとは心の拠り所を伝統的価値に求めるようになり、それは矛盾するどころか両立する。つまり、イスラムにおける民主主義や資本主義にとって世俗主義は絶対の要件とは言えないと指摘される。経済的に安定したミドルクラスは過激主義に走ることはないし、進歩的な思想も受け入れる。考えようによっては、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で理念型として示されたカルヴィニズムと同様の作用も持ち得るともほのめかされる。

 ドバイでは物質的な繁栄、西洋的消費スタイルを楽しみながらも、同時にイスラムの信仰に忠実な人びとの姿が観察される。イラン王制下で成立したミドルクラスはシャーの圧制に反発、彼らはイラン革命の重要な担い手となった(ただし、イスラム勢力をコントロールできないままホメイニ体制が成立)。

 反イスラム・西洋的近代化志向の世俗主義者(本書ではKemalistと表現されるが、トルコだけでなくエジプト、パキスタンなどの指導者も含まれる)は権威主義体制によるトップダウンの行き過ぎにより国内におけるミドルクラス形成に失敗、貧富の格差が拡大し、社会的不安定をもたらしてしまった。ケマリストの失敗に対する不満の受け皿となったのがイスラム主義勢力である。社会的不公正や貧困が原因なのだから、良好な統治さえ実現できればこうしたイスラム主義も急進化することはない。

 アメリカはパキスタンにおけるケマリストたるムシャラフ(彼は実際にトルコの世俗主義にシンパシーを抱いていたらしい)をバックアップした。ところが、パキスタン軍部は戦略的見地からタリバンを支援していたこと、権威主義体制の抑圧で国内が不安定していた情勢をアメリカは見誤っていたと指摘される。これと対照的なモデルとして注目するのがトルコのAKP(公正発展党)政権である。AKPはイスラム政党に出自を持つが、経済政策をうまくハンドリングし、政治的多元化も推進している。

 チュニジアやエジプトは中東諸国の中でも比較的安定した国だったとも言われる。今回の一連の情勢でも野党勢力支持者には経済的に成長しつつあるからこそ政治的意識に目覚めたミドルクラスも見出されるだろう。また、報道によると野党勢力内のムスリム同胞団などイスラム主義を欧米が懸念していると伝え聞くが、イスラム主義志向の人びとを排除するとかえって民主化にマイナスとなり得る点を考えておく必要があるのだろう。

 この著者によるThe Shia Revival: How Conflicts within Islam Will Shape the Future(Norton, 2007)という本を以前に読んで興味を持ち(→こちら)、その時に掲題書を取り寄せたまま積読状態になっていた。たまたま本棚から発掘し、現在進行形のエジプト政変について考える上でも参考になるかと思って読み始めた次第。なお、著者のプロフィールをみると、イラン生まれ、タフツ大学フレッチャー・スクール教授、外交問題評議会シニア・フェロー、ハーヴァード大学ケネディ行政学院ドバイ・イニシアティヴ・シニア・フェローといった肩書きが並んでいる。

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2011年2月 5日 (土)

【映画】「冷たい熱帯魚」

「冷たい熱帯魚」

 埼玉愛犬家連続殺人事件に題材をとっているらしい。映画が始まるやいなや、実話に基づく、という字幕が出るが、おそらく前作「愛のむきだし」と同様、アイデアのきっかけを実際の事件に求めつつ、あとは個人的な体験なども絡めてイマジネーションをふくらませたということだろう。

 富士山麓の地方都市、小さな熱帯魚店を経営している社本は娘、再婚したばかりの妻との三人暮らし。気弱な性格で、非行に走った娘に何も言えない。ある日、娘がスーパーで万引きしたが、居合わせた村田という男のとりなしで許してもらった。彼も大きな熱帯魚店のオーナーで、同業者のよしみで仲良くしようと言われ、娘も更生のためという理由で彼の店で働くことになる。ところが、儲け話があると呼び出され村田夫妻が平然と人を殺すのを目の当たりにした社本。お調子者だった村田の態度は豹変、その圧倒的な呪縛から逃れられなくなり、死体処理の手伝いをさせられる。

 インモラルな猟奇的スプラッターだが、村田という殺人鬼を演ずるでんでんの存在感が強烈だ。とぼけた田舎のおっちゃんの風貌から繰り出されるマシンガン・トーク、最初はお調子者のおどけだったものが、殺しを正当化する恫喝に早変わり、軽口と正論とが奇妙に混じりあった独特なリズムは、善悪の判断を突き抜けた凄みを噴出させてくる。村田が社本に浴びせる「お前には父親の威厳がない。俺は好き放題やってるが、そのかわり後始末もきちんと自分でやってる、ところがお前は自立していない」といった罵倒は、表面的な意味での正論以上のものが込められているのだろう。それは、一切のモラルを剥ぎ取り、むき出しになった裸の実存が、この不条理で過酷な世界にそのままで耐えられるのかという根源的な問いかけである。社本の脳裡に浮かぶプラネタリウムのモチーフも踏まえると、この宇宙のただ中での絶対的な孤独というイメージすら重ね合わせることができる。それでもこの不条理に耐えきれるのか。然り! 最後のどんでん返し、社本の娘の哄笑こそその答えであろう。エロもグロも完全に突き放した視点で描くと爽快ですらある。下劣でむごたらしいスプラッターをここまで哲学的に昇華させてしまうとは、おそるべし。

【データ】
監督:園子温
出演:吹越満、でんでん、黒沢あすか、神楽坂恵、梶原ひかり、渡辺哲、諏訪太郎、ほか
2010年/146分
(2011年2月4日、テアトル新宿にて)

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佐々木信夫『都知事──権力と都政』

佐々木信夫『都知事──権力と都政』(中公新書、2011年)

 経済力ではカナダを上回って優に一国レベルの規模を持つ東京、都知事には一千万有権者から直接選出されるという大きな存在感がある。この都知事を軸にしながら東京都政の仕組みと問題点を概観。都知事、都議会、都庁官僚、政策決定プロセス、財政、都と特別区との関係、石原都政の総括などの項目に分けて叙述されている。都議会が政策論争の場として有効に機能していない、2000年の地方分権一括法で機関委任事務が廃止されたにもかかわらず独自の政策運営がされていない、財政危機といった論点に関心を持った。

 東京都の財源は法人二税(法人事業税、法人都民税)にほとんど依存しているが、これは景気の影響を受けやすく、財源がなかなか安定しない問題に歴代都知事はなやまされてきた。高度経済成長のパイを受けて福祉政策の充実を図った美濃部都政だが、石油ショックで財政悪化、財源確保のため法人二税の超過課税に踏み切ったほか、債権を発行しようとしたところ政府(自民党)からの嫌がらせで認可権をたてにつぶされた→自治体の財政自主権の侵害→起債訴訟。続く鈴木都政は財政立て直しで評価が高いが、美濃部都政の遺産としての法人二税超過課税も実は役立っていたらしい。せっかく財源立て直しに成功した鈴木都政だが、ハコモノ行政に走り、再び財政悪化。石原都政の銀行への外形標準課税は、美濃部都政における法人二税超過課税と同様の試みだったと言えるのも興味深い。

 東京都は1943年、戦時下の首都防衛、戦費捻出のため二重行政解消という理由で東京府と東京市とが合併して成立、当初は東京都長官が置かれた。戦後初代知事の安井誠一郎は内務官僚出身の実務家、戦後混乱期の復興にあたる。二代目・東龍太郎はIOC委員で、東京オリンピック誘致のため都知事に就任、実務は鈴木俊一が取り仕切った。三代目は革新都政の美濃部亮吉、四代目の鈴木俊一、五代目の青島幸男、六代目の石原慎太郎と続く。なお、東京都政については御厨貴『東京──首都は国家を超えられるか』(読売新聞社、1996年)も政治史的な観点から論じており、歴代都知事について象徴性と実務性という観点で跡付けているのが興味深い。

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2011年2月 3日 (木)

水羽信男『中国近代のリベラリズム』、章詒和『嵐を生きた中国知識人──「右派」章伯鈞をめぐる人びと』

 水羽信男『中国近代のリベラリズム』(東方書店、2007年)は羅隆基、施復亮という二人の知識人の思想展開をたどりながら近代中国におけるリベラリズムについて考察、リベラリストとして思想形成をしていた彼らが中国共産党による革命指導を積極的に支持したのはなぜなのかという問いが軸となる。議論の詳細は本書を参照してもらうとして、まず社会的混乱や貧困にあえぐ当時の中国において民主化・工業化を進めるには国家権力による上からの指導が必要だという認識があり、その点で共産党を支持した。同時に、個人としての尊厳などリベラルな諸価値を守るために自律的な公共空間の形成、そうした意味での国民の創出を求めたが、この点では結果論として裏切られたことになる。彼らのような中間派は共産党対国民党の二者択一的・排他的対立に巻き込まれて切り崩されていく。

 こうしたリベラリストは共産党主導の新中国においてどのような運命をたどったのか。しばらく積読状態だった章詒和(横澤泰夫訳)『嵐を生きた中国知識人──「右派」章伯鈞をめぐる人びと』(集広舎、2007年)をようやく手に取った。章伯鈞は、羅隆基と共に「章羅同盟を倒せ!」という掛け声で反右派闘争の糾弾を受けた一人である。共産党以外の民主諸党派の一つ中国民主同盟副主席、中国農工民主党主席で、中華人民共和国成立に協力、政府のポストにも就いたことがあった。著者の章詒和はその娘で、本書はまだ少女だった頃、父親と交遊のあった人びとについての思い出をつづった回想録である。

 共産党支配による言論取締りが厳しくなりつつある中、互いに私宅を行き来しながらの語らい。彼らが目指した自律的な言論による公共空間とは、何も口角泡をとばして堅い議論をするばかりでなく、世間話や芸術論やそのほか自然に話題が出てくる様々な語らいの中にもあるのだろう。そうした互いを尊敬しあっているからこそできた語らいを可能にする私的な空間も、友人関係も、党上層部の圧力で批判闘争を促される中で徐々に崩されていく。史良、儲安平、張伯駒(袁世凱の縁戚で、一時期、袁世凱の息子・袁克定を同居させていたらしい)、聶紺弩、羅隆基、その他行き来のあった多くの人びと。底本となっている原書のタイトル『最後的貴族』は、康有為の娘である康同璧母子との交流を記した第四章にちなむ。康同璧母子の洗練された身のこなしに貴族のイメージを感じ取ったからだが、他の人々の中に精神的貴族としての誇りが見出せるとも言える。

 一人ひとりの人物の性格的特徴が生き生きと、時に意地悪なほど冷静な眼差しで捉えているのが面白い。密告は当たり前、ちょっとした言動でもつるし上げられかねない危険な時代状況の中でも互いに気遣い合ったり、逆に猜疑心が刺激されて警戒し合ったり裏切ったり、様々な人間模様の一つひとつにどこか悲哀と人間味を感じさせる情感がにじむ。そうした筆致には小説を読むような魅力があって、彼らの声が息づいたひそやかな世界へと自ずと引き込まれていく。

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2011年2月 2日 (水)

河原功『翻弄された台湾文学──検閲と抵抗の系譜』

河原功『翻弄された台湾文学──検閲と抵抗の系譜』(研文出版、2009年)

・長年台湾文学研究に従事してきた著者の論文集。日本統治期に日本語で書かれた台湾人・日本人の作品を対象とし、視点は主に総督府権力による取締りとのせめぎ合いに置かれている。
・第Ⅰ章「台湾人作家の抵抗」では左派系の台湾人作家による作品が対象。「新聞配達夫」で有名になったプロレタリア作家・楊逵について三本の論文。呉新栄の左翼意識を蔵書から考察。『胡志明』(戦後日本で刊行されたときは『アジアの孤児』)をもとに呉濁流の抵抗精神を考察。
・第Ⅱ章「日本人作家の視点」では、台湾を題材に作品を書いた日本人作家を取り上げる。中村古峡と佐藤春夫(「殖民地の旅」「魔鳥」「霧社」)の原住民認識を考察。台湾在地の日本人作家・浜田隼雄の作品の変化と彼自身がそれを戦後どのように捉えなおしたか。他に淡水を訪れた作家たちとして佐藤、中村地平、真杉静枝、豊島与志雄、丹羽文雄、広津和郎。
・第Ⅲ章「知られざる検閲」は総督府による検閲体制について調査した論考が集められており、資料的に大切だろう。左翼系が対象となるのは当然だが、植民地統治批判に関わるものにはより敏感で、日本内地で読めるものでも台湾では発禁処分となったケースも多い(例えば、矢内原忠雄『日本帝国主義下の台湾』や佐藤春夫「殖民地の旅」など)。また、当時の台湾の雑誌など出版状況についての紹介も参考になる。台湾文学史では『文芸台湾』『台湾文学』にはよく言及されるが、他に大衆誌として普及していた『台湾芸術』(黄宗葵、江肖梅)に興味。ただし、現存数が少なく、バックナンバーの大半が不明らしい。台湾における演劇運動についての論考もある。

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2011年2月 1日 (火)

適当に原敬

 日曜日、原敬に関連して色々と渉猟したのだが、気分があまりのっていないので適当にメモ。原敬をめぐっては、議会制民主主義確立に寄与したと肯定的に捉えるのか、それとも党利党略ばかりで政党政治を堕落させたと否定するのか、評価は分かれる。見方を変えると、こうした原敬評価の分裂は、戦後日本において政党政治が曲がりなりにも機能したのは昭和初期の一時期を挟んでそれ以前からの素地があったからだと政党史を連続的に捉えるのか、それとも大正・昭和初期の政党政治が失敗したから軍国主義を招いたのだと考えるのか、こうした日本近代史認識の相違とも連動している(この点では、統帥権独立など陸軍建設者としての山県有朋をどのように評価するかという議論と同様かもしれない)。私自身としては前者の観点に説得力を覚えている。見栄えの良い理想主義者とは異なって、藩閥勢力と妥協し、利益誘導を厭わず、権謀術数をめぐらした原のあくの強さに当時から世評は芳しくはなかった。しかしながら強引な政治手法を用いてでも明治憲法体制の限界内で政党政治の素地を作り出した功績はやはり看過し得ない。

 彼の政治史的経歴をたどった(ただし、原内閣成立直前まで)テツオ・ナジタ(佐藤誠三郎監修、安田志郎訳)『原敬──政治技術の巨匠』(読売新聞社、1974年)は、原が泥臭くとも「可能性の技術」を駆使しながら行った政治行動は美濃部達吉の憲法論などと相補って憲政に具体的内容を与えたと捉えている。原を現実主義者と考える点では、三谷太一郎『日本政党政治の形成──原敬の政治指導の展開』(東京大学出版会、1967年)は、「自然の趨勢」「時勢の力」といった客観状況を認識、その現実に順応していくところに原の政治的人格を捉え、こうした観点から彼の政治指導を分析している。なお、三谷太一郎『政治制度としての陪審制──近代日本の司法権と政治』(東京大学出版会、2001年)は戦前期における陪審制度が確立していく経緯の分析だが、原敬率いる政党と平沼騏一郎率いる司法との政治闘争が主軸となっている。川田稔『原敬 転換期の構想──国際社会と日本』(未来社、1995年)、『原敬と山県有朋──国家構想をめぐる外交と内政』(中公新書、1998年)は、藩閥政治から政党主導政治への転換期にあたり外交と内政とが連動した国家構想のあり方に注目しながら原敬の位置付けを行なっている。原敬を知る取っ掛かりとしては季武嘉也『原敬──日本政党政治の原点』(山川出版社・日本史リブレット人、2010年)が新しいし、叙述も簡潔なので読みやすく手頃だ。本格的な伝記として山本四郎『評伝 原敬』(上下、東京創元社、1997年)が詳しい。ただし、参考文献・年譜・索引がないのはこの手の本としては不便である。原奎一郎・山本四郎『原敬をめぐる人びと』(正続、NHKブックス、1981~1982年)は原がやり取りした書簡を基に周辺人物との関わり方を通して原の人物を浮かび上がらせる。当時の世相もうかがえるのが興味深い。服部之総『明治の政治家たち──原敬につらなる人々』(上下、岩波新書、1950~54年)は政友会関係者を中心に原と関わりのあった政治家たちを取り上げている。

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