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2011年1月29日 (土)

岡崎郁子『黄霊芝物語──ある日文台湾作家の軌跡』

岡崎郁子『黄霊芝物語──ある日文台湾作家の軌跡』(研文出版、2004年)

 日本統治期に育った台湾人にとって唯一の書き言葉は日本語であったため、文筆を生業とする者は「国語」=日本語を使わざるを得なかった。1945年を境に「国語」が中国語となったとき、ある者は中国語を習得して作家稼業を続け、またある者は筆を折る、もしくは日本語でひそかに書き続けた。日本語、中国語のどちらを使うにしても、彼らの多くがテーマとしたのは植民地支配下の苦悩、もしくは二・二八事件以降は「祖国」への期待が裏切られた失望。こうした自らが体験せざるを得なかった葛藤を表現するのが戦後台湾文学の柱となった。しかし、それは時代的な証言ではあっても、純粋な文芸作品とは言えないのではないか、もっと持ち味の違う作家はいないのか、そうした問題意識を持った著者が再発見したのが黄霊芝である。

 黄霊芝は1928年、台南生まれ。父親は明治大学卒業、実業家として成功して公的役職にも就いた黄欣である。改姓名のとき黄霊芝は国江春菁と名乗る。戦後間もなく新制台湾大学外文系に入学、この頃からアトリエに通って彫刻にも打ち込む。講義にはほとんど出席しないまま肺結核で中退。その後は、病弱と貧窮の中、創作を続ける。1970年には第一回呉濁流文学賞を受賞、また台北俳句会の中心メンバーともなる。

 彼は政治やイデオロギーとは距離をおき、ありのままの日常に垣間見られる人間の滑稽さや愚かさ、哀しみを浮かび上がらせるところに彼の筆致の特徴があるのだという。ところで、彼の作品の大半は日本語が用いられた。国民党政権下では日本語使用は厳しく禁じられ、日本語作品を発表するあてはない。それにもかかわらず彼が日本語を使い続けたのは、別に日本に愛着があるわけではない。1945年の時点で彼はすでに17歳、青年期になって学んだ中国語はある意味、外国語のようなもので、自分の表現が自然にできる書き言葉が日本語だったからである。発表する当てがなくてもとにかく自分の書きたいものを表現し続けた、その点で彼は明らかに純文学志向であった。

 エピソード的に二人の人物が現われるところに興味を持った。一人目は湯徳章。以前に行ったことのある台南の国立台湾文学館(日本統治期の台南州庁の建物を利用)の前がロータリーになっており、そこが湯徳章紀念公園となっていた。湯徳章のことはよく知らなかったのだが、二・二八事件で処刑された人だという。黄霊芝の作品「董さん」のモデルとなっているのだが、実は父親は日本人だったそうだ。彼は1908年に日本人巡査の父、台湾人の母の息子として生まれた。1915年の西庵来事件で父親は命を落とし、以後、母の手で育てられる。日本留学を経て高等文官試験に合格、台湾に戻って弁護士登録。日本敗戦後、台湾人意識を持っていた彼は台湾に残り、二・二八事件処理委員会のメンバーとして台南の治安維持に尽力したが、逮捕されて処刑された。この湯徳章を通して、国籍と内面的精神性とのズレを描こうとしたのではないかと著者は指摘する。

 もう一人が、黄霊芝の「紫陽花」という作品のモデルとなった陳惠貞こと陳真(→以前にこちらで取り上げた)。彼女は1946年に弱冠14歳で発表した小説「漂浪の子羊」が評判となった。彼女の父親・陳文彬は当時、台湾大学教授として台北にいた。黄霊芝が下宿していた姉婿・陳紹馨(社会学者として著名)も台湾大学教授であり、陳文彬の家とはお隣同士、評判となった美少女・陳惠貞も見かけていたそうだ。

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