陸羯南について
羯南陸実(くが・みのる)は1857年、弘前藩士の家に生まれた。東奥義塾、宮城高等師範学校を経て司法省法学校に入ったが、いわゆる賄征伐で同期生の原敬、福本日南、国分青厓らと共に退学処分を受けた。学んだ法学知識とフランス語を武器に新聞記者としてやっていこうとしたが、生活が貧窮する中、品川弥二郎のすすめで政府の文書局・官報局に出仕。この頃、フランスの保守主義思想家ド・メストル『主権原論』の訳述もしている。32歳で依願退職、『東京電報』さらに新聞『日本』を創刊(1889年)。1906年には経営不振のため『日本』を実業家の伊藤欽亮に売却、健康も思わしくなかったため引退。伊藤経営の『日本』が営業重視の編集方針を示したため、それと対立した記者たちは一斉退社、三宅雪嶺、古島一雄、長谷川如是閑、千葉亀雄らは政教社に合流して翌1907年に『日本及日本人』刊行の運びとなった。ここに羯南も名前を列ねたが、同年51歳で病没した。
羯南の政治的主張は、対外的には国民精神の発揚、対内的には国民的一致を説き、日本主義、国民主義などと呼ばれる。ただしそれは決して排外主義を意味するのではなく、明治期において急激な欧化が進行するのを目の当たりにする中、外国文化を摂取するにしても日本固有の文化的背景を基準として実用本位に進めるべきだという穏当なものであった。明治の社会的変革期において近代的国民国家形成を如何に進めるかという課題に応じた議論だったと言える。
羯南再評価の先鞭をきったのは丸山眞男である。『中央公論』1947年2月号に発表された「陸羯南──人と思想」(『丸山眞男集 第三巻』[岩波書店、1995年]所収)では、彼の国粋保存の立場が封建的伝統の温存につながってしまう点を時代的制約と指摘する一方、日本主義のフレーズが昭和期において反動的なアナクロニズムを示したのとは著しく異なり、羯南のそれはナショナリズムとデモクラシーの綜合を意図した健康的・進歩的なものであったと総括している。司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫)でも正岡子規との関わりで陸羯南が登場し(NHKのドラマでは佐野史郎が演じていた)、明治期における健全なナショナリズムを代表する知性として描かれていたが、それはこうした丸山による再評価を受けたものであろう。
小山文雄『陸羯南──「国民」の創出』(みすず書房、1990年〕は彼の伝記を描きながら、明治の政治史的な動向の中、それに応じて羯南の政論が思想としていかに展開していったのかをたどっていく。理想と現実との狭間としての「常」の立場を重視した彼のバランス感覚を高く評価している。
有山輝雄『陸羯南』(吉川弘文館、2007年)と松田宏一郎『陸羯南──自由に公論を代表す』(ミネルヴァ書房、2008年)は、それぞれ彼のジャーナリストとしての側面を重視する。彼は新聞紙たるの職分として私利や党派ではなく、「一定の義」(羯南の場合には国民主義)のみに立脚すべきことを主張。「独立」の意見が現実を踏まえながら互いに「理」を争う「相関的議論」に新聞の役割がある。理性に基づいた議論を行わねばならず、羯南は例えば自由民権論等に現れた粗暴な「壮士」的議論を否定し、批判的思考の材料を提供するためのいわば高級オピニオン誌としての職分を自覚的に追求していた。有山書では、こうした理想的なやり方は職業政治家と有産有識選挙民中心の政治空間では一定の有効性を持ちつつも、「民衆的」政治空間の出現、その過激な「情」の議論(例えば、日露講和の反対論)に対して大勢順応を拒む彼のやり方はもはや難しくなってきたことが指摘される。また、松田書は、志操高潔な孤高の言論人として羯南を理想化する傾向に対しては異議を唱え、当時、『東京朝日』の池辺三山や『大阪毎日』の原敬らは読者層の変化を敏感に捉えながら経営手腕を発揮、対して、大衆迎合を拒む羯南は、言論の商品化として読者に売りたくないのであれば資金提供先を求めて政治家に売り込む選択肢をとらざるを得なくなってしまった点を指摘する。羯南は当初は品川弥二郎、谷干城、杉浦重剛、後に近衛篤麿らのバックアップを受けていた。
朴羊信『陸羯南──政治認識と対外論』(岩波書店、2008年)は、先行研究ではあまり大きくは取り上げられていなかった羯南の対外論に注目、彼の論説の検討を通して、自衛的国民主義、国民の公益のための経済的膨張主義から侵略的な国民主義への転換を読み取っていく。大雑把で粗雑なまとめ方になってしまうが、デモクラシーやリベラリズムとナショナリズムとが両立していたとする従来の羯南再評価で(ただし、松田書は羯南の国民主義にあまり好意的ではない)、両者の比重の置き方についてデモクラシー≧ナショナリズムとして捉えているとするなら、朴羊信書ではデモクラシー<ナショナリズムという捉え方になっていると言えるだろうか。なお、羯南の台湾論についても言及があり、「北守南進」策における南進の基地、大陸進出の足がかりとして台湾を位置付けていたこと、他方、内地延長主義の立場から六三法は違憲だという議論を展開していたことが指摘される。
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